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せどりマンに奪われる

作者: 空見タイガ

 売っていいものと悪いものがある。たとえば、魂。たとえ欲しいものがあっても、魂を売ってまで買ってはいけない。欲しいという気持ちが肥大化しているだけで、魂に見合うものなど存在しないから。

 最後の試合は押し出しで負けた。試合終了の時間が迫るなかで六回に登板した後輩が全力を出し切った、その結果だった。やつは野球を辞めるだろう。みなが円陣を組んで後輩を慰める感動シーンを横目に、そっと野球場を抜けだした。横断歩道の信号を守りつつ駆けぬけて河川敷の草に覆われて斜めになっている部分にスパイクを投げ捨てズササササササと靴下ですべって尻をついて川を見た。いつもの川で、これ以外の川について詳しいわけでもないが、良い川だった。ある程度の幅があるから水切りを楽しめる。だが、もう水切りはしない。おれも辞めるからだ。

 草に覆われて斜めになっている部分に上半身を預けて寝そべる。良い天気だった。監督は「投げるな」を口癖にしていた。有望な選手が肘や肩を壊してしまうことを嘆き、長く活躍した元プロ野球選手は腕がうまく曲がらなくなったのだと例示し、子どもが変化球を投げるのは良くないとか全国大会の日程の過酷さによって潰された生徒たちが可哀想だとか大学野球でも酷使される場合があるといったエピソードを雲ひとつないおれたちの頭にさんざん流しこんだ。コーチも言っていた。「頑張りすぎるな」コーチは練習に水分補給の時間を設けた。おれたち子どもはすぐに練習に熱中して、水を飲むことを忘れてしまうからだ。

 でも、一度くらい干からびてしまってもいい気がした。おれは目をつぶって川とか自転車のちりんちりんとかの音を聞いた。遠くで踏切が鳴って電車が通りすぎてバイクが走ってランニングの足音がして止まってズサササササとすべって尻もちをついたのはだれだ?

 ゆっくりと目を開けると長いまつ毛がおれの頬に刺さろうとしていた。からだの側面にひざの丸みを感じ、小さな手が乳首を探し当てるように上半身の表面をさまよっていた。おれはふたたび目をつぶった。

「てっくんのお母さん、腹を抱えて笑ってたよ。またうちの息子が試合に負けて失踪したって」

「べつに笑っていたならいいじゃねえか」

「でも、てっくんのお父さんは怒っていたよ。なんだあのクソガキ、ヨシテルの好投をむだにしやがってって」

「ただの親ばかじゃねえか」

 ふうふうとまぶたに息を吹きかけられる。おれの胸のあたりを手の重みがさまよう。

「あたしは心配しているよ、てっくんがこれで野球を辞めちゃうんじゃないかって」

 息苦しさを感じた。おそるおそる片目で状況を確認すると、ワカコがおれの首元に指をひっかけてアンダーシャツを引っぱっていた。目で牽制し、盗塁を阻止する。

「約束したでしょ、ずっと野球を続けてあたしに道具をくれ続けるって」

「くれるに続けるを続けるなよ」

「レガースってのがあるんでしょ。レガースちょうだいよレガース」

「あるけどねえよ、事前に調べてから来い」

「レガースってくさいってほんとう?」

「捕手の松村くんに頼んで嗅がせてもらえば」

「松村は将来性のない顔をしているから」

「なんで関係性のないおまえが松村を呼び捨てにするんだよ」

 ワカコはすんとした表情で首を横に振った。そして、先ほどからずっとおれの胸をまさぐっていた手を変形させ、爪を立てはじめた。カリッカリッカリッ……おれは上体を起こしてワカコを突き放し、両手で胸を隠した。

「これで乳首が成長したら野球どころじゃねえからな」

「あは、てっくん、それは偏見だよ。野球なんて球と棒で遊ぶだけでしょ」

「それも偏見だろうが」

「胸を守りたいなら松村からプロテクターを貰ってつけたら、そして着用したプロテクターをちょうだい」

「松村くんから直接もらえよ」

「将来性のない人間の持ち物には価値がない」

 汗がひいたのか寒くなってきた。立ち上がり、まだ尻もちをついたままのワカコに手を差し伸べるか、ためらう。心配して探しにきてくれた幼馴染みに恩を返すべきか、乳首まさぐり変態女を河川敷に残して去るべきか。野球を続けるべきか、辞めるべきか。

