第10話|雨の夜と寄りかかる背中
火曜日の夜。時計の針は、もうすぐ20時をまわろうとしていた。
誰もいない会議室の窓。そこに映るのは、静かに降り始めた春の雨、と綾瀬美月。
(また、遅くなっちゃった……)
プロジェクトの進捗は悪くない。むしろ順調。
でも、“うまくやること”と“心が穏やかでいられること”は、まったく別の話だ。
—
そんなとき、Slackに通知が届いた。
《まだ残ってますか?よかったら、駅まで一緒に帰りませんか》
差出人は、**瀬戸 悠真**。
少しだけ、肩の力が抜けた。
—
ロビーで待っていた彼は、いつものように穏やかだった。
「また雨ですね。綾瀬さん、傘持ってます?」
「折りたたみがあるけど、ちょっと小さめかも……」
「じゃあ、今度は俺のに入ってください」
そう言って差し出された黒い傘。
2人で並ぶには、少し狭い。でもその距離感が、今は心地よかった。
—
歩きながら、ぽつぽつと話をする。
「西園寺さん、明るいですね。なんだか、みんなの空気まで変えちゃう」
「……そうね。ああいう人は、誰とでも自然に距離を詰められる。すごい才能だと思う」
「でも、俺は……その自然さに、ちょっと戸惑うこともありますけどね」
「ふふ。瀬戸くんって、ほんとに真面目よね」
そう言って笑いながら、私は心の中で少しだけ安堵していた。
“アスカ”という名前が出なかったことに。
“誰が一番近いか”という話にならなかったことに。
それだけで、今夜は少しだけ——救われた気がした。
—
駅前の交差点。
信号が変わるまでの短い時間。
私は、ふと思いついて、ぽつりと言った。
「ねぇ、瀬戸くん。もし私が、誰にも言えない弱音を吐いたら……ちゃんと受け止めてくれる?」
「もちろんです。何があっても、俺は味方ですよ」
その言葉が、思ったよりも深く胸に染みた。
言葉にしなければ壊れないと、ずっと思っていた。
でも、少しくらい寄りかかってもいいんだと、彼の背中が教えてくれた。
—
帰り際、傘を返すその手に、自分の指先が一瞬触れた。
ほんの数秒。
でもそれが、今日いちばん、心が動いた瞬間だった。