ルアーンの過去 2
それからルアーンは、男爵家での日々のことを話し始めた。
「母は優しかったけれど――いつだって、寂しそうにしていた印象ね。私が生まれるころには、父親も決められた相手と結婚したそうで、もう会いに来ることはできなかったのですって。そして私は、おとうさまと母、使用人たちに囲まれて男爵家で育ったの。おとうさまは、私に男爵家の令嬢としてだけではなく、いつか本当の父親が迎えに来ても良いように、たくさんの教育を施した。私は……何と言えばいいのかしら、きっと普通の子供だったら、同年代の子供たちと遊んだりしたがるのでしょうけれど、勉強漬けの日々が嫌いではなかったわ。学園に入学できる年齢に達する前から、おとうさまと領地の運営について議論するのが楽しかったくらい。おとうさまも、母も、私が学園でも上手くやるだろうと、そう思っていたみたいだけれど――結局、私が学園に通うことはなかった」
ルアーンは一呼吸する間に、瞳を曇らせた。
「私が十三歳のときに、母が事故で亡くなったの。そのときの葬儀で、私は――初めて、父親に会った。私の容姿は母に似ていたけれど、瞳の色が父親譲りだと言われていたから、似ていなくても、あの男が私の父親だと……一目で分かったわ」
父親似だというその美しい瞳に、憎々しげな色が浮かぶ。
「あの男は……誰もいなくなった母の棺の前で、号泣していたわ。えぇ、大の大人がみっともないと思うほど、悲嘆に暮れていた。十年以上、一度も会いに来ることができなかったけれど、こんなことなら無理やり抜け出してでも会いに来ればよかったと、そう言って棺に縋りついていた。そして私に気付くと……今度は私を抱きしめて、大泣きし始めたの。会いに来てやれなくてすまなかったと、何度も謝られたけれど、正直、その男がいなくても私の人生で困ることはなかったから、うっとおしいだけだった。それよりも、葬儀の場にいた誰よりも……父であるおとうさまや娘の私以上に悲しんでいるという態度だったことが、癪に障ったわ」
ルアーンの口調からは、とても親子が初めて顔を合わせた場面の話とは思えない、深い憎悪を感じさせた。
「男は周囲を見渡して他に誰もいないことを確認すると、懐からペンダントを取り出して――母の棺を開けて、亡骸の手にそれを握らせたの」
「えっ?」
あまりに突拍子もないルアーンの父親の行動に、驚いて声が出てしまったわ。
目を見開いて瞼を瞬いていると、そんな私の様子に、ルアーンは表情を一転させて、顔をほころばせた。
「うふふ、そうよね……。私も、あの日はぎょっとしたわ? いきなり棺の蓋に手を掛けるんだもの。十年以上会いに来なかったクセに、かつて愛した人の死に、頭がおかしくなったんじゃないかと疑ったわ。思わず後ずさった私の目の前で、ペンダントごと亡骸の手を握ってしばらくそうしていたけれど、やがて諦めたように首を振って、男は棺の蓋を再び閉めた。そして今度は……同じようにして、私の手にペンダントを握らせたの。これは代々父親の家の当主に伝わる聖具で、持ち主の願いを叶えるのだと――握らせたそのペンダントを私に持っているように男は言ったけれど、私は男からそんなものを貰いたくはなかったから、すぐに押しつけるようにして返したわ。胡散臭いというのも勿論あったけれど、あの男に願いを叶えてもらうなんて、真っ平だったから。……だけど、男のその行動は私の願いを叶えるどころか、全てを壊していった」
再び、ルアーンの表情が剣呑さを帯びたものになる。
瞳には、深い憎悪が色濃く渦巻いていた。
「あの男が自身の結婚後、母や私に一度も会いに来なかったのは、正しい行動だった。そのおかげで、私たちは彼の妻に見逃されていた。だけどあの日――男は、母の葬儀に来てしまった。どうしても、早すぎる最期を迎えてしまった愛する人に逢いたがった。そして終いには、当主の証である聖具を、かつての恋人のために使おうとし、それが叶わぬならば、娘である私に与えると言ってしまった」
