獲物
茉莉花が寝かされていた場所は、広い草原を一直線に横切る、大人の腰程度の高さの崖沿いの茂みだった。
この崖の一か所が筋状にえぐれて、そこに洗面器ほどの深さの細い沢が流れている。
崖に沿うようにして少し進んでみたところ、最初は低かった崖が、進むにつれてどんどん高くなっていっている。
そのまま進んで、沢から少し歩いたところに、3方向を木と崖で囲むような立地の場所を見つけた。
水場である沢に近く、森に出ようと思えばすぐ出れる。少し背の高い木に囲まれているのもいい。布が足りないから全面は無理だが、シーツで覆って天幕もどきにすることもできる。
当面の根城にするにはぴったりの場所だ。
早速、余分な石をどけたり、固めの草を抜いたりと、一通りの地ならしをして荷物を移動させておく。
森に入ってみると、もう一つ嬉しいことがあった。果物が実っている木を見つけたのだ。黄色いビワにに似た果物で、試しに一口だけ口に入れると、ビワよりも歯ごたえがある、梨のような味わいの果物だった。
見知らぬ実なので、念のため半分だけ食べる事にして、何個かもいで持ち帰ることにする。もちろん、木の場所が分からなくならないように、印をつけるのも忘れない。
少しだけ肩の力が抜けたのか、その日の晩は久々夢を見た。
小さい女の子の手を引いて、河合家の側の住宅街を歩いている夢だ。
小さな手を引きながら、茉莉花はどこへかは分からないけれど、自分がこの子を連れて行ってあげなくちゃという使命感にかられている。
住宅街を抜けて交差点が近づくと、なぜだか不安な気持ちになる。
夢の中では思い当たらなかったが、そこは茉莉花が事故にあった交差点なのだ。
無性に落ち着かない気持ちになって、女の子も不安に思ってるかもしれないと、声をかけようと振り向く。
けれど、なぜかそこにいたのは茉莉花自身だった。
気付けば自分は小さな身体になっていて、女子の中でも背の高い茉莉花を見上げているのだ。
逆光のせいか、茉莉花の顔は良く見えない。
だけど、どうしてもこれだけは伝えなくちゃならないと思っている言葉がある。小さな口を開いた。
『あとは、よろしくね』
そこで目を覚ました。
(変な……夢だったな……)
半分寝ぼけたまま辺りを見回して、辺りがすっかりと明るくなっていることに気付く。
「そうだ、朝露……!」
日が完全に昇ってしまうと集められなくなると、あわてて起き上がって。
辺りの様子に気付く。
(そっか…、もう朝露を集めなくても大丈夫なんだ)
ほっとして、それでももたもたしているのはもったいないと起きだす。
(今日はまた森へ行ってみよう)
昨日果物の他に、豆も見つけたのだ。
食べられるかどうか少しだけ試してみよう。
薪ももっと集めておきたい。
今日やるべきことを頭に思い浮かべながら、身支度をする。
夢の中の光景が、朝の白い光の中に虚ろいで霞んでいった。
*****
この場所に来てから5日が過ぎた。
拠点が定まり、水が確保できて、とりあえずひと心地付いた感じだ。
だが、もちろんこのままという訳ではないので、生活改善に向けていろいろ始めている。
まず一つ目は川探しだ。
沢はあるけれど、本当にか細い流れなので、季節によっては水が枯れる事もありうる。それに何より、浅すぎてろくに身体を洗う事もできない。
もうかれこれ10日以上ろくに身体を洗っていない。
決して潔癖な質ではないけれど、限度がある。あちこち痒い今の状態はさすがに辛すぎる。
しかももうすぐ夏なのだ。日本と違って湿度が低いし涼しいけれど、それでも日中はそれなりに暑くなる。このままではさすがにヤバい。
そんなこんなで、先日髪を切ってしまった。
クラリベルの髪はパープルがかったプラチナ色だ。光の加減によってパープルだったりベージュがかったピンク色にも見える。
この髪の色からしてもう地球人で無いこと決定だが、大変な事続きなせいかそこはあまり気にならない。
ただ洗えていない事と、毛質と長さは大いに気になる。というか大問題だ。
細い猫っ毛で、緩いウェーブを描いて腰まで届く長い髪なのだが、これをネリーは毎朝丹念に櫛通して複雑な編み込みのハーフアップにしてくれていた。
けれどもちろんそんなことが出来るはずもないし、毛質的にとにかく絡まる。一つに縛ったみたりもしたけれど、森を歩く時に枝に絡まったり、焚火起しの時に毛先を焼いてしまったりもした。
プラスして洗えていない事も加わり、ついに我慢の限界が来た感じだ。
ハサミなどないのでナイフ切ったのだが。どうにも不揃いになって、何度かやり直しているうちになんだかすごく短くなってしまった。
茉莉花的にはずっとショートカットだったので特に抵抗ないが、クラリベル的にはどうなのだろうか。
もしクラリベルに戻ることがあった場合、この髪型(とか今のこの野生児丸出しの格好とか)にショックを受けそうだ。
