ルアーンの過去
ルアーンの言葉を、これまた不思議なことにすんなりと受け入れられた私に、彼女は視線を合わせたまま、不安そうに切り出した。
「それで……あの、ね? 私がアンジェリカの事情を一方的に知っているのは、良くないと思うの。だから……アンジェリカ、私のことを、私がこの修道院にやって来るまでの話を、聞いてくれるかしら?」
問いかけながら、窓や燭台、そして寝台へと、視線をあちこちに彷徨わせては私の瞳を覗き込むことを繰り返すルアーンの頬に手を添え、唇を重ねる。
「嬉しいわ、ルアーン。貴女のこと、たくさん教えて?」
顔を少しだけ離して、浮かべた笑みを見せても、ルアーンの不安げな表情は変わらない。
潤む瞳の横に、唇を寄せる。
今度は私が、ルアーンを安心させる番だと思った。
それに、彼女のことを知りたいのは、私の方。
ルアーンは私に縋りつくように抱きつくと、再び口を開いた。
「受け入れて欲しいわけじゃないの。ただ……アンジェリカには、知っておいてほしいの。公爵令嬢として過ごしてきたアンジェリカだもの。きっと……思いもよらないことで、理解できなかったり、嫌に思うこともあるわ? でも、私……、アンジェリカに嫌われたくないの……」
ゆるゆると首を振るルアーンの頭を、たどたどしい手つきで撫でる。
「私は絶対に、ルアーンのことを嫌ったりしないわ。だけど……そうね、驚いてしまうことも、あるかもしれない。でも、聞いたことを後悔したりなんか、しないわ。だって、今ここにいるのは、もう『公爵令嬢』じゃないんだから」
「アンジェリカ……」
私の言葉に、ルアーンは顔を上げて、ようやく少しだけホッとしたような表情を浮かべた。
いつも頼りがいのあるルアーンのこんな姿を、私だけが目にしているという優越感に浸ってしまうけれど――彼女がこれから語る物語は、私の想像を遥かに超えていたのだった。
***
「私は、もう既に没落して無くなってしまった男爵家の令嬢の娘なの。男爵家にいたころは、どこの馬の骨とも知れぬ男の、卑賤な血を引く私生児だと、親戚連中に蔑まれたものだわ? ふふ……いっそのこと、昔勤めていた庭師の男が父親で、いつか母と私を迎えに来て攫ってくれることを、夢見たこともあったくらい。だけど実際のところ、本当の父親は……男爵家などとは比べ物にならないほど、高貴な生まれの男だった。母も父親も相思相愛の仲だったそうだけれど、当然、互いに愛し合っていることは公表できず、結婚など夢のまた夢で……出会ったことすら、秘されていたそうよ。血が繋がっていようと、一度しか顔を合わせたことのないその男は、私のおとうさまではないわ? うふふ……、そう、だから私のおとうさまは実父ではなく、私を養女にしてくれた母の父親なの。血縁で言うところの祖父が、私の育ての親だった。――だから私は、元男爵令嬢なの」
「そう、だったのね……」
彼女の出生には驚愕したけれど……私はこの話を聞いて、不謹慎ながら、大いに納得していた。
ルアーンの、彼女の高貴さを感じさせる所作の理由が、解ったから。
きっと、彼女の『おとうさま』は、不幸にも男爵家で生まれるしかなかった彼女のために、本来の血筋に相応しいように必要な教育を施したのでしょう。
彼女の出自とよく似た話は貴族社会でよく聞くし、私のごく近しいところでも似た境遇の人間がいたけれど……だけど、ルアーンの賢く洗練された立ち振る舞いや人格は、そんな人々とは一線を画している。
「生まれで言えば、私は憎いシャーリーと同じね。……だからその点についてだけは、とやかく言えた身ではないのだけど」
ちょっと、ルアーンは何を言っているの!?