そのせいで、ルアーンの生家であるストラウド男爵家は没落させられたのだと、彼女は淡々と語った。
男の家では、既に彼の跡を継ぐべき男児も生まれ、順風満帆な日々だったそうだけれど、当主の証をルアーンに与えようとしたということで、当主の座――跡継ぎの座を、隠れて産ませた娘に譲るという選択をしたのだと、男の妻に見なされた。
実際のところ、男がどんなつもりでペンダントを与えようとしたのかは不明だけど……その行為そのものが、男の妻の逆鱗に触れた。
男爵家は、次第に困窮していった。
立て直そうにも、裏から手を回した男の妻と、その女の実家が持つ力は強大で、とても男爵家が抵抗できるものではなかった。
そしてとうとう、ルアーンと彼女のおとうさまの命まで、狙われることとなった。
男爵家の邸へやって来た暗殺者が、男爵を自死に見せかけて、彼女の目の前で殺害した。
首をかき切られ、ナイフを握らされた男爵の手元に、男爵家の没落は自分のせいであると、その罪は己の命で贖うと書かれた偽の遺書が置かれるところまで、ルアーンは隠れ場所で息をひそめて全てを見ていた。
凍てついた瞳で淡々と語るルアーンを、抱きしめずにはいられなかった。
愛する人が、まだ少女だったころの出来事だという事実に、胸が締め付けられた。
彼女が今このとき、私の腕の中に存在していることが、嬉しかった。
こんな気持ちになることも、初めてだった。
それからも、彼女の物語は続いた。
没落した男爵家から逃げ出した彼女が転がり込んだのは、王都の暗部である貧民街だった。
追手も当然かけられたけれど、ルアーンはそれを上手く躱した。
もとより、既に彼女を守っていた男爵も死に、助けてくれる味方のいない彼女が、そんな場所で長生きできるとは思わなかったのだろうと、ルアーンは皮肉気に言った。
「おとうさまを失った私には、確かに後ろ盾なんて無かったわ。まだ学園にも通ってすらいない、無力で世間知らずな令嬢はすぐに音を上げて、逃げるのを止めるか、生活するために娼館に身売りするとでも思ったのでしょうね? きっと、探さなくてもすぐに見つかる算段だったんじゃないかしら。だけど、私には……人を従える才能があった」
そこでようやく、ルアーンの表情が愉しげなものに変わる。
「私は、街で燻っていたならず者たちの仲間入りをしたわ。そんな連中を束ねて、小さな悪事を積み重ねて生き延びていったの。スリ、恐喝、強盗……私は計画を立てて指示を出すことが多かったけれど、自ら手を汚すことも厭わなかった。だって、そうでなくては誰も付いて来ないもの。そして、そんな後ろ暗い行為にも、思わぬ才能があったのかしら? 成人するころには捕まるどころか、どんどんと勢力を拡大していったの。――欲と暴力の渦巻く世界で生き残った私に、面白い依頼が来たのは、そのころよ」
彼女の語る、男爵家没落後の生活を聞いて、嫌悪感のようなものは微塵も感じなかった。
活き活きと愉しそうな彼女の表情が……救いですら、あった。
きっと彼女にかかれば、どんなに乱暴な無法者でも喜んで従っただろうということは、容易に想像できた。
だけど……彼女の語る物語が、終着点に近づいていくにつれて、私の中に、嫌な想像が膨らんでいく。
この想像はきっと、私の考えを裏切らないだろうという、妙な確信があった。
そしてルアーンは、私の震える指先を両手で優しく包み、顔色を失くした私に視線を合わせて、聖女のように微笑んだ。
「依頼を受けて、誰とも知らぬ人間を脅して、暴行して、誘拐して――拷問したり、家畜のように殺すことは、最早日常となっていたわ。王都の裏界隈では、ちょっとした勢力だったのよ? 小金を握りしめてやって来て、夫の仇を取ってほしいという未亡人や、商売敵を失脚させてほしいという成金に、秘密を知った雇い人を消してほしいという下級貴族まで……たくさんの依頼が舞い込んでいたわ。そんな中で、とうとう大物が吊り上がった――それは、とある公爵家の令嬢からの依頼だったの」
嗚呼、嗚呼……!
