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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第三章:神の脚本

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第11話「贖罪の剣」

 夜半。王都の低い屋根の連なりの上で、名を呼ぶ音が流れ始めた。低く、湿った風の底に敷かれたような音。壁に打ち付けられた戸籍票の墨が、そのたびにわずかに白み、文字の輪郭が剝がれる。家々の表札が息を止め、紙の居場所から人の履歴が滑り落ちる。名消しの巡回——名を削るためだけに調律された小隊が、灯りを伏せた通りを等間隔で進んでいく。線のない楽器を抱え、刃を持たず、音だけを携えて。


 地上の薄い合唱に対して、地下は水の喉を鳴らしていた。リセは女騎士とクレイを連れ、地下水路へ身を沈める。水は冷たく、しかし流れが緩い。壁の苔が遠い昔の夏を記憶していて、指でなぞると、わずかに甘い匂いを返す。天井の通気口から、名の刃の振動が蜘蛛の巣のように降りてくる。進行方向、右三つ目の抜け道で上へ——女騎士が顎で示し、リセは頷く。クレイは泥の体を細くし、先行して狭い継ぎ目を這い上がった。尾の先を二拍、石に打ち、残響で通路の広さを測って戻ってくる。二拍。余白の位置。ここは、行ける。


 地上へ戻ると、そこはかつての剣術道場の跡だった。雨で色の抜けた看板、垂木に残る吊り灯篭の金具、壁には古い稽古札が幾枚も貼られたままだ。墨は薄くなり、名も号も判読しがたい。女騎士は足を止め、指の腹で札の角をなぞった。彼女の目が一瞬、過去を映す。侯爵家の師範代——かつて彼女が立っていた位置。稽古場の隅で、幼い子らの足が土を打つ音。冤罪が風のように吹き込み、庇立てを拒んだこと、粛清命令を斬らずにやり過ごしたこと、その代償として名を剝がされたこと。名を失った剣は、掛け声も型名も持たない。だから彼女は、静の太刀で戦う。踏み込みだけがある。音を伴わない斬撃。呼吸で結ばれた軌跡だけが、床に残る。


 拠点の扉は、外側から見ると板。内側から見ると、板のふりをした音。女騎士が蝶番の癖を読み、リセは懐中時計の蓋を開いて秒針のない中心を軽く弾く。空気に、薄い空白膜が一枚、敷かれた。扉が開く速度が半拍遅れ、その隙間にクレイが滑り込む。土の影が床を渡り、柱の影に潜む灰外套の足首にまとわりついた。律衛が四人、線のない楽器を持って並ぶ。音が満ちる。名の輪郭を掠め、削る音。喉の奥で、母音の芯がざらつく。


 リセは指先に力を込め、空白膜を厚くした。膜は薄いが、刃の角度を鈍らせるには足りる。女騎士が滑る。剣は鳴らない。床板が呼吸をし、律衛の踝が半拍遅れる。無音の斬撃が肩を払う。灰外套の若い男がひとり、音もなく膝をつく。倒れた律衛の器具にクレイが絡みつき、土の体で音孔を塞ぐ。器具の内部で音が渦を巻き、出口を失った刃は自壊する。金具がはじけ、薄い光が消えた。名の刃は止まる。もう一人が反射的に楽器をこちらへ向けたが、女騎士の踏み込みは彼の意識の半拍先に届いていた。柄頭で手首をはたき、床に転がった楽器をリセが踵で踏む。微かなチリリという悲鳴ののち、沈黙。


 短い膠着。残りの二人は互いの視線を一度絡めてから、撤退の角度を見つけ、音もなく引いた。追わない。女騎士の手が剣を下ろす。名を剝ぐ者は、名を剝がされた者と同じ速度で壊れていく。追えばこちらが先に崩れる。勝つことより、崩れないことのほうが、この夜は価値がある。


