第5話「目覚めた魔力」
火の扱いを、忘れていた。
朝、燻りを逃がすために薪の組み方を思い出そうとして、指が空を掴んだ。三角に組み、細い枝から……そこまで来て、形が霧散する。代わりに、耳の奥が妙に澄み、静寂の裏側で“何かが重なっていく”音がした。重なりはいつしか像になり、像は線になった。石台の上、森の書と石板、割れた懐中時計。その三つの輪郭の間に、無数の銀糸が張られているのが見える。いや——見える、のではない。わかる。譜面が、空間そのものに起き上がっている。
リセは息をゆっくり吐く。火は点かない。だが、火の代わりに“線”が燃えている。譜の走り書きが、堅い岩の四方に、薄い光で刺繍されている。結び目、撥ね返り、緩み。前世の英雄が剣で聴き取り、今生の追放者が耳で掬う、その種の秩序だ。魔法——この世界の人々が長くそう呼んできたものは、いまリセの前で別の名前を得つつあった。魔力とは、目覚めるものではない。罪の支払いで鈍った器官のかわりに、耳が伸びただけだ。
地下から出ると、森のひかりは静脈のように細く、土手の堤を洗っていた。川面を撫でる風に銀糸が揺れる。リセは懐中時計の蓋を開き、いないはずの秒針に呼吸を合わせる。——吸って、三つ。吐いて、三つ。意識を糸の束へ向け、そっと一房を摘むように触れる。空気が薄く低音を帯びた。川風が一拍遅れる。水鳥の羽ばたきが、ほんのわずかに“待ってくれる”。
驚きは遅れて来る。身体がもう少し手前で置いてきた感情の箱から、時間差で一つだけ取り出してくるように。彼は驚かず、その代わりに慎重さだけを増やした。触れるたび、対価が剥がれる。昨夜のパンの味、朝の雀の数——小さいものから、静かに。けれど失い方は“空洞”を作らない。別の感覚で埋められていく。音の粒立ち、沈黙の厚み、風の重さ。空の比喩が勝手に増える。文庫本の奥付の紙質みたいな空だ、とか。世界の読み方が、横書きから縦書きへ、あるいはその逆へと、ゆっくり姿を変えはじめている。
王都東門の手前、煉瓦倉庫街の片隅に金柑の絵が剝げかけた菓子屋がある。昼の匂いは砂糖と油と埃。店先で少年が泣いていた。袋菓子を胸に抱え、母の分まで盗んだと白状し、巡回兵に腕を掴まれている。リセは足を止め、涙の落下点を見た。石畳の一角で、銀糸が不規則に歪む。そこに“転倒”の小節が書かれている。巡回兵が乱暴に引く。対面の老商人が躓く。袋から火口箱が跳ねる。藁束に火が移る。倉庫街が延焼する。——劇の再演。
時計を二つ、送る。音のない拍が、世界の縁を撫でる。老商人が一歩だけ早く足を出す未来が選ばれ、袋の重心が変わる。転倒は起きない。火は走らない。巡回兵は苛立ちを対象にできず、溜め息混じりに少年を放す。「次はないぞ」 少年はぶんぶん頷き、袋から菓子を二つ取り出して半分差し出す。リセは首を振った。「戻せ。お前が」 少年は走る。金柑の絵が風に揺れる。倉庫街は静かな昼に戻る。甘さの匂いの底で、煙になるはずだった未来が水の匂いに変わっていく。
対価は、ここでも支払われた。味覚の棚から一瓶が抜かれる感覚。侯爵家の地下室で嗅いだ古いワインの樽香の記憶が、一枚薄紙を余分に挟んだみたいに遠くなる。代わりに、銀糸の解像度が上がる。人の気配は、糸の振幅として視えた。喜びは高く、怒りはざらつき、嘘は不自然に整う。嘘は、美しすぎる。——王都は今日も美しい。
理の塔の外縁部、学匠宿の中庭。若い弟子たちが羊皮紙に線引きの練習をしていた。石の噴水が涸れかかり、午後の光が水面にさざ波の模様を置く。トーマがいた。痩せ、目の下に濃い影を垂らしているが、骨はまだ折れていない。彼はリセを見るなり、疲労を笑いに変える術を思い出した人間の顔をした。