 伸ばしかけてやめようとした手をガシッとつかまれて、しぶしぶ引っぱった。腕のきしむ感じに、こっちの手を差しだすんじゃなかったと後悔する。ワカコは立ち上がってもおれの手を握ったまま、ぶんぶんと上下に振った。監督やコーチから言い聞かせられた投手の財産である肘が、腕が、肩が、摩耗していく。

「てっくんはもっと高みを目指せるよ、絶対に今よりうまくなるし、今よりかっこよくなるし、今より勝てるから。あたしはその将来性を買っているの。ね、もう売ってくれないの、将来性」

 河川敷の草に覆われて斜めになっている部分を上るために、おれたちは手を離した。野球場に着くと母さんや父さんに捕まって、記念撮影のために並んでいた仲間たちの真ん中に追いやられた。左隣では後輩の乙馬おとまが「ほんますびません、ほんますびません」と泣いており、右隣では松村が「写真を見るたびにこの悔しさを何度でも思い出すんだ」とぼやいており、正面で構えているカメラマンの背後ではワカコがヘンな顔をして飛びでたり隠れたりしていたから、おれは自然に笑顔になって、あとで見返したときにその写真がとても爽やかなものになっていたから、中学生になっても野球を続けようと思った。


 最後の試合は押し出しで負けた。七回に登板した後輩が全力を出し切った、その結果だった。やつは野球を辞めるだろう。みなが円陣を組んで後輩を慰める感動シーンを横目に、そっと野球場を抜けだした。

 ここは堤防の法面なのだろうか、河川敷の草に覆われて斜めになっている部分にスパイクを投げ捨てズササササササと靴下ですべって尻をついて川を見た。何の変哲もない、良くも悪くもないふつうの川だった。

 草に覆われて斜めになっている部分に上半身を預けて寝そべる。良い天気だった。監督は「登板間隔が空きすぎてもよくないんだ」を口癖にしていた。科学的な見解や根拠をつらつらと述べ、絶対に責任はとらないと前置きしつつ、自主練習を促した。コーチも言っていた。「投げすぎるとよくないんだ」コーチは練習より読書だと言って、ゴーストライターが代筆したスポーツマン名義の自己啓発本を大量に読ませてきた。おれたち野球少年は無知ゆえにすぐに詐欺で騙されたり犯罪者になったりするからだ。

