第2話「死んだはずの悪徳貴族」
東の外れ、凍てつく街道は、踏みしめれば刃の音がした。雪が硬く締まり、靴底の下で薄い氷が脆く割れるたび、静寂の皮が一枚ずつ剥がれていく。リセルは三日の行程を、振り返らないまま歩き切った。王都の鐘はとっくに遠く、追放を記す羽根ペンの先は冷え切って動きを止めている。彼の呼吸だけが白く伸び、肩に降り積もる雪を温い蒸気でわずかに溶かした。
廃坑道脇の洞窟は、冬の口を開けたまま黙っていた。岩肌に貼りついた霜が、焚き火の熱でじわりと汗をかく。火は小さく、だが生きていた。すすけた鍋の底が時折、乾いた音で鳴る。リセルは外套を脱ぎ、粘土犬クレイの背を撫でた。土のくせに、温い。耳の位置にあたる突起がふるえ、尾がまだうまく形にならないまま、喜びの楕円を描く。掌に残る湿りは、まるで小さな心臓の鼓動の余韻のようだった。
「よく、ついて来たな」
言葉に、クレイは短く鼻を鳴らす。焚き火の向こうで、洞窟の天井が低い唸りを返した。夜は深く、眠気は薄い。目を閉じる直前、脳裏の景色が反転する。雪の白が、光柱の白へ変わり、岩の黒が、神殿の影へと重なる。
刃が、まっすぐに落ちた。神の核を穿つ軌跡は、少女の胸をも貫いた。同じ線、同じ角度。英雄エイドは世界を救い、その代償に、ひとつだけ救えないものを持った。香草の匂いがする髪、笑うと右の頬に寄る浅いえくぼ——視覚より先に匂いが蘇り、そのあとで顔の輪郭が追いつく。間に合わなかった。あの音の速さに、手が届かなかった。神殿の柱が震え、祝祭の歓声が天を満たすなかで、ただひとつの死は記録の隙間に落ちた。彼の名は讃歌となり、少女の名は沈黙の底へ沈んだ。
墓前で、エイドは誓った。次があるなら、脚本を書き換える側に回る、と。誓いは凍り、時間は割れ、目を開けた先に彼は侯爵家三男として生まれていた。運命律譜の上に置かれた“贖罪の駒”として。
夜が明ける。東の端が鉛色から薄藍に変わり、霜に縁取られた草の刃が一斉に光る。洞窟を出ると、風が顔を削った。村は、まだ眠い。屋根に積もる雪の角が柔らぎ、煙突から上る煙の柱が空の色を吸う。リセルは小径を踏み、誰も来なくなった小祠へ向かった。扉は外れ、祠石は崩れ、冬鳥の羽だけが鮮やかに残る。祭壇の裏手で、異物はあっさりと見つかった。
石英を混ぜた薄い石板。縄目のような細線が、微細な規則性で編み込まれている。圧し花のように平たいそれは、冬の光を受けると、白の中から微かな七色を滲ませた。触れる。指先がかすかにしびれ、鞄の中の懐中時計が小さく呻く。割れた硝子の向こうで、無いはずの秒針が、逆へ——ひと目盛りだけ、戻った。
視界の縁で、小麦畑が揺れた。畑はこの村にはない。だが確かに、風が走り抜け、薄緑の海が一瞬“色を変えた”。過去か、別の層か。リセルは息を呑み、石板をひっくり返す。縄目の細線は、譜面だった。譜面に似せたものではない。世界の底を流れる因果の配列、その“地表に出た枝”。前世では神殿の最奥に封じられ、限られた耳と目にしか触れなかった秘密が、いま、村の祠の裏に落ちている。
「……漏れている」
世界が演奏を始める前は、譜が表層へ滲む。王都の儀式が近いのだ。嫌な予感が、骨の中で凍りつく。儀式の日、王都の北倉で火災が起きる。はじめは小さな火の粉。やがて藁山に燃え移り、倉から城へ、城から街へ。混乱は粛清へ転じ、追放者は吊るされ、改革の言葉が血に濡れる。民衆は飢えを忘れ、喝采で腹を膨らませる。——脚本の定める“愚行の祭”。一度聴いた曲は、耳に残る。もう二度と、同じ演奏を許したくなかった。
拳を握ると、骨がきしんだ。クレイが足もとを鼻でつつく。土の鼻は冷たいのに、触れた皮膚の内側だけ、じんと温くなる。彼は石板を包み、懐中時計を胸ポケットに収め、村の通りへ出た。
街道の茶屋は、雪の風下に寄りかかるように建っていた。暖簾は色を失い、湯気は黄金色だった。甘い麦粥の匂い、黒胡椒の刺激、濡れた外套の獣臭。木の長卓の端に、旅装の男がいた。羊皮紙と筆記具を詰め込んだ筒を背負い、目つきの奥に常習的な寝不足を隠している。
「王都から逃げてきたのか?」と、リセルが言う前に、男は笑った。
