絶許なんだから覚悟なさい!
美しい湖畔の別荘。
本来ならば貧乏男爵家の娘である私が来られるような場所ではない。
しかし幸運にも、優雅な白亜の城に滞在できることになった。
トゥガーラ公爵家のご令嬢キーラ様からのお誘いで。
真夏だというのに涼しく、湖は青くキラキラと光り輝いている。
そこに見上げるほどの大きなお城。
城内も美しく、泊まらせてもらった部屋はお姫様の部屋のように可愛らしいファブリックでまとめられていた。天蓋付きのベッド、花の刺繍のクッション、レースのカーテン。寝間着も用意されていて、眠る時間だけの着用がもったいないほど可愛い。
レース、リボン、花であふれた部屋。
裁縫が好きな私にとってまるで天国のような空間。
私、ハイロフ男爵家の娘ジゼルは一生、キーラ様についていきます。この御恩は一生、忘れません!
と、思ったのは八歳の時。
あれから五年、私達は大きなトラブルもなく仲良くしていた。
キーラ様を中心にチェルカール伯爵家のエスター様、レフス子爵家のフラヴィア様、それに私、ジゼル。四人仲良くお茶会をしたり、勉強会をしたり。護衛とメイドを連れて町にお出かけすることもある。
エスター様はとても頭が良くて家庭教師の授業で理解しきれなかったところを教えてくれる。フラヴィア様は女子力が高く流行りのドレスやお菓子に詳しく、常に新しい話題を提供してくれる。そして私は地味で平凡だけど、根気強く努力し続ける根性だけはある。
キーラ様とフラヴィア様が発案したことをエスター様がまとめて私はフォロー役。
華やかな二人と落ち着いた二人で喧嘩になることもなく、本当に素敵な友達ができたと神様に感謝していた。
しかしある頃からキーラ様が変わられてしまった。
今までも多少、わがままな言動はあった。無理もない。公爵家のお姫様で私とは明らかに違うレベルでの可愛らしさ。
キラキラと光をまとった金髪に宝石のような緑の瞳。猫の目のように大きくて人形のような長いまつ毛。公爵様も公爵夫人もとても美しいので、遺伝ってすごいなとため息しか出てこない。
発言すれば大抵の事がキーラ様の思い通りになる。
四人でいてもキーラ様主導で行動していた。
そこに不満はない。
親からもくれぐれも…と念押しされているし、我慢できないほどのわがままでもない。
数種類あるお菓子のうち、一番、美味しそうなものをキーラ様が食べるとか、キーラ様を引き立てるような色味のドレスを着るとか、キーラ様の代わりに刺繍をして公爵家の名で教会のバザーに出すとか。
お菓子はたくさん用意されているので他に食べる物がたくさんあるし、派手なドレスは栗色の髪に薄茶の瞳、貴族令嬢として可もなく不可もない容姿の私には似合わない。刺繍に関しても公爵家から出すというだけで、私が刺繍したことが隠されているわけではない。
誰かに素晴らしい刺繍だと褒められれば。
『そうでしょう、ジゼルが刺繍したのよ』
と、キーラ様が得意気に答えている。
無邪気な天使、それが私から見たキーラ様。
「この猫、私の手を傷つけたわ!ギル、この猫を殺して!」
なんて…。
まだ生まれたばかりで人にも慣れていない。怪我も軽いひっかき傷だ。
短剣を取り出したキーラ様の従者ギルの腕に飛びついて邪魔をする。
「ジゼル、離れなさい!」
「キーラ様のご命令だ。邪魔をするな」
「駄目です、キーラ様、絶対に駄目です!」
追い払う程度ならばまだ見逃せたが、殺すのは駄目だ。その一線は絶対に超えてはいけない。
ギルが力任せに私を振り払い、勢いがついていたのかヨロけて仰向けに倒れた。
ガンッと火花が散る。
後頭部が痛い。
真っ白になる視界の中…。
キーラ様、駄目です。そんな考え方…、悪役令嬢になってしまう。
頭がガンガンと痛む中、うっすらと戻った記憶。
そうか、この世界は…。
乙女ゲーム。
悪役令嬢、そして。
従者ギル、あんたのせいでキーラ様が変わってしまったのね。
キーラ様をギルの魔の手から守らなければ…と思ったが、私はここで意識を手放した。
乙女ゲーム世界への転生は問題ない。オタクにはよくあることだし、悪役令嬢の取り巻きの一人…ということも問題ない。
当事者ではなくモブだから、何とでも回避できる。
