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影の流れ星  作者: えりさかりお
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02ウインディギル_02


 ラルンドとウィンディギルは雑木林の中でアリアードを見下ろしていた。

「まずは風。ウィンディギル、力を貸して」

 ラルンドが左手で大地から天へ向けて弧を描く。

「エロースとアンタレスの血にかけて」

 剣を取り出すと、アリアードの額に翳した。

 その周りを風が取り囲んでいく。

 徐々にラルンドの額に飾られた石が輝きを増し、その光に合わせて風も強くなっていった。

 辺りの木々が揺れる。

 ウィンディギルの風の力に、アリアードの中に眠る風の力が呼応し始めたのだ。

 ざわざわざわざわざわ…

 眠っていたアリアードの瞳が、カッ、と見開かれた。

 その瞳をラルンドが見据えると、アリアードの目が信じられないほど大きく−眼球の直径が見て取れるほど−開かれた。

 その瞳の色が変化して行く。

 ラルンドの瞳の強さにアリアードが苦痛の表情を浮かべ始めた。

「いたぞ!」

 村人の声が上がった。

 その声に向かってウィンディギルが視線を送ると、声の主は高く中空に巻き上げられた。

 ざん。

 草を鳴らして村人が落下する。

 ざわざわざわざわざわ…

 更に木々が騒ぎ出した。

 ラルンドの瞳の力に耐え切れず、アリアードは呻き声を挙げた。その声は赤ん坊というよりも、烏の威嚇の声に似ている。

 騒ぎを聞きつけ村人達が押し寄せたが、人々は遠巻きにラルンド達を見据えることしか出来なかった。

 疾風の壁が村人達が近寄ることを阻んでいたのだ。

 ラルンドとウィンディギルが一方的にアリアードを攻めているとしか思えないその光景に、女が絶叫した。

「いやぁぁぁっ!子供を返して!」

 その声にラルンドの気が削がれた一瞬を突いて、アリアードが自分を取り囲んでいる風を自身の中にある風の力で薙払おうとした。

 その衝撃でラルンドが乱気流に巻き込まれたようにバランスを崩した。

 かざしていた剣の切先が赤子のアリアードに向かう。

「ああっ!」

 必死で重心を起こそうとするラルンドの努力も虚しく、手にしていた剣がアリアードの手の甲を僅かに切り裂いた。

 怪鳥の叫びが上がる。

 浅く切られた皮膚に鮮血が滲み、柔らかく白いアリアードの手を赤く染めた。

 剣を手にしたまま、わなわなと震えるラルンドに構わず、封じ込めようとするウィンディギルの風の力と、薙払おうとするアリアードの風の力が新たな旋風を巻き起こす。

 女が叫ぶ。

 辺りの木々が薙ぎ倒される。

 村人達が逃げ惑う。

 ラルンドの髪が巻き上げられ腕や首にまとわりつく。

 目の中の水分が瞬時に乾いてしまうどころか、目を開けていることさえ困難な風圧が辺りを取り囲んでいる。

「おとなしくしろ!アリアード!」

 ウィンディギルが叫んだ。

 両手をクロスさせ、掌をアリアードに向け、ギリギリと奥歯を噛む音が聞こえそうなほど、歯を食いしばっている。

 ウィンディギルを援護しなければ、と思う半面、無抵抗の赤子を傷付けた動揺から、ラルンドは己の成すべきことの判断が遅れた。

—不意に風がピタリと止んだ—

 風が止んだことによりラルンドの中に恐怖が沸き上がった。

 振り返るとウィンディギルの体が頭を下にして、宙に浮いていた。

「ウィンディ」

 アリアードの目がウィンディギルを見据えている。

 時間の流れがいつもの半分の速度に感じられた。

 戦慄を味わいながらラルンドがウィンディギルに駆け寄る。が、同時に、アリアードの奇怪な声が上がった。

 精神の一部が壊れているような、聞く者の五感を逆撫でする笑い声を聞いた瞬間、ウィンディギルの体に無数の切り傷がつけられていた。

 まるでカマイタチにあったような傷だ。

「ウィンディ!」

 ラルンドが叫ぶ。

 不自然な格好のまま、苦痛に顔を歪めながらウィンディギルが唱えた。

「エーオースの、翼にかけて、連れ去られし、子等、を、我がもとへ」

 黄金色に輝く細長い剣が現れた。

 アリアードがウィンディギルの体にさら成る苦痛を与える為風を呼ぶと、辺りの空気がざわめき出した。

 呻き声すらあげられない程体を締め付けてくる力に、ウィンディギルは、剣をその手に握り締めるのが精一杯であった。

 目に見えない大きな腕で締め付けられているように、皮膚がよじれている。

 体中の傷から流れる血が剣に伝わり、剣に集まった血はウィンディギルを助けようと手を伸ばしているラルンドの上に滴り落ちた。

 ラルンドの両腕に血の染が出来てゆく。

 感情を支配する彼女は、アリアードの力の前では無力に等しかった。ウィンディギルの苦痛を和らげることすら出来ない。

《どうしたらいいの!このままではウィンディが!》

 ズン、という重みが不意にラルンドを襲った。 

 …何…?腕が…

 ラルンドの左腕の烙印がウィンディギルの血を吸って変化し始めていた。

【我が一族の血を吸いし者よ、汝の名の元に我が名に掛けて力を解き放つがよい。我が子等が応えてくれよう】

 ラルンドは腕の烙印の蠍からエーオースの言葉を聞いた。

