働かせてください!
怒りの籠った大人の男の声だ。
恐る恐る振り返ると、真っ先に目に入ったのは、ギラリと銀色に光る、刃渡り30センチはあろうかという小刀の剣先と、その柄を握る筋肉質の浅黒い手だった。
「…っ」
思わず息を呑む。
無精ひげと、灰色のもじゃもじゃの長い前髪のせいで、ほとんど人相が読み取れない。
けれど前髪の隙間から覗く緑色の眼が、今にも射殺さんばかりに鋭く睨みつけているのはよく分かる。
長い灰色の髪を後ろで括り、ケープ状の頭巾は被らずに背中に垂らしている。その下は膝まである長衣を太い皮のベルトで絞り、背中には弓らしきものも背負っている。
上背は180以上あるのではないだろうか。服に覆われているけれど、スレンダーながら筋肉質な体つきなのが分かる。
「コソ泥棒のガキ、さっさと失せろ」
兎を横取りしようとしたことを言っているのだろう。男が忌々しそうに、茉莉花の足元の外された罠と、そして血の付いた岩を一瞥する。
ワンワンワンワン―――!
獲物の場所を教えるように吠える犬の声に、男はもう一度、「失せろ」と、ナイフをこちらに向けたまま顎をしゃくってくる。
後ずさる茉莉花をそのままに兎の側で吠える犬の所まで行くと、犬を「よーしよし」をひとしきり撫ぜてから、しゃがみ込んで兎を手に取って検分する。
「血まみれにしやがって」
不機嫌そうに吐き捨てると、兎を袋で包んで肩に掛けると、茉莉花の存在など欠片も興味も無いとばかりに立ち去ろうとする。犬も飼い主を追いかけていく。
「あ、あの…っ!」
気付けば、思わず声をあげていた。
もし人と出会ったら。
人が住む集落に辿り着けたら。
どうすればいいのだろうと、ずっと考えていた。
自分は身寄りも何もないただの子供で、一人で生きていく術なんて何もない。
ましてや家族を襲った一味の事を考えると、迂闊に人里に出ていいかどうかも分からない。なぜ家族が殺されたかも分からない。
けれど、このまま森の中で、一人きりで生きていけるとはとても思えなかった。
今はまだ気候が良いからなんとかなるかもしれない。でも遭遇こそしていないけれど、森の中にはオオカミや熊などの危険な動物だっているはずだ。
冬になれば雪も積もる。
そんな事が頭の中をひたすらグルグルと巡る。
こちらが悪いとはいえ、いきなり小刀を突きつけるような男は怖い。
怖いけれど。
それでもやっと、やっと会えた人間なのだ。
「わ、私を…、弟子にしてください!」
気付けば、そう叫んでいた。
今を逃したら、次はいつ人間に会えるかもわからない。
そんな気持ちが、ひたすら茉莉花を駆り立てていた。
「はああ?」
男は、ギョッとしたように立ち止まると、胡乱な眼をして振り返る。
「何バカなこと言っている、失せろと言ってるだろうが、殺されてーのか」
とだけ言うと、またもや背中を向けて歩き出してしまう。
当然の反応だ。
……だけど。
(それで諦めるぐらいなら最初から言い出さないよ。……こっちは藁をもすがる思いなんだから)
ぐぐっと奥歯を噛み締めてから、立ち上がると、立ち去る男の後を付いて歩き出した。
男は、後を追ってくる茉莉花の気配を察してはいるのだろう。
それでも何も言わないのは、相手にしてられないという意思表示か、それともついて来れるはずがないと高をくくっているのか。
それでなくても大人の男のコンパスだ。見失わないためには小走りになる。
見通しのきく草原の内はまだ良かったが、足場の悪い岩場や、暗い森の中に入られてしまうと、それこそ食らいつく勢いで走っても見失いそうになる。
それでもなんとか付いていく事ができたのは、ここ数日の森暮らしで鍛えられたのが一つ、そしてもう一つは。
このクラリベルの身体は、思いのほか身が軽い。
お嬢様育ちで、ろくに運動らしいことをしてこなかった上に、栄養状態も良くないにもかかわらずだ。
同じ6歳くらいの頃、一日中外で転げまわっていた茉莉花と遜色ない。下手するとそれ以上に身軽で、筋力があるかもしれない。
もしかして、この世界の人間の特徴なのだろうか。
それもあって、木の根や、むき出しの石だらけの薄暗い森の中も、尖った岩とつる草に覆われた荒野もなんとかついていく事ができた。
けれど、さすがにろくに足場のない谷川―――しかも流れがかなり速い―――を、大人の体格と同じように乗り越えるのは難しかった。
水の中から点々と飛びでている岩を、ひょいひょいと身軽に飛び越えて川を渡る男に、さすがの茉莉花も、この身の丈では厳しいと認めざるを得ないけれど。
それでも、なんとしても付いて行きたい―――。
その一心で、まずは近場の石に飛び移った。
石が濡れて、かなり滑りやすい。それでも焦る気持ちのまま、一つ、もう一つと、飛び移ろうとして―――。
ズルリ―――!
