貴族の少年と 2
「ジャスミンと呼んでもいいですか?」
二人だけになると、にこりと笑いかけられる。
優しい顔立ちの、まだ幼い少年だが、見た目の柔らかさに油断は禁物だ。
「は…はいっ」
緊張を崩さないまま応える。
「もう少し……こちらに来てもらっても?」
と言われ、恐々と足を踏み出す。目で促されるまま進んで、結局オズワルドが頷いたのは、ベッドのすぐ横だった。
椅子を薦められたけれど、それだけは固辞した。
「村の者に聞きました。崖の上から私たちを見つけて、滑り降りて助けてくれたそうですね」
「はい」
「直に礼を云いたかったのです。ありがとう」
「そ、そんな、とんでもないです……」
頭を下げられそうになって慌てる。
先ほどの学士アグネスの態度から見るに、頭を下げさせて良い相手ではなさそうだ。
「どうやって滑り降りたのですか?村の者も分からないと言っていたので、聞きたかったのです」
「あー…」
「大丈夫です。誰も聞いていません」
言葉遣いを気にしていると思ったようで、オズワルドがチラリとドアの方に視線を向けて。
「この部屋でのことは、他の者には言わないようにしますから」
だから気楽に話してください、と言う。
そこまで言ってくれるのなら、話しても良いのかなと思う。もちろん言葉遣いには気を付けるけど。
「友人のザルを借りました」
「ザル……?」
「そうです、ザルを足に括りつけて、雪の斜面を滑り下りました」
「そんなことができるのですか……。下に降りてきてどうしたのですか?ジャスミンが声を掛けてくれたことは覚えているのですが、その後すぐに気を失ってしまって……」
「楽な体勢が良いだろうと思って、マントを敷いて、その上に……横になっていただきました。それから…、怪我が無いか確認させていただきました」
ベタベタと汚れた手であちこち触ったこと知ったら、嫌な気持ちになるかもと思い、「勝手にすみません」と謝罪を付け加えると。
「謝らないでください。おかげで腕の骨折が悪化せずに済みました。……それから、その後はどうしたんですか?」
「えーと…、腕を固定するための添え木を探しに行きました。一応応急処置をして……、あとは、身体を温めるために焚火をしました」
「そうでしたか。……ジャスミンはすごいですね」
と、感心したように言われて、
「ほ、褒められる事は何も……」
本能のままに行動しただけなのに、と恐縮していると。
「いえ、本当にすごいです。私は、あのような場でどうすればいいか分かりません」
「でも、私は裁縫とかそういう仕事がからきしで……。もっと身体の能力をそっちに回せって言われます」
と、手仕事の指導をしてくれている学士アグネスに言われた事を伝えると、
「そうなのですか?」
と目を丸くして、くすくすと楽しそうに笑ってから。
「でも裁縫に能力回さなくてよかったです。おかげで私は助かりました」
と、優しくそっと微笑んだ。
そのその微笑みが、まるで―――、
(……て、天使……!?)
少女のような、たおやかな容貌に浮かんだ、育ちの良さと、純粋さと、聡明さと―――、あらゆる美点を混ぜ込んで、煮詰めて、上澄みだけを掬い取ったような。
まさに天使と見まごうばかりの微笑みだったのだ。
(いなかった、今までこんな子いなかったよ……!)
道場で担当していた小学低学年クラスの子たちを思い浮かべる。
(うるさかったり、乱暴だったり、しつこかったり、こまっしゃくれてたり、まあ、クソガキが多かったけど)
それでもある程度懐いてくれれば、それなりに可愛い。皆茉莉花にとっては大事な教え子だ。
(素直で可愛かったレミちゃんとか、賢そうで小さいのに紳士だったリョウくんとか、育ちが良くて優しかったミワちゃんとか―――)
いろいろな美点をもった子もいたけれど、でもこんなに後光でも射しそうな微笑みを浮かべるような子はいなかった。
優し気なのに、どこか尊い―――。
(これがお貴族様ってこと?高貴な生れの特別な子として、厳しく大切に育てられると、こんな風になるの?)
