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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第四章:世界の再生

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第17話「最後の魔法」

 最後の魔法は、勝って終わるための切り札ではなかった。終わらないように負けさせる、街のからだを作り替える癖——半拍だけ、つねにほどけてしまう癖。それを仕込む。装置の刃がどれほど研がれても、最後のところで噛み合わない口もとを、都市に与える。わたし——リセは、控え譜、懐中時計、そして王墓の無名の儀を束ね、拍の縫い目に指を入れる手順を三段で組んだ。


 第一段。王家の丘、銘板の前で「名を降ろす呼吸」を三度繰り返した人の足の下へ、控え譜の小片を砂に溶かして埋める。紙でも布でもない。風に混ざって目に見えない粒子になり、踏みしめられてから、また風に戻る。儀礼の跡に、遅延の粉塵が薄く降るように。わたしは鐫を胸にしまい、掌で砂を撫でた。砂は指を受け入れ、ほんのわずかに冷える。次に来る足裏の温度を、覚えるための冷えだ。


 第二段。トーマの遅延便に「半拍の練習法」を連載する。歩くとき、話すとき、考えるとき。どの動作にも半拍の隙を必ず挟む練習。号令に追い付かないのではなく、意図して追い付かない呼吸を身に付ける。紙面には、言葉の前と後に小さな□印が並び、その□に指を置いてから読むよう指示がある。読者は最初、戸惑った。だが三日目には投書が増えた。「□のおかげで、隣のため息に気づいた」「□のせいで、上司の一斉送信が間に合わなかった。助かった」。トーマは毎号、末尾に短い感謝を書いた。宛名はない。けれど、読む誰もが、その感謝が自分に届くと感じる筆の震えだった。


 第三段。孤児院と学校に「数え歌」を配る。Rをテーマ音にした、半拍抜きの遊び歌。二拍と三拍のあいだに、わざと穴を開けてある。「あーる、ふたつ、やすむ/あーる、みっつ、わらう」。子どもはすぐ覚え、踵で地面を叩きながら庭を駆け回った。やがて親に逆流する。食卓で誰かが叱っても、叱られた子が思わず歌う。半拍遅れて笑ってしまい、叱る側の拍が外れる。笑いは不謹慎かもしれない。けれど、温度はある。温度が残る笑いは、命綱のほうに近い。


 仕掛けの準備を進めるあいだにも、代償は削れていった。都市の拍に触れるたび、わたしの内側の時間が薄皮を剥がれる。朝と夜、昨日と明日、出会いと別れ。順序が崩れ、固有名は霧に隠れ、残るのは温度の地図だけ。女騎士は隣でわたしを支え、足幅を合わせ、転倒の一歩手前で肩を取る。言葉はいらない。触れる温度と、踏み替えの重さが、彼女の名の代わりだった。トーマは机で紙に□を打ち、印刷所と議論し、締め切りを半拍遅らせた。「遅らせるにも、技術がいる」と笑った。エレナは祈りを途中で止める技を授業にし、「言葉を途中で止めてもいい。沈黙にも言葉がある」と子どもに教えた。教室の窓が開き、風が「はい」の前で一度、子どもたちの喉を撫でる。


 仕上げは、都市の波形への注入だった。鐘、家庭鐘、号令、配達、そして市場の呼び声——それぞれの波の山に、半拍の「ほどけ」を薄く塗る。外から強制するのではない。揃えようとした者自身の身体に、わずかな違和感を生ませ、自分の手で半拍崩す方向へ誘導する。わたしは懐中時計の蓋を開き、秒針のない中心に指を置いた。王墓の銘がわずかに息をしている。風の祈りが、街の旗を同じ方向へは揺らさない。銀糸の束は、もはや線ではなく、薄い織物みたいに街を覆い、そこに織り傷のような「ほどけ癖」を増やしていく。