体調が悪いと言い張って屋敷にこもっても良いし、王都から離れた自領地に逃げる手も使える。特技である裁縫の腕で自立の道を探るのも良い。
その場合、キーラ様を見捨てることになる。
「何故、ギルの邪魔をしたのっ。余計な事をしたのだから、その怪我はジゼルの自業自得よ」
目覚めてすぐ、ここがどこで、自分の怪我の具合がどの程度のものかもわからない状態で、キーラ様に言われた。
わぁ、もう見捨てる方向でいいかな。
まだ頭が痛いのと、なまじ前世の記憶が中途半端に戻ったせいで、ここでの正解回答がわからない。
困ったまま固まっていると。
「キーラ、その言い方はないだろう。ジゼル嬢はギルのせいで怪我をしたのだ。いかなる理由があろうとも令嬢に暴力をふるうなど男のすることではない。謝罪しなさい」
おぉ、滅多にお目にかかれないキーラ様のお兄様、ルーカス様だ。二歳年上の十五歳…なのだが、すでに大人っぽくてかっこいい。
取り巻き三号の私から見ても、滅多に会えないレアキャラだ。
キーラ様は思い切り不貞腐れた顔でルーカス様を睨みつけると、ギルを伴い部屋を出ていった。
もちろん謝罪はない。
ほんと、困ったものだ。
「すまない、ジゼル嬢。最近のキーラはやけに攻撃的で…。おそらく侍従としてつけたギルの影響だと思うが証拠がなく引き離せない」
ギルは現トゥガーラ公爵の弟シャドリク子爵の隠し子で、今はまだ『公爵本人が連れてきた知り合いの子供』だ。
そのせいでいろんな憶測を呼び公爵家の中がゴタついている上に、ギル本人もトゥガーラ公爵の子供だと勘違いしている。血のつながりがあるため、顔立ちや髪の色がよく似ているのだ。
表面上は淡々としているけど、キーラ様に対して攻撃的なのよね。
直接、言葉や行動で暴力をふるうのではなく自分と同じようにキーラの性格も歪めば良いと思ってあれこれ吹き込んでいる。
シャドリク子爵は問題行動の多い人で、女、酒、ギャンブルに溺れて常に借金を抱えている。当然、家の中は荒れに荒れて、奥様は病みまくってメンヘラ化。十三歳の子供を引き取れるような環境ではない。
ギルの母親は酒場で働いている時に見初められたがほとんど援助されることなく半年前に病死…だったかな。さすがに十三歳の子供を放置しておけなくて、公爵様が温情で引き取ることにしたのよね。弟の不始末だし。
ただ公爵家の血筋とはいえ弟の婚外子で、平民の母親。引き取った当初は言葉遣いも態度もひどいもので、教育も兼ねて使用人とした。
ギルがこの家を出ていったとしても良くて路上生活者、悪い大人に捕まれば奴隷として売られてしまう。この世界での成人は十六歳で、成人したとしても見た目が美しい平民は奴隷として攫われる恐れがある。
リスクを考えて公爵家で使用人として働くことにしたのだろう。
あと五年か六年でギルの父親は完全に公爵家から見放されて僻地に幽閉され、子爵の子供達の中から一番、成績優秀なギルが子爵家を継ぐことになる。
その頃にはヒロインとも出会っているので、人としての優しさとか思いやりももてるようになっていて、立派な当主となることを誓うのよね。
ゲームで遊んでいる時は気にならなかった…というか、ゲームよ、あくまでもゲーム。オタクの中でも私は冷静なほうで、キャラにのめり込むことはなかった。全国大会を狙う部活少女だったし。
しかし、今はキーラ様のお友達。
ふざけるなって話よ、あんたのせいでキーラ様の性格が歪んでしまうのよ。何、一人だけ更生して幸せになろうとしてんのよ。
考えているうちに腹が立ってきた。
ムカムカしていると。
「ジゼル嬢、大丈夫か?その…、涙をふいても?」
涙?頬に手を触れると、うわぁ、勝手に涙が…、だばだばと。
「す、すみま、せん…」
「まだ傷も痛むのだろう。運悪く大きな庭石に後頭部を強打したようでね。医者は絶対安静だと話していたよ」
「そういえば…、ここはどこですか?」
「公爵家の客間のひとつだ。ハイロフ男爵には手紙で知らせてある。夜にでもいらっしゃると思うが、君は傷が治るまでここに滞在するといい。そのほうが私も安心できる」
ルーカス様、優しいな。天使のお兄様も天使なのか。さすが攻略対象の一人。
それに比べてギルめ…、許すまじ!