恐るべしお貴族様……!と内心慄いていると。
「それで……」
と、目の前の少年の柔らかった雰囲気が、わずかに硬いものに変る。
ハッとして視線を向けると、思いつめたような緑色の眼差しとかち合う。
「それで、ジャスミンが来た時、どんな状況だったのですか?村人の話では、私以外の者は皆……」
と、そこで口を噤む。
「それは……」
それは事実だ。あの場にはオズワルド以外生存者はいなかった。村の人たちは、まだ幼い高貴な少年に、何と言って伝えたのだろう。
皆が言ってない事を茉莉花が喋っても良いのだろうか。
躊躇していると、
「教えてもらえますか?」
もう一度重ねて言われて。その必死さの漂う眼差しに、どうやら覚悟を決めるしかなさそうだと悟る。
多分、彼が茉莉花を選んだのは、一番の当事者ということもあったが、何より、大人のごまかしの言葉ではなく、率直な言葉を聞きたかったからだろうから。
「……私が駆けつけた時、馬車は2台とも大破して完全に潰れていました。馬車の中は……、とても、覗き込めるような状況では無かったです」
オズワルトの瞳が痛みを堪えるかのように悲痛に歪む。
思わず口を噤みかけたけれど、
「大丈夫です。聞かせてください」
強い意志を持った瞳に見据えられて、
(ああ、この子は―――)
きっと茉莉花なんかが育ったのとは、全然違う価値観と覚悟を持って育てられているのだな、と不意に思った。
恐らく、将来人の上に立つべき人間として。
どんな時でも気丈に振る舞うようにと。
どんな時でも隙を見せないようにと。
言い聞かされ、自分でもそうあらねばと、常に自らに言い聞かせているのだろうなと。
そんな悲愴なまでの責任感と覚悟を感じて。
茉莉花は重い口を再び開く。
「……オズワルド様は、男の人と一緒に、お二人だけ馬車から少し離れたところに倒れていました。体格が良くて剣を腰に下げた方です」
「その方は、ご自分のマントで、オズワルト様を包んだ上から、さらに抱き込むようにされていて、……多分地面に落ちた時も、その方がオズワルト様を抱きかかえていたんだと思います」
気丈に話を聞いていたオズワルトだったが、ついには唇を噛み締めたまま俯いてしまった。
毛布を握りしめる手が小刻みに震えている。細い肩が痛々しい。
「クリフトン……」
噛み締められた唇の隙間から悔し気な声が漏れる。
あの男性の名前だろうか。
その声音から、この少年にとって『クリストン』が、とても慕わしい相手だったのが伝わってくる。
親しい人の死を幼い子供に告げる役は、思った以上に茉莉花の精神をもゴリゴリと削った。
オズワルドがもう一度顔を上げる。
真っ青な顔で、それでも真っ直ぐに茉莉花を見つめてくる。秘められた、意志の強さが感じさせられる表情だった。
「クリフトンはどんな様子でしたか……?」
「私が駆けつけた時には、その方はもう……、すでに冷たくなっていました」
「そう、ですか……」
と言ったきり、言葉が続けられない、とばかりに口を噤んでしまう。
無理も無かった。近しい人の死はいくつになったとしても慣れるものでは無い。ましてや、相手が自分を守って亡くなったのだ。
小さい子供が背負うにはあまりにも重い現実に、茉莉花すら息が詰まるような気持ちだった。
(もう、良いよ)
この場を預かる目上の立場の者として、何かジャスミンに言葉を掛けねばと思っているのだろう。
何かを言いかけては、唇を震わせ、喉を詰まらせている。そんな、目の前の幼い少年に、
『無理に何も、言わなくていいよ』
と言おうと、口を開きかけた時。
「話を聞けて……、良かった、です」
先に言葉を発したのはオズワルドの方だった。
真っ青な顔で、それでも気丈に顔を上げて、口元に笑みさえ浮かべようとしている。
「ありがとうござい……っ」
礼儀正しく告げられようとした、お礼の言葉は。
だけど、こらえきれなくなった嗚咽に呑み込まれた。
幼い手で口元を押さえて、何とか嗚咽を抑え込もうとする、その震える小さな背中を見た瞬間。
茉莉花は。
気付いた時には、ベッドに乗り上げて、小さい頭を胸に引き寄せてしまっていた。
「え…、な…っ」
細い肩が、ビクッと大きく震えて、それから慌てて離れようとするのを。
「いいから!」
