いきなり火事でした
(た す け て!!!)
強く、強く誰かに呼ばれた―――。
次の瞬間、河合茉莉花は、炎の中に立っていた。
最初に目に入ったのは、炎に包まれたドアだった。樫材の重厚な作りの上半分は完全に焼け爛れ、隙間から、煙が入り込んできている。
勢いを増す炎が、分厚い絨毯やカーテン、壁に吊るされたタペストリーに、次々と燃え広がり始めている。
焼け落ちるタペストリーから振りまかれる火の粉が、茉莉花のすぐ足元や、すぐ隣のベッドのカーテンにまで降り注いできた。
(ええええ、何これ!? 何この状況は―――!?)
なんでこんなところにいるのか、そもそもどこなのか、この状況はなんなのか、全く意味が分からい。
けれどこれだけは分かる。
(とにかく逃げなきゃ―――!!)
ドアはダメだ。だったら窓だと、背後の窓に足を向けようとして、ここは3階だったと思い当たる。
なぜそんなことが分かるのか、疑問に思う余裕などないまま、それならばと、ベッド横のタンスに向かう。予備のシーツがしまわれていたはずなのだ。3~4枚繋ぎ合わせればローブ代わりになる。
そうこうしているうちも、ベッドの天蓋から下がるカーテンや、カバー、シーツにも火が燃え広がり始めた。火の粉を浴びているタンスも、燃え始めるのは時間の問題だ。
火の粉を避けながら、踏み台をタンスの前まで引きずってきて飛び乗る。踏み台に載らなければ取っ手に手が届かないからだが、全くの無意識の行動だった。
両開きのドアを開け、糊付けされ、きれいに畳まれたシーツを4つ掴み取って飛び降りる。
あとは広げて端を結び付けるだけだ。
掴んだシーツをバサバサと広げる。
きな臭い空気が濃くなってきた。部屋中に煙が充満し始めている。
早く。
早く。
思い通りに動かない小さな手に苛つきながら、ようやく一つ目の結び目を作ったところで―――。
「お嬢様!!!」
耳に飛び込んできた声に振り返ると、焼け落ちたドアから布を被った女性が飛び込んできたところだった。
臙脂色の裾の長いドレスに身を包んだ、背の高い若い女性だ。
「…っ! ネリー…!!」
ネリー、そう彼女はネリーだ。シッター兼家庭教師役の。
「お嬢様、逃げますよ!」
言うなり駆け寄ってきたネリーが、手にしていた布を頭にかけてくれる。びちょびちょに濡れたシーツだった。
さあ早くと言いながらも、開けっ放しのタンスに気付くと、そこから無造作に2,3枚の服を引っ掴み、もう片方の手で茉莉花の手を掴む。
しっかりと握ってくれる温かい手を頼もしく思いながら、一緒に走り出そうとして―――。
思い切り前につんのめった。
茉莉花の意志に反して、身体が―――正確には足が、思うほどには前に進んでくれないのだ。
意識と、実際の身体の感覚の剥離とでも云うのか。
(え?え?どういうこと!?)
混乱しているうちに、身体が急に軽くなる。
何かと思えば、ネリーに小脇に抱えられているのだ。
(え!? 私これでも身長172cmあるのに!?)
混乱しているうちに、茉莉花を抱えたネリーが、燃える絨毯を避けながら、煙が充満する廊下に飛び出す。
「少しの間息を止めててくださいね」
ネリーが向かったのははす向かいのドアだ。
(そうだ、この部屋は)
内心ネリーに喝采を送る。
客間であるこの部屋は、外階段に通じるテラスがあるのだ。テラスは石造りだから火も回っていないだろう。
両開きのドアをほぼ体当たりで開けて、煙が充満し始めている部屋を突っ切りテラスに出る。
外は夜だった。
タールを塗りこめたような、じっとりとぬめるような闇色の空に、屋敷の反対翼を包み込む、赤々とした炎の色が禍々しい。
柱か梁が焼け落ちはじめたのだろうか、背後からゴゴゴ…、ガラガラ…! と、崩れ落ちるような音が断続的に響く中、茉莉花を抱えたまま石造りの階段を駆け下りたネリーが、ハッとしたように足を止めて、踊り場の影に隠れるように座り込む。
「伯爵はいたか!?」
複数の男たちの足音と話し声だ。
3人、4人はいるだろうか。
「裏庭に回ったようです! 今3人向かわせました」
「必ず見つけろ! 殺せ! グラスコートを奪え!!」
(伯爵、伯爵って―――)
(そうだ、お父様のことだ―――!)