「そのとおり。理の塔は、暖かいが息が詰まる。譜面庫から巻物が消える。近ごろはとみに、ね。誰かが頁を——」
男の視線が、店の奥で止まる。背の曲がった老婆が、こちらを見ていた。白濁の瞳の中心だけが、研ぎ出した刃のように鋭い。指は節くれ、膝には古い毛布。だが、周囲の空気を握っているのは彼女だった。
「王都の火は、書かれているよ」と、老婆が囁いた。湯気に混ざって届いた声は、湿りを帯びた古紙の匂いがした。「誰かが書き換えない限り、同じ歌を歌う」
リセルは礼をし、背を向けようとして——足を止めた。老婆の前の卓に、銅色が転がっていた。古い家紋。王都侯爵家の意匠。彼の生家の、紋。
トーマ、と名乗った学匠が肩をすくめる。「世間は狭い。君の顔は、どこかで見た気がするが、思い出せない。いや、思い出したくないのかもしれないな」
「王都は、儀式を急いでいる」とリセル。「譜は漏れている。塔の巻は、誰が消した?」
トーマは口をつぐみ、茶碗に唇をつける。返事の代わりに、僅かな熱と匂いだけが返ってきた。黙ることは、時に答えることだ。リセルは会計を置き、店を出る。クレイが振り返り、老婆と一瞬、目を合わせた。老婆は微笑むでもなく、頷くでもなく、ただ指先で卓を二度叩いた。二拍。譜の、空白の位置。
日暮れが、雪の色を黄に染める。廃教会の尖塔は、半分まで空に溶け、祭壇は濡れた藁と埃の匂いを保っていた。割れたステンドグラスの欠片が床に散り、光の欠片が青や赤の細い筋となって世界の残骸をなぞる。リセルは扉を閉め、石板を祭壇の上に置き、懐中時計を重ねた。
秒針はない。だが、歯車は噛む。時計が音もなく沈み、空気に厚みが生まれる。音の無い鐘が鳴り、耳鳴りのさらに奥で、紙が擦れる。クレイが低く唸り、床石に刻まれた古い文様が淡い青で浮かび上がる。譜が、歌いだす直前の息を吸う。
「ひと拍だけ、遅らせる」
リセルの指が、石板の縄目の一部をなぞる。祈りではない。演奏でもない。“編集”だ。明日の夜明け、北倉の火の粉が、藁山ではなく濡れ布に触れるように。火は小さく燻り、消える。倉に火は入らず、王都の大炎上は起こらない。祭は、始まらない。譜のその一段を、紙からそっと引き剝がす。
世界は、抵抗した。紙束から一枚抜くときの、あの粘り。粘りが指に絡み、骨を遡って頭蓋へ入り、脳の奥で薄い皮を剥いた。
まず、匂いが消えた。侯爵家の庭に吹いた春の匂い。手入れの行き届いた土の甘さ、雨上がりの銀の匂い、日向の石から立つ温い気。続いて、音が消える。姉カテリナの笑い声。部屋の前を駆け抜けたとき裾が擦れる布のさざめき、冬の朝に彼女が窓を開けるときの短い息。最後に、光が消える。陽だまりの色。廊下の端にいつも落ちていた、琥珀色の楕円。どれも、薄皮を剥がすみたいに静かに剥がれ、指の届かないところへ滑っていった。
代わりに、別の音が差し込む。遠くで、紙束が一枚抜かれる音。風に散る音。頁の角が吹かれ、誰かの手を離れ、床に落ちる音。運命律譜のどこかで、穴が空いた。
エレ——と口の中で呼んで、続きが霞む。エレナ。二拍置いて、遅れてやって来る。子音が、霧に沈む。
「代償は、俺の記憶から払われる」
声にすると、冷静になった。自分で自分に読み上げて見せれば、現実は輪郭を得る。クレイが前足をリセルの膝にのせ、じっと見上げる。土の瞳孔があるはずのない位置に、黒い点が瞬き、揺れる。——それが励ます行為だと、誰が教えたわけでもないのに、彼は理解した。
「払う価値はある」
床の文様の青が弱まり、懐中時計がひと息吐くように震えて止まった。石板はただの石に戻り、廃教会の空気は、埃と木の匂いを取り戻す。外で、風が雪面にさざ波を立てた。世界は、知らない顔で平然と続く。彼の内部でだけ、いくつかの季節が抜け落ちている。
教会を出ると、夜の縁が濃くなっていた。空は深い紺に沈み、星が氷片のように固い音で瞬く。リセルは息を吐き、肩を回し、歩き出す。北倉に落ちるはずだった火の粉は、濡れ布に吸われる。大炎上は起こらない。愚行の祭は延期され、粛清の歌は譜面の余白に追いやられる。王都は、違う朝を迎える。誰も知らない。誰も彼に礼を言わない。それでいい。救済は、誰のものでもない場所でやるほうが、長持ちする。
