第3話「森に眠る書」
王都へ戻る前に、穴がいる——と、リセルは地図をひろげながら考えた。譜面に刃を入れるには、刃先が定まる“鍵穴”が必要だ。祠、古道、井戸。人の祈りが幾度も通り、手垢と涙で磨かれた場所。そこに、構造のほころびは生まれる。古い羊皮紙の地図に自分の記憶を重ね、彼は道の縁に小さな印を打っていった。点はやがて線になり、線が森の奥で渦を巻く。渦の中心に、崩れた修道院跡。そこが、今日の目的地だった。
凍てた風は、日に照らされても輪郭を失わない。白い枝に細かな氷がつき、林は音もなく震えている。クレイは前を行き、土の足が雪に馴染むたびに形を確かにしていく。尾は今回は楕円ではなく、ちゃんと細い弧を描いた。成長という語が、土にも似合うのだとリセルは知る。
道が途切れ、森が膨らむ。その手前で、彼らは村に出た。日の光はあるのに、空気が熱に向かおうとしない。戸口に布がかけられ、窓は板で塞がれ、教会の鐘が弱々しく響いている。疫病の匂い——乾いた薬草と、煮詰まった汗と、わずかな鉄の匂い。広場の端で子どもが痙攣し、母親が祈祷の紐を指に食い込ませていた。紐はもう、ちぎれそうだった。
「神殿は『信仰が足りぬ』と寄付を求めるだけだ」と、医師が吐き捨てるように言った。目は赤く、手は休めない。煎じた薬草の湯気が、冷気に負けてすぐ淡くなる。「風だって? 違う。症状が、風じゃない。熱の出方が不規則で、夜明け前に一度、針が跳ねる」
針——熱の針か、譜の針か。リセルは医師の診立てを聞き、広場に立つ井戸へ向かった。石積みは古く、縁は手垢でつるつるに磨かれている。木蓋が黒く湿っており、風下側だけ菌糸の匂いが強い。指先でなぞると、粉のような胞子がわずかにつく。黒茸。井戸の水面に影が揺れ、底で何かが薄く鳴ったような気がした。
「蓋を換えれば、症状は止まる」と彼は心の中で結論づける。だが、それだけでは“譜”は鳴り続ける。今日の昼、汲みに来た老女が足を滑らせ、倒れた蓋の隙から水が汚染される——譜面の端に、その小節が見える。避けられる災いほど、譜はよく書かれているものだ。
リセルは懐中時計を取り出し、井戸縁にそっと当てた。割れた硝子の向こう、いないはずの秒針がひと跳ねし、空気が薄く厚くなる。数息。たった数息だけ、時間の布目をずらす。老女が歩幅を半歩誤る未来を、半歩ずらす。昼前、通りがかった若者が井戸蓋の黒を見て眉をひそめ、勝手に蓋を開け、鼻をしかめ、蓋を換える未来を、手前へ呼び込む。
世界は、微かに照れた。祈りは、祈りのまま“自力の工夫”として回収される。リセルの名はどこにも残らない。広場では、母親が紐をほどき、子どもの額に濡らした布を当て、医師が「あの井戸、誰か見たか」と叫ぶ。若者が手を挙げ、「変だと思って、換えた」と答え、誰かが安堵のため息をこぼした。鐘の音が、さっきより少しだけ、長く響く。
代償は、すぐ来た。舌の上から、侯爵家のワインの一本が消えた。赤い。陽に透かすと指が見えるやつ。父が「これは軽い」と笑っていた。名前は、出てこない。葡萄畑の風は覚えているのに、ラベルの文字だけが霧に溶けたように滲む。代わりに、空の比喩ばかりが増えた。今の光は、魚群の裏返り方に似ている、とか。風は、紙の端を舐める舌みたいだ、とか。語彙は、別の場所へ片寄っていく。
森はここからが本番だ。踏み跡は途絶え、苔が石を覆い、日差しが層をなす。クレイが先導し、根の上で背を低くし、滑りやすい場所では尾を広げてバランスをとる。土の体が木漏れ日を浴びると、表面の粒子が一瞬、金色に光った。土にも太陽は沁み込むらしい。かったるい風が抜け、小鳥の声が遠くで丸まる。森は生き、眠り、呼吸している。