ウトウトしていると父が来て、真っ青な顔をしていた。
えぇ、わかりますとも、自分の娘が公爵家で何をやらかしたかと、ハラハラドキドキしながらここまで来たのですね。
父にはルーカス様が説明をしてくれて、しばらく公爵邸でお世話になることになった。
頭を強打しているため動かないほうが良い。
二、三日はお医者様が屋敷に泊まってくれるというし、看護師さんとメイドさんが部屋に居てくれる。
たぶん大丈夫だろうとは思うが、頭が痛いのは本当でありがたく休ませてもらった。
寝たり起きたりを繰り返しながら『乙女ゲーム』と現在の記憶を整理していく。
悪役令嬢の断罪に巻き込まれるのは遠慮したいが、キーラ様のことを考えると切なくなる。
幼い日のキラキラとした想い出。
私が見てきたキーラ様は悪役令嬢なんかではない。
えーっと、確か…、ギルによって価値観が歪められてしまうのよね。
弱者は強者に従うべき。公爵家の人間は神に等しい存在。下位貴族は下僕、平民は人ですらなく置物扱い。逆らう者は全て処分。公爵家にはそれだけの力がある…と。
ギルは自分がそういった扱いを受けていると感じていて、でもそんな考えは間違っていることも知っている。
十五歳から通う学園でヒロインに出会い、そこでヒロインの優しさ、素直さに触れて人の心を取り戻すわけだけど…。
それはさ、ヒロインのようにハイスペックガールにしかできない技で、平凡令嬢には荷が重い。別にギルと恋仲になりたいわけでもないし。
別の方法で『その考え方は間違っている』と思わせなくてはいけない。
強者に従うべきと言うのならば、私がその強者になってやり込める?
権力者…は無理、さすがに公爵よりも強い立場は望んでも手に入らない。
お金持ち…はなれなくもないが、時間がかかりすぎる。
物理的な強者。
刺繍が得意なおっとり令嬢には無理だが、前世の私ならば可能…かも?五年後、十年後では体格差で負けるだろうが、十三歳の今なら腕力が足りない分、技で互角にもっていける。
前世の私、全国大会に出られるレベルの柔道家で、警察官を目指していたんだよね。病気になり断念したけど…、ってことは病死かなぁ。その辺りは思い出せないが、思い出せたところで何もできない。
いいや。とにかく体が治ったら鍛えて、ギルを吹っ飛ばそう。
後頭部の打撲はしばらく痛かったが次第におさまってきた。
頭を強打した時って確か二十四時間以内が要注意の時間帯だったような。私の場合、丸三日間看護師さんが側に居てくれたし、医師の診察も毎日あったのでたぶん、脳の血管は大丈夫だったと思われる。
吐き気もないし手足の痺れもない。
しかし貴族令嬢が三日で布団から元気に飛び出すのはさすがに不自然なので、まず布団の中でできる事から始めた。
メイドさんに見つからないように体を伸ばして柔軟体操。体もかたくて、これでは怪我をしてしまう。
お医者さんから『もう、大丈夫ですよ』と言われたのは怪我から十日後のこと。
ルーカス様が様子を見に来てくださった。
「キーラは見舞いにも来なかったようだね」
キーラ様もギルも来ていない。もちろん謝罪はない。
「そのことでお願いがあります」
もうしばらく公爵家に滞在したいこと。滞在する場所は騎士団の宿舎で、場所を貸してほしいこと。そして準備が整ったらギルとの決闘を許可してほしい。
ルーカス様がかたまってしまわれた。
もしもーし。
「無理を承知でお願いします。キーラ様に目を覚ましていただきたいのです」
「え、いや…、しかし騎士団は男の隊員が多く…」
十三歳とはいえ貴族令嬢が居て良い場所ではない。が、鍛えるためには、隔離された場所のほうが集中できる。
「公爵家の騎士団には女性もいらっしゃいますよね?寝泊りは女性用の宿舎で、訓練は私が一人で勝手に行います。ただ訓練用の動きやすい服だけ貸していただけると助かります」
