諭し
不思議な心地だった。
ルアーンが私を求めていたようにも思うし、私の方こそが、ルアーンを求めていたのかもしれない。
でも、きっと――本当は多分、その両方。
私たちは、どちらも、互いを求めていた。
何度も角度を変えては重なる口づけを、ルアーンと交わす。
ようやく離れたころには、夕日に照らされていた部屋は、いつの間にか夜の帳に包まれていた。
「……あら、いけない。すっかり暗くなってしまったわね。……とりあえず、顔を洗いましょうか。待っていてね、今、お水を取って来るから――」
「ルアーン」
ぼんやりと身体を起こし、部屋を出ようとしたルアーンを呼び止める。
ちっとも私らしくないけれど、言っておきたいことがあった。
「慰めてくれて……ありがとう」
彼らへの恨みが、消え去ったわけではない。
だけど、耐えきれなくて、身体から溢れてしまった行き場のない気持ちが少し、マシになっていた。
これはきっと、ルアーンがずっと、私の傍にいてくれたおかげだと思う。
私の言葉に、ルアーンは一瞬だけ破顔したけれど、すぐに頬を膨らませた。
「お礼は嬉しいのだけど……全部が全部、貴女を慰めるためのものだと思ってもらったら……嫌よ?」
「……わかってる。ちゃんとわかってるわ、ルアーン」
いくら私でも、彼女の親切や優しさを、性格や友情によるものだとは思っていない。
私が彼女に抱く気持ちも、そんなものでは――決して、ない。
「大好きよ、ルアーン。ずっと傍にいてくれて、ありがとう」
あれだけの醜態を晒しておきながら、素直な言葉を伝えるのは、とても恥ずかしかった。
部屋が暗くて助かったと思いながら、ルアーンを見上げると――
「私も、愛しているわ、アンジェリカ。……すぐに戻ってくるから、待っていて頂戴ね」
昏い瞳を月明かりにきらめかせ、ぞくりとするような妖艶な微笑みを私に向けると、ルアーンは部屋から出ていった。
想像以上に衝撃的な言葉と表情を脳裏に焼き付けられて、私は思わず、枕に頭をうずめたのだった。
***
暗くなった部屋に、蝋燭を灯す。
宣言通り、大した間もなく洗顔用の水桶や、パンやスープなどの食事を器用に持ってきたルアーンは、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。
「はい、チーンってしましょうね」
「口を開けて頂戴ね。はい、あーん」
鼻をかませ、濡らした清潔な布巾で顔を丁寧に拭い、スープや小さく千切ったパンを私の口元に運ぶルアーンは楽しそうだった。
私は寝台から一歩も動くことなく、まるで雛鳥にでもなった気分だけれど。
食後には、温めたミルクに蜂蜜を溶いたものまで渡されて、すっかり身体がぽかぽかと温まった。
ルアーンはというと、私にカップを渡すと自分は背後に回って私を凭れ掛からせ、幼子が大きなぬいぐるみにするように、背後からぎゅうと抱きしめる。
しばらくそうされているうちに、私はポツポツと、これまでのことをルアーンに話し始めていた。
一度口を開いてしまえば、もう止まらなかった。
公爵家の長女として生まれたこと。
母は、二歳違いの弟にばかり、かかりきりだったこと。
私が跡継ぎになれなかったこと。
全ての期待が、弟にだけ向けられていたこと。
弟とは、同じ邸に住んでいたころから、疎遠だったこと。
跡継ぎのくせに、家を放り出して騎士を志したこと。
父は、公爵家や母を恨み、家を顧みなかったこと。
婿の分際で、公爵家を乗っ取ったこと。
妾との間に生まれた異母妹だけを可愛がり、邸に母娘を引き入れたこと。
異母妹が気に入らなかったこと。
同じ空気を吸えるだけでもありがたがるべきなのに、それでは足りぬとばかりに、全てを奪い取っていったこと。
彼女が周囲に取り入っていったこと。
美しい王太子が欲しかったこと。
私の伴侶に相応しいと思った男が、この国では彼しかいなかったこと。
だけど彼は、私を選ばなかったこと。
取り巻きがたくさんいて、学園は私の天下だったこと。
邪魔者を、次々と排除していったこと。
卒業パーティーの日、王太子と異母妹に嵌められたこと。
大勢の前で糾弾され、無様に床へ転がされたこと。
私よりも何もかもが劣っている異母妹が、王太子妃に選ばれたこと。
