第6話「偽りの勝利」
理の塔の周囲は、嘘みたいに静かだった。衛兵は二倍に増え、通りの火桶には常に水が張られ、夜番の合図が刻む時の輪郭もぴたりと揃っている。酒場で交わされる噂は一色だ——「水柱の奇跡以来、王都の治安がぐっとよくなったらしい」。人は嬉しそうに言い、ついでに「教権も捨てたもんじゃない」と笑ってみせる。笑いは広がる。薄く、速く。演出に似た速度で。
リセはその笑いの下で、糸の鳴りを聞いていた。理の塔の外壁から垂れる見えない弦が、風の拍に合わせて微細に震える。震えは整いすぎている。自然の揺らぎではない。どこかで手が加わり、外側へ“善良な仮面”が張られている。塔の内部で、何かが速く動いている証拠だ。
「鐘が四つだ」と、トーマが紙束の陰から囁いた。学匠宿の一角、窓に布を貼って灯りを内から漏らさぬようにした小部屋。卓上に広げられたのは塔の巡回図。リセが拾い集めた兵の足取りに、トーマが塔の規則を重ねたものだ。線は時間と空間を織り、ところどころに節を作っている。
「四つの鐘の瞬間、主階段と書庫通路の見張りが重なる。両方が“確認のため視線を外す”拍が、ほんの一拍だけ一致する。で、地下の小門が死角になる」
「鍵穴だな」
トーマはかすかに笑って頷き、書見台に置いていた古鍵束を懐に入れた。その指の動きに迷いはない。迷いは、塔で生きる学者には贅沢だからだ。彼は弟子たちを寝かせ、戸口に楔を差し、合図の息を一度。外で、三つの鐘が鳴る。間を置かずに、四つ目。
リセは懐中時計の蓋を開く。いないはずの秒針が、耳の奥で微かに回る。息を合わせる。吸って、三つ。吐いて、三つ。時間の襞へ指先を差し込み、“ここだ”という柔らかい場所を撫でる。石段の段鼻はすり減り、足が覚えているはずの火の扱い方は消えたが、段鼻の角の摩耗の度合いから衛兵の足運びの癖が見える程度には、彼の耳が伸びている。
地下の小門は、予想したとおり気配が薄かった。古鍵束が小さく鳴り、トーマの手が金物に触れても、巡回の足音は拍を外さない。「今」とリセが言う前に、門は開いた。向こうはほの暗い狭廊——譜面庫の副殿へと続く通路だ。
先に立つトーマの背を、森の書を抱えたリセが追う。空気は乾き、埃は古紙の匂いを帯びている。遠くで水が滴る音。塔の中心に据えられた巨大な時計の鼓動が、石を通して骨へ伝わる。秒針の音は、世界の心拍に似ている。
副殿の扉は重く、しかし抵抗を見せなかった。押しひらくと、並ぶ棚に巻物がぎっしりと納まっている。どの巻にも細い帯がかかり、封蝋が施され、取り扱いの規定が墨で小さく書き付けられていた。リセが一歩、二歩と足を進めるたび、銀糸の束が棚の間で低く鳴る。森の書の断簡を懐に入れているせいだ。共鳴が生まれ、音叉のような気配が空間の隅々へ行き渡っていく。
トーマは無意識に手を伸ばしかけ、リセは彼の手首をそっと押さえた。
「触れるな。譜は自分から開く」
静寂。滴る水の音が、遠い洞窟の合図のように響く。懐中時計の微かな鼓動。石の冷気の粒子。そのすべてが等間隔で並んだちょうどその中に、「するり」と音を立てて一巻が封を解いた。帯が自ら緩み、蝋が音もなく崩れ、巻端がひとりでにほどける。まるで、長い眠りから目覚めて、最初の伸びをしたかのように。
「控え譜……」と、トーマが囁いた。伝説に近い名前が、眼前の紙の繊維に実体を持つ。主譜と異なる、緩い旋律。救済のための遅延を前提に設計された書式。譜の余白が“最初から想定されている”譜面。
リセは森の書を開き、石板を横に置き、控え譜を重ねた。三つの紙の上で、それぞれの線が浮き沈みを繰り返し、やがて重なるところで淡い光を帯びる。懐中時計を上に置き、蓋を指で弾く。秒針のない中心で歯車が嚙み、音のない音が空気を少しだけ厚くする。
「試すぞ。——北倉の延焼抑止」
言葉と同時に、控え譜の線がひと拍伸びた。森の書で開けた“遅延の窓”に、控え譜が柔らかなクッションを差し入れる。銀糸の束が自動で緩む。リセは手を放した。世界は、待った。河の流れがほんの一瞬、岸辺に寄り沿うように呼吸を合わせてくるのがわかった。
