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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第三章:神の脚本

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第10話「世界を裏返す手」

 基底層の低音が骨に残った夜、リセは机の上に王都の粗い地図を広げ、薄い炭筆で拍を打った。一点、二点、呼吸を合わせるように軽く紙面を叩くたび、頭の中に張り巡らされた銀糸が、街全体の鼓動を可視化する。鐘、新聞配達、朝市、職人の号令、門番の時打ち——都市は“共通の拍”で動いている。拍が揃っているから、ヴォルクの「印象の作曲」がいともたやすく世界を固める。ならば、半拍だけ遅らせればいい。世界の裏表をぴたりと貼り合わせている糊を、ほんの少しだけ乾かす前に指でずらすみたいに。


「半拍だ」と、リセは懐中時計の蓋を撫でながら言った。「一拍でも、壊れる。四分の一では、揺れない。半拍なら、人が自分で考えるための“間”が生まれる」


 学匠宿の暗い部屋で、トーマが地図に顔を寄せた。目の下の影は濃いが、瞳は明るい。男は紙と音の相互変換の話をすると、いつも眠気を忘れる。


「半拍遅らせるには、三箇所。鐘楼、郵便局、南門の時打ち台。主拍と副拍の歯車を両方ずらす必要がある。理屈はわかるが、代償が大きい。君の“帳簿”が持つのか」


「持たせる」とリセは返す。返してから喉の奥が灼け、反射的に水を飲んだ。譜柱の端に、対応する“支払い”が刻まれていた。「関係語の削減」。父、母、兄、姉、師、友——他者を指す語の階調をこちらから差し出す。関係の名付けは、彼の内側の骨格だ。そこを削るのは、ほとんど自分の家を壊すに等しい。


 そこへ、扉が二度、爪先で叩かれた。女騎士が入ってくる。兜を抱え、片手には筒状の巻紙。無言で卓上に広げると、鐘楼の内部図が現れた。梯子の角度、歯車列の噛み合わせ、時撃じげきの槌と鐘芯の隙。書き手は塔の技師に違いない精確さで、紙面はどこも無駄がない。


「ありがとう」とリセが言う前に、女騎士が先に口を開いた。


「“名”を奪われた経験者として、忠告を。関係語を失うのは、思っている以上に痛い。あなたは“私”を『あなた』と呼び続けることになる。呼び方の糸が切れると、手触りで覚えるしかない」


 彼女は半ば笑って続ける。笑みには、切り傷に貼った布を剝がす時の痛みの気配が混じる。


「それでも、触れれば温度は残る。温度は、名の代わりになる」


 リセは頷き、紙片の隅に描かれた一筆書きの線に指を置いた。彼女が失った名の名残り——たぶん、そういう意思で描かれた小さな曲線。人差し指の腹に、傷跡の硬さのような温度が確かに乗った。温度は名の代わりになる。彼はその言葉を胸に置く。


 実行は満月の夜明け前に決めた。街が最も“揃っている”時間に、半拍の遅延を差し込む。三人は役割を分ける。トーマは郵便局へ。女騎士は南門の時打ち台。リセは鐘楼で主拍の歯車に触れる。


 空はまだ黒に近く、屋根瓦は霜を薄く纏っていた。街路の火桶は灰色の息を吐き、足音は低く響く。リセは鐘楼の裏口から滑り込み、らせん階段を登る。階段の段鼻はすり減り、指の腹で撫でると、たしかに幾多の朝がここを通過してきたことがわかる。懐中時計の蓋を音もなく弾き、いないはずの秒針に呼吸を合わせる。吸って、二拍。吐いて、二拍。鐘の心臓に近づくにつれて、歯車の舌が乾いた金の匂いを強めた。


 鐘芯の根本に、控え譜の小片を挟む。紙の繊維が金属の籠目に触れて、ごく弱い共鳴が生まれる。遅延用の節が、歯車列の脇に生える。リセは右手の人差し指でその節を軽く抑え、左手で懐中時計の中心を“止める”のではなく“ずらす”。世界が、一拍の中に“半拍ぶんの余白”を持つ。空気がひとつ多く呼吸し、鐘楼の板壁がわずかに鳴る。都市が半拍、遅れた。