 でも、一度くらい不良になってしまってもいい気がした。おれは目をつむって川とか自転車のちりんちりんとかの音を聞いズサササササ。

 すばやく目を開けると、胸ぐらをつかまれる五秒前だった。おれはワカコを押しのけて上体を起こした。上向きに開かれた両手の指先がおれの胸骨を何度も刺す。

「ファウルカップってのがあるんでしょ。ファウルカップちょうだいよファウルカップ」

「あるけどねえよ、そして絶対に欲しがるな」

「ファウルカップってくさいってほんとう?」

「当たり前だろうが!」

「捕手の狭山に嗅がせてもらったほうがいいかな」

「その行動に何の意味があるんだよ」

 ワカコはひざを抱えて丸くなった。伏せられたまつ毛にきらりと光るものは、なかったけど。

「ファウルカップはいらないから、辞めないでほしい」

 おれの右手は逡巡したのち、自分のごつごつとしたひざの硬さを確かめた。

「や、でも、そこまで野球に興味がなくなってきたし、プロ野球選手になれるほどの才能があるわけでもねえし、違うことを始めてもいいのかなって」

「このままで終わって、悔しくないの」

「全力でやったよ、おれは」

 カッ。ワカコは勢いよく顔を上げて、目を見開いた。

「全力じゃなかった」

「ああん?」

「後輩のせいで負けたと思っているなら大間違いだよ、てっくんが六回で明らかにバテバテで球数も多かったから交代になったの。スタミナがあれば完投できた」

「いや、だからそれも全力を出した結果で……」

「オナニーを覚えちゃったから?」

 おれは短い悲鳴を上げた。ぶんぶんと首がちぎれるぐらいに左右に振り回しまくって、違うと連呼した。叫んだ。つぶやいた。無言になった。ワカコは肩をすくめた。

「だけど、女の子のおっぱいやお尻に目がいくようになった時期と成績の悪化した時期が重なっているよね」

「おまえに何がわかるんだよっ、なめんな」

「てっくんのお母さんが……あっ、その。ごめんね、本人の口から聞いたわけでもないことで憶測しちゃって」

「もうどこにも帰らねえ」

「ええ、やめときなよ。スポーツで挫折して不良に堕ちるってあるあるすぎてもうナシだよ。有象無象の現象の再現性を確かめてどうするつもり」

 なぜだろう、おれは正座をした。そして川に向かって頭を下げて、ぱらぱらとおれの鼻をくすぐる草のにおいを堪能する。顔を上げる。ワカコの視線が頬の輪郭をなぞっている気がするが、心は青と緑でいっぱいいっぱい。

「高校からは登山部に入るよ」

「おかしなことを言わないで、好きで山に登っているやつなんて将来性がないんだから」

「そんなことないもん」

 ワカコはおれの顔をのぞきこみ、小さな声でささやいた。

「大丈夫だよ、野球にトライし続けるかぎり失望しないよ、だから言いなよ、かわいいマネージャーが大きく動くたびに大きく動くものに目を奪われて鍛錬をおろそかにしたって」

「死んでも言わねえ」

 二人で野球場に戻ると、母さんや父さんに捕まって、記念撮影のために並んでいた仲間たちの真ん中に追いやられた。左隣では後輩の乙馬が「ほんますびません、ほんますびません」と泣いており、右隣では狭山が「高校からは登山部に入るんだ」とぼやいており、正面で構えているカメラマンの背後ではワカコが上下にジャンプしていて揺れないものを揺らしていたから、おれは自然に笑顔になって、あとで見返したときにその写真がとても爽やかなものになっていたから、高校生になっても野球を続けようと思った。


 一度でいいから、全力を出してみたいと思っていた。つまり、砕けんばかりに踏ん張って、ちぎれんばかりに投げて、声が嗄れるぐらい咆哮したかった。

 一年生のときは控え、二年のときは怪我、そして三年、一生で一度の舞台がやってきた。おれは監督とコーチの指示アドバイス励まし適切な指導に従いながら、球数を気にしつつ、球際をていねいに、全身全霊で敵を打ち取っていった。

 だれもが半信半疑だったが、強豪校を倒して、今大会の注目選手としてニュースにおれの名前が挙がってきたことで、周囲の反応が変わった。クラスメイトの女子たちがおれの筋肉を触るために列をつくりはじめ、廊下ですれちがった知らない男子たちに「あいつの命を救ったことがある」と噂されるようになり、いとこが五人ぐらい増えた、のに、昔なじみのあいつとは会わなくなっていた。

 とはいえ、同じ学校だから会おうと思えばすぐに会える。会おうとしなくても、昼休みに食堂に向かっている途中ですれちがった。友だちに断って、ワカコのとなりを歩く。

「最近、おまえはいいやつだなってしみじみと思うようになったよ……今まで声すら掛けてこなかったくせに『ずっと前から気づいていた』とアピールする現金な屑どもが数え切れねえんだ。才能を見抜ける自分にも才能がある、そう見せかけたい偽物がよお。仮にそれで周囲の人間を欺けたとしても、こっちは社交辞令で『ありがとうございます』と返すだけで、すべて覚えているしわかっているからな。勘弁してほしいよ」

 彼女は視線をそらして、廊下の窓を見た。見下ろせば中庭が見えるだけの、無骨なただの窓である。

「いいやつなんかじゃないもん」

「いいやつはいいやつだって認めないもんさ、つねに最善を目指しているからな、コーチが読ませてきた本にもそう書いてあった気がする。どの本にも似たような教訓が書かれているから、タイトルは思い出せないけど」

「だけど、あたしね、ずっと応援していたてっくんがいざ結果を出したら、ちょっと悔しくなるの。やなやつでしょ」

 窓ガラスにはワカコのきれいな横顔が反射していた。悔しそうに見えなくもない、無表情だった。

「くじけそうになったとき、おまえは野球道具が欲しいなんてウソをついて、野球を続けるように鼓舞してくれた。ワカコがいなかったら……おれはここまで来られなかったと思う」

