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ゾンビになってしまったお父さん

「そうじゃ……シャデル。わらわはお主の話を聞くことができるゆえ、落ち着くのじゃ。深呼吸をして、冷静に話すのじゃ。」


「……」


『シャデル』という名のゾンビは、一瞬落ち着いたように自分に話しかける修女様をじっと見つめていた。修女様は私に向かって叫んだ。


「小僧!早く視線を引きつけるのじゃ!何でもいいから、人々を落ち着かせるのじゃ!」


「はい!」


とは言ったものの、私は何を言えばいいのか分からなかった。老若男女、全員が怯えた表情でゾンビと修女様を見つめているからだ。警備兵まで駆けつけて、場の空気は一瞬で悪化していた。


『修女様なら、こんな時どうするだろう……』


ひとつだけ、思いつくことがあった。


『やっぱり演技か。』


私は大げさな身振りで、みんなに聞こえるように大声でゾンビに向かって叫んだ。


「シャデルさん!まだメイクもセットも準備できてないのに、公演を始めちゃったんですか!?どれだけ早く見せたい気持ちがあっても、修女様が困ってしまいますよ!」


ゾンビは熱血俳優という設定にした。引きずるように歩いていたシャーロットを立たせて言った。


「やっぱりシャーロット!シャデルさんを完全なゾンビに仕上げるなんて、お前はメイクの天才だな!剥がれた爪と裂けた皮膚から流れる血が、全部本物みたいに見えるよ!」


「……?」


シャーロットは天才的な特殊メイクアーティストという設定だ。


「ほら見ろ!自分でメイクしたのに驚いてる!このままなら公演は大成功間違いなしだ!」


後ろを振り返らずとも、人々がざわついているのが聞こえた。思わぬ形で俳優にされたゾンビとシャーロットを後ろに、私は混乱する群衆に向かって深々とお辞儀をした。


「公演に支障をきたしたことを心よりお詫び申し上げます。準備を整えた後、2時30分に開演いたします。」


2時30分は約1時間後。そのくらいあれば、この騒動も片付くだろう。ようやく人々も状況を理解したのか、ざわめきは徐々に静まっていった。


『……人間は、演技ができないわけじゃない。』


私はただ、それらしい状況を作っただけだ。安心した顔をする人々を見て、臨機応変な対応がうまくいったことを実感した。各々が持ち場に戻るのを確認してから、修女様のもとへ急いだ。


「修女様。もう大丈夫です。」


だが、反応がない。ゾンビをなだめているのか、修女様はただゾンビの頭を肩に乗せたまま、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。


「それで、どうするおつもりですか。」


「……」


何度問いかけても、やはり反応がない。


「修女様?」


何かがおかしい。ゾンビは黒いヴェールに隠れてよく見えないが、じっと見つめると、肩に埋もれたゾンビの口が微妙に動いていることに気付いた。


一見、修女様がゾンビの頭を肩に置いているように見えたが、そうではなかった。力を振り絞って、ゾンビが他の場所に行かないように押さえつけていたのだ。


息を潜めると、黒いヴェール越しに何かが音を立てているのが聞こえた……まるで生肉を噛むような音が耳元で低く響いた。


恐ろしい考えが浮かぶ前に、修女様は私を見つめることもできず、小さな声で話した。


「どうせわらわはまた生き返るゆえ……気にするでない。不憫な魂じゃ。優しく包み込んでやれば……きっと……」


最後まで言葉を紡ぐことなく、バタリと地面に倒れた。最初、人々はこれも公演の一部だと思い大して気にしていなかったが、首と肩が失われた修女様の姿が目に入ると、瞬く間に場は阿鼻叫喚となった。