胸の奥を、何かが通り過ぎる。今までならそのたびに剥がれ落ちた感覚——味、匂い、音のいくつか——が、剥がれない。家族の輪郭が、消えない。姉の笑いの目尻の皺が、戻ってくる。侯爵家の地下の湿気に混じった樽香が、ふっと鼻の奥に触れる。
トーマが笑って、肩で息をした。「やった。これで君は——」
声は、すぐに曇った。リセの胸にも、同じ曇りが落ちた。成し遂げたという実感は、紙に書かれた文字のように平面的だった。──なぜか。救ったものが、もう一度救われただけだからだ。愚行の祭は前回、すでに逸らした。これは“反復の是正”。誰かの死を遅らせもしなければ、生を新しく生み出しもしない。ただ、編曲を整えただけ。救った気がするだけ。空虚が声の中に混じり、達成の甘さを水で洗い流していく。
「偽りの勝利、か」と、リセは言った。言い回しの一部が舌にひっかかった。欠けは、言葉のほうへも波及している。だが意味は残る。
控え譜を巻き戻そうとした瞬間、石の床が軋んだ。副殿の入口に影が三つ。灰外套。剣に手をかけない。かわりに、祈る姿勢。盾の裏に、奇妙な器具——線のない弦楽器のような、空気を撫でるだけで音を生むもの。
大司祭ヴォルク直属、律衛。
「譜を盗む者よ、名を申せ」
声は乾いて、砂に水を落としたように広がる。トーマの喉が鳴る。リセは一歩、前へ出る。名は、ある。既に欠けた名だが、ある。沈黙は罪だ。ここで沈黙は、譜の外へ落ちる。
「……名は、ある」
律衛は表情を変えない。「では、その名をここに置け。譜を触れた指から、音を流す」
盾裏から、器具が前に出る。空気が揺れ、薄い光が弧を描く。音が生まれる。名や行いを吸い、譜面に焼き付ける“証言の楽器”。触れた者の指先から、名が滴る。滴ったものは紙の上で固定される。固定は、譜にとって食事だ。譜は、食事で太る。
リセは秒針を跳ばした。懐中時計の蓋を指で弾く。歯車が嚙み、空気の膜が一瞬、厚くなる。音の刃がひるみ、和音に変わる。律衛の耳が痛み、額に細い皺が寄る。隙。トーマが控え譜を抱え、背後の小通路へ身を翻す。リセは“追撃の音”を手前で転調させ、塔の鐘の四つの音を三つ半に変える。塔の心臓が、半拍だけもつれた。巡回が崩れる。律衛の背後で足音が二つ、順序を間違え、合流が遅れる。
走る。石廊が狭く、曲がり角で壁が肩に擦れる。トーマは息を荒げ、控え譜を胸へ押し込むように抱え、足を止めない。リセは二人の背後に伸びる銀糸のうち、最も硬い一本を指先で弾いた。音が反射し、追う足音の一つが“つま先から踵へ”の順序を忘れる。足がとられ、誰かが膝をつく。鐘は三つ半のまま、四つ目の途中で息を切らし、次の拍へ飛ぶ。塔の時計が狂い、巡回は自分のリズムを見失った。
小門を抜ける。夜気が、乾いている。乾いた夜は、よく燃える。
女騎士の囁きが蘇る。「燃えるべきは、塔」。彼は踊り場で足を止め、下から上がってくる熱の流れに眉を上げた。副殿のどこかで、火。リセは振り返る。律衛の一人が倒れ、あの“証言の楽器”が燃える。火をつけたのは彼ではない。火は譜面庫そのものから発した。控え譜の露見を恐れた誰かが、証拠隠滅に動いた。塔の静けさの仮面の裏で、炎の導火線はとっくに敷かれていたのだ。
「トーマ、上だ」
彼は短く言い、足を速めた。背後で石が割れる音。紙が燃える匂い。燃えるのは文字ではない。物語だ。物語が燃える。燃えたあとは灰が残り、その灰が肥料になるなら、まだ救いがある。だが、この火は違う。証拠を焼く火は、土を殺す。
外気に触れると、夜は無風だった。煙はまっすぐ上に昇り、星の間で広がる。塔の壁を走る銀糸が、一斉に低音を発した。鎮火のための合図。水は用意されている。仮面は最後まで仮面でいるつもりだ。
逃げ切った瞬間、胸に何も残らないことに気づく。救ったはずの達成感が薄い。奪ったはずの罪悪感も、薄い。偽りの勝利は、感情の糊を溶かす。手応えのない空白が、食道のあたりへ重く貼り付いたまま動かない。
路地の影で肩を上下させながら、トーマが額の汗を袖で拭った。「僕は君に借りができた」