 同時に、遠くの郵便局でトーマが、仕分け棚の上段に控え譜の帯を差し込む。分配機の滑車が滑り、配達の出発時刻が半拍分、ばらける。南門の時打ち台では、女騎士が時撃の槌の付け根に楔を打ち、門番が一度数え間違えるだけの小さな傾きを作る。


 効果はすぐに現れた。市場の呼び声が同時ならず、屋台の布が一斉ではなく“順に”めくり上がっていく。新聞の見出しが街角へ出る前に別の噂が先に回り、ヴォルクの低音が民の胸に刺さる前に、笑い声と問いかけが割り込む。広場で、誰かが「燃えていない」と言い、隣の誰かが「燃えたことにして金を集めるのが祭りだ」と返す。会話が二拍の間に芽を出す。“同時に信じる”が壊れ始めた。


 リセは鐘楼を降り、街へ出た。胸の奥の手応えは小さくて、しかし確かだった。彼は通りで倒れかけた子どもに駆け寄り、つい口を開いた。


「……おまえ」


 言葉がそこで止まる。兄、弟、息子、友——あらゆる関係語が霧散して、口の中の筋肉が“次の音”を知らない。距離の測り方を忘れた地図の中に立っているような感覚。遠いでも、近いでもない。同じ距離の点が、世界にみっしりと浮かぶ。温度はある。脈も、息も、涙の塩もある。だが、名付ける腕がなくなる。胸の内側で、太い梁を一本抜かれた音が鳴った。


 そこを突くように、ヴォルクは“家庭鐘”を鳴らした。各家に配られた小さな振り子装置——祈りの波形を家ごとに揃える家内テンポ。窓の内側で微かな金属音が一斉に揺れ、食卓の匙の音、湯の泡立ち、朝の祈りの囁きまでが、家ごとに「同じ強拍」に縛られる。街全体の遅延が、家庭単位の強拍で補正されていく。印象の作曲は、全体が駄目なら局所へ移る。ヴォルクの指は、社会という楽器の弦をよく知っている。


 歯噛みする間もなく、女騎士が路地の影から現れた。兜の下の声は低く、速い。


「“配達人”を追う。家庭鐘を撒いている」


「行く」


 二人は裏路地を抜け、川沿いの倉庫街で影を目で拾った。小柄な背中。古着の上着。両手に小箱を抱え、門の隙間から人目を避けて入っていく。追い詰めるのは容易かった。靴音を合わせ、一度だけ二人で角を抑える。目の前で少年が立ち止まり、肩を震わせる。あどけなさの残る顔。瞳は恐怖と空腹の色。


「どこで、それを」女騎士が問う。声は刺さらないよう丸められている。


「渡された……塔の人に。これを配れば、寝床と粥がもらえるって。名前がなくても、ここならいられるって」


 少年の言葉は、石に落ちる水滴のように小さく、だが重い。塔の火災で名簿から消され、紙の上に居場所を失った子どもだ。今は“名なき配達人”として家々に小箱を配る仕事を与えられている。装置は人を利用し、人は生き延びるために装置に従う。単純な“悪”の図式はどこにもない。


 リセは箱を一つ取り上げた。中は小さな振り子。薄い金属と木の板で組まれ、内側に極細の線——共鳴印刷機で刷った“家内祈祷の規格”が埋め込まれている。これを炉に入れても、祈りの波形は消えない。家の時間を“合わせる”ために作られた玩具。いや、玩具に擬態した楔。


 女騎士は少年の手から残りの箱を受け取り、数を数えた。二十四。すでに配られた分はどれくらいだろう。焦りが足元を冷やす。だが、そこでリセのポケットの中の紙片が鳴った。控え譜を挟んだ伝令。トーマからだ。紙を開けると、走り書き。


「郵便局、職員らが共同でストライキ。配達の同時性が崩壊。各自“別拍”で配ることにした。半拍、成功。三分の一、ずれた」


 小さく笑いそうになって、笑い方の図面がもうないことをまた思い知る。喉が動き、代わりに息が深くなる。街角で、話し合いが増える。見出しよりも隣人の声が先に届く瞬間が、確かに増える。誰かが「どう思う」と問い、別の誰かが「知らない」と言い、それでも「じゃあ見に行くか」と立ち上がる。印象の固定が遅れた間に、自力の問いが芽吹く。