「後ろ暗いことを依頼してくる連中でも、支払う金を惜しむことはよくあることだったわ? けれど、この令嬢の依頼は破格で、やって来た使者は値切る素振りすらなく、大金や宝石を惜しげもなく渡してきたの。それなのに依頼の内容と言えば、どこぞの令嬢を怖い目に遭わせろとか、そんな程度のものだった。殺しの依頼どころか、暴力沙汰になるような依頼は殆どなかったわね。――まぁ、相手は貴族の令嬢だったから、少しは腕の立つ護衛が付いていたこともあるけれど、そんな程度よ。大半の仲間たちは割の良い仕事に喜んだけれど、罠なのではないかと疑う者や、お嬢様のお遊びに付き合うのは止めようという者もいたわ? そんな声もあったけれど、私は――この令嬢からの依頼を、受け続けたの」
やっぱり……!!
「貴族の世界なんて、私が身を置いていた世界よりも後ろ暗くてドロドロとした陰謀が渦巻いている場所なのに、そんな中でも、自分の望みのために真っすぐと行動するこの令嬢の依頼を、気に入っていたの。ふふ、だって面白いのよ? 小さな家が買えるほどの額を支払っておいて、依頼内容と言えば、気に入らない他の令嬢を山小屋に数日閉じ込めておくだとか、そんなものなの。『いっそのこと殺しましょうか?』と使者に聞いたことすらあったわ? 返ってきた返事も面白かったの。『その方が簡単ならそれでも良いけれど、そう何人も学園に通う貴族の令嬢が不審死したら流石に妖しいから、数回に一度にしてほしい』ですって。うふふ……関わった令嬢が次々と領地に戻っていくのも十分不自然だけど、死んでしまえばそれ以上に悪評が立ってしまうだろうから、殺さず依頼通りに仕事をこなしたわ? だけど……令嬢の最後の依頼はそれまでのものとは違って、暴力に訴えるものだった」
嗚呼……。
私は、私は――
「令嬢の異母妹を襲撃して欲しいという依頼だったわ。公爵家の血を継いでいないのに、公爵令嬢としてのうのうと学園に通う異母妹が許せないと、生死を問わず惨たらしい目に遭わせるように、それまで以上の大金を令嬢は支払ったの。私も、ようやく金額分の仕事ができると、実力のある者を何人も送り込んだ。それなのに――私たちは、令嬢の依頼を果たすことができなかった。指示を出した私にも、向かった部下たちにも、驕りがあった。襲撃した令嬢の異母妹には、役に立たない公爵家の護衛の他に、王家の護衛が付いていた」
私は、なんてことを……!!!
「送り込んだ部下たちは全員殺され――そして捜査の手が回り、隠れ家にいた私たちも捕らえられたの。逃げられたのは、一握りでしょうね。そのまま処刑されると思ったけれど、私がストラウド元男爵令嬢だと知れると、この修道院に送られたわ。当然、父親の妻も、私が生きていたことに気付いたでしょうけれど……何故か殺されずに、今はここで貴女たちと暮らしているの。――私の話は、これでお終い」
ルアーンに握られた手が、ぶるぶると震える。
気付けば私は、再び大粒の涙を流していた。
駄目なのに、私が泣くことを許される立場じゃ、ないのに……!