と、強い力でしっかりと抱き込む。
「……私、何も見えないから、何も聞こえないから、だから……っ」
強張っていた身体がビクリと震える。
「だから、我慢しなくていいよ……」
それは多分。ほとんど、つぶやきみたいなものだったと思う。
唇の先で、わずかに空気を震わせただけの、その言葉に。
だけど、抱き込んだ胸元の、はちみつ色の髪がビクリ…と震えたのが分かった。
そして。
「………ッ、ぅ………うぅ……ッ」
オズワルドの、押し殺したような声と共に、小さな手が茉莉花の服を握りしめたのも。
「ぅううう…ッ、ぅあ、あああー…ッ」
胸元が、熱い滴で濡れていく。
しゃくりあげるたびに、大きくわななく身体を必死で抱きとめる。
今はこの手を絶対に離さないように。
ただひたすら、茉莉花は、オズワルドの慟哭を抱きしめ続けた。
どれぐらいそうしていただろうか。
多分時間にして30分近くは経っていたと思う。
徐々に、泣き声と言うよりは、しゃくりあげるだけになってきて、呼吸のたびに引き付けたかのように震える背中を何度も何度もさすっていると。
ややあって、オズワルドが茉莉花の胸元から身体を起す。
相変わらうつむいたままで、まだ茉莉花の服を掴んだままだったけれど、それでも少しだけ落ち着いたのか、しゃくりあげながらも周りを探るように目線をさ迷わせている。
なんとなく察した茉莉花も一緒に部屋を見渡して、ベッドがから少し離れたテーブルに、水差しとコップと一緒に布巾が置いてあるのが目に入った。
ベッドに乗り上げるようにしていた身体を起して、布巾を持ってきて渡すと、受け取ったオズワルドが、グシャグシャになった顔(それでも茉莉花の服で大半は拭かれていたのだけれど)を拭き始める。
頃合いを見計らって水を手渡して、まだ呼吸が落ち着かない中、時々嗚咽を零しながらもゆっくりと水を飲む姿を見守っているうちに。
だんだん、先ほどの自分の態度が思い出されてくる。
(考えてみると、私、失礼な事したような……?)
本当なら、オズワルドの立場を鑑みるならば、あのまま見て見ぬふりをして立ち去るべきだったのだと思う。だけど。
どうしても、この少年を一人にしたくなかった。
誰もいなくなった部屋で、一人きりで泣かせたくなかった。
(でもだからと言って……)
自らの服を見下ろす。
オズワルドの涙ですっかりと濡れてしまったが、ギーズに買ってもらったブラウスとボディスは、古着ではあるけど、ちゃんと洗濯だってしているし、汚れてはいないと思う。……そんなには。
でも、仮にも高貴な立場の少年の顔を、自分の服に押し付けるなんて、そんなの許される事なんだろうか。
そもそも。
オズワルドの事を『小さな肩に重圧を背負った、痛々しい子供』とか、勝手に思ってしまっているけれど、考えてみれば今は茉莉花自身が、6歳の子供の身体なのだ。
(大して歳の違わない平民の子供に、『俺の胸で泣け!』とばかりに抱き寄せられて泣くって、そういうのって男の子的にどうなの!?)
そんな風に考え出すと、だんだん自分のしたことがとても非常識、かつ不敬な行為に思えてきて。
内心、あわあわと混乱しながら。
「え、えーと…、学士も心配しているでしょうし、私そろそろ戻りますね……?」
落ち着く時間が必要だろうという配慮半分、いたたまれずに逃げ出したい気持ち半分で、弱気な言葉で退出を告げると、
「服……」
「え……」
「服、すみませんでした。本来ならば新しいものを用意させるべきなのですが、あいにく今は……」
こんな時だというのに、茉莉花の服の事で肩を落とす様子に、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになる。
「そんなの、どうせ後で洗いますから」
大丈夫です!お気になさらず!と、恐縮して手をパタパタと振っている時だった。
何やら外からワーともキャーともつなかい歓声が聞こえて来た。
一体何かと、思わずオズワルドと顔を見合わせていると。
「飛竜だ!」
「すげえ!!」
「騎士だ!!」
と口々に騒ぐ子供たちの声が聞こえて来た。
だんだんファンタジーっぽくなってきました。
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