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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第四章:世界の再生

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第15話「遺されし者たち」

 半拍協定の布が街角に増え、風の祈りが日に何度も鳴るようになると、輪の外縁に沈んでいた影が、輪郭を取り戻し始めた。名を消された者、家族を“制度の穴”に落とした者、働き口から半歩ずつ外された者たち——同時に信じる世界の余白に、静かに残された人びとだ。彼らは声を持たない。だが、温度はある。吐息の重さ、指先の乾き、肩にのしかかる夜の硬さ。女騎士は孤児院の空き部屋を借り、夜ごとに小さな集いを始めた。

 名は要らない。灯りは弱く、声は出さなくていい。各自、布片の裏に自分の温度を書いて、針で縫い込む会——“遺温会”。何の温度かは自由だ。文字で書けないなら、線でも滲みでもいい。針目が震えれば、それも記録になる。

「朝、湯気を見て泣いた」

「雨の匂いで父を思い出した」

「昼、パンの端の硬さが安心だった」

「夜、窓枠が冷たい。でも、その冷たさを毎日確かめている自分がいる」

 布は、手の脂を吸い、涙の塩で少し艶を帯びていく。紙の戸籍は一枚の正しさを要求するが、布の裏側は正しさの前に手触りを受け入れる。控え譜よりもしぶとく、紙の制度より、人の身に近い位置で、温度を保存する。

 トーマは遅延便の紙面に、新しい欄を作った。事実の検証でも、発言の出典でもない。ただ、その日の身体に起きた小さなことを、そのまま載せる欄——「半拍後記」。評判は真っ二つに割れた。読みたい者は何度もなぞり読み、嫌う者は「新聞の体をなしていない」と投書した。行政から正式な圧力が来た。「検証も出典もない記述は扇動だ」。トーマは役所の窓口でまっすぐ答えた。

「これは扇動ではなく、保存です。保存が増えれば、いつか名の照合に役立つ。紙の制度が忘れたものを、紙でゆっくり取り戻す」

 彼の声は細かったが、紙の端に残る指の跡が、言葉に厚みを足した。孤児院では、子どもたちが布片の裏に縫い込まれた“味の記憶”で同級生を見分けるようになっていた。戸籍にない名を、「胡麻が嫌いな、あの子」「ミルクを冷たくして飲む子」「二拍で椅子に座る子」と呼ぶ。呼び名は名ではない。だが、呼びかけにはなる。呼びかけがあれば、居場所が生まれる。座る席が決まり、分けられるパンの数が変わる。居場所は、食卓の配置図から始まる。

 一方で、理の塔は静かに反撃を整えていた。ヴォルクは「装置の寛大さ」と題した新たな企画を新聞各紙に寄稿させ、「名の再配給」を提案する。申請した者から順に新しい名を与える——そう喧伝された名は、しかし家庭鐘の登録番号に紐づき、家内テンポの強拍へと直結している。名の回復の代償に、“同時に信じる”の復活。役所の巡回が遺温会の輪に紙束を置き、寡黙な役人が「申請は簡単です」と低く囁く。迷う者も多い。名は欲しい。名があれば、配給も医者も扉を開く。けれど、名を受け取ることは半拍を失うことだ、と誰かが言う。輪は揺れ、沈黙が重たく積もる。

「名なんて、また消されるかもしれない」

 孤児のひとりが、古ぼけた縫い針を握りしめたまま言った。歯が少し欠けている、踵で時々二拍を刻む癖のある少年だ。彼は役人の差し出した紙を見ず、布片を裏返し、幼い字で雨音の数え方を書いた。

「なな、なな、いち。

 はち、ふたつ。

 みっつ、やんだ」

 名の代わりに数え歌。彼は針目を粗く、しかし確かに縫い付けた。そこに居合わせたエレナは祈りの言葉を口にしかけ、途中で切った。沈黙の祈りが、会の中心に座る。胸の護符の裏の“R”が指に触れ、意味のない記号が、意味の前に温度を運んだ。

 その夜、女騎士は輪の端で立ち尽くしていたリセの肩にそっと触れた。関係語のない彼にとって、触れることが言葉の代わりだ。彼の中では、またひとつ大きなものが落ちていた。城門通り、倉庫街、職人横町——道の地名が、丸ごと剥がれ落ちたのだ。言葉としての配置が消え、曲がる角ごとの温度だけが残った。曲がる前の風の向き、地面の傾斜、油と粉の匂いの混じり具合。地図は読めない。だが、温度の地図は精巧になっていく。彼は輪から少し離れ、床板に手をついて鐫を抜いた。細く、深く、一息で刻む。

 R。

 短い線と長い線と、控えめな弧。刻むたび、彼の胸の内で何かが削れ、替わりに温度が増す。虚無の器に、少しずつ液体が注がれていく感覚。こぼれない。器はまだ在る。名のない器が、温度で満たされていく。彼は鐫を懐に戻し、灯の影に溶けた。翌朝、掃除に来た子どもたちが床板の印を見つけた。丸で囲み、そこに白い粉で小さな文字を書いた。

「歩くとき、ここで半拍止まる」

 印の意味は説明されない。だが、足は止まる。止まれば、隣の息が聞こえる。息が重なれば、居場所が強くなる。遺された者たちが、互いの息で床を固めていく。

 半拍協定の布はその日も揺れていた。角の旗が同じ方向を向いたとき、輪は自然に生まれる。輪の中に鍋が置かれ、端に遅延便が積まれ、布片の裏に新しい針目が増える。トーマは配達の合間に輪へ立ち寄り、「半拍後記」の切り抜きを読み上げた。声に出すと、紙の薄い厚みが増える。