「ルアーン……! ルアーン、ごめ、ごめんなさい……!!! 私、私のせいで――」
わななく私の身体にそっと身を寄せて、ルアーンは私の頭を撫でる。
彼女も瞳を潤ませていたけれど、美しいその顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「シィー。違うの、違うのよ、アンジェリカ……。貴女のせいなんかじゃ、決してないの。私と部下たちに起きた全てのことは、私の判断が招いたこと。それどころか、私たちが失敗したせいで、貴女まで――」
彼女が言い終わる前に、言葉を重ねる。
そんなことまで、彼女に言わせたくなかった。
「違う! ルアーンじゃない! 私が、私が愚かな依頼をしたのが悪いの! シャーリーなんて、捨て置けば良かった! あんな異母妹に構うことなんてなかった! マーシャルなんて、あんな男、誰と結ばれようが、そんなことはどうだって良かったのに! それなのに、そんなことのせいで、ずっと頑張ってきたルアーンの努力を、ぜんぶ、私が台無しにしてしまった……! あぁ……ごめんなさい、ごめんなさい、ルアーン」
雇ったならず者たちのことなんて、意識したことすら、ほとんどなかった。
依頼に成功したと聞いても、大金を払っているので当然だと思っていたし、失敗したと聞いても、そうか、としか思わなかった。
異母妹は害虫のようにしぶといのだと、納得すらしていた。
次はもっと金を積んで、実績のある他の連中に頼めば良いと、そう思っていた。
シャーリーに王家の護衛まで付いていたなんて、知らなかった。
あの女の襲撃に失敗した彼らがどうなったのか、捕まった彼らがどうなるのかなんて、考えたこともなかった。
金で雇った、使い捨ての者たち。
その中に、ルアーンがいたなんて。
他の人々も、ルアーンと共に行動して、傍で支えていた、彼女の大切な仲間たちだったのに。
彼女の生まれたときからの努力も、生き延びるための仕事も、支えてくれた仲間も……全部全部、私が奪ってしまった。
愛する人の人生を、奪ってしまった。
ルアーンは、こんな修道院に押し込められるような人では、ないのに……。
泣きじゃくる私を抱きしめて、ルアーンは言う。
「今の話をしたのは、貴女を責めたり、苦しめたかったからではないのよ? この修道院に送られる前から、処刑されると思っていた時ですら、アンジェリカを恨んだり、後悔したことはないわ? 来るべき時がようやく来たのだという、ただそれだけのこと。部下たちも……元々社会からはみ出した連中ばかりだもの。殺されて当然のことをしてきた人間ばかりで、いつ命を落としても仕方ないし、その覚悟もしていたわ? ――だから、アンジェリカが後ろめたく思うことなんて、一つもないの。愛するあなたに、私の全てを知っておいてほしいから、だから話したの」
「……ぐすっ」
ルアーンに諭されながらも、嗚咽を漏らす私を見て、彼女は苦悶の表情を浮かべつつ、きっぱりと言った。
「後ろめたいのは、私の方。この修道院に貴女が来ると知ったとき、話すべきなのか悩んだわ? そして、貴女が修道院にやって来たのを見たとき――その瞬間、私が部下の言うことに耳を貸さず、何故貴女の依頼を受け続けたのか……分かったの。きっと、貴女に出会うために、私は生きてきたのだと」
「ルアーン……」
「一目見たときから、愛しているわ、アンジェリカ……。だけど、公爵令嬢として育った貴女と私では、何もかもが違い過ぎる……。それなのに、貴女が修道院にやって来て、共に暮らせることを幸いだとすら、思ってしまったの! 私は、もう既に貴族ですらない私生児で、捕らえられたならず者たちの元締めで……そして、貴女の願いを、叶えてあげられなかったのに……。あの日私も、貴女の異母妹のところへ向かえばよかった! 貴女を苦しめる小娘なんて、この手で切り刻んでやればよかったと――」
「いいの! もういいのよ、ルアーン」
顔を上げ、ルアーンの言葉を断ち切る。
彼女の美しい瞳からも、いつしか涙が溢れていた。
涙が伝う、彼女の滑らかな頬に、唇を寄せる。
ルアーンのことならすぐに取り乱してしまう自分が滑稽で、だけどそんな自分なら、愛することができるかもしれない。
この感情は、愛する彼女が教えてくれたのだもの。
「そんなこと、もういいの……! 私は、ルアーンが生きていてくれて、私に出会ってくれて、私を愛してくれている……それだけで、嬉しいの。生まれなんて、過去の行いなんて、関係無いの。ここにいるのは、ただのアンジェリカと、ただのルアーン、なのでしょう? ――それに、生きていれば、復讐の機会も残されているから、諦めるのは、早いのでしょう?」
「アンジェリカ……」
「あら、貴女の言葉よ? ルアーン。ねぇ、貴女をここに送った連中だって、貴女が幸せに暮らしているのを見れば、きっと悔しがるわ? それって……とても愉快なことよね?」
私の言葉に、ルアーンは透き通るような笑みを浮かべ、頷いた。
「愛しているわ、アンジェリカ」
「愛しているわ、ルアーン」
いつしか夜は明けていた。
朝日に照らされ始めた室内では、燃え尽きた蝋燭も気にならなかった。
だけど……流石に疲れてしまったわね。
明るさを増していく室内で、私たちは同じ寝台に寝ころび、向かい合って眠りについたのだった。