「譜面庫から、また巻が消えた。管理人は怯え、塔の上では教権が騎士団を嗅ぎ回らせている。——旅の人、だね?」
曖昧に笑い、リセは鞄の底から森の書の断片を一枚だけ覗かせた。トーマの瞳が、紙の白を呑むように熱を帯びる。
「その章句……原典には空白だ。君はどこで」
そこで彼は言葉を切り、周囲に目を配ってから声を落とした。
「君は、壊しているのか? 脚本を」
答えの代わりに、リセは噴水の縁を指さした。銀糸の束が緩む。水脈を一拍だけ遅らせる。跳ねた水滴がひとつ、トーマの頬に落ちるはずの軌道を逸れ、彼の手元の羊皮紙に落ちた。丸いにじみが、トーマの脳に“この瞬間だけ理解可能な図形”を焼きつける。彼の肩がふるえ、笑いがこぼれる。
「見えるのか……君には」
「見えるように、されている」とリセは答えた。負債の言い回しは、どんどん上手になる。
「なら、頁を取り戻せるかもしれない。塔の深部に“控え譜”があるとされている。主旋律とは別の、世界のもうひとつの譜面だ。もしそれが残っていれば、君の代償を——」
代償。舌の奥が、鋭く痛む。リセは視線を落とした。“痛む”という語感から先に、言葉の並びが剝がれていく。名を削った場所から、連鎖している。彼は唇を噛み、痛みの輪郭だけを確かめた。痛みは、まだ「痛み」と呼べるうちが扱いやすい。名に手を入れた夜を越え、語彙のいくらかは、もう名前を失いはじめている。
「控え譜は、どこに」
「塔の心臓だ。許可のない人間は入れない。けれど、譜は鍵に弱い。君の持つ鍵——それは名だろう? あまり削るな。残りが、君を支える」
トーマの忠告は、石畳のきしみのように堅かった。言葉の背に、学者としての誠実な臆病がついていた。彼はリセを助手に誘おうとして、踏みとどまる。踏みとどまれる人間は、信頼できる。
夕暮れ。学匠宿を出ると、煉瓦の角に灰外套が立っていた。騎士団の追手。冬の金具の匂いをまとい、剣に触れ、抜かない。代わりに、細い影が通りの影から浮く。女騎士。鎧の縁に、侯爵家の古い意匠が細く刻まれている。内通者。彼女は目礼し、ほとんど唇を動かさず囁いた。
「“名なき殿”。——伝言を。『家門は燃やすな。燃えるべきは、塔』」
名なき。耳の奥で薄い紙が鳴る。リセは女騎士の顔をまっすぐ見る。夢の輪郭のように、既視感だけが先に現れ、名前の母音が、滑る。触れようとすると、逃げる。彼女は自嘲を唇の端に一瞬だけ乗せ、足音を残さず去った。残された言葉は、第二の火の予告。燃やすべきは、塔。虚無の勝利への、最初の拍。
虚無の勝利——誰の言葉だ? 思考の底で、古い声が笑う。虚無は、何も奪わない。奪うのは人だ。虚無は、人が置いていく。だから勝つ。彼は首を振り、倉庫街の路地へ入った。夕焼けは早く、煉瓦の目地が紫に沈む。銀糸は黄から青へ色調を変え、嘘の振幅が冷えていく。
角を曲がったところで、巡回兵の靴音が重なった。二人、三人——いや、四。影が交差し、糸が交錯する。剣の柄に触れる音。抜かせれば、流血の拍が起動する。リセは右足の踵を半歩だけ遅らせ、懐中時計の蓋を親指で弾いた。歯車が一度嚙み、空気の膜が薄く厚くなる。埃が“ゆっくり降りる”。
「おい、そこの——」
巡回兵の呼び声は、拍の外へ押し出された。リセは少しだけ笑う。滑稽な余白を、世界はときどき許す。銀糸の束から“合図”の一本を抜く。道端の樽から落ちかけていた板が、今、落ちる。乾いた音に反射して、荷馬車の馬が鼻を鳴らす。鼻の鳴りで回収屋の男が振り向く。振り向いた動きで兵の肩がわずかに引かれ、掛け声のタイミングが崩れる。——それで十分だ。血に頼らない遅延。遅延は、連鎖する。