 奥の部屋で、息を潜めた震えが一度に立ち上がった。粗い毛布の下、名を消された子どもたちが身を寄せ合っている。紙の戸籍に名はない。だが、身体には呼ばれてきた呼び名の温度が残っていた。あだ名、からかい名、家の中だけの呼び方。紙が削っても、口の中に残るものがある。リセは膝を折り、控え譜の小片と懐中時計を重ねる。紙ではない、声の戸籍をひとときだけ立ち上げる術——呼び名の温度を仮名として拾い上げる。秒針の代わりに心拍を導にして、耳の奥で震える小さな音階を捉える。頬に、手首に、髪の毛の根元に、温度のリズムは違う。違いが名前になる。違いに、名前を与える。


「君は——」


 言いかけて、舌が空を舐めるばかりで音にならない。関係語が削がれている。兄も、姉も、子も、友も、呼べない。言葉の骨が抜かれている。女騎士が横から短く助ける。


「“ここにいる人”。あなたの呼ばれた音を、教えて」


 子どもは戸惑い、そして、耳を澄ますように目を閉じた。呼ばれていた音——あの角で母が呼んだ早足の呼び方、隣の家の子がからかう時の引き伸ばし、道場で師範が一度だけ柔らかく呼んだ時の短い跳ね。それらが彼らの皮膚のところどころに残っている。リセは控え譜の緩い旋律でそれらをすくい上げ、紙ではなく、声の上に仮名を置く。


「“スズ”で——いい?」


 最初の子が頷く。頷く角度は小さく、しかし確かだ。頷きには拍がある。拍があるなら、名も置ける。


 トーマがその場に飛び込んできた。肩で息をしながら、懐から孤児院の古い名簿を広げる。紙に残らずとも、物語の記憶はある。教師が書いた作文、近所の店主が覚えている癖、道場の床に刻まれた足跡。紙の上の空白を、周囲に散った物語の断片で埋める。控え譜は制度に弱いが、物語には強い。物語は人を名にする。ひとり、またひとり、仮の名がそれぞれの身体に温度で貼り付いていく。完璧ではない。だが、消去の完全は破れた。白くされた紙の端に、鉛筆で薄い線が戻るみたいに。


 その間にも、名消しの音は遠くで鳴っていた。扉の裏、壁の隙間、どこかの家の台所。どこも、同じ高さではない。高さのばらつきが、“半拍ずれ”の効き目だ。だが、反撃の手は速い。拠点の奥、祭壇だった場所に隠されていた小箱が開いた瞬間、間の悪い唸りが走った。残っていた律衛のひとりが、奥の間から小型器具を滑り込ませていた。名の譜の歯が、リセの喉の奥の母音に差しかかる。女騎士が反射で立つ。踏み込み。だが、その一拍分早く、クレイが動いた。


 泥の犬は、音の前に身を置くことだけを選んだ。尾が二拍を打つ。二拍。余白の位置。音がクレイの体に触れた瞬間、土が水を吸うほうへ音が引きずられる。名の刃は、名のないものを斬れない。斬れない刃は飢え、飢えた刃は暴れる。クレイが震えた。土の粒が音を吸い、体の輪郭が崩れていく。耳の形が落ち、足の間の空洞が歪み、泥に還る。なのに、尾を振る仕草だけが残っていた。呼び名のない犬が、最後に尾を振るのは、おそらく人のほうの都合だ。そう思いながら、リセは膝をついた。


 言葉は出ない。痛いのに、痛いと言えない。胸に熱があるのに、その熱を怒りとも悲しみとも呼べない。語彙が滑る。階調が削れる。彼の内側から「痛む」という語が落ち、代わりに無名の熱が濃くなる。掌に泥の温度が貼り付き、指の間に土の水分が残る。女騎士が短くうなずいた。剣を下げ、稽古札から一枚を剝がして差し出す。札は古く、角が柔らかい。墨の線は薄れ、読むことはできない。ただ、線の方向が温度を持つ。紙一枚に、誰かの一年が宿っている。名は読めないのに、重い。


