表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第一章:罪の目覚め

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/18

第4話「禁呪の代償」

 王都の鐘が遠くで数を刻む。三日。豊穣復権の儀まで、残りは指で数えられるほどの拍しかない。修道院跡の地下写本庫は、外の季節から切り離されたように沈黙し、苔の匂いと古革の渋みが肺の奥へゆっくり沈んでいく。石台の上には三つ——森の書、石板、そして割れた懐中時計。リセルはその前に膝を折り、指を組む代わりに、紙の角を揃えるような仕草で思考を整えた。

 鍵穴は王城中庭の泉。地表にあらわれたわずかな歪み。祈りが毎朝投げこまれ、季節の花が浮かべられ、子らが夏に手を浸して笑う、あの水面。人の指と目と願いが繰り返し触れた場所は、譜の表皮が薄くなる。そこへ、地下の水脈の図を重ねて、線をずらす。火の粉が落ちる瞬間、吹き上がる水の弧が油皿の縁を濡らし、燃え広がりを“鈍らせる”。燃えないわけではない。だが、演目が盛大な失敗を晒すには、それで充分だ。

 森の書を開く。密に絡んだ譜の枝。指の温度に反応するように、細い線のいくつかが浮き、いくつかが沈む。空白——過去の誰かが剥ぎ取って生じた余白——に、今度は自分が書き込む番だ。石板を横に、懐中時計をその上に重ねる。時計の歯が、音もなく嚙み、空気がわずかに厚みを持つ。クレイが台の下で丸くなり、土の体を低く震わせる。土は音に敏い。世界が少し、きしんだのを知っているのだ。

 問題は、支払いだ。遠隔改変は軽い指先では動かない。譜の曲想を変えるには、代償がいる。重いほど、転調は大きい。ここまでの微小な遅延には、味や匂いのいくつかを渡して済ませた。だが王都の儀の流れを逸らすには、より本質的なものが要る。

 名。

 名は輪郭だ。名は、自分の輪郭のもっとも外側に引かれた線で、家族と世界を結ぶ細い橋。そこを削れば、橋は軋む。彼は目を閉じる。暗闇の奥に浮かぶのは、ひとりの顔。光柱の隙間から消えた横顔。思い出すたびに輪郭が違って見える、記憶の中でなお生き続ける誰か。もし彼女が生きていたら——そう仮定してしまう自分を、彼は嫌っていた。贖罪はときに自己憐憫の仮面をかぶる。同じ紙一枚の表裏。だとしても、紙を握りつぶしてでも進むしかない。誓いは、もうずっと前に立てた。

 懐中時計を握り、舌の上で自分の名を確かめる。「リセル」——喉の奥で鳴った音を、内側からひとつ抜き取る。音列のうち、一番最初に指先が触れたのは“ル”だった。そこを、捻る。胸の奥で、乾いた紙が裂ける。文字の並びが崩れ、骨の髄がひやりと冷える。口の中に残るのは、短い音。「……リセ」

 わずかな欠け。だが世界の奥で、その欠けが美しい和音の狂いを生む。森の書の線が、一拍ぶんだけうねり、石板の縄目がひと目盛りずれる。懐中時計の歯は、一度大きく嚙み合い、静かにほどけた。空気の厚みがほどける瞬間、台座の上の影が、わずかに形を換えた。

 リセ——“ル”を落とした男は、ゆっくり息を吐く。クレイが顔を上げ、土の鼻を彼の手に押しつけた。温い。まだ、生きている。欠けは確かに生じたが、まだ折れてはいない。

 その瞬間、王都の広場では、別の拍が始まっていた。

 豊穣復権の儀。王都の心臓部に仮設の演壇が組まれ、聖木の枝がアーチをなし、布で巻いた柱に金糸の紋がちらちらと光る。大司祭ヴォルクが掲げる棍には秋の麦穂が編み込まれ、表向きは作柄回復、実際は教権の威光誇示の公開劇。鐘が打たれ、祈祷の言葉が反復され、合間に商人が屋台を押して巡り、子どもが紐に結んだ小さな護符を振る。期待された“演目”は、段取りどおりに進むはずだった。

