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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第一章:罪の目覚め

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第1話「追放の日」

 鐘の音が雪を細かく砕いていた。白い粉が謁見の間の高窓から差しこむ光をやわらげ、床の黒と柱の赤を、古い油絵のように鈍く染める。王都オルダの冬は、いつもまず音からやって来る。あの重い鐘が遠くで一度鳴るたび、城の石は微かな身じろぎをして、誰かの運命に印を押す。

 その印が、今、侯爵家三男リセルの額の上に落ちかかっていた。

 朗誦官が羊皮紙を掲げ、口の形だけで断罪をなぞる。声は冷えた空気に吸われて薄く、意味だけがはっきりと場に並んだ。「国庫横領」「神像毀損」。磨かれた床に立つリセルの靴底は、雪が解けたように湿っていた。冬の外気を連れてくる巨大な扉は、既に閉じられている。だが、寒さの芯は室内の誰よりも、彼の胸の奥にあった。

 証拠、と呼ばれるものは、いくらでもあった。改竄の痕跡が踊る帳簿、侯爵家の倉庫に隠された銀貨、神殿倉の木箱に残る鋭い刃跡。ひとつひとつが、長机に整列した兵隊のように整っている。整いすぎている、とリセルは思った。美しすぎるものには、たいてい毒がある。だが、彼は口を開かない。

 名前を言えば、喉が裂ける。前世の名が、そこにある。エイド——神を穿った英雄の名。あの音節が舌に乗りかけるたび、世界の縫い目が軋むのだ。雪を踏み割ったような痛みが、視界の端で黒い紙片となって舞う。語れば、もっと壊れる。だから沈黙する。剣でも赦しでもない沈黙を、彼は選んだ。

 父ハロルドは、長椅子の背にもたれていた。ひとつ口を開けば、冬が短くなるのではないかと錯覚させる、温かな低音を持つ男だった。だが今、父はただ短く言った。「家名のために出て行け」 それは、父が家名の形を守るために、父である形を捨てた言葉だった。

 兄リュカは氷水のような視線でリセルの輪郭を測り、姉カテリナは噛んだ唇から血の気を引かせるだけだった。廷臣たちは、ひとつの演目を待っている。破綻しかけた内政の視線を逸らす、幕間の見世物。侯爵家は体面を守り、王国は無謬を装う。舞台の真ん中に立つ役者は、台本どおりに追放を演じれば良い。

 鐘の音が一段下がったところで、白衣の影が回廊から現れた。神官見習いの少女、エレナ。雪を払って入るべき場所で、彼女は息を払った。息まで震わせぬように、細心の注意を払った呼吸。彼女は封蝋の付いた短い書状を両手で捧げ持ち、朗誦官へではなく、まっすぐにリセルへと差し出す。

「運命律譜の通牒。『この男、やがて王国を滅ぼす』」

 ざわめきが静かな池に石を落としたように広がる。誰かが小さく十字を切り、誰かが口元を覆い、誰かがほっとしたように肩を下げた。予言は道具だ。道具は、正しさという衣を着せられれば、どの扉でも開ける。

 ただひとり、リセルだけが目を伏せる。やがて滅ぶ、という語の中に、遠い日の声が混じっていた。あの日、世界を救うために“神の核”を穿った。救済は正真正銘の救済だった。だが、ひとりの少女がその衝撃に巻き込まれて消えた。光柱に溶ける横顔は、焼き付いて離れない。それが彼の“罪”であり、彼はその黒点を抱えたまま、ここに生まれ直した。

 清らかな言葉は、罪をうまく包めない。包めない言葉は、刃物になる。だから彼は、黙る。

 追放の判が落ちる音は、鐘の音に紛れた。形式が整い、印章が押され、羊皮紙が巻き戻される。人々は散り、冬の冷たさだけが残る。謁見の間の扉が、扉である以上の重みをもって閉じた。

 夜。雪の粒は昼より細く、灯りは昼より人らしい。侯爵家の裏門に、リセルの影がひとつ分、余白を開ける。そこへ、もうひとつの影が寄り添った。白衣の裾。エレナだった。神殿の規律は、神官見習いの言葉を縛る。だが規律は瞳の揺れまでは縛れない。