村外れの分岐で、雪の上に人影が立っていた。火の気はないのに、影は震えている。近づくと、それは人ではなかった。木枠に藁を詰め、古い軍服の破片で身体を巻いた、人形。村の子が作ったのか、去年の祭の名残か。目の位置に黒い石が二つ、口の位置に裂け目。裂け目の端が、誰かの手でわずかに上がっている。笑っているように見える。遠目には。
ふと、笑い声の記憶が、誰のものでもない音として蘇りかけて、消えた。掴み損ねた魚の尾のように、冷たさだけが掌に残る。リセルは指先を握りしめ、クレイの背にそっと触れた。土の温さが、指の骨にゆっくり染みていく。
街道へ戻る。雪は弱まり、風向きが変わる。背後から、馬の蹄の音。振り向けば、旅装の一団が近づいていた。先頭は、厚い外套の男。肩に乗るのは黒い鴉。男はリセルを視界に入れると、ほんのわずかに手綱を引き、速度を落とした。すれ違いざま、目の端で互いを測る。敵意も好意も、まだ名前を持たない。男の背に、理の塔の薄青い刺繍が見えた。トーマではない。だが、似た匂いがする。墨と、古革と、夜更け。
彼らが去ると、再び静けさが落ちた。静けさは、重い衣のように肩に載る。リセルは肩を振り、襟元を正し、また歩幅を一定に保つ。歩くことが、忠実な答えだ。脚本を壊すために必要なことは、派手な戦いばかりではない。譜の隙を見つけ、ひと拍をずらし、誰にも気づかれずに別の旋律へと導く。そういう作業には、一定の歩幅がよく効く。
夜更け、丘に出た。遠く、王都の方向がわずかに明るい。灯りが連なり、息をひそめているような光。あの光が炎の色に跳ね上がる未来は、今夜は来ない。彼の胸の奥で、薄い膜が音を立てて破れ、冷たい空気が入れ替わる。安堵とは違う。もっと静かな、冷静な熱。闘志、と呼ばれるものの、氷点下の形。
背後で、雪が小さく鳴った。誰かの足音。振り向くと、白衣の裾が闇に浮かぶ。神殿の規律が縛った言葉の気配。エレナではない。年嵩の神官だった。彼は耳元まで下がった帽の庇を上げ、目を細める。
「追放者リセル」と、神官。「——いや、名はどうでもいい。運命律譜の調べに、短い乱れが生じた。君はどこで拾った?」
問いは、まっすぐだった。リセルは肩をすくめ、答えない。神官は溜め息を、白い煙に変えた。
「明日、王都では儀式が開かれる。譜は、そこへ向けて鳴り出している。乱れは反撃を呼ぶ。書き換えは、書き換え返される。君は“脚本役”を怒らせた」
脚本役。茶屋の老婆が置いていった紋。塔から消えた巻。銅貨の錆。いくつかの点が、線にならないまま宙に浮く。リセルは、わずかに笑ってみせた。
「怒られているうちは、まだ見込みがある」
神官は目を細め、口元だけで笑い、音もなく去った。足跡は、雪に沈んで、すぐに風に消えた。クレイが鼻を鳴らし、土の尾をふる。リセルは丘を降りる。夜気が頬を切り、肺を洗う。懐中時計の歯が、一度、噛み、それから眠った。
死んだはずの悪徳貴族——追放の日に捨てた肩書は、王都のどこかで、別の顔を得て歩いている。彼の罪を“作った”誰か。譜を操り、銅貨を置き、祭を仕掛ける陰の筆者。敵は、まだ姿をくっきりとは見せない。だが、筆跡は残る。譜の縁に、僅かな癖。彼の中から静かに抜け落ちていく記憶の形と、どこか似ている。つまり——書き換えられるものは、書き換え返せる。
雪は次第に細くなり、星はさらに硬く輝いた。リセルは歩く。クレイは並ぶ。風は譜を捲る。彼はその一頁を、また指で押さえ、角を折る準備をする。救うことの値段は、これからも請求されるだろう。支払いは、きっと彼だけに来るだろう。それでも、払う。払って、進む。進みながら、欠けた自分の中に新しい音を作る。なくした声の代わりに、世界の不協和に耳を澄ます。
丘の向こう、黒い森の入口で、かすかな焚き火が灯った。新しい登場が、そこにいる。敵か、味方か。運命律譜の余白は、まだ白い。白いから、書ける。彼は歩幅を変えない。物語の拍を乱さないために。そして、次の一拍で剣を抜くために。舞台は移り、見せ場は準備を終えている。雪が最後にひとひら、彼の髪に溶け、消えた。胸の内で、誰にも聞こえない合図が鳴った。次の楽章へ。