「訓練って…、何をする気なの?」
決まっている。
「優しかったキーラ様を変えてしまったギルを吹っ飛ばします」
強者にしか従えないというのならば、私が強者となる。
強いことが正義だと言うのならば、私が正義になる。
ルーカス様にものすごく心配されたが、かといってキーラ様を放ってもおけないし、現状、ギルの外面はすこぶる良いため追い出せない。公爵様と公爵夫人の前でも巨大な猫をかぶっているようだ。
じわじわと洗脳されているキーラ様は日に日に我儘がひどくなっているようで、このままでは本物の悪役令嬢になってしまう。
ちなみにエスター様とフラヴィア様とは手紙で連絡を取り合い、二人ともキーラ様の変貌と私の怪我を心配していた。
こんなことをしても何も変わらないかもしれない。
しかし…、ギルに一矢報いなければ、きっと一生、後悔する。
ゲームの通りならば、そろそろキーラ様が第二王子ブレイディ殿下の婚約者になってしまう。
この国での貴族の婚約は十歳から十五歳くらいまでが多く、第一王子殿下の婚約者がなかなか決まらなかった影響で、ブレイディ殿下の婚約者も確定していなかった。
ただキーラ様が婚約者候補筆頭なのは確定していて、あとは時期をみて…という段階だった。
婚約者を決めておかないと十五歳で入学予定の貴族学園でブレイディ殿下の争奪戦が起きてしまうため、入学前に正式な婚約者となるはず。
入学した後のことはゲームでの流れだが…。
我儘で選民意識の強いキーラ様を持て余し、ブレイディ殿下はあまり連絡を取ろうとしない。学園に入学してからのキーラ様はやりたい放題で、三年後の卒業パーティで定番の断罪劇となる。
確か…、キーラ様だけが断罪されて、一人、修道院に向かうのよね。
取り巻きだった令嬢達がどうなったのかはわからない。そこまでは描かれていなかったが、想像はつく。
実家判断で修道院行きか、条件の悪い結婚か、平民落ちか。
ギルは隠れ攻略キャラなので、一度、攻略対象全員をクリアする必要がある。
現実世界では無理な話だが、やりようによっては可能なのかもしれない。
私はギルを更生させたいのではなく、ただ吹っ飛ばしたいだけなので、どのような結果で、好感度がマイナスになろうと問題はない。
本来ならば戦うことのない私が戦うことで、キーラ様が気づいてくださると良いのだけど。
弱者強者は表面だけ見てもわからない。
弱い者でも追い詰められれば、強い者に全力で立ち向かうということを。
ルーカス様が私の父と周囲を説得してくださり、こっそりと騎士団の訓練所に住まいを移した。
女性用の宿舎はさすがにきれいに使われていて、まかないのおばちゃんがいるのでご飯も食べられるし大浴場もある。
さすが公爵家、騎士団のご飯も美味しい。
入所している女性騎士は六人で、皆様、納得のナイスバディ。かっこいい。
「あたしはレクシー。一応、この宿舎の監督官だ。ルーカス様から話は聞いているけど…、本当に大丈夫なのかい?」
「はいっ。ハイロフ男爵家の娘、ジゼルと申します。皆様のご迷惑にならないように頑張ります」
「ははっ、元気が良いね。じゃ、ジゼルの計画を聞かせてもらおうか。全面的に協力をするように言われているからね」
それはとても助かる。筋力トレーニングは一人でもできるが、組手は誰かと練習しなければ感覚をつかめない。
おおまかな予定としてはまず基礎体力をあげてから筋力をつける。腕立て伏せや懸垂ができるようになったら、仮想敵との戦闘訓練。仕上げに女性隊員との組手。
大体三カ月くらいで終わらせる予定だ。
貴族令嬢は走らない。というか動かない。私も刺繍ばかりしていたため、体力だけは立派に貴族令嬢っぽい。