修道院跡は、思ったより生きていた。塔は折れ、回廊は崩れたが、地下へ下る階段だけは泥と落ち葉の下で形を保っている。リセルは火打石で灯りをつけ、クレイに「待て」の合図をする。土の犬は躊躇い、しかし従う。階段は冷え、地面が音を吸う。地下の空気は湿って甘く、古い革と墨の匂いが混ざっている。写本庫。
扉はなかった。代わりに、祈りが扉の役目をしていた。踏み入ると、壁に沿って並ぶ棚が影を伸ばし、床の文様が薄く光る。苔むした羊皮紙の束が、樹の根のように絡みつくひと塊になって、中央の台座に載っていた。彼は息を整え、手袋をはめ、ゆっくりとそれに触れた。
森の書。そう呼ぶしかなかった。ページの繊維に、譜の枝が密に絡んでいる。線はただの線ではなく、世界の底を流れる因果の配列の、露出した断片。ところどころに、白い空白があった。空白は偶然の抜けではなく、意志の跡。誰かが過去に、ここに手を入れ、譜の小節を剥いだ痕跡。
余白には同じ筆致で短い文が繰り返されている。「代償は記憶。躊躇うな。躊躇いはより多くを失わせる」 書いた者の筆圧には微かな震えがあり、震えは恐れであり、恐れは人間にしか持てない温度を帯びていた。孤独な指が、何度も自分を励まし、叱咤し、未来の見知らぬ誰かに手紙を書いている——その気配だけで胸が熱くなる。
ページを繰る。枝の間を目で辿り、空白を指で数える。ここで一度、疫病が逸れ、ここで一度、橋が落ちなかった。ここで火が灯らず、ここで一つの首が吊られなかった。誰かが先に、この世界で改変を試みてきた。失敗も、成功も、どちらも混ざっている。そのたびに、記憶を払ったのだろう。余白の端に、わずかな滲みがあり、滲みの向こうに別の文字が消えている。消えたものの気配ほど、強く残るものはない。
「ありがとう」と、小さく言った。誰にでもなく。自分がこれから歩く道の上に、先に刻まれた足跡に向かって。
写本庫を出ようとしたときだった。地の音が変わる。クレイの唸りが階段の上から降り、次の瞬間、灰色の外套が二つ、闇から剥がれた。肩には王都騎士団の徽章。剣の柄に手がかかり、動きに迷いはない。「侯爵家の名誉のため」——常套句が、冷たく響く。
リセルは剣を抜かない。抜けば、剣が物語の主旋律になってしまう。今は、違う。彼は懐中時計の蓋を親指で弾いた。秒針のない中心で、歯車がひと噛み、音もなく室内の埃が浮遊を“遅く”する。光の粒が空中で引き延ばされ、灰外套の瞳孔に細い光が縞になる。
一歩。彼は右へ半歩ずれ、左足を前に出し、呼吸を一拍遅らせる。追手の右の男——靴紐が、この場所に来る途中でほどけていた未来を、こちらへ引き寄せる。彼は結び直したはずだ、と信じた足が、わずかに躓く。左の男は瞬間、相棒に目をやり、腰の角度が崩れる。天井の聖像が、冬の湿気で軋み落ち、床板が二人の体重を受けて撓む。
リセルは壁際に身を滑らせ、灰外套の肩を指で“軽く押す”。本当に、軽く。それだけで、均衡は崩れる。二人の視界が同時に白く跳び、膝が落ち、肘が床に当たって音が鳴る。剣は抜かれないまま、男たちは短く沈んだ。血は流れない。息はある。眠りだけが、ここに降りた。
クレイが一声、短く鳴いた。土の声は、すぐ消える。リセルは森の書の端から空白を一片、切り抜き、眠る騎士の胸にそっと貼った。譜の余白は、世界の余白に似ている。薄く、乾いて、しかしよく粘る。貼った瞬間、空気が微かにひきつれる。起きたとき、彼らは今日の任務の目的を一つだけ忘れている——“誰を追っていたか”。手順も経路も残るのに、中心だけが抜け落ちる。そこに名があったことを思い出そうとすると、頭痛がする。そういう仕掛け。