 最初の変化は、鐘ではなかった。市場の呼び声だ。午前の市、ふだんなら一斉に伸びる声が、ひとりだけ半拍分、遅れた。隣がつられて笑い、呼び声がずれる。客が足を止め、値札を二度見する。安いか高いかではなく、何を選ぶかを自分に問い直す、その半拍。家庭鐘のリズムは、きちんと揃って鳴った。けれど、その家の中で、誰かが喉をほぐす音が半拍ついていかない。揃った拍に、身体が「少し気持ち悪い」と訴える。違和の訴えは、命を守る側に近い。


 塔は、すぐに反撃を整えた。ヴォルクは「善行の名」を都市に流し、寄進の手柄をランキング化した。名が戻る速度を競わせ、同時に信じるを競争で再起動させる。掲示板にはきれいな活字の「一位」が並び、紙面には笑顔と表彰の花輪が踊る。だが、半拍の癖が広がった街では、拍手が揃わない。誰かが拍手を始めると、隣の子が数え歌を口ずさみ、半拍遅れて笑ってしまう。笑った子に釣られて大人の手が止まる。拍手は、笑いに溶ける。笑いは、罪ではない。ただ、旗にはなりにくい。


 苛立ったヴォルクは、塔の最上階で名の譜を最大出力で奏でた。都市の名の輪郭を、一斉に太くする。家々の戸籍札が濃く、看板の文字がくっきり、呼ばれる名前が重たく響く。名は太く、強い。それでも、同じ名前の隣に別の名前が並ぶとき、わたしは秒針を止め、名と名の間に、ごく薄い空白の楔を打ち込む。名は太くなるが、隣と重ならない。太い名の列に、目に見えない細い罫線が入る。罫線は、未決の廊下だ。行列は続く。だけど、行進曲にはならない。


 攻防が張り詰める午後、ひと筋の沈黙が塔へ向かった。エレナだった。護符の裏のRが熱を帯び、半拍遅れて塔の影と歩みを合わせる。鐘室へ上る階段は、今日に限って一段ごとに短い溜めを要求する。彼女はそれを拒まなかった。扉の前、律衛は立っていない。誰も、祈らない。鐘は鳴るのを待っている。鐘室の中央で、ヴォルクが振り返った。


「君は、救いを愛すか」


 声は穏やかだった。彼はエレナの背の周りに名の譜を薄く回し、称号の席を空けて待っている。エレナは護符を強く握り、掌にRの痕を押し付ける。


「救いは、隙に宿る」


 ヴォルクはわずかに笑い、譜面台の引き出しから一枚の紙片を出した。古い、硬い紙。端にR。控え譜の起源——王墓で見つけた「間」の譜に繋がる、断簡。「返そう」と彼は言った。「終わらせるために」。紙は手のひらから離れ、風に乗った。鐘の窓から、王家の丘の方角へ。


 わたしは、塔の石段の下で、その紙片が落ちる温度を感じ取った。目に見える前から、指先が動いた。掌が熱を掴むと、Rの線が、わたしの刻んできたRと重なる。重なった瞬間、わたしの内側で季節が一度、音を立てて崩れた。春が冬に滲み、秋が夏へ溶ける。順序は要らない、と風が言う。要るのは拍だ、と砂が言う。


 王墓へ運ぶあいだ、女騎士はずっと半歩前を歩いた。転びかけた踵を、彼女の肩が静かに受ける。トーマは丘の下で紙を束ね、遅延便の号外を丸めずに抱え、「ありがとう」と誰にともなく言った。エレナは丘の中腹で祈りを切り、沈黙をこちらへ差し出す。沈黙は、刃ではない。けれど、刃の代わりに間を守る。


 銘板の裏側、わたしは鐫を握った。紙片のRを石のRへ、重ねる。鐫が入るたび、わたしの中の影が薄れる。影の名前は、もうとうの昔に失っていた。今回は、影の輪郭が削れた。自分が立っていた場所の線がほどけ、風が通り抜け、代わりに街の拍が入ってくる。わたしは街の一部になっていく。人ではなく、癖として。女騎士の掌が背に添い、体が前へ倒れないように支える。彼女の手は熱い。トーマが袖で目を拭い、すすり泣きが半拍遅れて笑いに変わる。エレナは護符を胸に押し当て、沈黙でわたしたちの隙を守る。鐫の最後の打ち込みが、石の奥でわずかに鈍い響きを返した。