まかないのおばちゃんに柑橘系の果実水をたのみ、そこに少しだけ塩と砂糖を入れる。で、水筒に入れてあとは歩く。ひたすら歩く。真夏でなくて良かった。今は冬が終わって春…という季節なので運動するのにも負担が少ない。
ちなみに歩いている場所は公爵邸の地内で、騎士団の訓練所のさらに外。外壁との境目辺りで水分をとりつつ歩き続ける。
王都にある公爵邸もめちゃくちゃ広くて、外周四キロくらいかな。なので、直線距離で往復するだけでも一キロ前後は歩いたことになる。
歩くだけでも疲れを感じたが、子供の体なのですぐに慣れるはず。予想通り三日もすれば早歩きができるようになり、一週間でジョギングに変わった。
走りながら腿上げをしたり、ジャンプしたり。ちょうど良い枝があればぶら下がって懸垂…はまだ無理か。
食事は三食きちんと、タンパク質を多めに。子供の体は代謝が良いので、カロリーは気にせずに食べたいだけ食べる。それが筋肉になる。
走る。筋力トレーニング。クールダウン…と繰り返すうちに腕立て伏せや懸垂もできるようになった。
お姉様達と腕相撲をしても負けてしまうが、最初は瞬殺だったのが、今は何秒か持ちこたえている。
筋肉をつけすぎるのも良くないため、気分転換に受身の練習。
ひたすら地面を転がり続け…、実戦に移ることにした。
条件がある程度揃うことが前提だが、柔道は小柄で非力な者でも技が決まる格闘技だ。有名な技は背負い投げや巴投げだが、あれはそう簡単に決まるものではない。
私が狙うのは体落か、払腰。
引き手で崩すか、足を払うか…、技が決まったからといって勝ったことにはならない。柔道の試合ではないため、まず相手の態勢を崩して関節技か締め技に持ち込む。
このゲームは西洋風の世界観なので騎士は剣と槍を使い、体術は護衛術程度。素手で戦うとすれば殴ることになる。
投げ技も足払いも結果的にそうなることはあっても、意識して出る技ではない。
お姉様達に付き合ってもらい、ひたすら体に覚え込ませる。
そして三カ月後。
ルーカス様にお願いをして、ギルに決闘を申し込んだ。
場所は騎士団の訓練所をお借りして、ルーカス様とキーラ様、それにレクシーさんが証人兼審判として立ち合う。私が一応、貴族令嬢なので男性騎士はいない。
「勝負の方法は素手で、相手を地面に倒した方を勝ちとします。ご令嬢の顔に痣を残すわけにはいかないため、殴る、蹴るは禁止します」
ギルは呆れたようにため息をついた。
「私に転がされたことへの仕返しですか?無駄なことを」
「無駄なことではありません。これはキーラ様を賭けた真剣勝負です。私が勝てば、キーラ様の従者から外れていただきます」
「ジゼル、勝手な事を言わないで!男爵家の娘にそんな権限はないわ!」
「真剣勝負です、口を出さないでください!」
怒鳴ると、キーラ様があからさまに動揺して黙り込んだ。
大きな声で怒鳴れば、言うことを聞いてしまう。それが弱者。キーラ様は決して真の強者ではない。この程度で簡単に立場が逆転してしまう。
キーラ様を守る者が側にいなければ、公爵家という盾は何の役にも立たない。
「権力があれば、お金があれば、力があれば、他人を虐げてもいいなんて、間違っている」
「綺麗事だな。現実は異なる。権力者が、金持ちが、暴力的な者達が弱者を支配する。弱者は詐取されるためにいる」
「ギル、あなたはそう言うと思っていたよ。だから、私が倒す」
絶対に負けない。
「強者となって、キーラ様を取り返す!」
向かい合って立つと、やはりギルの方が背も高く、二回りは大きい。きっと腕力も強いのだろう。
しかし私だってこの一カ月間はお姉様達と組手を重ねてきた。
勝つイメージ。
組んで、引いて、払って…。
「試合、始め!」