踊り場の影の暗がりで、背後からネリーに抱き抱えられながら、漏れ聞こえる言葉の意味を理解して、思わず両の手で口元を押さえる。
「夫人はどうした」
「仕留めました。遺体は炎の中に」
「娘もいるはずだ、探せ!」
次々に聞こえてくる恐ろしい声に震えあがりながら、足音が遠ざかっていくのを縮こまらせて聞く。
しばらくして、辺りに人気が無くなったことを確認してネリーが立ち上がる。
「さあ、今のうちに早く」
顰めた声に促されて、差し出された手に掴まろうとして、未だに被せられた濡れシーツを被っていたことに気付く。もう必要ないが、この場には置いて行かない方が良いだろう。
丸め込んで片手で抱えると、空いたもう片方の手をネリーが引いて走り出す。
その頃になって、ようやく茉莉花は、少しずつ自分の置かれた状況を把握し始めていた。
(……そうだ、私はクラリベルだ。この屋敷の伯爵と呼ばれていた人の……、さっき追われていた人の、娘だ)
そして、さっきからしきりに感じていた自分自身に対する違和感。
目線の高さ、歩幅、手を伸ばせる距離、そして何より自身で感じる身体の感覚―――バネや筋肉、そう言った何もかもに対する違和感。
それは、自分の身体、もといクラリベルの身体が、6歳の子供の身体だからなのだ。
現実とは思えない状況と身体の感覚に、ともすれば意識と身体が剥離しそうになる。気を抜くと止まってしまいそうになる足を、ぐいぐいと引かれる腕に助けられながら、なんとか必死で動かす。
庭を抜けて、敷地を取り囲む林の中の一本道を、月明かりを頼りにひたすら走ると、しばらくして前の方にチラチラと灯が揺れているのが見えてくる。
近づくと、カンテラを手にした年配の男性が立っていた。
「アムズさん」
カンテラの主にネリーが声を掛ける。
「無事だったか、荷物は全部積んであるぞ」
アムズさんと呼ばれた男には見覚えがあった。確か庭師だったはずだ。そのアムズの後ろには一頭の馬が繋がれていた。
「ありがとう、さ、お嬢様」
馬に乗り込んだネリーが手を差し出してくる。
その時になって茉莉花は、未だシーツを手にしたままだったことに気付く。左の腕で抱え込んで、さらにしっかりと握りしめているのだ。
馬に乗るにはさすがに邪魔だと手放そうにも、力の加減が利かないほど固く握った手は、まるでボンドででも固めたみたいにガチガチで、うまく開いてくれない。
見かねて、馬から下りたネリーが手伝ってくれて、やっとの思いで手放してたシーツを、アムズが荷物に一緒に括りつけてくれた。他にも、ネリーが抱えてきたらしいドレスやシーツなんかもも一緒だ。
ようやく準備が出来て、改めて馬に乗せてもらう。
恐怖のためか、初夏の夜の肌寒さのためか。今頃になってわずかに震えていると、背後に乗り込んだネリーが、自分が羽織っていたシーツで包んでくれて、さらにベルトのような物でクラリベルの身体を自身の身体に括りつけた。
準備が出来ると、
「お嬢さん、気を付けてな」
とアムズがトーチを手渡してくる。持ち手は木だが先端がランプのような形になっている。夜の移動の時に見たことがあったが、中にオイルでも仕込まれているのか、かなり長い間燃やすことが出来たはずだ。
子供の手にはかなりの重さであるそれをしっかりと持つと、ネリーが「では」と軽くアムズに声を掛けて、馬の腹を軽く蹴って走らせ始めた。
そこからはただひたすら、暗い夜道をひた走った。
馬は屋敷で育てられていたうちの一頭だろうか。小さなクラリベルの身体から見るせいか、茉莉花が知っている馬よりもやけに大柄で背も高く感じる。その馬を全速力で走らせているのだ。
力強く大きく揺れる馬上で、片手でトーチを持ちつつも、もう片方の手で鬣を必死に握りしめた。
所領の村や近隣の農地を越え、延々と広がる牧草地帯を進んでいく。1、2時間以上はそうして進んで、その後は森に入った。
うっそうと茂った木々に、月明かりのほとんどが遮られる中、トーチの灯だけを頼りに進んで行く。
暗い森の中を、速歩に近いスピードで、さらに3、4時間くらい進んだだろうか。
眼に入るのはひたすら黒々い木々ばかりの中、木々の開けた狭い広場のような場所に出た。
遮るものなく差し込んでくる月明かりに照らされたその広場の中央には、大きな倒木が朽ちかけた状態で横たわっているのが見える。
その倒木の側でようやくネリーが馬を止めた。
二人の身体を括りつけていたベルトを解き馬から下りると、倒木の側の、大人の膝ほどの高さの岩の上に、馬に積んでいた荷物―――大きな革袋、布で包れた細長いもの、そしてアムズさんが積んでくれたシーツや、タンスから持ってきた服などを並べると、両手で抱えるようにして茉莉花も抱き下ろした。
「ネリー……?」
トーチを手にしたまま、訳が分からずシッター兼家庭教師を見上げる。
「しばらくここにいてくださいね」
そう言って、再び鐙に足を掛けるネリーに、
「どこに行くの?」
慌てて声を掛けるけれど、そのままひらりと鞍にまたがって。
「剣だけは、絶対に手放さないでくださいね」
とだけ言うやいなや、すばやく手綱を引いて小走り走りだしてしまう。
「え、ちょ……っ」
待って―――と言おうとした時にはすでに馬は、蹄の音とともに暗い森の中に消えてしまっていた。
慌てて追いかけようとしたけれど、慣れない重心とコンパス、さらには長いネグリジェに足を取られて、つんのめって転んでしまう。
そうしている間にも、パカッパカッとリズミカルな蹄の音が遠ざかって行って。
そして訪れる、耳が痛くなるほどの静寂。
辺りは月明かりと、かろうじて残されたトーチの灯だけが頼りの夜の闇。
その闇と静寂が、嫌でも事実を突きつけてくる。
右も左も分からない真夜中の森に、一人取り残されてしまったのだ―――。
「う…、うそでしょ―――!?」
思わずこぼれ出た半ば悲鳴に近い声は、辺りを取り囲む黒々とした木々にただ吸い込まれるだけだった。