とある公爵令嬢の手記
公爵令嬢アンジェリカの失踪時、無残に破壊された状態で発見された馬車の瓦礫に隠されるようにして、一冊の手記が見つかったことは、関係者たちを大混乱に陥れたが、そこに記された肝心の内容は、しばらくの間、ごく一部の人間のみが知るに留まっていた。
手記は、既に他界したアンジェリカ・ペンバートン公爵令嬢自らの手で、己の生涯に起きた出来事や、感じたことを記したものであった。
問題は――その手記に記されていたのが、ただの少女の日記のような、可愛らしいものではなかったことである。
それだけでも十分大事件だったのだが……どこから漏れたのか、アンジェリカの遺体が見つかってからしばらくした後、とある出版社から発行された記事によって、手記の内容が報じられると、混乱は身分の隔てなく広がり、国中を震撼させた。
手記は、二冊あった。
記した内容が公表されず、握りつぶされてしまうことを恐れたアンジェリカが、先んじて、写したものを出版社へ送っていたのだ。
彼女の死は、この手記に記された内容が表沙汰になることを恐れた関係者の誰かが、口封じのために行ったものだと考えられた。
***
手記は、彼女が十歳のころから始まる。
しばらくは、少女らしく、可愛らしい内容が記されていた。
「今日は、勇気を出して弟に話しかけてみた。はじめはあの子も驚いていたけれど、こっそり隠しておいたクッキーを渡すと、嬉しそうに笑ってくれた」
「お庭の薔薇が綺麗に咲いているとお母さまに話したら、お昼はみんなでお庭でピクニックをした。毎日お昼ご飯はこうして過ごしたいな」
「久しぶりに会ったお父さまに、ご挨拶できて嬉しい。お仕事で忙しいとお母さまは言うけれど、もっとお会いできたら良いのに」
「初めて参加したお茶会で、同じ年頃のお友達ができた。お菓子は美味しかったし、ご本やお花のお話がたくさんできて楽しかった」
「今日はマーシャル殿下にお会いした。お名前を呼ぶことを許して下さったけれど、お呼びすると胸がドキドキして、恥ずかしくなってしまった。今も、顔が熱い」
だが、彼女の母が病に罹ったころから、少しずつ記される内容に変化が訪れた。
母の容体を想う言葉と共に、不穏な記述が増えていくようになったのは、このころからだ。
「王都より空気の綺麗な領地で過ごすようになって、お母さまの具合も快方に向かっているみたい。咳も減ってきたし、思い切って療養を勧めて、本当に良かった」
「おかしい。しばらく安定していたお母さまの病状が、悪化している。今日は、咳に血が混じるのを見た。一体、何がいけないの?」
「お父さまがくださった、お香が怪しい。数種類の乾燥させた葉を、細かくして混ぜてあるようで、見た目では普通のものと何が違うのか、わからない。でも……あれを焚いていると気分が良いのだと、お母さまはおっしゃるから、取り上げるのは忍びない。私は、あんなに息苦しいのに」
「やっぱり、あのお香は良くないのだと思う。だけど、今日こっそり隠そうとしたら、お母さまが見たこともないほどお怒りになった。『私を殺す気!?』とおっしゃったけれど……でも、あの煙は、良くないものだと思う。あれこそが、お母さまの命を削っているような、そんな気がするのだけど、私は一体、どうすれば良いのかしら」
「お父さまに、お香のことを聞いてみた。『咳を抑える効果のある薬草や、気分を落ち着かせる効果がある薬草が使われている』ということだったけれど……確かに、焚いている間はお母さまの咳も減るし、ぜいぜいとした呼吸も収まっている。だけど、あれは気分が落ち着いているというより、どこかぼんやりとしているような、違う世界へ行ってしまっているような、そんな危うさを感じる」
そこからしばらく期間が空いた後、乱れた筆跡で書きなぐられた記述が続く。
「嗚呼! 嗚呼! 嗚呼!! お父さま、貴方という方は……! お家の事情で、お母さまを恨んでいらっしゃることは、薄々気づいていたけれど……これは、こんなのは、酷過ぎる!! でも、もう、あのお香をお母さまから取り上げることはできない。それができる期間は、とっくに過ぎてしまった……。お母さまの容体は、もう回復の見込みが無いと、お医者様もおっしゃった。死の気配が、近づいている……」