ギルが覆いかぶさるように両腕を伸ばしてきた。この体勢は…、現役時代でも滅多にできなかった憧れの技。
腕を引き、素早く下に入り込んで体を反転させる。あとは相手の力を利用して。
背負い投げ。
ギルが背中から地面に落ちた。
予定とは異なる技となったがきれいに決まった。
ギルは何が起きたのかわからない…といった顔をしている。
「勝者、ジゼル」
うわ~、前世ぶりだけど決まるとめちゃくちゃ気持ちいい。
「ま、待て、今のは…」
立ち上がってまた両手を突き出して、だからね、その体勢はとっても投げやすいのよ。はい、腕を引いて、足を払う。と、簡単に地面に転がった。
茫然自失。とでも言えばいいのか。
何故、地面に転がっているのか理解できないようだ。
「ジゼル、凄いな。訓練を重ねるとこんなにも簡単に技が決まるものなのか」
レクシーさんが感嘆の声をあげる。
「女だと舐めている相手だと簡単ですね。でも実戦では…、犯人逮捕の時などは関節技のほうが良いですよ。このように」
「いっ…、なっ……」
地面で寝ているギルの左腕の肘を逆方向へとねじった。
「関節技はやりすぎると腕が折れるため気をつけてください」
「なっ…、離せ!」
「随分と偉そうな態度ですね。あなたは二度も負けた弱者の立場ですよ?弱者は強者に従うしかないのですよね?」
「………っ」
「このまま腕を折ることもできますが、私はそんなことはしません。騎士を目指しているわけでもないし、暴力など大嫌いです」
でも、たまには怒る時もある。
「刺繍が趣味である私でも、怒ればこの程度の反撃はします。弱者を虐げ続ければ、いつか反撃されるかもしれない。他人を殴る時は、自分も殴り返される覚悟が必要です。誰よりもあなたが一番理解しているはずなのに、何故、キーラ様を惑わすような事を言うのです?」
捨て身の庶民ほど怖いものはない。
守るべき地位も財産もなければ、どんなことでもできる。
ギルの腕を離した。
「あなたの価値観を変える気はない。生い立ちも性格も、存在ごと、心底、どうでもいい。私には関係がない。でも、キーラ様に手を出すのなら別です。絶対に許さない」
ギルは悔しそうな顔をしていたが反論はしなかった。
心を入れ替えたのかどうかはわからない。
ただ…、女に負けた恥でしばらくはおとなしくしているだろう。その辺りはルーカス様がうまくやってくれるはずだ。
振り返るとキーラ様が困ったような泣きそうな顔をしていた。
「キーラ様、見苦しいものをお見せいたしました。申し訳ございません。ですが…、これでおわかりになったかと思います」
ギルのほうが身体能力に優れていたし、おそらく騎士としての訓練もしている。だが、油断していれば負けることもある。
「私からの最後のお願いです。どうか、弱き者の言葉にも耳を傾けてください。子猫一匹でも、私のような下位貴族の娘でも、キーラ様なら簡単に罰を与えることができるでしょう。その前に、それが本当に正しいことか考えてください。弱き者を守ることは強き者の責務です」
深く頭を下げてその場を後にする。
ここまでやっても変わらなかったら仕方ない。乙女ゲームの強制力だと思って私は自領地で静かに過ごそう。
男爵家に帰る時はルーカス様が馬車で送ってくださった。
「ありがとう…。あとでゆっくりとキーラと話をしてみるよ。ギルとも」
「私のわがままを聞いてくださりありがとうございました」
「驚きはしたけど、わがままだとは思っていないよ。ギルを投げ飛ばした時は私もスカッとした」
やっぱりルーカス様は優しい。
馬車の中に二人きり…で緊張していたはずなのに、疲れていたのかいつの間にか眠ってしまった。
気がついた時には自宅のベッドの中で、当たり前だけどルーカス様はいなかった。
最後にきちんとお礼を言いたかったな。
優しくて穏やかな…、キラキラした男の子。