 ちらりと横を見て、反射する自分の顔を見た。エースでこんなにかっこいいって反則だろ。振りかえり、突っ立ったままうつむいているワカコの顔をのぞきこんだ。

「なあ、あげた道具は今も大事にしてくれているか? おれがこのまま活躍して、プロになって、プロでも大活躍してみろ、節税対策で建てた記念館に寄贈してもらうことにもなるかもしれないぞ」

「奪われた」

 恐ろしい形相! ワカコは見えない牙をむき出しにし、眉間に何重ものしわを寄せて、はっきりと、お年寄りにも聞こえる声で、教室前の廊下から体育館の渡り廊下まで響き渡る大きさで、叫んだ。

「せどりマンに奪われた」

 あはあん。

「せどりマンって何だよ」

「せどりマンに奪われた……いやっ、『せどりマンに奪われる』! 『せどりマンに奪われる』!」

「その言い換えに何の意味があるんだよっ」

 おれの質問には応えず、やつはつぶやきはじめたが、そっと耳をすませてみると「せ」と「ど」と「り」と「マ」と「ン」が頻出していることだけはわかったので、何もわからなかった。

「つまり、せどりマンと呼ばれる何者かに、おれがプレゼントした野球道具を強奪されたって認識でいいのか」

 ずるずるずる。鼻を勢いよくすすったワカコは否定の身振りをし「せどりマンに売った」と答えた。

 おれは廊下の天井を見上げた。白く、ところどころくすんでおり、どうやって書いたのか鉛筆で書いたような線が走っていた。

「せどりマンに奪われたんじゃなくて、せどりマンに売ったんじゃねえか」

 このまま、鉛筆の線がどのような経緯で天井に書かれたのかを考察していたい。が、現実に向き合わないといけない。ためらいつつ、おもむろに天井と床の中間に視線を下ろすと、ワカコは鼻と耳を真っ赤にし、今すぐにでも人をぶん殴れる体勢をとっていた。

「売った」

「そうだろ」

「せどりマンに買われた」

 また天井を見ておくか? しかし、大事な試合の前に首を痛めてはいけない。少し屈み、ワカコの目を見てから尋ねる。

「なんで売ったんだ」

「二年生のとき、怪我をしたでしょ。で、もうこいつだめだなって思って売っちゃったの」

 首を酷使したい。

「待て、なんでそこで売るんだよ。ナニかに使うためにもらったんじゃないのかよ」

「は、ナニかって何?」

「そ、そりゃ、ここでは言えないナニかに」

 蔑みの視線がおれのやわらかいところを突き破る! ワカコは大きなためいきをついた。

「あたしが友だちと海水浴に行ったときの写真を欲しがったのって」

「ち、違う!」

「サイッテー」

「ささささささ最低なのは人が善意でプレゼントしたものを勝手に売るおまえじゃないでしょおおおかあああ」

 二度目の長い長いためいきのあと、ワカコは悍ましい顔つきでおれとの距離を詰めてきた。

「あたしが貰ったものを何に使っても自由でしょ。だから、最大の利益が出そうなところで売ったの。ところが、てっくんが怪我から復帰しやがって……あたしね、ずっと応援していたてっくんがいざ結果を出したら、ちょっと、いや激しく悔しくなるの」

「なんてやなやつ!」

 目の前にいる幼馴染みのかたちをした何かは目尻にいっぱいの涙をためた。そして、怪我から過酷なリハビリを経て復活した罪のないおれの肩をグーで何度も殴りつけてきた。

「取り返して、あたしのために取り返してきてよ! ボールを打者の背中に放る勢いで、せどりマンの横っ面をぶん殴ってきて!」

「なあんでぇ、おまえみたいな最低なやつのために暴力沙汰を起こさなきゃならないんだよ。こっちは大事な試合が控えてんだっ。ってか、売ったのなら買い戻せばいいじゃねえか」

「今はもう高くなった」

「はあ」

「安く売ったものを高く買い戻したくない」

 おれは気が遠くなってきた。

 何だったんだ、河川敷の斜めのところで隣りあって座って過ごしたあの甘美なひととき。一瞬でむだな描写になった!

 とにもかくにも、おれはせどりマンからおれの野球道具を取り返すことになった。なんで? だが、おれの背後にぴったりと張りついたワカコが「復讐を誓え」とささやいてくるし、次の試合に怨恨と呪いを持ちこまないよう、なぞの男、せどりマンと対決するしかない。なんで?