(しまった…っ!)
滑った―――。そう思った次の瞬間、派手な音を立てて川の中に見事に滑り落ちていた。
「が、がばッ、がばご、ごぼぼぼ…!」
まずい! 思ったより流れが速い―――!
滑り落ちる瞬間、必死で近くの岩を掴んだものの、濡れているせいか、つるつるとして今にも指が離れてしまいそうだ。
なんとか両手を使って岩によじ登りたいけど、予想以上に急な流れと、岩にぶつかった飛沫がもろに顔に当たるせいで、上手く息継ぎが出来ない。
『川は、一見穏やかに見えても、実際に入ってみると見た目よりも深く、流れが複雑で速い事が多い』
習ったのは小学校の理科だったか。
本当にその通りだった。
―――せいぜい腰くらいまでの川だと思ったのだ。
こんな急な流れの川、茉莉花だって厳しかったかもしれない。泳ぎはそこまで得意じゃなかったし。
しかも今は、このやたら重く、ふんだんに布を使った広がる服と、6歳児の小さい身体なのだ。
(だめだ、もう、指が―――)
痺れて来た指先に必死に力をこめつつも、水圧に押されて、今にも離れてしまいそうになったその瞬間。
ふいに、両腕が何かに強く掴まれたのを感じたかと思うと、そのまま強い力でぐいっと身体ごと引き上げられた。
「……っ!」
最初に目に入ったのは、後を追っていたはずの狩人もどきが着ていた長衣と、太い皮のベルトだった。
(助かったーーー)
「げほっ、げほっ、ごほっ、げぇぇ…っ」
さんざん呑んだ水のせいで激しくむせていると、力強い腕に胴を掴まれ、そのままひょいっと身軽に小脇に抱えられてしまう。
「まったく無茶をする…」
ため息のような声が聞こえてきてーーーあまりの安堵と、激しい疲労と、奪われた体温に、意識が遠のいた。
*****
目を覚ました時、真っ先に目に入ったのは、煤けた天井に通された、黒塗りの太い梁だった。
(ここ、どこだろ……)
茉莉花の部屋は木目の天井だったはずだ。
意識がふわふわとしている。
半ば夢見心地のまま、自室を思い浮かべる。
ちなみに壁は和室によくある砂壁だった。それが嫌で布で隠そうとしたこともあったりした。……布が足りなくて半端にってしまったけれど。
そう言えばカーテンを買ってきたはいいが、障子の木枠がじゃまで、そもそもカーテンレールが取り付けられなかった事もあった。
どうも昔から詰めが甘いと言うか、大雑把というか。
綺麗なハンカチを集めたり、手芸セット買ってみたりしたけれど。結局使うのは汗拭き用のタオルばっかりだったり。
(ぬいぐるみの手作り用のキットなんて、三日坊主どころか2時間も経たずに放りだしたもんなあ)
人並みに、可愛くて綺麗なものに憧れる気持ちはちゃんとあるのだ。ただどうにも、大雑把だったり、繊細さに掛けたりと、実が伴っていないだけで。
(これでも自分では、見た目の割に女らしいところもあると思ってたんだけどな)
ふわふわと、高校時代を想いながら苦笑する。
(まあ……、見た目はね)
背は高いし、筋肉質で体格も良いし、お世辞にも“可愛い”とか、“華奢”とか言われるようなタイプではない。
(でもその点、クラリベルは違うもんね)
子供だし、あまりはっきりとは覚えていないが、くるんとしたウェーブの長い髪に、いつもヒラヒラの服着た、正真正銘のお嬢様だった。
周りの人にも可愛い、可愛いと褒められていた。
(きっと本当に可愛いんだと思う、クラリベルは……)
そうだ、クラリベル……。
クラリベル―――!?