 舞台裏。油皿。火種。紙片に書かれた合図。演壇下の小火に、正しく火が移り、野次と歓声と罵声が混じるタイミングで、油が煽られ——譜面はそこまでが“楽譜”になっていた。だが今、火の粉は同じ軌跡で落ち、別の伴奏がそれを迎える。泉だ。中庭の泉が、まるで舞台装置のように、夥しい水を弧にして跳ね上げ、油皿の縁を湿らせる。火は、がくりと膝を折り、炎の舌が水の縁でほどけて消える。

 沈黙。ほんの一拍。やがて、笑い声。歓声ではない、緩んだ笑い。失敗だ、という合図が人々の身体に走る。やじが飛ぶ。誰かが「奇跡だ!」と茶化し、誰かが「水の神だ!」と笑う。演目は、崩れた。王都の空に、予定の炎は上がらない。予定の煙も、音も、血の匂いも。

 舞台中央で指先を震わせたのは、大司祭ヴォルクだった。痩せた唇を指で押さえ、顔を上げる。眉間に皺を刻みながら、彼は誰かを探すように視線を巡らせた。舞台袖の柱の陰——白衣の神官見習い、エレナ。彼女は胸の前で祈りを結んだまま、困惑している。譜面どおりなら、彼女はこのあと王城地下の封鎖に派遣され、帰路で“暴徒”に襲われる。封鎖は今、不要だ。暴徒は現れず、派遣は取り消され、彼女は生きる。祈りの結び目が解け、胸の奥に溜めた息が静かに抜ける。自分でも知らない誰かが、彼女の一日を救った。

 地下。修道院跡の空気は冷え、リセの肺はその冷気を吸い、吐く。遠くの鐘の音は、分厚い岩に遮られて輪郭を失っている。彼は膝に肘を置き、額を掌に落として、短い眩暈をやり過ごした。内側で、名の欠けが波紋を広げる。

「……リセ」

 言って、舌が躓く。自分の名が自分の喉でひっかかる奇妙。続けて、脳裏の家系図に触れる。姉の顔から、髪の分け目の角度が剥がれ、笑ったときの目尻の皺が別人のものに差し替わる。父の声色が、半音落ちる。家の廊下の長さが、半歩短くなる。痛い。神経の端が束になって焼かれるような痛み。だが、もっと痛いものは、遅れてやって来る。

 王都の広場。水に濡れた舞台を、役人たちが慌ただしく拭いている。ヴォルクは側近に低い声で命じ、理の塔からの参列者に目配せする。柱陰のエレナは、空を見上げた。彼女の耳の奥で、薄い紙の音がする。ページが、ちぎれる音。自分の外で起きたはずのその音が、なぜか自分の中まで届く。額に手を当てる。痛む。森の祠で、ひとりの男と目を合わせた夜のことを思い出そうとする。雪の欠片が彼の瞳に映り、冷たいのに温い気配が、確かにそこに——

「誰、だった……?」

 こぼれた問いは風にちぎれ、祈りの結び目に絡んで消える。護符を握る。胸元の小さな錫の護符。裏返すと、震える筆致のイニシャル——“R”。誰だろう。護符の重みだけが、涙腺に直接触れる。泣く理由がわからないまま、涙だけが落ちる。彼女は空を仰ぎ、言葉にならない祈りを漏らした。どこかで、誰かが、私を救った。確信だけが、理由より先に胸の真ん中に座る。

 その夜、王都では別の火がついた。政治家たちは儀の失敗の責任を擦り合い、新聞は「水柱の奇跡」を絵入りで茶化し、民衆は笑いのうちにわずかな不安を飲み込む。だが、理の塔の奥、譜面庫では管理人が気づいた。「また一枚、空白が増えた……」 巻物の列のうち、端のひとつに、白い呼吸の跡がある。誰かが、剥いでいる。誰かが、書き換えている。

 ヴォルクは静かに命じた。「譜面泥棒を探せ。追放者でも神官でもいい。脚本を壊す者を、私は許さない」 声音は穏やかで、意味だけが鋭い。命令は幾筋もの経路を通って街へ降り、深夜の角を曲がる間に、噂と指名手配と告解の列になって膨らむ。