「この子は?」女騎士が小声で問う。


 リセは少年を見た。言葉が、出ない。「……きみ」と絞り出す。関係の名付けを失った舌がもつれて、いつまでも「きみ」から進まない。少年は不安そうに指を握り、爪の跡を掌に作った。


「仕事を断ったら、寝床が——」少年の声が震えた。


 女騎士は兜を外し、顔をまっすぐ少年に向ける。「断らなくていい。ここで背負うのは、あなたじゃない」


 リセは懐中時計の蓋を弾いた。秒針のない中心で歯車が噛み、空気が少しだけ厚くなる。家庭鐘の振り子の“最初の揺れ”を半拍遅らせるための微細な指の動き。振り子は揺れる。だが、そろわない。家の内側の強拍が、隣の家の強拍と、半拍だけずれる。窓の向こうで匙の音が「遅れて返事」をし、祈りの囁きが「間の悪い隣接」を起こし、やがて家々の中で小さな笑いと、苛立ちと、問いが交互に生まれる。装置は、人の感情の隙間でよくつまずく。


 女騎士は少年の肩に外套をかけ、余った箱を包んで倉庫の裏へ運んだ。クレイが土の体で箱の陰を固定し、鼠の通り道を塞ぐ。少年は空っぽの両手を見下ろし、指をぎゅっと握って、開いた。


「名前は?」女騎士が優しく尋ねる。すぐに自分の失言に気づいたらしく、短く息を呑んだ。「……ごめん」


「呼びたい、だけだ」とリセが言った。言いながら、舌の上で「名前」という語が乾いた小石のように転がる。関係語の削減は、思った以上に世界の色に影を伸ばしていた。少年は少し考え、首を振る。


「ないよ。紙から消えたから。あだ名はあるけど……それも、もうやだ」


 名のない者。呼べない相手。呼びたい衝動だけが残り、言葉は熱に変わる。温度は、名の代わりになる。リセは少年の手を取った。小さな掌は氷のように冷たく、冷たいことが彼を人間へ連れ戻す。


「ここから先は、別の拍で歩け」とリセ。「君の歩幅で」


 少年が頷いた。頷き方にも拍がある。彼は別の拍を持つ。それでいい。


 通りに出ると、街の光景はわずかに乱れていた。新聞売りの声が二重に聞こえ、見出しが角で重ならず、露店の布が風を掴むタイミングがずれる。南門の時打ち台では、女騎士の楔がまだ利いているのか、門兵の合図が片方ずつ遅れる。人の列がばらけ、その隙間に会話の粒が落ちる。「さっきのあれは——」「ほんとうに燃えてるの?」印象の固定が遅れた間に、問いが育つ。ヴォルクの低音は確かに街の底を走っているが、その上に別の旋律の芽がある。控え譜の緩い旋律。二拍。休符の位置。人が一呼吸、考えるための短い寝床。


 しかし、代償は続いた。路地の角で、リセは見知った影に会った。学匠宿の給仕の女が籠を抱えて、笑いかける。リセは返そうと口を開き、固まる。彼女を何と呼んでいたか——「おかみ」「姉さん」「嬢」「友」。どれも、穴に落ちるように舌から滑り落ちる。笑いは喉の奥の無名の熱に変わり、胸の内側にだけ留まった。女は一瞬だけ不思議そうに目を瞬き、すぐに肩をすくめて、「気をつけて」と言って去る。彼女は関係語の階調を持っている。その豊かな段差の上を、器用に笑いが渡っていく。そこに向けて手を伸ばせないことが、今、ひどく堪えた。