「ぎゃああああ!」


ビルのような悲鳴が耳を劈いた。逃げ惑う人々と駆けつける警備兵たちの姿が目の端に映った。


ゾンビは他の人には目もくれず、私に向かってゆっくりと歩いてきた。おそらく、修女様の近くにいた人間が私だったからだろう。


そして私は、自分がどれだけ感情的な人間かを悟った。このすべてが起こっているにもかかわらず、まるで体が凍りついたかのように何の行動も取れなかったのだから。


私は不老不死ではない。 だから噛まれたら死ぬ。 死は徐々に近づいてきたが、私は動けなかった。いや、動こうとしても体が言うことを聞かない。心の中で何度も「動け」と繰り返しても、不思議なほど体が言うことを聞かない。


『おかしい。漫画では何でもないように動いていたのに……』


漫画はさておき、血の匂いで胃がムカムカし、吐き気が込み上げてきた。血の匂いを嗅いだ経験は数え切れないほどあったが、よく考えるとそれはすべて動物のものだった。


『やっぱり動物と人間は違うな……』


こんなくだらない結論を出している間も、ゾンビはゆっくりと近づいてきた。警備兵も必死で走ってきたが、ゾンビとの距離が近すぎて意味がなかった。


目前に迫ったゾンビと、呆然と座り込んでいる私。この状況でゾンビを止めたのは、私でも警備兵でもない、意外な人物だった。


「お父さん!私、シャーロットです!やめて、私と話しましょう!さっき冷たくしたのは本当にごめんなさい!」


ゾンビの背中を引っ張って止めたシャーロットだったが、ゾンビは理解できないようだった。その他にも父親を説得しようと色々と話しかけたが、無駄だった。


相手はただ人を喰らおうとする、理性を失ったゾンビでしかない。ゾンビは私など気にもせず、シャーロットに向きを変えた。


シャーロットの瞳に映るゾンビは、シャーロットを喰らおうとするかのように顔を近づけた。


その姿を見て、瞬間的に体に力が入った。腰に下げた剣の柄に手をかけた。力いっぱい抜こうとしたが、少し遅かったようだ。ゾンビは既にシャーロットに向かって口を大きく開いていた。遅すぎた。


『くそっ。』


シャーロットは目をぎゅっと閉じ、私は茫然自失だった。しかし、その時、ありえないことが起きた。


「シ……ャ……レ……は?」


ゾンビの黒ずんだ口から、人の言葉が漏れ出てきたのだ。発音はおかしいが、人間の声だった。


「い....いや……お母さんは……元気にい...してる?」


「え?」


『シアレットは?お母さんは元気にしているか?』と言いたいようだった。ぼんやりしていたシャーロットは一瞬で状況を把握し、元気いっぱいに叫んだ。


「はい!すっごく元気です!」


「そっか……良かったあ……」


「.......」


しかし嘘だったため、シャーロットは黙ってうつむくしかなかった。ゾンビであり、シャーロットの父であるシャデルが口を開いた。


「会いた……かった……」


「私も……です。」


「こんな姿じゃなく……格好いい姿で……俺はやっぱりゾンビなんだな……?」


「違います。」


「でも、人々にはゾンビに見えるって分かっている……みんな俺を避けるじゃないか……。」


「それは他の人の話です。お父さんは私のお父さんです。これからもずっとお父さんです。」


シャーロットのはっきりとした言葉に、シャデルは言葉を失ったようだった。短い沈黙の後、シャーロットをじっと見つめながら言った。


「……そうか。それなら一度だけ……本当に一度だけ触ってもいいか?」


シャーロットは無言でうなずいた。彼女の頬に、シャデルの黒ずんだ手がそっと置かれた。シャーロットはゾンビになった父に向かって大きく微笑んだ。


シャデルはその姿を見て、自分の背丈には届かないものの、シャーロットがとても大きく成長したことに気づいた。そして、自分がいなかった間、父親としてそばにいてあげられなかった時間に、彼女がどれほどの感情を抱えてきたのかが、身にしみるように感じられた。