まあ今は背に腹は代えられないので、仕方ないと思うのだけど。
その他、本格的にいろいろな素材集めを始めた。
まず一つ目として、森の中で見つけた蔓状の枝をせっせと持ち帰っている。
乾燥させた細い蔓を編んで簡単なザルもどきを作ったり、更に細く裂いたものを編んでロープにしたりと、何かと使い出がある。
ザルもどきは、もっと大きく作れば風よけも作れるのでは?という野望もあるのだ。
他に探しているのが、尖っていたり、加工しやすそうな石、それから粘土質の土だ。
石は石斧や矢じりなどの道具、年度は土器を作れればと思っているのだ。まるきり縄文人だが、今のところ手軽な石も粘土も見つかっていない。まめに見て回るしかないだろう。
そして、やはり重要なのは食糧だ。
今のところの主食は果物、それと野生のマメだ。
茸や野草にも挑戦したいのだが、この二つ、特に茸は慎重になる必要がある。
木苺やビワもどきの他に、もう一つイチジクもどきの木も見つけたので、とりあえず当面飢えの心配は無くなったけれど、果物はいつでも食べられるという訳では無い。
マメはとりあえず軽く炙って食べている。ぼそぼそしていて正直美味しくはない。土器が出来れば煮込めるのだけれど。
同じく土器があれば、フルーツの保存のためにジャム作りもしたいところなのだが、仕方がないので、今はドライフルーツ作りをがんばっている。これには早速ザルが役立っている。
最初は、ただザルに果物を並べて木の枝に乗せてみたのだが、数時間後に様子を見たら、あらかた鳥につつかれていた。もう一つザルをかぶせて事なきを得たのだが。
けれどこの件で思いついたのが罠づくりだ。
そう、肉が食べたいのだ。
持たせてもらった食べ物は、もうビスケット5枚のみだ。
唯一のタンパク源であったチーズは、ピンポン玉サイズまで減ったところで、カビ生えだしたので、痛んだ部分を削ったあと、火で炙って食べてしまった。
もう3日以上タンパク源を取っていない(豆はどうだろう?)。
それに、果物だけだと塩分が摂れないのも心配だった。
この場所に来てから、森や草原で、鹿や野兎、イノシシなんかを見かけるようになった。
そう言えば以前の森では大きな動物に遭遇しなかったと思う。鳥とかリス、野ネズミ、蛇、蜥蜴なんかは見かけたけれど。
何か理由があるのだろうけれど、多分考えても分からないだろうなと放置している。
アウトドアは散々体験してきた茉莉花だが、さすがに自己調達はしたことがない。
どうしたものかと考えて、手始めに作ってみたのが、漫画でよく見る、伏せたザルを棒で支えるタイプの罠だ。
中に刻んだ果物を置いて、獲物が近づいたら、つっかえ棒の紐が引っ張られて、ザルがかぶさるというものだったが、罠を仕掛けてから、すでに一昼夜。今のところ反応はない。
罠を仕掛ける場所も含めて、もう少し様子を見る必要がありそうだ。
この場所に来てから6日目、その日も罠を仕掛けてから、日課の探索に出向いていた。
昨日のうちに果物はかなり収穫していたので、今日は草原を探索してみるつもりだった。
荷物はいつも通り背中に背負った剣、風呂敷バッグの中に、水を詰めたエールの瓶と、弁当代わりのドライフルーツとナイフが入っている。
広い草原の中迷うのが怖いので、基本は崖沿いに進んで行く。
草原はなだらかな下りになっているようで、進めば進むほど反対に崖が高くなってく。
ところどころ岩場や、低木の群生や、小さな林もあった。林を抜ける時は、入った場所と出た場所が分かるように枝に布を巻き付けるようにした。
すぐに食べられそうなものは見つけられなかったけど、まだ熟していない実を付けた木はいくつか見かけることが出来た。夏か秋には食べられそうだ。
かれこれ3時間以上は歩いて、そろそろ引き返そうかという頃、草原の先にまた森が見えて来た。
せっかくなので、少し覗いてから帰ろうと、向かって歩いている時だった。
草原の少し先で、ガサガサ、ガサガサと音が聞こえて来たのだ。
用心しながら近づいて覗き込むと、野兎だった。
「…あ…っ!」
思わず声をあげてしまったのも、無理からぬことだった。
薄茶色の毛で覆われた兎の後ろ脚が、縄の輪っかで締め付けられている。
ガサガサという音は逃げようともがいている音だったのだ。
縄の輪っかはすぐ横の岩に括りつけられている。
明らかに罠だ。
それも誰か、別の人間が仕掛けた―――。
森に来て初めて、別の人間の気配を感じることが出来た。(除:カモノハシ)その事実に知らずドキドキと鼓動が高まっていく。
多分仕掛けられた罠はこの1か所だけじゃないはずだ。おそらくこういった狩り?のような事をする人は、何か所か仕掛けて、見廻るようにしているに違いない。
多分見回りは毎日だろうから、このまま待っていれば、もしかしたら会えるかもしれない。
……会って、どうする。
食べ物を分けてくださいって言う?
