指を失った魔女の物語
※改稿しました
遠い遠い国の物語。
あるところにグルヴァズという国がありました。
多くの魔法使いを抱えたその国には金銀財宝が溢れ、大層繁栄していました。
その国の高位の魔法使いは「4本指」と呼ばれ、左右の手から小指が欠けています。
それにはこういう訳があるのです。
その国では魔法は悪魔がもたらしたと信じられていて、
それは「知識の悪魔」と呼ばれ、尊敬と畏怖をもって祀られていました。
グルヴァズ国の創始者も、この悪魔から知識を授けられた魔法使いでした。
彼はより深い知識を得るために己の指を、知識の悪魔に捧げたのです。
悪魔はそれに正しく答え、彼に国を治めるための知識を授けました。
それ以来、この国ではより深い知識を望む魔術師は、
儀式により両手の指を一本ずつ悪魔に捧げるのです。
儀式をする資格は誰にでもあるというわけではなく、知識の悪魔に選ばれた魔法使いだけがそれを行えるのでした。
それゆえ、知識の深淵に一歩近づいた魔法使いたちを、その国では敬意を込めて「4本指」と呼ぶのです。
けれど誰も、2本目以降の指を捧げようとするものはありませんでした。
それにはこういう言い伝えがあったためと言われています。
その昔、グルヴァズ国に一人の魔女がいました。
類まれなる魔法の才能を持ち、建国の賢者の生まれ変わりとすら言われるほど知識に精通しておりました。
――けれど足りない。
彼女は知識を求めています。
知識はより深い知識を求め、渇望はやがて抑えきれないものとなります。
彼女は自身の指を贄に悪魔を呼ぶことを決意します。
魔女が儀式を望むと、止める人はいませんでした。
彼女が通されたのは城の中心にある広大な部屋。それが儀式の間でした。
どれほど大きな部屋なのか、想像すらできません。
窓もないために光も入らず、焚かれた篝火だけが唯一の明かりでした。
けれどその炎の明かりだけでは部屋の隅まで照らすことはできないのです。
その篝火の炎を見つめて、魔女は悪魔を呼びます。
その方法は書物で読んで知っていました。
けれど、どのように知識を得るかは知りません。
悪魔が直接教えてくれるのでしょうか?
深淵の知識の書かれた書を見せてくれるのでしょうか?
それとも、何か別の方法で……?
胸に渦巻く疑問は、好奇心となります。
にやりと魔女は微笑みます。
知識を求めた時より、この場に立つことは憧れでした。
指の1本など、惜しくはありません。
祈りを捧げると広大な儀式部屋に異形の悪魔が召喚されます。
巨大な体躯に大きな角、骸骨のような見た目。そして、底の見えぬ眼窩から覗く小さな光。
およそ人間離れしたその姿。
恐怖に身をすくませながらも、なるほどこれが悪魔かと頭の片隅で理解します。
魔女は己の手を悪魔に差し出します。
悪魔はコクリと頷いて、両手から小指を引きちぎります。
認識に遅れて、痛みが魔女を襲います。
声を上げて泣き叫び、両手を合わせるように握り合わせます。
深淵の主が、こちらをじっと見つめています。
痛みにあえぐ最中、まるで脳髄に直接流れ込むようにして、知識が魔女に与えられます。
深淵の主が、こちらをじっと見つめています。
意識を失えばそれで終わってしまう気がして、
呻き声を上げることで、痛みと同時に襲ってくる知識の奔流から意識を失わないようにします。
深淵の主が、こちらをじっと見つめています。
一切の表情を見せない悪魔が恐ろしくなり、魔女は瞳を逸らします。
深淵の主が、暗闇の中に掻き消えました。
大きく息を吐きながら、魔女は汗を拭います。
己の額に、べったりと血が付きました。
――なるほど。
恐怖から解放された安堵の中で、魔女は気づきます。
どうして誰も3本指にならないのか、その理由を。
単純にあの存在が恐ろしいのだ。
……もう二度と会いたくないほどに。
そうして彼女は意識を失いました。
それから幾ばくかの月日が流れました。
深い知識を得たとはいえ、魔女の中で未だ知らぬ知識への欲望が徐々に膨れ上がっていきます。
もともとの知識が奥深いがゆえに、その衝動には耐えられません。
食事をせずには生きていられぬように、魔女にとって新しい知識は必要なものでした。
けれど既に彼女は全ての書物を読み、人から入る知識の全てを得てしまっています。
この国にいたのでは最早何も手に入りません。
あの時の、知識の流れ込んでくる快楽を求めてしまっているのでした。
今や恐怖は彼女を引きとどめておく鎖にはなりません。
彼女は再び儀式の間へと入ります。
篝火の前で祈りを捧げると、深淵より再び悪魔が舞い降りる。
魔女はその4本指の手を掲げます。
悪魔の仄かに光る眼窩に、魔女は彼が笑ったように感じます。