「名なき殿」
背中に、低く抑えた声。灰外套の一人が、帽の庇を指の甲でわずかに上げる。まぶたの奥の目が、覚えているふうに細まる。「塔へ向かわれるのか」
「塔は、よく燃えるか?」とリセ。冗談に似せた問い。声の色だけで、銀糸が撓む。
「塔は石だ。燃やすのは石でないものだ」
良い比喩を持つ兵だ、とリセは思う。彼の糸は濁っていない。兵はそれ以上何も言わず、列に戻る。命令は上から降りる。けれど、人は横からも支えられる。横の支えが残っている限り、譜は簡単には“虚無”へ落ちない。
宿に戻る途中、空が低くなった。雲が紙のように薄く重なり、その隙間に星の白が見える。懐中時計を胸にあてる。名の欠けは癒えない。癒えないが、慣れる。慣れは、時に救いだ。時に毒だ。彼は毒のほうを先に飲む。救いは、あとで水で薄めて飲む。
夜。修道院跡へ戻る。地の底は相変わらず、季節から切り離されている。森の書を開き、石板を並べ、懐中時計を置く。控え譜——トーマの言葉が耳に残る。もうひとつの譜面。主旋律とは別の、世界の下書き。そこにアクセスできれば、支払いの配分を変えられるかもしれない。自分以外に負担を回す、という意味ではない。譜の“余白”の取り方を、より精密にできる、ということだ。救済の点と点を、少ない線で繋げる技法。そういうものが、この世界にはまだ残っているのかもしれない。
クレイが寄ってきて、土の額を彼の膝に当てた。温い。土に、脈がある。彼はその脈に合わせ、銀糸の束を撫でる。塔の方角で、騒めきが増えるのがわかる。教権は騎士団を動かす。ヴォルクの命が、石段に反射する。譜面泥棒を探せ。脚本を壊す者を許すな。塔の深部で、誰かが控え譜の前に立ち、頁の端を撫でている——そんな錯覚が、遠くの銀糸を冷たく震わせた。
護符の感触が、唐突に胸に蘇る。錫の裏に刻まれた“R”。エレナ。彼女の耳の奥で鳴った紙の裂け目は、まだ塞がっていないだろう。彼女は自分のなかの空白を、祈りで埋めようとしているだろう。祈りは穴を埋める。だが、譜は穴から始まる。
リセは立ち上がった。森の書を包み、石板を布で巻き、時計を懐へ戻す。歩幅を一定に。呼吸を一定に。遅延の技は、一定の者の味方をする。塔へ行く。燃やすために、ではない。燃やすべきものを見極めるために。家門は燃やすな。燃えるべきは、塔。女騎士の言葉は命令ではない。譜の注釈だ。注釈は、ときに本文を救う。
院を出ると、森は星を拾っていた。枝先の氷が押し花のように光を閉じ込め、土の上で足音が静かに反復された。銀糸の束は頭上で絡み、彼の名の欠けをなぞる。名は輪郭だ。輪郭は、消えるほど世界に滲む。滲んだ者は、刃になれる。台本の余白で動く刃に。見せ場は、派手な炎の中だけにあるわけではない。誰にも気づかれない遅延の手つきは、今夜も美しくて、そして容赦がない。
塔のある方角へ、一歩。銀糸が低く鳴った。虚無の勝利——その言葉を、彼はゆっくり噛み砕く。勝たせない。虚無は、置いていかれたときに勝つ。ならば置いていかない。誰も。自分も。彼は歩く。クレイが並ぶ。世界は一瞬だけ待ってくれる。待ってくれる間に、譜の角をひとつ折る。折り目は、次のページのための目印だ。そこへ、彼は自分の欠けのかたちを重ねていく。欠けは、刃だ。刃は、譜を切り分け、道を作る。次の拍で、塔の石段が始まる。胸の奥で、小さく、しかし確かに合図が鳴った。