王太子と異母妹が、睦まじそうに見つめ合っていたこと。
取り巻きたちにあっさりと見限られたこと。
父は、異母妹ばかり見て、私のことなど見向きもしなかったこと。
信じていた弟に、裏切られたこと。
浴びせられた怒声、かけられた冤罪……私を捕らえた騎士たちは容赦なく、打ち身は痣になったし、髪飾りごと押さえつけられた頭皮からは血が流れ、傷が残ったこと。
――悪夢のような夜を超えても、悪夢は終わらなかったこと。
公爵家の権力など、まるで無かったかのように扱われたこと。
尊厳は奪われ、好き放題に大衆紙に報じられ……結末の決められていた裁判では、更に辱められたこと。
親戚連中は、まるで役に立たなかったこと。
送られた修道院は、思っていた以上に居心地が良かったけれど――それでも、こんな目に遭わせた連中を許せないこと。
長い……長い自分語りの間、ルアーンは時折相槌を打ちながら、私を抱きしめ、頭を撫で、髪を梳いた。
怪我の話に触れたときには私以上に憤り、繰り返し傷跡の辺りに口づけを落とした。
「私をあんな目に遭わせたマーシャルとシャーリーの結婚が、国中の人間にこんなにも祝われるなんて、理解できないし、我慢できない。……どうして、私が、こんなに惨めな気分にさせられなければいけないの?」
何故こんなことになってしまったのか、一体どこから歯車が狂っていたのか、私にはわからなかった。
私には、私を取り巻く世界が、急に掌を返して裏切ったようにしか思えなかった。
ルアーンは、私の疑問を解消するために、丁寧に説明していった。
「気を悪くしないで頂戴ね?」と前置きされたけれど……彼女の言葉は、私の行動がどれほど無謀なことであったのか――否応なく突きつけた。
「まず……公爵家の権力がどれだけ強かろうと、婿とはいえ当主の座に就いている父親に関心を向けられていない令嬢と、実績もあり周囲に認められている次期国王の持つ権力には、絶対的な差があるわ? だから……真正面から、王太子と戦うことは、はじめからできないの」
「それ、は、そうかもしれないけれど……。だけど……! だけどシャーリーは!」
王太子と敵対したことが駄目なのだと言う、ルアーンの言葉は理解できる。
だけど私にとっては、邪魔な異母妹を排除したかっただけなのに。
私とシャーリーの問題に関わってきたマーシャルが、そもそもおかしいのに。
「シィー。……わかっているわ。突然現れた平民上がりの異母妹が気に入らないのも、その女をどうしようが、公爵令嬢のアンジェリカが責められる謂れは無いわ?」
シャーリーを厭う私の気持ちを認めたうえで、だけどルアーンは首を横に降った。
「だけど、正当な血筋ではなくても、正式な手続きを経て認められたのなら、その娘は誰が何と言おうと公爵令嬢なのよ。だって……そうでなくては、跡継ぎのいない家の養子が認められないことになってしまうもの」
ここでルアーンは、私が受け入れられなくとも……『シャーリーは公爵令嬢である』という事実を念押しして、話を進めた。
彼女の言葉は受け入れ難かったけれど、だけどルアーンの言葉は、するりと耳と心へ入り込む。
「シャーリーが何故気に入られているのか、それは私にはわからないけれど……。だけど、彼女が公爵令嬢として認められているのなら、王太子妃の資格としてはそれで十分。顔の良さで選ばれた、どこの生まれかもわからない孤児ですら、高位貴族の養子となって王族に嫁入りした例もあるわ?」
だから公爵令嬢となったシャーリーが、王太子妃に選ばれたことも不思議ではないと、ルアーンは言う。
顔の好みなのか、貴族令嬢らしからぬ所作が受けたのか、身体で篭絡したのか――そんなことまではわからずとも、マーシャルがシャーリーを選んだという事実に変わりはなかった。
「そして『他者へ危害を加えてはならない』と、きちんと法で定められているわ? 勿論、相手が貴族か平民かで、対応も変わるけれど……。だけど、法そのものは、身分に関わらず適用されるものよ。今までアンジェリカが何も言われなかったのは、相手が公爵家の顔色を伺って、訴えなかったというだけのこと。階級社会ですもの、慣習もあって訴えられなかったという方が近いかしら? それに、たとえ訴えがあったとしても――力のある公爵家なら、『無かったこと』にするのも容易よね?」