痛みになら耐えられる。
けれど今回は違いました。
全身を虫が這うような感覚。
それは血管や毛穴にまで浸食していき、己を内側から食い荒らします。
痛み、かゆみ、恐怖。その全てが極限に達した時、両手の薬指が破裂しました。
薬指があった場所からは噴水のように血液が噴き出しています。
魔女は叫ぶ。あまりのおぞましさに。
発狂してしまった方が楽かと思いましたが、同時に知識が流れ込んできます。
自らの望んでいた快楽です。
それゆえ、ここで潰えてしまっては勿体ないと思い、力の限り叫びます。
自らの意識を繋ぎとめるために。不快な全てを忘れるために。
やがて指を失った痛みだけが残った頃、悪魔は姿を消しました。
魔女は微笑みながら意識を失います。
指は3本になってしまいましたが、日常生活に不都合はありません。
最早その知識は国で並ぶ者がなく、全ての雑事は周囲の者が行ってくれます。
では魔女は満足したのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
むしろ欲望の栓が抜けてしまったかのように、魔女は悪魔と会うことだけを考えています。
恋焦がれるように知識を求め、どんどん飢えていきます。
幸い、指はまだ3本もあるのです。
再び儀式を行うことに、最早躊躇いはありませんでした。
祭壇。
手を掲げる。
指が消える。
恐怖と陶酔と、知識の快楽。
ついに指が2本になりました。
けれども至高の魔法を扱う魔女には、すでに指など必要ありません。
渇望が、魔女の心を捕らえていました。
金銀財宝、その全てが濁って見える。
欲しいのは、知識だけ。
欲しいのは、ただアナタだけ。
指は1本になりました。
知識を求める魔女の欲望には既に狂気が宿っています。
最早何も要らない。命すら彼女には価値のないものとなっていました。
満たされたい。
刹那であろうと、知識に飢える魔女を満たしてくれるのは今や悪魔だけとなっていたのです。
知識の悪魔に最後の1本を捧げるべく、魔女は儀式を行います。
悪魔に会う喜び。
最後の指を捧げます。
今回はおぞましい事態は何も起きませんでした。
指がスッと消え、知識が流れ込んできます。
いいえ、違います。
彼女が最後に味わう恐怖は知の深淵そのものでした。
知を得ることは、とてつもなく恐ろしいことだったのです。
恐ろしくも甘美な二律背反だったのです。
知識のもたらす恐怖と陶酔に、魔女は頭を抱えて耐え抜きます。
――全てを差し出した。最早私に知らないことはない!!
声を立てて魔女が笑い声をあげます。
まるで子供のように純粋な声でした。
そして魔女は意識を失います。
それからほどなくして、魔女は失ったものの大きさに気づきます。
0本指となった魔女は悲観に暮れます。
これではもう悪魔に会えないではないか。
あの快楽を、味わうことが叶わぬではないか。
いいえいいえ、指がなければ手を差し出せばいい。
手がなくなれば腕を、足を、体を全部……。
0本指の魔女は高らかに嗤います。
狂ったように嗤いながらも、魔女は漆黒への扉を開きます。
篝火が狂ったように踊りながら魔女を迎え入れます。
何度となく繰り返した手順で祈りを捧げると、やがて祭壇には悪魔が現れます。
彼と知識を求め伸ばした手に、既に指はない。
……欠損している。
私は、アナタに相応しくない。
魔女は悲しくなります。
捧げなくては。アナタに捧げなくては。
けれど対価は。あぁ、なにを頂こうかしら。
既に全ての知識はこの身に宿っている。
けれど捧げなくては。アナタに捧げなくては。
望みは何もない。
知識もいらない。生命もいらない。
差し出せるものは何でも差し出してしまいたい。
魔女の頭を今までとは違った欲望が埋め尽くしています。
――捧げられぬなら、アナタを求めればいい。
曲がった理。歪んだ望み。
魔女はその知識の全てを使い、悪魔に対して魔法を使います。
悪魔が悲しそうに笑います。広大な儀式の間に、その声はすぐに吸収されてしまいます。
それは初めて聞く悪魔の声で、魔女の胸が恐ろしいほどに満たされます。
何一つ抗うことなく、悪魔は魔女の前に倒れ伏します。
まるで、それこそが彼の望みであったかのように。
その骨だらけの悪魔の指を、魔女は喰らいます。
「お前に喰われて私は深遠に至った。
お前を喰らって、私は真理に至る」
ボリボリと、魔女が悪魔を貪る音だけが儀式の間に響きます。
祭壇に、美しい姿の女の悪魔が立っています。
どこから見ても非の打ち所がない、美しい悪魔です。
けれどその手にはあるべき指が一つもなかったのです。
彼女は知識を求める者に、きっと叡智を授けることでしょう。これからも。