 せどりマンは屋上につながる扉の前でつねに待機しているらしい――だれもいない別棟の四階まで上がると、確かに屋上につながる扉の前に大男が片膝を立てて座っていた。彼の前には何故だか花柄のハンカチが広げられており、そのハンカチの上には小銭がバラバラに置かれていた。苦悶の表情から汗がしたたり、ハンカチにしみをつくる。

「あんなのに見とれんな」

「話しかけたくないなと思って固まっていただけっ」

 ワカコの痴れ言のせいで、せどりマンに気づかれた。その男はおれたちを一瞥したのち、すっと立ち上がった。その堂々たる体躯に後ずさりしようとするが、おれの背中をぐいぐいと押してくる手。

「や、やい。おまえ、おれの昔の野球道具をワカコから買い取ったようだな」

 男は目を細め、のっしのっしと一段ずつ降りてきた。近づく存在におれは壁まで後ろに下がった。うるさいワカコは背中と壁で挟んでおいた。

 床に降りた立ったせどりマンは自身の胸を強くグーで叩いた。その風圧により、ワカコが「ぐえ」と呻いたが自業自得。

「俺はせどりマン」

「自称なのかよ」

「愛称でもある」

 おれの背中に潰されていたワカコが壁を這って脱出し、いつもどおりの厚みで登場した。おれの顔をじっと見ているせどりマンの硬そうな腹をワカコはグーでぽかぽかと殴り出す。

「三年二組、黄金餅こがねもちせどり! 今日があんたの年貢の納めどき、すなわち税金を支払うときよ!」

「本名なのかよ」

 拳を開いてワカコの頭をわしづかみした男は、その手をなめらかに横にすべらせて、さらにおれに近づいた。

「おまえの名前は知っている、井原いはら由輝よしてる。別称、金のたまごを産む男」

「産まないです」

「古書からこしょこしょ始めて早九年、せどりマンは先見を行使しすぎて、目の前を歩いている人が次の瞬間に転ぶかどうか分かるようになった」

「もしかして一人称もせどりマンなのか?」

 せどりマンは顔を赤らめ、「これはあらすじだ」と訂正した。

「由輝の野球用品、いい値で売れる。せどりマンは進学したら稼いだお金で起業するつもりだ」

「やっぱり一人称もせどりマンじゃねえか」

「額の皮が伸びるッ」

 改めて至近距離にあるせどりマンの顔を眺めた。精悍だ。商売っ気があるようには見えない。人を殺しそうには見える。ワカコが消えた分だけ空いたスペースに後退し、壁に背をつく。せどりマンが壁に両腕をつく。逃げられなくなる。

「脱げ、おまえの下着には文学的な価値がつく」

 野太い悲鳴を上げていると、せどりマンの手から解放されていたワカコが彼の脇腹に重そうなパンチを入れた。骨折を気にしだした。

「やめろっ、絶対に校則のどこかで禁止されているぞ」

「せどりマン、悪いことしない。買い取り価格より高値で売るだけ」

「だから売るな。まず買い取るな」

 痛めた拳に息を吹きかけながら、ワカコが同調の声をあげた。さらにせどりマンへ卑猥な暴言を投げつけた。さらにさらに安く買い戻したい旨を媚びた声で懇願した。おかげでせどりマンがワカコのほうを向いた。チャンスだ。ひざを折ったおれはカサカサと床を這って窮地を脱した。誤って踏み潰されないように、ワカコのスカートの陰に頑張って隠れる。