「確かに、あれは薬だったのでしょう。でも、お母さまにとっては、毒以外の何物でもなかったのに! でも、これを公表しようにも、僅かばかり残ったこれっぽっちの燃えかすでは、証明することは難しいのかもしれない。それに、証明できたとして……私たちは、一体どうなってしまうというの? 弟は、ローレンスは、まだ幼くて、とても公爵位を継いだところで、親族たちに良いようにされてしまう。私は、なんて無力なの……」
***
「お母さまが、亡くなった。お香が無くなって、しばらく苦しんでいたけれど、最期は眠るように息を引き取った。悲しいし、寂しいけれど……お母さまが、もう苦しむことは無いと思うと、これで良かったようにも思う」
水分でふやけたページに続いていたのは、この手記が二冊作られることになった経緯であった。
「何かあった時のために、怪しいと思ったことは、この日記に書くことにしようと思う。念のために、もう一冊作って、別に隠しておく。……私の身に何か起きたら、ローレンスが何とかできるように。あの子が早く、公爵位を継げるまで成長してくれれば、それが一番良いのだけど……」
この日から、彼女の手記はその性質を変えた。
取り留めもない日々の記録から、彼女が少しでもおかしいと、怪しいと思った出来事を記すものへ。
中には、ごく些細なものも混じっていたが……それでも、読み手にとっては、どれも驚愕に足るものであった。
「お母さまにあんなことをしておいて、お父さまは恥知らずにも、ご自分の愛人と、彼女との間にできた娘を、家に連れてきた。今日から共に暮らすと、紹介された。……そう、あんなことをしておいて、ではないのね。きっとこのために、お母さまを殺したのね。公爵家を……乗っ取るために」
「ローレンスは、家にいては危ないかもしれない。あの子には剣の才能があるし、学園の騎士コースは、通常コースよりも早く入学できるから、彼を学園の宿舎に入れられるようにしよう。お父さまたちも、邪魔なローレンスが家から離れる分には、反対しないだろう。せめてあの子がもう少し成長するまでは、家から離さなければ」
「やっぱり、あの子を家から出して正解だった。誰もが、本性を露わにした。お父さまは『シャーリーこそが跡継ぎになる』と言い出したし、そのために私を虐げるようになった」
「お父さまの愛人は、お母さまにお父さまを奪われたことを今でも根に持っていて、会うたびに打たれるし、お父さまのいない日の食事には、残飯が出されるようになった。虫のようなものが混じっていたこともある。『毒なんて無いわ』と言いながら、食べられなければ、食べるまで蹴られた。シャーリーは、それを笑いながら見ている。それどころか『まぁお姉さま、美味しそうですね。うらやましいですわ』と皿に顔を押し付けられたこともある」
「嗚呼……私も家を出てしまいたい。でもそれでは、あの悪魔たちを見張る者がいなくなってしまう。あの子が一人前になって、せめて自分の身を守れるようになるまでは、私が我慢するしかない。あの子のためなら、きっとまだ、頑張れるわ」
「今日もシャーリーに、お母さまの形見を取り上げられた。宝石なんて付いていない、ただのロケットなのに。ドレスや宝石は良いけれど、あのロケットには、幼い私とローレンスが描かれた小さな肖像画が入っている。あれだけは、見逃してほしい……」
「ダメだった。あの小さな肖像画は、シャーリーが目の前で燃やしてしまった。不要だと、新しいものを入れるのだと言って。邸のロビーに飾られたお母さまの肖像画も外されてしまった。お父さまが、ご自分と愛人とシャーリーで並んでいるものと、入れ替えるのだと話していた。悪魔たちは、思い出すら、私たちから奪おうとしている」
「ようやく、学園に入学できた。これで日中は、悪魔たちから離れられる。ローレンスにも会いやすくなったし、マーシャル殿下も傍にいてくださる。これで、少しは安心できるかしら」
手記のターン続きます。