こうしてまたひとつキラキラの想い出が増えて、これでもうキーラ様達に会えなくなったとしても…思い出だけで生きていける。はず。
さようなら、大切な友達。
さようなら…、たぶん私の初恋。これ以上、親しく話す機会があったらきっと勘違いしてしまう。ルーカス様に婚約者ができたら…、ヒロインと出会ったら。
モブ令嬢なんて背景の一部。だからこれ以上は望まない。
会えなくなるほうが良い恋もあるんだね。
「ご婚約おめでとうございます」
「この半年少しで随分といろいろな出来事があったような気がしますわ」
「本当に。ジゼル様が怪我をされて」
「怪我が治ってからすこし長めのお休みを…と聞いておりましたのに」
エスター様とフラヴィア様がふふふと可愛らしく笑って。
「ルーカス様とジゼル様が婚約されると聞いて、本当に驚きましたわ」
ですよね、私が一番、驚いていますよ。
超展開すぎて、まったく意味がわからない。
公爵家と男爵家の婚約なので、公爵家からの申込がなければ成立しない。そう、下位貴族の娘達がどれほど騒いで願おうとも、公爵家が『うん』と言わなければ…、言ったとしてもかなり無理のある階級差だ。
ルーカス様、どうしたの、何か変な方向に目覚めてしまった…とか?
目覚めてしまったといえば…。
「ジゼル!」
キーラ様が満面の笑みで駆けてきて、私に抱き着いてきた。
「嬉しいわ、ジゼルが私のお義姉様になるのね!」
同じ年ですけどね、ルーカス様と結婚したら確かにそうなりますね。
キーラ様は無事、以前のキーラ様に戻ってくれた。それどころか、以前にも増してキラキラと可愛らしい。
そのことはとても嬉しいが、婚約って…。
数日前に二度と会えないかも…と、『さようなら、私の初恋(陶酔)』とか言って一晩中、泣いたの、一瞬で黒歴史になったわ。
ともかくルーカス様と私が婚約することが内定し、今日は公爵家に集まっていた。子供達だけのお披露目ティーパーティだ。
「キーラ様もブレイディ殿下との婚約が決まり、エスター様もマグニール侯爵のご子息とご婚約ですわよね?私だけ取り残された気分です…」
いや、私達、まだ十三歳ですからね?
前世で言えばまだ子供、めっちゃ子供、子供以外の何者でもない子供。
婚約が早すぎる…。
「フラヴィア様はとても可愛らしいもの。きっとすぐに決まりますわ」
「だと良いのですが…」
話していると、ルーカス様とブレイディ殿下が現れた。ルーカス様の後ろにギルもいる。三人とも攻略対象なので、キラキラが三倍に増えています、眩しい。
慌てて淑女のご挨拶。
「今日は公式な場ではないので楽にして。ルーカス、婚約者殿を紹介してくれよ」
「ハイロフ男爵家のジゼル嬢ですよ」
慌てて挨拶をすると。
「私のお義姉様ということは、結婚後はブレイディ殿下のお義姉様ということにもなりますわね」
「確かにそうなるな」
キーラ様がにこにこと可愛らしく笑っている。
これからの事に不安がないわけではないが…、きっともうキーラ様は大丈夫。
皆で楽しくお茶を楽しみ歓談している最中、ギルはずっと無表情で壁際に控えていた。時々、お菓子やお茶を運んだり、片付けたり。
「ギルのことが気になる?」
ルーカス様に聞かれて、首を横に振る。
「いえ、全然」
小さな声でそっと告げる。
「ここにいるの、恥ずかしくないかなと思っただけで…。えーっと、恥を知れ。という意味ではなく、例えば何もない場所で転んでしまった時とか、恥ずかしいですよね。あれです」
「その辺りはもう克服したみたいで、今は女性騎士達に頭を下げて技を伝授してもらっているよ」
「………仕返しのために?」
「いや…、好きになった女の子のために精神的にも肉体的にも強くなりたいそうだ」
好きになった…、って私かっ!?