不意に一気に記憶が蘇る。
そうだ、狩人もどきを追いかけて、川で溺れかけて。
それを、助けてもらったんだ―――。
慌てて起き上がる。
寝かされていたのはベッドだった。切り出した木材を丹念に削っただけの、素朴でがっしりとした造りのものだ。帆布みたいな布で包れた、布団や枕の中身は藁らしく、ゴワゴワとしている。
ベッドから下りようとして、思わず躊躇する。裸足だったからだ。
床は板敷きだったが、おが屑や藁が散らばっていて、靴無しで歩くのはためらわれる。
だが床以外は、きちんと整頓された居心地の良さそうな部屋だった。
一方の壁に壁をくり抜いてガラスをはめ込んだ小さな窓、青く塗られた木製のドア、窓と反対側の壁には、作り付けらしい戸棚。その前に敷かれた布の上で、さっきの犬が丸まって寝ているのが見える。
部屋の中央にはベッドと同じくむき出しの木材のテーブル、その上には布が広げられクラリベルの剣が置いてあった。
さらにその奥の壁を大きく占めるのが、灰色のレンガで作られた大きな暖炉だ。赤々と燃える火には小さな鍋が掛けられている。そのせいか部屋中に甘い匂いが漂っている。
だが、それよりも何よりも、茉莉花が目を剥いて凝視したのはその上だ。
暖炉前を横切るように、梁から紐が通されていて、そこにクラリベルの服や下着(シュミーズやズロースまで!)が掛けられ干されているではないか。
(え……、じゃ、じゃあ私今何着てる訳…?)
恐々と目線を落すと、ごわごわした麻のシャツを着ている。シャツと言っても丸首に胸元をひもで結ぶだけの簡単なものだが、明らかに男物で、酷く大きい。
シャツを見て、真っ先に脳裏に浮かんだのはあの狩人もどきの男だ。
ではここは彼の家で、彼が着替えさせてくれたのだろうか。
(うーん、茉莉花時代なら立派にセクハラだけど、いかんせん今は6歳の子供だもんなあ……)
当の男はどこに行ったのか、部屋の中には姿が見えない。
意を決して、ベッドから出る。
よく見ると、靴も暖炉の前で乾かされている。裸足で下りるしかなさそうだ。
少し抵抗はあったものの、敷かれた藁の上に裸足で立ち上がったその時、ドアが開いた。
「なんだ起きたのか」
茉莉花の顔を見るなり男はそう言うと、暖炉に掛けられていた鉄鍋の中身を木のボウルに移し替えて差し出してきた。
「山羊のミルクだ。飲め」
甘い匂いの正体はこれだったのかと納得する。
口に含むと、知っている牛乳よりも濃くて独特の後味がした。それでも数日間果物だけで過ごした身体には、たまらない濃厚さだった。
熱くなければ一気飲みしていただろう。
はふはふと言いながら飲み干していると、
「まったく無茶をする、初夏とは言え雪解け水だぞ」
と、呆れたような言葉がかけられて。
そこで、ミルクに夢中だった意識が一気に引き戻された。
「お願いします、ここにおいてください! ……ここで働かせて下さい!」