第3話|綾瀬さんの残業、そして雨の帰り道
「……ふぅ、もうこんな時間か」
時計の針は、20時を過ぎていた。
プロジェクトの資料修正が思いのほか長引いて、気づけばフロアにはもうほとんど人が残っていない。
俺は肩を回して伸びをしたあと、ふと隣のチームを見る。
そこにはひとり、まだデスクに向かう人影があった。
**綾瀬 美月**。
静かにキーボードを叩く指先と、微かに揺れるポニーテール。
彼女はいつも変わらず整っていて、でも今は少し疲れているように見えた。
「……綾瀬さん、今日はもう上がらないんですか?」
「瀬戸くん?……あ、ごめんなさい。話しかけられてるの、気づかなかった」
「遅くまで、お疲れ様です。何か手伝いましょうか」
「ううん、大丈夫よ。ありがとう。もう少しだけまとめたら終わるから」
彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
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その15分後、ちょうど一緒にエレベーターに乗るタイミングになった。
外は雨。小雨だったが、傘を持っていない俺は少し顔をしかめる。
「……あら。瀬戸くん、傘ないの?」
「はい。朝は降ってなかったんで……まあ、走れば大丈夫です」
「風邪ひいちゃうわよ。よかったら、入っていく?」
そう言って差し出されたのは、綾瀬さんの折りたたみ傘だった。
断る理由なんて、見つからなかった。
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駅までの5分、同じ傘の下。
距離は近いけれど、会話は不思議と落ち着いていて、それがかえって心地よかった。
「……同期の成海さん、よく話してるわね」
「まあ……同期なので。付き合い長いですし」
「そう。……仲が良くて、羨ましいな」
彼女がぽつりとそう呟いたとき、その声は雨音にかき消されそうになっていた。
「綾瀬さんは……同期と仲良くなかったんですか?」
「ううん。仲は良かったわ。でも、仕事って、仲良しこよしだけじゃ乗り越えられないときもあるから。私はずっと、ひとりで頑張る癖がついちゃってるのかもね」
その横顔は、どこか寂しげだった。
信号待ち。
赤のライトに照らされた横顔が、いつもより少し近くに感じた。
「……綾瀬さんって、すごい人だと思います。俺は、結構、憧れてますよ」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、今日の残業も報われるわね」
小さく笑ったその笑顔は、いつもと違って、少しだけ素顔に近かった。
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電車に乗る直前、改札前で彼女が立ち止まる。
「ねぇ、瀬戸くん」
「はい?」
「今度、また雨の日があったら……傘、忘れていいからね」
そう言って、彼女は改札を通っていった。
—
春の雨。
冷たいはずの夜が、少しだけ温かく感じたのは、たぶん気のせいじゃなかった。