「『きょう、隣の家の湯気が先に立って、それで息が楽だった』」

 彼は記事を折り、布片の束の上にそっと置いた。女騎士は稽古をつけ、足裏の重さと息を揃える。声は要らない。彼女の掌が子どもの背に触れ、ちいさな背骨が二拍の間だけ落ち着く。わずかに震えていた膝が、二度目の沈黙で止まる。リセは布片の山の前で立ち尽くした。布は微かに温かい。誰かが触れ、涙の塩を吸い、夜風に乾いた温度。世界の真ん中から外れた人びとの、周縁に湧いた熱。彼はその温度を胸に抱えたまま、言葉のない速度で歩み出る。

 塔は、ただ見ているわけではない。ヴォルクはこの動きを観察し、装置の言葉で対抗する。「温度は測れない。測れないものは統治できない。統治できないものは災いを招く」。寄稿の最後に印象的な低音を仕込み、新聞の紙面から不安を街へ流す。役所は「遺温会への立入調査」を掲げ、帳面と印鑑を持って現れる。だが、帳面が開かれると、布片が目の前で風に揺れる。役人の指先に布の端が触れ、指の皮膚が一瞬だけ記録になる。統治の言葉が、触れた実感に負ける局面が増えていく。

「こちらに参加者名簿を——」

 役人の声に、女騎士は穏やかに首を振った。

「名簿はありません。これは名の前の、呼びかけの場です」

「では、活動目的を」

「保存です。扇動ではありません」

 彼女はトーマの言葉を借りた。役人は眉をひそめ、紙をめくる手を止める。その隙に、外から鍋の蓋の音が二拍だけ鳴った。係官が顔を上げると、戸口に少年が立っている。「配膳、手伝ってもいいですか」。役人は返事が遅れ、二拍の間に輪が別の形に移った。形は変わる。温度は残る。

 エレナはその夜、洗濯場から余った布を抱えて遺温会へ来た。護符の裏の“R”を撫でてから、布の端に同じ“R”を小さく縫いつける。意味はやはりない。けれど、針が布を噛むわずかな音が、胸の奥の沈黙を撫でた。彼女は輪の外に座り、祈りの言葉を途中で切る練習をする。途中で切ることは、拒否ではない。言葉の前にある拍を、空に預ける技だ。沈黙は合意ではない。未決だ。未決は装置にとって扱いにくく、遺された者にとって呼吸を長くする。

 ほどなくして、ヴォルクは次の手を打った。名の再配給の受付窓口を孤児院のそばに移し、申請書に“家庭鐘との連動”欄を小さく添えた。欄は小さい。だが、チェックに印が入れば、家の強拍は装置に戻る。わたしたちは輪の中で申請書を囲み、紙ではなく布の上で相談した。布の目は粗い。だから、言葉が落ちても拾い直せる。誰かが言った。

「わたしは、名を持っていたときより、今のほうが居場所がある気がする」

「名は便利だ。けど、便利は剥がれる。温度は、剥がれにくい」

 輪は結論を出さないまま、鍋を空にした。結論のなさが、その夜の結論だ。翌朝、遅延便の「半拍後記」に短い行が増えた。

「名をもらうか、温度を残すか、まだ決めていない。二拍、余白」

 紙面の隅で、わたしはその文を指で押さえた。押さえる指が、冷たい。ああ、わたしはもう“職人横町”へ向かうという言い回しができないのだ、と気づく。呼び名としての地図は失われた。代わりに、温度の地図は瑞々しく膨らんでいる。あの角は朝に酵母の匂いが強い、あの坂は夕方に靴音が乾く、あの橋は夜に二拍遅れて風が渡る。名前ではなく、拍で場所を呼ぶ。

 夕景、遺温会の終わり。女騎士が灯を落とし、布片の山に布をかける。わたしは部屋の中央に戻り、床板の上の丸い印のそばで立ち止まった。昨日刻んだRは、粉塵を吸ってほんのわずかに暗くなっている。わたしは踵で二拍、床を打った。余白の位置。呼びかけの前の拍。扉の向こうで、誰かが呼吸を合わせる音がした。部屋を出ると、廊下の窓から夜風が一筋入る。風の祈りではない。地の祈りでもない。ただの風。けれど、そのただの風が、今日集まった温度をひとまとめにして、部屋のなかに置いていった。

 塔の上では、ヴォルクが窓の外で揺れる布片を見下ろしている。「温度は測れない」と彼は繰り返す。筆は止まらない。装置は負けを認めない。彼は次の章の草稿に「温度の規格化」という語を仮に置き、すぐに線で消した。規格化は、温度を温度でなくす。わかっている。わかっているのに、装置はやり方を探してしまう。彼の指先もまた、窓枠の冷たさを測ってしまう。測らずにはいられない指。測ることでしか世界を掴めない掌。

 夜更け、孤児院の庭先で小さな笑い声がした。子どもたちが床板のRをまねて、土の上に枝で線を引いている。丸で囲み、その上に石を三つ並べる。ひとりが言った。

「ここで二拍、止まるんだって」

 誰が決めたかは知らない。けれど、足は止まる。止まった子の肩に、別の子の手が置かれる。置かれた手の温度が、次の子を止める。止まることが、居場所を作る。輪は広がり、遺された者が輪の真ん中に座る晩が、いずれ来るだろう。

 わたしは遅延便を脇に抱え、風の向きを一度だけ確かめてから歩き出した。名はまだ戻らない。笑い方も、痛みの呼び名も、わたしにはない。勝利という語も、とうになくした。それでも、器は在る。虚無の器に、遺された者たちの温度が注がれていく。器はこぼさない。こぼさないように、わたしは歩幅を揃え、踵で二拍、石を打った。余白の位置。呼びかけの前の拍。夜の風が、ため息みたいに短く返事をした。

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