やっぱり、私を守っていたのは、公爵家の力だった。
だけど――
「だけど、より強い権力を持つ王太子の訴えですもの。当主である公爵本人が相手ならいざ知らず、ただの令嬢であるアンジェリカでは……彼が大切に庇護している娘、それも、王が王太子妃として認めた女を『害した』と言われてしまえば、もうそれだけで『罪』として成立してしまうわ? ――貴女がいたのは、そういう世界でしょう?」
だから私は、マーシャルがシャーリーを気に入った時点で、手を引かなければならなかった。
「それに加えて、貴女のシャーリーへの行いは『公然の事実』。……勝ち目は、無かったのよ。」
公爵令嬢が公爵令嬢を害したという事実を、王太子が訴えた。
元々勝てない力関係だったことに加えて、『冤罪』などではない、周囲が納得する正当な理由があった。
だから――私は、彼らに負けた。
「はじめから当主である父親が貴女を庇わないことは解っているし、弟が暴れる可能性も低い。生まれ持った権力も、周囲の支持も、積み上げた実績も、自分たちを正当化できる理由も、全てが揃っているのだもの。だから、シャーリーが王太子妃に選ばれたという、婚約発表のためのパフォーマンスに丁度良かったんだわ? 王太子もシャーリーも、聞いていれば随分と性悪なようだもの。貴女がもがき苦しむ様を、余興の一つとして楽しんだだけなのよ」
「そんな……ことの、ために?」
彼らの婚約発表の前の余興として、華を添える……たったそれだけのことのために、私は多くの貴族の眼前で断罪されたというの?
「首を切られなかったのが、その証拠だわ? アンジェリカが公爵令嬢だからということを差し引いても、この修道院に送る程度で済ませたということは、邪魔者を排除して、ある程度屈辱を与えれば、それで十分……ということではないかしら? そしてそれにも飽いたから、裁判で顔を合わせることも無くなった」
結局、私に対して彼らが抱いていた想いというのは……その程度のことだった、ということなのね。
「貴女への仕返しよりも、『悪を退治した』という、ちっぽけな正義感を満たしたかったのよ。だから大事にして、周囲を焚きつけて、貴女の所業を国中に周知した。『悪女アンジェリカを打倒し、真実の愛を貫いた王太子夫妻』――こんな肩書が欲しかったのではないかしら? そして、彼らを支持することは、権力と正義の側に立つということ。何よりも簡単な方法で、御大層な名分を得られるのだもの、誰だって飛びつくわよね? 安全なところで、悪女の自業自得だと嗤い、己の糧にする。――貴女一人の不幸で、皆が幸せになる。だから誰も、貴女を守らなかった」
ルアーンの言葉は、私が決して認めたくない真実だった。
打ちのめされる私に、ルアーンは甘く囁く。
「可哀想なアンジェリカ……。私は、貴女の考えや行動を、否定したりしないわ。貴女は、何も悪くない。ただちょっと……方法を間違えたというだけ」
「ルアーン……」
振り返る私の額に、ルアーンが口づけを落とす。
温かく優しい抱擁に、身を任せる。
「欲しいものを手に入れ、望みを叶えるために、己を貫く姿勢は素敵よ? だけど……狡猾な連中に勝つためには、感情のままに権力を振りかざすだけでは、駄目。もっと賢く、もっと緻密に、もっと残酷に……。そうでなければ、身を守れない。偽り、騙して、欺くの。望まない結末を変えるためには、貴女も変わらなければ。生きているということは、復讐の機会は残されているということ。まだ……諦めるのは、早いんじゃないかしら?」
「でも……」
「うふふ、深く考えなくても良いのよ。どうせ、すぐにどうにかできるものでもないわ? アンジェリカがこの修道院での生活を気に入ってくれているなら、それはそれで嬉しいの。私は、アンジェリカとずっと一緒にいたい。だけど……少しくらい、張り合いがあった方が、もっと人生を楽しめるんじゃないかと、そう思ったの」
月の光を湛え私を見つめる、ルアーンの力強い瞳に、魅入られる。
今まで……誰も私に、こんなことを言ってはくれなかった。
彼女の言葉は、私の深い……とても深いところに、すとんと落ちた。
「――そうね、ルアーン。貴女の言う通りだわ」