リセは首を振る。「借りは、控え譜が払ってくれた」
言葉は正しい。けれど、どちらの胸にも響かない。ふたりは同じ虚無を共有した。虚無は気まずくない。何も映さない鏡の前に立っているようなものだ。髪を整える必要も、表情を作る必要もない。ただ、立っているしかない。
塔の方角から遅れて喚声が上がった。延焼は最小限。燃えたのは副殿の一角。律衛は燃えた楽器の残骸を拾い、書記官は焼け落ちた紙片を数えるだろう。数えられるものは、すでに勝ちを逃している。数えられないもの——控え譜の、あの緩い旋律の質感——は、いま煙になって空へ散っていく。
「控え譜は?」と、トーマ。
「ある」 リセは懐を軽く叩いた。「一巻だけ。足りない」
「足りないね」と、トーマは苦笑した。「塔の深部に、まだあるはずだ。主譜の心臓部に近い場所に。だが今夜はもう——」
「今夜は、偽りの勝利だ」 リセは言った。自分で口にすれば、輪郭が固まる。偽りもまた、どこへ足を置けば本物へ近づけるかの輪郭を教える。足場は脆い。だが、ないよりはいい。
路地を抜け、広い通りへ出る。人は眠り、塔は消火に追われ、女騎士の影は見えない。彼女の言葉は耳の奥で回る。家門は燃やすな。燃えるべきは、塔。誰が、何を燃やす。塔の石は燃えない。燃えるのは、石でないもの——人の信や、過去の栄光や、記録や、だれかの名。名は燃える。名は、灰になる。灰は風に乗る。風は譜をめくる。
学匠宿へ戻るまでの間、彼らは多くを話さなかった。話せる言葉が、今は薄い。控え譜の巻は、トーマの布袋の底で微かに温かい。紙はときどき、体温を持つ。紙の体温は、人の体温と同じくらい心を落ち着かせる。リセは胸に手を置き、懐中時計の硬い感触に重ねるように、ないはずの秒針の鼓動を確かめた。
部屋に戻ると、弟子たちはまだ眠っていた。窓の布は夜露を含んで重く、床の隅でクレイが丸くなっている。土の体は薄く崩れ、崩れたぶんだけ新しい粒子が表面に積もっていた。リセが近づくと、クレイは耳に相当する突起をふるわせ、土の瞳に黒い点を生んだ。目が合う。そこにだけ、偽りでないものがある。
「行けるか」と、リセ。クレイは短く鳴き、尾を二拍、打った。余白の位置。
トーマが壁にもたれ、目を閉じた。「君の歩幅は変わらないんだね」
「変えると、譜に捕まる」
「そうだな」
短い会話が、虚無に細い橋を架けた。橋は頼りない。渡っている間、下を見ないほうがいい。リセは窓の布を指で押さえ、外の光をほんのわずかに覗いた。塔の天辺は黒く、煙は白く、星は冷たい。偽りの勝利が、この夜の天を一枚だけ薄くした。
眠れなかった。偽りは、眠りの底に潜るのが下手だ。彼は横にならず、椅子に背を預けたまま、控え譜の一節を指先でなぞった。緩い旋律は、彼の呼吸の速度に合わせてゆっくり往復し、やがて胸の中の空白の輪郭を、鉛筆でそっとなぞるように確定させた。空白は、穴ではない。そこへ置く音を選べる余白だ。
夜明け前、鳥が一羽、早まって鳴いた。時計の見えない秒針が、正しい位置に戻る。リセは立ち上がる。偽りは偽りのまま、使い道がある。演出された治安の下で、もう一段深い“本物”へ手を伸ばすために。塔は自ら燃える準備を整えた。ならばその火が燃やすべきは、封じ込められた“心臓”だ。次の鍵穴を探せ。鐘が四つ鳴る瞬間、巡回が重なる死角は他にもある。音の出る巻は、まだ息を潜めている。
彼は懐中時計を閉じ、森の書と控え譜を包み、クレイの頭を軽く叩いた。二拍。余白の位置。トーマが半分眠った顔で親指を立てる。
「偽りの勝利は、次の正しい敗北を選ぶ権利をくれる」と、リセは静かに言った。
「敗北?」
「うん。勝利より確かで、勝利より遠い。そこを渡らないと、本物へは行けない」
言葉は夜明けの薄光に溶けた。外で一つ目の鐘が鳴る。拍は進む。見せ場は派手な炎だけじゃない。逃げる背に貼り付く虚無と、手に残った紙の体温と、名の欠けの喉を撫でる冷たさ。そのすべてが、今、彼の物語の“次の一音”を決めていく。彼は歩く。歩幅は一定に。虚無に勝たせないために。偽りの勝利を、譜の端に小さく折って目印にしながら。