 トーマと合流したのは、大通り角の菓子屋の前だった。看板の金柑の絵は相変わらず剝げかけている。彼は指についたインクを布で拭きながら、短く報告した。


「郵便局は、三分の一がストライキに同意した。『同時に配る意味がわからない』と、上に言ったらしい。残りは様子見だ。でも、もう“全体の拍”は戻らない」


「よくやった」とリセは言った。言葉は浅く、息は深い。胸の中でだけ、拍手の音がした。誰にも聞こえない拍手。だが、温度は残る。


 女騎士が家庭鐘の箱を指で弾き、乾いた音を一つ作った。


「これをどうする。家の中の拍を崩すのは、危うい」


「崩さない」とリセ。「ずらすだけだ。家ごとに別の強拍があれば、街全体の“同時に信じる”は遅れる」


「遅れた先で、何を見る」とトーマ。


「自分の顔だ」とリセは答えた。「紙じゃない。鐘でもない。自分の顔」


 言ってから、自分の声の薄さに気づく。薄い声は、しかし、少しだけ遠くまで届いた気がした。街角で、少年が二人、新聞の見出しを指さし合い、互いに違う解釈を笑い合っている。笑いの図面はもうわからない。それでも、それが笑いであることは、空気の密度でわかる。


 日が昇り、霜が引き、石畳の雲母が光る。王都は半拍、ずれた。完全ではない。三分の一。だが、三分の一の“間”に置かれた問いは、予想以上に強く育つ。人は「同時」を喜ぶ。そして同じくらい、「少しのずれ」に救われもする。印象の作曲は今も働いている。だが、それを遅らせる“緩衝”は確かに広がった。


 夕刻、三人は学匠宿の狭い部屋に戻った。机の上の地図には、炭筆で小さな丸が三つ増えている。半拍の遅延が定着した場所。そこへ、女騎士が新しい印を描き足した。倉庫裏、家庭鐘の保管場所。トーマは郵便局の印に小さな旗を立て、笑った。笑いはすぐに真顔と交替した。


「成功と喪失が、同じ皿に乗っている。味が区別できない」


「味は、温度で覚えればいい」とリセ。「名の代わりに」


 女騎士が静かに頷く。頷き方にも、拍がある。彼女は別の拍を持つ。トーマもまた、紙をめくる拍を持つ。少年も。街も。半拍のずれは、やがていくつもの別拍を生んでいく。ヴォルクは必ず次の策を打つだろう。家庭鐘を改良し、家の中だけで完結する“同時”を増やす。名を削り、紙に印象を刷り、低音で心を撫でる。装置は止まらない。


 ならば、こちらは“裏返す手”を増やす。表が固まる前に、そっと端をめくり、裏の紙肌に空気を通す。遅延。休符。温度。リセは懐から「Rに捧ぐ」の紙片を出し、指でなぞった。紙は人の温度を覚えている。彼の笑い方は戻らない。父や母を呼ぶ語は、しばらく口に戻らないだろう。だが、手に残る温度は嘘をつかない。虚無は熱を嫌う。ならば、虚無の上に熱を置き続ければいい。


 窓の外で、鐘が一度、間を間違えた。女騎士が顔を上げ、トーマが笑い、リセは懐中時計の蓋を閉じる。秒針はない。だが、拍はある。半拍ずらした世界は、今、確かに息をしている。彼は椅子から立ち、二拍——余白の位置を指先で確認した。


「次は、どこを裏返す」とトーマ。


「ヴォルクが、家庭の次に置く楔を読む」と女騎士。


「読む。遅らせる。置き換える」とリセ。「その間に、人が自分で考える時間を、少しずつ長くする」


 答えは軽く、足は重く。三人は散った。路地に出ると、夕餉の匂いが違う拍で流れていた。鍋の蓋が鳴る音、お玉が縁に当たる乾いた響き、遠くの門の時打ちが少しだけ遅れて返す。どの音も、同じではない。同じでないことが、今夜だけは心強い。リセは歩いた。歩幅は一定に。二拍。余白の位置。世界は半拍だけ遅れ、彼の中の関係語は欠け、温度は残る。印象の作曲は続く。だが、遅延は印象にも効く。世界を裏返す手は、一度覚えれば、二度目は早い。彼は懐中時計の冷たい重みを確かめ、黒くなりかけた空を見上げた。雲は燃えていない。燃えていないことが、今はいい。考える隙が、まだある。隙は刃になる。刃は譜を切り分ける。彼は次の端を探しながら、街の拍の間を踏んでいった。

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