人里まで連れて行って下さいって言う?
脳裏に浮かぶのは、炎の中で聞いた男たちの声だ。
自分は―――、クラリベルは、命を狙われているのだ。
罠を仕掛けた、その人が、どんな人間なのか分からない。こんな人気のない場所をうろうろしている怪しい(しかも薄汚れた)子供に、親切にしてくれるとはあまり思えない。
それに。
もしかしたら、もう今日の罠の見回りは終わっているかもしれない。来るのは明日になるかもしれないのだ。
いろいろなことがぐるぐると頭を巡る。
その間にも、ガサゴソ音を立ててもがく兎。
(兎は、食べられる―――)
この一羽で一体何日分の食事になるのだろう。
昨日も一昨日も、そして今日も、食べたのはビワもどきと木苺と豆だけだ。
空きすぎて、限界を迎えた胃袋がキリキリと痛む。
食べたい。
私は、肉が、食べたい―――!
衝動的に、近くの岩を掴んでいた。
勢いのまま振り上げて、毛皮で覆われた小さな頭を殴りつける。
「はあ、はあ、はあ―――」
血まみれになった岩を手に、荒い息を吐く。
ゴキュリ―――と、岩が当たった重苦しい音と感触が、まだ掌に残っているみたいだった。
足元にはぐったりとした兎の死体。半ばつぶれた頭からじわじわと血が流れだして、草地を汚していく。
―――どうやって、食べればいいのだろう。
岩を握る手はまだ震えているというのに、頭の中は妙に冷静だ。
どちらにしろ、皮は剥がないといけないだろう。鮮度を保つため血抜きをしたり、内臓を取り除いたりするはずだけど、けれど血や臓物は貴重な塩分を含んでいる。なんとか肉と血を混ぜて食べるようにしなければなららない。
とりあえず、まずは根城まで運ばなければ―――と、足に絡まるロープを外して、まだ温かくぐにゃりとした感触の身体を、ずっしりと重み感じながら両手で抱え上げた、その時だった。
ガルルル―――!ワンワンワンワン…!
「え…っ!?」
吠え声に振り返れば、耳の長い白と茶のブチ犬が突進してくる。
(犬―――!?)
おそらくこの罠を仕掛けた相手の猟犬だろう。
とはいえ、みすみす襲われるわけにはいかない。
大きさ的には中型犬クラスに入りそうだが、6歳児にとっては脅威のサイズだ。
(犬…、犬に襲われた時は…)
『いいか茉莉花、もし犬に襲われそうになった時は……』
父の声が脳裏に蘇る。
幼稚園生の頃、近所の犬に追い掛け回された時に言い聞かされたのだ。
意を決して、怯えたそぶりを見せないように落ち着いて立ち上がった。
犬から目を離さず、それでも視線だけは合わせないようにしながら、手にしていた兎を放り投げる。
なるべく遠くに投げたつもりだったが、そこは6歳児の細腕ということもあって、ほんの6,7メートルほど先、走って来た犬の頭上を越えた先に、ボトリと鈍い音を立てて落ちた。
獲物を投げられたことで、躊躇したのだろう、咄嗟に立ち止まって迷うそぶりを見せたのを幸い、少しずつジリジリと後ずさる。
犬を視界の端に捉えながらも、もしももう一度襲って来た時に備えて、辺りに武器になる物が無いか、視線を走らせる。さっきの岩は大きすぎる、できれば木刀代わりの枝があると助かるのだが。
(いざとなったらナイフで―――)
と風呂敷バッグの上からそっとナイフを握りしめた時。
「おいっ!」
突然、背後から声を掛けられた。