「大事なものなら手放さないことだ、俺も電卓を肌身離さず持ち歩いている」

 ちらり。せどりマンは制服のシャツをめくって腹に何かしらの作用でくっつけている電卓を見せた。やつは本気だ。

「安く買って高く売る。これは人生における重要な規律だ。俺は礼儀を重んじるので、せどりに転じた」

「この拝金主義がっ!」

「おまえもそうだろ」

「金より大事なものはない。プロの野球選手だって、年俸が麦の現物支給に代わったら野球を辞める」

 せどりマンは愁いを帯びた色気のある眼差しでどこかを見やった。

「俺だって一生懸命にものを売っている。ものを売るというレベルを保っている。せどりマン、つねにたゆまぬ努力している」

「てっくんの汗水が染みこんだグローブを涼しい顔で売り物にして何を言うかぁ」

「おまえもそうだろ」

 ここで唐突にワカコの関節をとがらせた拳がせどりマンの脇腹に命中する! せどりマンはふらつき、ひざをついた。何度も腹をさすり、恨めしそうにおれたちを見る。

「せどっているとお腹が冷える」

「電卓の裏側がひんやりしているせいじゃねえか?」

「憶測でものをしゃべるな、ばか」

「おまえが陰気な小男だったら、おまえが陰気な小男だったら!」

 ふつうに立ち上がったせどりマンは電卓を背中にしまい、おれたちの前に立ちはだかった。

「売りも買いもしない者は去れ、取引相手が来る」

 やつの迫力にたじろぎながらも、おれとワカコはあたりをきょろきょろと見回した。だが、しんとしている。これはせどりマンのでまかせだろうか……ゴッゴッゴッ、屋上前の固く閉ざされたはずの扉から鈍い音がしてきた。扉のレバーハンドルが執拗に何度も回され、ついに光が差す。おれとワカコは身を寄せあって「ギャー」と叫んだが、すぐに離れた。見慣れた顔が逆光状態で立っていたからである。

「あっあっあっ、井原センパイがいる。井原センパイがいる、なんでどうしてせどりマン」

「せどりマンも先輩だろうが」

 後輩の乙馬は「せどりマンはセンパイじゃありませえん」と叫んで、階段をどたどたと下りてきた。と思ったら、最後の一段にとどまったまま「ここで拝見させてもらいましょう」と腕組みした。

「おまえも当事者だろうが、こっちに降りてこいよ」

「な、何の話ですかね。おれはせどりマンから井原センパイの汗水にじんだ非売品を購入しにきたわけじゃないんですよっ」

「まだ確定していなかったのに、自ら確定させてきた!」

 段を下りた乙馬はあわあわと両手を突き出して両足を大きく開き、おれたちによたよたと近づいてきたので、片頬を軽くぶって静止させた。

「気持ちいいかもしれません」

「おまえ、どうしておれがワカコにあげた野球道具をせどりマンから購入しているんだ」

「そ、そんなことを言われても……なぜセンパイが若センパイにあげた野球用品をせどりマンから購入しているのかはわかりません」

 ちらりとワカコの顔を見た。彼女は斜め上を向いて、口笛を吹こうとしていたが、うまく音を鳴らせずにひゅうひゅうと軽い息を吐いていた。ふたたび乙馬を見た。彼は目をうるうるとさせ、自慢の長身でおれたちを見下ろしていた。

「で、でも、商品の売買ってそういうものじゃないでしょうか。たまごがスーパーに並ぶまでには長い物語があったはずですけど、お金を出せば不要なストーリーをスキップできちゃうんです。うちの家は送料を払ってネットスーパーを使っています。スーパーのパートさんの心理描写なんてくそ食らえっす」

「たまごを購入した動機を聞いてんだよ」

「エエッ、それはもちろん使用するからに決まっているでしょ」

「ガキのときに使っていたやつだから小せえしボロいし、まず体格が違うだろ、何に使ってんだ」

「い、言えませんですな」

「言えないことに使ってるんじゃねえだろうな」

「あの、たまごってほら、たまごに到達すると新たな生命が誕生するじゃないですか。だから、神秘……おれは生命の神秘の当事者になっています」

 三人のあいだに深い沈黙が流れた。せどりマンが電卓を叩く音だけが響く。

「井原由輝の使用済みタオルが今ならこのお値打ち価格」

「売るなよ」

「買います」

「買うなよ」

 おれは唇をとがらせた乙馬の両肩をつかみ、アツい気持ちを五パーセント、残りは憎しみを込めて激しく揺さぶった。

「売っていいものと悪いものがある。たとえ欲しいものがあっても、魂を売ってまで買ってはいけない! 球児なら直球勝負しろ。欲しいものを手に入れたいからって不正に手を貸すな」

 ぱち……ぱち……と気だるそうな拍手が外野から聞こえてきたが、乙馬は両肩を縮こめておれの両手を首で挟みやがった。

「センパイだってオレに投げさせないように計らっているじゃないっすか」

「ぬわぁんだと」

「勝利を手に入れたいからって、オレが投げないように調整しているじゃないっすか。球数制限を気にして省エネ投法を編み出したり、裏で監督にオレを外したほうがいいって提言したり。部活の本質って目先の勝利や興行として盛り上がることでしたかね。注目選手が出ずっぱりになっても、チームとして勝利するなら問題ないって、それって道徳的に正しいことなんでしょうか」