いや、無理だから。ギルのように生い立ちが複雑でメンタルも不安定な人はヒロインのような子でないと支えられない…と思う。
本音で言うとこれ以上の面倒事は遠慮したい。私はモブ令嬢なので、本来は活躍する人達をそっと応援するだけの役割だ。今後はルーカス様とキーラ様を応援しつつ、自分なりの小さな幸せを見つけたい。
「その女の子は私が先にもらってしまったので、ギルには少し可哀想だったかも」
へ、返事に困るわぁ…。じわじわと顔が熱くなってきた。
「その、本当に私と婚約をするつもりですか?」
「もちろん。すでに両親は説得したし、キーラもあの通りとても喜んでいる」
公爵様にはルーカス様から報告した。
キーラ様がギルに洗脳されかけた理由は、たぶん不安だったから。あんなにキラキラした美少女なのに、自分に自信がもてなかったようだ。
そしてギルもまた生まれや育ち、今後のことで不安を抱えていた。
不安なあまりおかしくなってしまうことは思春期にありがちなことで、何年か過ぎれば立派な黒歴史となるだろう。
「ギルは一旦、私の従者とした。恋敵のそばにいれば嫌でも精神が鍛えられるだろう?」
わぁ、ルーカス様、意外と腹黒、そこも好きっ。
十五歳の年に私達は揃って貴族学園に入学した。ルーカス様は先に入学していたが、入学式ではわざわざ私をエスコートしてくれた。
周囲の目線が痛かったが、キーラ様が守ってくださるので今のところ過激な嫌がらせにはあっていない。
乙女ゲームが始まったわけだが、ヒロインであるモルシャン男爵の娘ジェイミー嬢はとても真面目で優秀な生徒で、男子生徒に媚を売ることなく淡々と授業に取り組んでいる。
キーラ様の王子妃教育が始まり、私の…公爵夫人教育も始まった。
男爵領のことだってよくわかっていないのに、公爵領。
投げ出したい時もあるが、絶妙なタイミングでルーカス様が現れてちょっとしたご褒美をくれるため逃げられない。
本当に腹黒で…、そこも好き。やっぱり好き。
キーラ様は学園を卒業してすぐにブレイディ殿下と結婚した。とても華やかできれいな結婚式で、感動のあまりわんわん泣いてしまった。
その一年後、私もルーカス様と結婚した。
エスター様とフラヴィア様も同じ年に結婚し、今でも四人で会うこともある。キーラ様の都合がつかない時も多いけれど。
親しかった人の中ではギルだけが独身で、ゲームの通り子爵家を継いだ後も何故か独り身のままだった。尖っていたギルだけどヒロインの癒しがなくても性格が丸くなり、それなりに良い領主として働いている。
過去の事も黒歴史も封印して普通に親戚付き合いができていると思う。
時々、公爵家に遊びに来ているが、主にルーカス様が相手をしている。たまに子供とも遊んでくれる。
庭で六歳になった娘シャルロットを遊ばせているとルーカス様とギルがやってきた。息子もいるがまだ生まれたばかりなので乳母に見守られながらお昼寝中。
シャルロットがパァっと笑ってギルに向かって駆けだす。
「ギルおじ様~」
「シャル、ちょっと見ない間にまた大きくなったなぁ」
ひょいと抱き上げると。
「うんっ。もうギルおじ様のお嫁さんになれる?」
なれません。何、言いだすのこの子は、六歳で結婚なんて…。
「シャルは可愛いなぁ、ちょっと早いけど婚約指輪を用意したほうがいいかな」
「ギル、子供相手に何を言っているのかな」
「そうよ、変な冗談はやめて」
「シャル、パパのところにおいで」
ルーカス様が手を差し出したけれど。
「やだぁ、シャル、ギルおじ様と結婚するんだもんっ!」
その日、公爵邸の美しい庭園に『絶対に許しません!』という公爵夫妻の絶叫が響き渡った。
閲覧ありがとうございました。