代償が、また剥がれていった。姉の誕生日——庭に長い影が伸び、窓辺に黄色い花が飾られ、姉が「また一つ」と指を立てて笑った、あの日の空気。具体の月日がぼやけ、祝った菓子の甘さだけが取り残される。脳の皺が少し伸び、代わりに森の匂いが鮮やかになる。苔の湿り、古革の渋さ、墨の辛さ。痛い。だが、痛みは生の確認だ。払う価値があると決めたものに、額面以上の揺れが添付されるのは、世の常だ。
騎士たちを壁際に寄せ、外套を整え、冷気を避ける位置へ寝かせた。敵は、ただの敵ではない。彼らもまた、譜に書かれた役者だ。役者は役者の苦労を持つ。明日、彼らの上官は怒り、書記は記録に小さな誤記を作り、書庫で一枚の紙が風に削られる。リセルはその先を見た。数直線の上に“救済の点”が並ぶ光景。点は小さい。だが、繋げば線になる。線の上には、人の生活が乗る。人が生き延びる。
写本庫を出る。地上は夕暮れの色で、森の梢は音をなくし、鳥は遠くで鳴き止んでいる。修道院跡の回廊に残る足跡は、今日ついたものと、昨日のものと、昔のものとで交錯していた。誰かの靴底は、彼と似た歩幅だった。彼と同じように、一定を保とうとしたに違いない。躊躇えば、譜はすぐに拍を奪う。
森の縁で、風向きが変わる。王都の方角から、匂いが運ばれてくる。焦げではない。油でもない。人の群れの匂い。儀式の準備。——今日、北倉は燃えなかった。明日、別の場所で別の火が試みられるかもしれない。脚本役は、指を組み替える。こちらもまた、別の鍵穴を探せば良い。
村に戻ると、井戸端に新しい蓋が載っていた。若者が胸を張り、子どもは汗を乾かして寝息を立て、母親は祈祷の紐をほどいて、両手を合わせずに空を見上げていた。祈りは、形式を変えた。神殿の言葉は、ゆっくりと力をなくす。医師がリセルに気づくと、軽く会釈した。礼にはなっていない。だが、それで良い。祈りが自分の手に戻るのを、人は礼で飾らない。
クレイが井戸の縁に前足をかけ、鼻で新しい木の香りを嗅いだ。土の体に、さっきまでよりもはっきりした影がつく。影は、立体の確認印だ。リセルは背に手を置き、ぽん、と二度、叩いた。二拍。譜の空白の位置。
夜が落ち、森と村の境界が溶けた。王都へ戻る道は、まだ長い。だが、“鍵穴”は見つかった。森の書は鞄に収まり、懐中時計は胸の上で沈黙している。沈黙は、次の音の準備だ。彼の内側の何かは剥がれ、代わりに別の何かが芽を出し、眠い。眠いが、眠らない。脚本を壊す仕事は、眠気が混ざるほうが、余計な情を減らしてくれる。
歩幅を一定に保ち、呼吸を数え、雪の鳴る所と鳴らない所を選び分ける。頭の中で、救済の点を線に結ぶ作業を続ける。線はいつか面になり、面は譜の一枚を置き換える。そうなれば、王都の鐘の音は違う和音を奏でるだろう。誰もその違いに気づかないかもしれない。だが、気づかれない違いほど、世界を大きく変える。
森の端で、振り返る。修道院の尖塔の影が、夜空に短く爪痕を残していた。そこに、かすかに誰かの背中が寄りかかっているような錯覚を見る。先にここを訪れ、余白に短い文を何度も書いた誰か。顔は見えない。声も聞こえない。だが、確かにいる。孤独は、孤独を呼ぶ。だからこそ、孤独は、連帯の端緒にもなる。
「行こう」と、リセルは言った。クレイが低く鳴き、隣に並ぶ。風が、譜をめくる。ページの角が、彼の指の中にある。次の白紙に、どの音を置くか。王都の光は遠く、しかし確かだ。彼は歩く。救うべき点は、まだ無数に散らばっている。躊躇えば、より多くを失う。——余白に残されたその言葉は、今夜は彼自身のものになって、胸の中で薄くやさしく、しかし確かに鳴っていた。