「そんなことない! ルアーンは、あんな女とは違うわ! お金が無かったわけでもないのに、他人の物を何もかも欲しがって周囲に媚びる女と、ちょっとくらい生まれたころの境遇が似ているからって、たったそれだけのことだとしても、あんなどうしようもない女と、立派に育った貴女を、同列にしないで頂戴! ルアーンの『おとうさま』にも失礼だわ!」
私の剣幕に驚いた表情を浮かべたルアーンだったけれど、しばらくすると、彼女は安心したように、ふにゃりとした笑みを浮かべた。
「うふふ……ありがとう、アンジェリカ。貴女にとって、生まれはとても重要なことだったでしょうに、そう言ってくれて、本当に嬉しいわ」
言うなり、ルアーンは再び私に、ぎゅうとしがみついた。
「愛しているわ、アンジェリカ。ねぇ、私……思うの。許し難い連中ではあるけれど、私の両親や、アンジェリカの父親とその愛人、王太子やシャーリーも……こんな風に、『愛』のために行動したのではないかと、そう思うのよ」
「え……?」
「どれほど周囲が許さなくとも、そんなこと関係無いくらい。己を縛るどんな柵も、どうでもよくなってしまうくらいに――『愛しているから』、だから、そのせいで生まれる他者への不幸すら、許容できるのではないかしら?」
「ルアーン……」
「うふふ、随分と都合の良い理由付けが過ぎたかしら? それこそ、同じじゃないって怒られちゃうわね」
照れたように笑うルアーンから、己へ向けられた言葉に舞い上がるのと同時に、どのように返すべきなのか、悩んでしまった。
――『愛』という感情は、私には縁遠いものだったし、それについて考えてみたこともなかったから。
私の中にあったのは、常に『欲しい・欲しくない』『気に入る・気に入らない』という単純な思考だった。
恋愛小説を読んだり、演劇を観ても、内容に感じ入ることはなかった。
それらは私にとって、ただひたすらに流行りの話題だからという理由であったり、文体や挿絵の美しさ、舞台俳優や衣装、装置の優美さを楽しむためのものだった。
『愛』はただ、そこに加わるスパイスの一つでしかなかった。
父が母に向けなかった愛。
母が弟に向けた愛。
父が妾やシャーリーに向けた愛。
マーシャルとシャーリーが互いに向ける……愛?
だけど私には、誰からも向けられることのなかった、愛。
私を取り巻く『愛』は、どれも私を不幸にした。
与えられたいと思ったことも、昔はあったのかもしれないけれど。
今はもう、そんなこと、どうだって良い。
今まで、私が誰かを愛することもなかった。
家族に抱いていたのは、同じ公爵家に属する者に対しての、僅かばかりの情。
私がマーシャルに向けていたのも、決して愛ではなかった。
ただ、美しく優秀な男を、自分のものにしたかったというだけのこと。
夫にするのなら、両親の二の舞は御免だったので、父のような愚かな真似ができないように、手を打ったというだけだった。
私がルアーンに抱く気持ちとは、比べるまでもない。
彼女が私に告げる「愛している」という言葉は、きっと恋愛というものに属しているのだと思う。
本来、異性に対して向けられる感情だけど……とうとう私たちも、この修道院にいる修道女たちに毒されてしまったということかしら。
だけどこの気持ちは――そんな生易しいものでは、決して、ない。
美しい彼女が、欲しい。
ずっと、傍にいたい。
柔らかく温かな身体、優しい手も、声も――彼女の全てを、私のものにしたい。
彼女が関心を向ける先が、全て私であってほしい。
そして私の全てを、彼女に与えたい。
この気持ちは、私の最も身近なもの。
この『欲』は――私が最も良く知る感情だ。
目に留まった全てのものを欲しがった私の欲深さは、並大抵のものではない。
その点では……そう、確かに私は、卑しく貪欲なシャーリーのことを言えないのかもしれないわね?
だけど、この気持ちを『欲』と呼ぶには、品がない。
だけど、この感情を『愛』と呼ぶ以外に、言葉を見つけられない。
だから、この狂おしいほどの『欲』も――きっと、『愛』なのでしょう。
ルアーン。
私に初めて、愛を向けた人。
私が初めて、愛した人。
私はただ――彼女のすべてが、欲しかった。
ルアーンが、愛におぼれたのではないかという、彼女のご両親や、私の父とその愛人、マーシャルとシャーリー……彼らも、こんな気持ちだったのかしら?
自分たちさえいれば、他はもうどうでも良いという……この気持ち。
もしそうだとしたなら……許せない気持ちに変わりはないけれど、ほんの少しだけ、彼らのことが解った気がした。
だけど――そんな連中のこと、今はどうだって良い。
しばし悩んで、ようやく口にした私の言葉は、ただひたすらに真っすぐなこの気持ちだった。
「私も、ルアーンを愛しているわ。貴女の全てが欲しいし、貴女に私の全てを差し出したい」
視線を合わせ、真剣に告げると、みるみるうちにルアーンの瞳に、熱が籠る。
「アンジェリカったら……、悪い子ね、そんなこと言われたら、私――」
言い切る前に、力強く抱きしめられ、唇が重なった。
うっとりと身を任せていると、しばらくして渋々……といった表情を浮かべたルアーンに、身体を離される。
「いけない、うっかりアンジェリカを堪能してしまうところだったわ……。まだ、私がこの修道院にやって来るまでの話が途中よね? アンジェリカ、もう少しだけ付き合って頂戴ね」
そう言って瞳を潤ませるルアーンに、一つ頷いた。
話が途中どころか、まだ生い立ちを聞いただけだということは、指摘しないでおきましょう。
ルアーンの出自について触れていますが、ルアーンとアンジェリカは姉妹ではありません。念のため……。
(それ以上のことは物語の展開上、ご説明いたしかねますこと、ご理解いただけますと幸いです)