「あなたは、脚本どおりに歩けば破滅の扉を開きます。だから——」

 “だから”の先は、雪に吸われた。言えないものほど、人は眼差しに託す。エレナの瞳は確かに訴えていた。外れろ、と。譜から一音外す音楽家のように、予定調和を嫌う踊り子のように。

 リセルは、誰にでもない声で応えた。「俺は沈む。だが沈むのは王都ではない」 独り言のように、あるいは祈りの反転のように。エレナは息を止めたまま、小さく頷く。彼女の頬に降りた雪片が、とけずに光っていた。

 置いていくものは、多すぎた。家名、称号、温かな冬の灯、兄妹の呼び名。持って行くものは、少なかった。鍛冶場から盗み出した古鉄の指輪。黒ずんで、どこにもはまらない。壊れた懐中時計。文字盤の硝子はひび割れ、ゼンマイは途中で止まっている。鞄へ入れたとき、その歯がかち、と鳴った。音は細いが、なぜか耳に残る。歯車同士が、譜面を嚙むような——そんな音。

 城壁の影で、遠吠えがした。犬にしては高く、狼にしては細い。雪のうねりの裾をかき分けると、粘土質の奇妙な塊が、月光を反射していた。手のひらより少し大きい、まだ形になりきれないかたまり。リセルがしゃがんで、指先で雪を払う。粘土は、彼の体温に応じるように、ふるり、と震えた。

「……クレイ?」

 声が先に名を決める。前世で作りかけていた土性の使い魔に、偶然にも同じ呼び名を与えたことを、彼はまだ意識していない。粘土の犬は耳の位置らしき突起をぴくりと動かし、短く尻尾を振った。青い火花のような魔素が、雪の粒の間でぱちりと跳ねる。

「ついて来るのか?」

 問いは、確認にすぎない。クレイは雪を蹴って、リセルの膝に額を押しつけた。冷たいはずの粘土が、妙にあたたかい。指先に、土の呼吸が触れる。土は、息をするのだと、初めて知った。

 王都の背で鐘が重く鳴る。追放が正式に記録された合図。羊皮紙の行末に小さな飾り罫が刻まれ、書記官の羽根ペンが黒い点で文章を止める。そのとき、風が窓下を走った。たった一枚、最下段の紙の角がめくれ、乾きかけの墨をかすかに削る。名の一文字が、風に掠れた。記録の末尾に生まれた、小さな誤記。その微粒ほどのずれが、やがて巨大な音の外れを呼ぶことを、今は誰も知らない。

 雪道に、二つぶんの足跡が延びる。ひとつは人の、もうひとつは犬の形を覚えようとしている土の足跡。リセルは歩幅を一定に保った。寒さに肩をすくめながらも、歩きは崩さない。そうでなければ、次の一歩が崩れると思ったからだ。

 路地の角で、ひとりの衛兵とすれ違う。衛兵は彼を見、彼の鞄を見、視線を斜めに落とした。見なかったことにする視線。その視線に、リセルは救われもしなければ、傷つきもしない。どちらも、もうとっくに済ませたことだ。彼の傷は、別の場所にある。光の柱に消えた少女。名前は、思い出すたびに別の音に変わる。声帯が、真似を拒む。

 懐中時計の歯が、またひとつ、噛み合った。誰も巻いていないはずのゼンマイが一拍だけ縮み、広げ、音もなく止まる。クレイが耳を立てる。リセルは息を潜める。夜気が薄く震えた。どこかで、譜面の隅がめくられた気配。

 王都を囲む外壁の下には、見過ごされてきた影が溜まっている。夜番の眠気、商人のため息、旅人の焦り、孤児の鼻歌。リセルはその薄明かりの中を歩いた。雪解け水を避ける板の並び、外套のフードを深くかぶった人影、閉じかけの屋台の焚き火。どの光にも、自分は背を向ける。光は好きだ。だが、光の真ん中は自分の居場所ではない。

「どこへ行くの?」と、焚き火の向こうで老婆が言った。問いというより、挨拶に近い音程だった。

「沈める場所を探している」と、リセルは答えた。「沈めるものを、沈める場所を」

 老婆は笑い、火をつついた。「冬は、浅いところほど固いよ。深いところは、案外あたたかい」

 意味めいた言葉は、謎めくためのものではない。生き延びてきた者が、自分の骨に書いた譜だ。リセルは礼を言い、通り過ぎる。クレイが振り返って、焚き火の火粉を追うようにひとつ跳ねた。