 脇に立っておれたちを眺めていたせどりマンが「見損なったぞ由輝」とおれに苦言を呈し、そのとなりに立っていたワカコは「あんたが直球勝負をしても敵を無様に押し出すだけでしょ」と乙馬に苦言を呈した。

「ふむ、引き分けのようですね」

「引き分けどころか、全部おれが被害者だからな」

 すぽっ。乙馬の首と肩のあいだから両手が抜けて、おれは後ろに倒れそうになった。やつは「やれやれ」とズボンのポケットから財布を取り出した。

 慣れた手つきですばやく取引を終えた乙馬は、ついさっきの格闘で汗を流したんですよと言わんばかりに額を拭くふりをして、おれの使用済みタオルで顔面を覆い、スーハースーハーと大きな音を立てた。

「ぼべびばぼばばばぶぶべばびぼぶぶべ(オレにはこれがあるんで大丈夫っす)」

「よくわかんねえけど死ねよ」

 なぜか、話がうまく片付いた雰囲気になった。取引が終わって立ち去ろうとするせどりマンと乙馬をワカコが呼び止める。

「待ちなさい、それはあたしがてっくんに貰ったものよ」

「せどりマンがおまえから買ったものだ」

「オレがせどりマンから買ったものです」

「リスニング試験で出題されたらとんでもないことになるぞ」

 三者が言い争うなか、おれは先ほどの乙馬の意見について考えた。勝利を手に入れたい、そのために頑張りたい、だから乙馬に絶対に投げさせたくない。それは燃え上がる闘志によるものだ。だが、勝利への飽くなき追求は、実際には金やものを手に入れるためなら何だってする、あいつらの姿勢と変わらないものだったんだろうか?

「お金があれば何でも買える」

「愛は買えないわ」

「いえ、愛は買えます。愛する人にしか渡さないお古のタオルが今ここに、オレの手中にあります」

 いや、違う。おれはこいつらとは違う。理由はうまく説明できねえけど、絶対に違う。

 交渉が完全に決裂したらしい。ワカコはワカワカと叫びながら一人でその場を走り去ろうとした――先生や教師たちから繰りかえし聞かされていた廊下に関するあの注意がふと明瞭によみがえった。つるん! 彼女はおれの目の前で足をすべらせ、背中から倒れそうになった、が、せどりマンの大きなからだが抱きとめた。

 静寂。せどりマンは自分をきょとんと見上げる女の顔をながながと眺めたあと、ぽつりと言った。

「ワカコ、せどりマンの女になれ」

 やつの言葉にワカコの目が見開かれる。おれの目のほうがもっと見開かれている。

「せどりマン、これからもせどってお金を得る。ワカコ、これからせどりマンと結婚してお金を得る。いっしょに、この星のあらゆる隙間に木を生やす会社を経営する」

 ワカコはせどりマンの支えを退け、まっすぐと一人の力だけで立ち、それから彼に向き直った。

「わかった、あたし、せどりマンと結婚する」

「ってなんでェ」

 うっとりと見つめ合いだした二人のあいだに割りこみ、おれはワカコを説得しはじめた。しかし、やつは「だって」「お金が」「どうせプロは無理でしょ」「その点」「せどりマンは将来性があるし」「お金」「金」とうろたえもせずに言い訳を並べはじめた。ワカコの強烈な手のひら返しによって壁にバンッッッッと激しく吹き飛ばされたおれはずるずると床にへたり込んだ。

「愛がお金で買われた!」

 乙馬が身を屈め、おれを見下ろした。

「あの女が愛でお金を買ったんすよ」

「せどりマンに買われた」

「せどりマンを買ったんです」

 やがて二人の男女はお互いの脇腹をつつきながら、並んで教室棟に戻っていく。小さくなってゆく背を見ながら、おれは叫びにもならない声で叫ぶ。

「せどりマンに奪われた……いやっ、『せどりマンに奪われる』! 『せどりマンに奪われる』!」

「その言い換えに何の意味があるんすか」

 試合当日、下半身のコンディション不良から球数が増えたおれの代わりに、九回に登板した後輩が全力を出し切り、最後の試合は押し出しで負けた。   

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