「あなたは、もう呼べないのだな」


 女騎士の声は、刃ではなかった。肯定でも否定でもない。ただ、置く。そこに、いまあるものを。


 リセは頷いた。札を胸に当て、呼吸を整える。紙一枚の重さが、剣よりも重い夜がある。斬るよりも、抱えるほうが難しい夜がある。女騎士は剣の切先を床に置き、静かに言った。


「贖罪の剣は、斬らないことで立つ」


 斬っても救えない夜がある。ならば斬らないで温度を残す。刃は印象を切り分けるが、温度は名を繋ぎ止める。彼女の剣は、そういう剣になっていた。リセの戦い方も、そうなりつつあった。斬るべきときに斬り、斬れないときに斬らない。休符を剣に持たせる。


 撤退の途上、クレイだった泥は床に丸い跡を残し、静止した。子どもがその跡を覗き込み、小さな指で縁をなぞる。リセは彼の肩に掌を置き、「ここにいた」とだけ言った。ここに、確かに、いた。それだけが、今は十分だった。子どもは頷き、目尻を拭い、仮の名を口の中で試す。音はまだぎこちないが、確かに彼のものだった。


 外に出ると、名消しの巡回は次の街角へ去っていた。壁の戸籍票には白く剝がれた痕が残り、そこに住む誰かの暮らしが薄く透けて見える。洗濯縄の結び方、釘の曲がり具合、木戸の軋み。紙にいない人は、紙の外にいる。紙の外にいる人を、紙の外で呼び止める。トーマが孤児院の名簿に鉛筆で小さな印をつける。その印は明日、誰かの手で正式な文字に変わるかもしれない。変わらないかもしれない。けれど、今夜はそれでよかった。名の完全な消去は、破れたのだから。


 女騎士は道場の軒で立ち止まり、最後にもう一度、稽古札の列に視線を走らせた。彼女が剝がしてリセに渡した札の位置に、空白がひとつ残っている。空白は風を通し、風は埃を動かす。埃は光を見せる。光は、紙の上の薄い線を際立たせる。彼女は剣を鞘に納め、兜をかぶり直した。


「ここは、もう使われない」


「使わないほうがいい」とリセ。「ここに、残したい温度がある」


 帰り道、女騎士は歩幅を一定に保ち、リセはその半拍前を歩いた。トーマは少し遅れて、名簿を抱えてついてくる。路地の角で、名を剥がす音が一度だけ遠く、空気を撫でた。響きは薄い。家庭鐘の強拍は家の中に封じられ、町の半拍ずれはまだ生きている。印象の作曲は続くだろう。ヴォルクは新しい“補正”を打ってくるだろう。だが、今夜、救いは二つあった。仮の名がいくつも戻り、紙の外の物語がひとつ繋がれた。そして、斬らない剣が立った。立った剣は、斬るべき時だけ斬る。斬らない時に、温度を残す。


 学匠宿へ戻ると、窓の外の空は黒から薄い藍へ変わっていた。遠くの鐘は、まだ間違えたままだ。机の上に置いた札に、朝の湿りがわずかに移り、墨の線が柔らかくなる。読めないのに、温度がある。リセは札の上から掌を置き、薄い紙の重みを胸に引き入れた。言葉は戻らない。笑い方も、痛みの呼び名も、すぐには戻らない。それでも、掌の温度は嘘をつかない。温度は名の代わりになる。名が戻るまでの間を支える。


 窓の外で、夜の最後の風が路地を抜けた。二拍。余白の位置。リセは懐中時計の蓋を静かに閉じ、深く息をした。贖罪の剣は、斬らないことで立つ。立っている剣は、手放せば倒れる。だから握る。握って、斬らず、温度で支える。次に斬るべきものを、温度の上で見極めるために。彼は札を胸に、目を閉じた。胸の中の熱は、名のない言葉のまま、ゆっくりと形を変え続けた。外では、朝が始まる準備の音が、まだ、半拍、遅れていた。

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