ゾンビではなく、シャデルとして、父として語りかけた。


「私が言えることは、ただ謝ることだけだ……本当にすまない……こんなにも大きくなったのに、何もしてやれなくて……。」


「そんなことありません。今、こうして一緒にいてくれるじゃないですか。」


「私はただお前のそばで、お前が健やかに成長していく姿を見たかった。お母さんと一緒に、ただ平凡に生きたかった……。」


「……」


「今も、誰かが私の頭の中で囁いてくる。『人を食え』ってな……さっきはその声に従った。でも、もう聞きはしない。私はお前の父親だからな。」


娘を強く抱きしめながら言った。


「本当に大きくなったな……お前が生まれるところは見届けられなかったけど、それでも本当に大きく育った……。」


そして、私は見た。ゾンビの目から涙が流れ落ちるのを。


「最後に、この言葉だけは伝えたかった。」


私も人々も、そして警備兵たちすら、その瞬間だけは何も言わなかった。ただ涙とともに徐々に形を失っていくゾンビを見つめるだけだった。


「愛してるよ、私の娘、シャーロット。」


それが父親であり、人間シャデルが最後に残した言葉だった。彼は陽の光に照らされた雪のように美しく消えていった。シャーロットは父が立っていた場所を思いにふけった目で見つめ、しばらくその場を離れなかった。


. . .


降霊術は死者をこの世に呼び戻す術法。その基本は単に死者の魂をこの地に召喚することだが、少し変化を加えれば、呼び出した魂を死体に再び宿らせ、操ることもできるという。


自分の身体であれ他人の身体であれ、どこかに縛られた魂……。


自我のないまま術者の命令に従って動くそれを、人々は「アンデッド」または「ゾンビ」と呼ぶ。


死者と再会させてくれる降霊術そのものの意図は悪くないが、術者の力量次第では凶悪な結果を招く可能性があるため、降霊術は古くに「禁術」として指定された。


と、ネクロマンサーでありながらネクロマンサーを嫌悪する修女様が語っていた。


「なぜそんなにネクロマンサーを嫌うんですか。」


「この世に、自分を歩く死体にしてくれと望む者がいると思うか?」


降霊術は魔法ではあるが、魔力の有無に関係なく、誰でも使えるものではない。特定の条件を満たさなければ使用できない特殊な魔法だが……それ以上のことは修女様は教えてくれなかった。


「シャデルはわらわの血を飲んだから、あのようになったのじゃ。」


そうおっしゃるのを聞くと、修女様の血も聖水と似たような効果があるのだろうと思った。


「修女様、お身体は大丈夫ですか?」


「当たり前のことを聞くのじゃな。」


病室に座る修女様は自分の首に巻かれた包帯をほどきながら言った。


「傷ができるはずもなかろう?死ぬこともないのだから。」


傷ひとつない首を静かに撫でながら、修女様は立ち上がった。


「行くぞ。シャーロットが待っておる。」


「でも、修女様。」


私の言葉に、修女様は振り向いた。まるで「なぜだ」と聞き返しているようだった。


「人々は修女様が不老不死だということを知らないですよね?そんなに早く戻っても大丈夫なんですか?」


「復活したことにすればよかろう?人々はそれで納得するのじゃ。」


「いや……。」


「わらわは今生きている人間たちが生まれる前からおるゆえ、あまり気にすることもなかろう。今のような状況で聖女がその場を離れるのは、混乱を招くだけなのじゃ。」


黒いヴェールを被り、修女様はその場を後にした。


「とりあえずシャーロットのところへ行くぞ。」


そう言って扉を開けると、どこかで聞き覚えのある声が響いた。


「あっ……聖女様。もう退院されるんですか?」


シャーロットだった。香ばしい香りのする花かごを持ったシャーロットは、気丈に笑顔を作りながら言った。


「首が半分消えかかっていたように見えたんですが、本当に大丈夫なんですか?」


「とっくに治ったのじゃ。」


修女様は心配そうに彼女を励まそうと口を開いたが、シャーロットは「大丈夫」と言い残してその場を去った。きっとひとりで考える時間が必要なのだろう。私と修女様は彼女を邪魔しなかった。


その日、新聞には「聖国にゾンビが侵入した」という内容の記事が一面に掲載された。




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