 修道院跡。石台の上の森の書は、ひとつの章を閉じ、別の章の背表紙をこちらに見せている。クレイが眠気に負けて、土の体を少し崩し、またすぐ再構築する。リセは掌に残った護符の感触に似た、あの小さな“R”の重みを想う。自分が渡したわけではない。なのに、彼女の掌にそれはある。譜の縁で、時折起こる、合理の隙間風。

 代償の波は、遅れて、確実に来た。姉の誕生日から次の冬までの記憶が、ひとかたまりで薄くなる。冬の陽だまりの長さ、窓辺の黄色い花の香り、焼き菓子の砂糖が上顎に貼りつく感触。残るのは、微かな温度と、指にはさまったリボンの布の粗さだけ。世界は救済を受け取り、彼は存在の端から削れていく。これでいい、と言い聞かせる声。いいはずがない、と叫ぶ声。胸の内側で両者が衝突し、火花を散らす。静脈のひと筋が熱を帯び、耳の後ろで脈が跳ねる。

 彼は石台に両手を置き、額を天井へ向けた。剣を振るえば、楽だ。剣を振るえば、派手で、わかりやすい。だが、その音は長持ちしない。譜の芯をずらすのは、地味で、痛くて、誰にも気づかれない仕事だ。だから価値がある。だからこそ、支払う価値がある。誰かが生き延びる。たった一人でも。いや、たった一人だからこそ。

 地上では、風が変わった。理の塔の上階で、書記官がインク壺を落とし、黒い斑点が白い紙に星座を作る。その隣室で、学匠トーマが積み上げた資料の山の一番下から一枚が滑り落ち、平衡を失った山が床に崩れ、裏返った頁の端に細く“R”の落書きが見える。誰のものでもなく、誰かのもの。塔の中央階段を降りる別の影は、杖の先で石段の節を叩き、叩いた場所を数えている。ヴォルクの命がそこを通り、衛兵の靴の音が増える。王城の門では、鉄が軋み、冷えた夜気が護衛の胸甲の隙間に入り込む。

 柱陰のエレナは、ひとりになると護符をもう一度握った。裏の“R”を爪でなぞる。指先に伝わるのは錫の冷たさだけだが、脳はそれを超えた温度を勝手に補う。涙はもう出ない。祈りの言葉も定まらない。ただ、確信だけが残る。どこかで、誰かが、脚本を壊した。私のために、かどうかもわからない。でも——ありがとう。声にならない礼が、胸腔の内側に灯る。

 リセは立ち上がり、森の書を包んだ。石板を布で巻き、懐中時計を胸に戻す。新しい欠けを抱えた身体は、わずかに軽い。何かが抜け落ち、何かが入ってきた。代わりに増えたのは、空の比喩の語彙。今夜の風は、譜の裏面に走る指の感触に似ている。星の瞬きは、紙の端のささくれだ。それでいい。世界と言葉のつながり方が変わったとしても、進む方向は変えない。

「行こう」と、小さく言う。クレイが立ち、土の尾を一度だけ振る。二拍。余白の位置。

 階段を上がる。夜の森は硬質で、枝先の氷が星の光を拾って、静かにちらつく。遠くの王都の灯は、高さを変えて瞬き、その間にいくつもの企みと祈りが交錯している。脚本役は怒った。探しに来る。譜面泥棒を。追放者を。神官を。名前の欠けた男を。——来い、とリセは思う。来れば、またずらす。鍵穴は一つではない。人の祈りが集まる場所は無数にあり、世界の表皮は思ったより柔い。

 雪を踏む音が、今日の“転調”をゆっくりと締めくくる。広場の笑い声はもう遠く、塔の奥のざわめきはまだ遠い。その中間にあるこの森で、彼は短い休止符を選び、次のページの角に指をかけた。剥がす、ではない。めくる。白紙は音をよく通す。そこへ置く一音は、誰にも聴こえないかもしれない。だが、響きは必ずどこかへ届く。

 名を削った喉で、彼は息を整える。痛みはまだある。欠けは消えない。けれど、救われた命が一つ、確かに世界に増えた。舞台袖の柱陰で、白衣の袖が今夜は血に染まらない。その事実だけで、彼の内側の火は、消えずに、静かに燃え続ける。音もなく、長く燃やす火。譜に書かれない火。その火で、これから先の闇を、一拍ずつ温めていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