 そのとき、都市の空に、かすかなゆらぎが定着した。鐘は鳴る。だが、同時には鳴らない。主の鐘の強拍のあと、家庭鐘が半拍遅れ、さらに路地の鍋の蓋が二拍の隙間でコツンと鳴る。号令は出る。だが、一斉には動かない。前列の靴音が少し揃い、次列の踵が半拍遅れ、最後列の足がそれぞれの呼吸に従う。配達は届く。だが、同刻ではない。郵便箱に紙が入る前に、隣人の声が先に届くことが増える。装置は壊れていない。けれど、勝ち切れない癖が身についた。勝とうとすると、手のひらのどこかがむず痒くなり、自分で半拍崩してしまう。都市のからだが、完全には踊らない。


 ヴォルクは塔の窓で、その「踊らなさ」を見たはずだ。彼は計算し、補正し、善行のランキングをもう一段きめ細かくした。けれど、きめ細かさは半拍の穴を増やす。隙間が増えれば、未決が増える。未決は扱いにくい。扱いにくさは、日常の居心地に近い。居心地は、装置に負けにくい。


 代償は、最後にまとめて来た。わたしは自分の影の名前を完全に失った。トーマはわたしを見ても視線が空を掴み、女騎士は温度だけを頼りに隣を歩く。エレナは護符のRに触れて涙をこぼす。わたしは笑えない。痛いとも言えない。呼べない。だが、半拍の風が頰を撫でる。風は、わたしを街の一部として撫でる。人ではなく、拍の癖として。それで、十分だ、と胸の空白が言った。


 夜が降り、また朝が来る。朝が先に来てから夜が降りる日もある。順序は崩れ、拍は残る。丘の銘は、誰かの指でなぞられ、二度、三度、読み直される。「王冠は空でよい。空の周りを、人が温度で満たせ」。空の周りに布が揺れ、Rが石を冷やし、子どもが踵で二拍叩く。遅延便の紙面には、□が今日も並ぶ。ページの下で、トーマの感謝が震える。宛名はない。けれど、わたしの頰を撫でる風も、その感謝を受け取った気がした。


 女騎士が、歩幅でわたしを呼ぶ。エレナが、沈黙で祈りを切る場所を教える。トーマが、紙の角で半拍止まる位置を示す。わたしは鐫を懐にしまい、欄干のRの溝に指先を当てる。冷たい。冷たいのに、温度がある。冷えは、温度の形のひとつだ。風が、ため息みたいに短く返事をする。わたしたちは歩き出す。完全には踊らない街の、ほどけた拍の上を。


 最後の魔法は、光るフィナーレではなかった。繰り返すための、壊れないための、わずかな癖。負け切らないための、勝ち切らせないための、半拍の穴。空の玉座は空のまま、街は温度で満たされる。名は紙で戻され、また紙で剥がされるだろう。けれど、半拍の癖は紙では剥がれない。風に溶かした控え譜の粉塵が、足裏に、舌に、まぶたに、薄く積もり続ける。誰かが揃えようとするたび、身体が半拍崩す。崩れた拍の隙間で、隣の息が聞こえる。息が聞こえれば、居場所が増える。居場所が増えれば、空は空でいられる。


 その朝、王家の丘の端で、子どもが数え歌を歌った。


「あーる、ふたつ、やすむ。

 あーる、みっつ、わらう」


 わたしは笑えない。けれど、風が代わりに笑ってくれた。音のない笑いが、街の屋根を撫で、旗を揺らし、鐘の中に入っていった。鐘は鳴った。けれど、同時には、鳴らなかった。

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