 城門を背にすると、風の音色が変わる。石と石が響き合う音から、広い空き地を吹き抜ける音に。雪は街の中では秩序を持つが、外では勝手に積もる。足首まで沈み、膝が冷える。リセルは歩き方を変える。足を真っ直ぐに下ろさず、円を描くように。雪は円のほうが、やさしい。

 野の匂いの中に、別の匂いが混じった。鉄の匂い。いや、錆び。古い鍛冶場の、火が落ちた翌日の匂い。鞄に入れた指輪が、勝手に温度を持ち始めている。取り出して掌に乗せる。古鉄の黒が、冬の夜の青を吸い込んで、輪郭を濃くする。指にはまらないはずの指輪が、不意に、はまりそうな錯覚を与えた。

 はめない。これは盗んだものだ。盗んだものは、いつか返す。返せないなら、埋める。埋める場所を、探す。

 懐中時計をもういちど開く。割れた硝子越しに見る文字盤は、正確さの死体のように静かだ。秒針がない。代わりに、中心の歯車がわずかに揺れている。揺れて、噛み、やめる。噛んだ瞬間、視界の端で何かが合図した。雪の結晶のひとつが、譜面の音符に見える。風の渦のひとつが、指揮棒の軌跡に見える。世界のすべてが、音になる寸前で留まっている。

「鍵か」と、彼は呟いた。言葉が白く浮かんで、ほどなく消える。鍵は、扉を開けるためだけのものではない。譜をめくるためのものでもある。世界がもし譜なら、ページをめくる音は、たぶん今のような、雪を踏む音に似る。

 クレイが前に出た。土の足が、雪に刻む形が確かになっていく。犬、と呼ぶに足る輪郭。首、背、尾。口先に生まれた穴から、柔らかな息の白が漏れる。リセルはその背を撫でた。土のくせに、脈がある。土のくせに、鼓動がある。前世で未完だったものが、今生で勝手に完成へ向かっている。

「脚本を壊せ」

 鐘の音と、雪の音と、懐中時計の歯が嚙む音。その三つが、同じ合いの手で彼の背を押す。譜から一音外して奏で始めた音楽は、下手をすればただの雑音だ。だが雑音は、時として春を呼ぶ。氷を割るのは、きれいな音だけではない。

 王都の公文書庫では、夜番の書記官が居眠りをしていた。燭台の火が小さくなり、羽根ペンの先が乾き、羊皮紙の束がゆっくりと重力に従ってずれる。最上段の記録は既に紐で束ねられ、最下段の紙だけが、まだ紐にかかっていない。そこに「追放」の文字列、「侯爵家三男リセル」の文字列。風が窓の目張りの隙間から、細い指を差し入れる。紙の端がふるりと震え、墨の一画が削れる。リセルの“セ”が、かすかに“ゼ”に見える。読めなくはない。だが、違う。

 運命律譜の端で、誰かが眠い目をこする。書かれた譜は、いつでも完全だと信じられている。だが、譜の紙は紙だ。湿気れば波打ち、乾けば縮む。端が欠ければ、音は変わる。欠けを欠けと気づく耳が少ないだけ。

 雪はやまない。歩みも、やまない。リセルは背を丸めず、顔を上げ、白の中へ入っていく。クレイが先を走り、時折振り返って彼の速度を図る。懐中時計の歯が、またひとつだけ噛み合う。誰も弾いていないはずの譜が、誰にも聞こえないはずの旋律を、静かに始める。

 世界は、それをまだ音楽と呼ばない。だが、雪は知っている。鐘は知っている。夜道の老婆は、焚き火を見つめながら、どこかで始まった音に合わせて膝を揺らしている。王都の高窓は、明け方に向かってわずかに蒼く、ひび割れた硝子の向こうで、最初の光が歯車の歯を撫でた。

 追放の日は、終わらない。終わらないから、次が来る。沈むことを選んだ男が、沈める場所を選び直すための、最初の夜が、深くなっていく。雪の上に、彼とクレイの足跡だけが確かに残り、その先はまだ白紙だった。白紙ほど、音がよく響く紙はない。譜は、そこから書かれる。欠けから、始まる。

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