 ウィンディギルの握力が弱まる。手から離れた瞬間、大気に溶けるように剣が消えた。

 ドサッ、という音と共にウィンディギルの体が地に落ちる。

 ラルンドは、かろうじて彼女と大地との間に体を割り込ませたものの、すでにウィンディギルは意識を失っていた。

 赤ん坊のアリアードが笑っていた。次はお前の番だ、と言いたそうに…

 躊躇っている余裕は無かった。

「ラルンド・ルーク・オィングスの名の元に、エーオースの名に掛けて、この血に繋がる者の解放を」

 ラルンドはウィンディギルの血を吸った烙印に自分の剣を当てがい、血を絡めたその剣で辺りの風を薙払った。

 ラルンドの意識が取り囲む風の中に入り込む。

《この血に繋がる者の解放を…》

 形こそ見えないものの、風の気はラルンドの剣に集まり出した。

 エーオースの名に掛けて一族を呼ぶ声に応える為、繋ぎ止めている者から抜け出そうとする風の力が、まだ抵抗力の無い赤ん坊のアリアードの体を突き破った。

「ぎぃぃぃぃぃあぁぁぁぁぁぁ」

 長い呻き声が辺りに響いた。

 苦痛の表情で呻くアリアードを見るに耐え兼ね、ラルンドはきつく目を閉じた。しかし、アリアードの声は容赦なく鼓膜を刺激する。

《許してアリアード》

 前回水の支配を解いた時は、アリアードに自分を攻撃する意思が読み取れた。その為、ラルンドは躊躇わずアリアードに剣を向ける事ができたのだ。

 しかし、今回は違う。

 赤子の姿をしている。

 過去、愛くるしい顔でラルンドの心を和ませた妹の姿がそこにはあった。

《許してアリアード》

 ラルンドの願いは、アリアードの声が聞こえなくなるまで繰り返された。

「グフッ」

 何かが喉につかえたような声とともにアリアードの声はプッツリと途切れた。

 アリアードから抜け出した風の力は、ラルンドの剣に集まり、それに伴い村人を圧迫していた風の力も治まっていく。


 どのくらい過ぎたのか。正気を失っていた村人達が目覚め、辺りを見渡すと、ラルンドが肩で息をし、赤ん坊を前に膝をついていた。

 その横には全身に血を絡ませたウィンディギルが立っていた。皮膚もあらゆる箇所が鬱血により紫色に変色していた。

「エーオースの子等よ、汝ら主の証である剣を持つ者へと還りなさい」

 ラルンドが剣に向かって呼びかけるものの、先程までの風が嘘のように凪いでいる。

「あ、あんたらは悪魔じゃ!」

 村人の一人が叫んだ。

「悪魔…」

 ウィンディギルがラルンドに問うと「不幸や死を人々にもたらす者のことよ」と答えた。

「私はウィンディギル。風を司る者!」

 そう言って手を挙げかけた彼女を制して、ラルンドは泣き崩れている女に向かって言った。

「この姿を見てもあなたはアリアードを自分の子供だと言い切ることが出来ますか?」

 アリアードは産着に血をこびり付かせ宙を見ていた。その顔はもはや赤ん坊のものではなく、魔が目覚めた時のアリアードの顔に変わっていた。

 赤ん坊の体のまま、顔だけが大人びている奇形さに女は目を逸らした。

 しかし涙声で訴える。

「この子は私の子よ。神様が私に授けてくださった子よ」

 見兼ねた夫が事情を話し出した。

「妻は楽しみにしていた子を死産してしまったのです。私達は二人で赤子が安らかに眠れるようにと教会へ祈りに来た折、この子を見つけたのです」

 そこまで言って男は言葉を切った。

「私の子よ、私の子よ」女はつぶやき続けている。

 ラルンドは女を見つめ肩の力を抜いた。

 口には出さなかったが、この夫婦の間には二度と子供が望めないことが解ってしまったからだ。

 彼女の持つ力で女の悲しみを和らげようとした為、風を留めている力が弱まった。

 と、アリアードの目が異様に輝き出した。

 それをめざとく見つけた老人が叫ぶ。

「危ない!」言うのと同時にアリアードの目が老人を見つめていた。

《邪魔をするな!》

 ごりっ。

 嫌な音がした。

 老人はアリアードの目を見た時、首筋に痛みとも熱とも取れる感触を味わっていた。

 が、その感触も見つめていた目も、次の瞬間には消えていた。

「じいさん!」

 村人の叫び声も老人の耳には届かなかった。

 何となれば、老人は首を後ろへと直角に倒し、服を自らの血で染めていたからだ。

【奪われたものは奪い返すまで】

 ラルンドの頭の中にアリアードの声が届いた。

 ラルンドがアリアードに剣を向ける。しかし、それより僅かに速くアリアードが風の支配をラルンドの剣から引き離した。

 大気が揺れる。

 ドサッ!

 重たい音がした。

 大気が揺れたことにより、それまで微妙なバランスで天を仰いでいた老人が倒れたのだ。

 首を直角に曲げたまま体だけが前のめりに倒れたため、地面から真っ直ぐ首が生えたようになっていた。

 何も写していないはずの目がアリアードを見据えている。

「ひっ…」

 体の奥からこみ上げてくる恐怖が、喉元で塊と化してしまったかのように、アリアードの声を詰まらせていた。

 アリアードは恐怖を振り払う為に、ラルンドに対し、先程ウィンディギルを切り刻んだ風の力を向けた。

 瞬間、ウィンディギルが風とラルンドの間に割って入る。

「私の支配すべき力であなたを傷つけるわけにはいかない」

 そのことばが言い終わらないうちに、ウィンディギルの体は中空に舞い上げられていた。

 ビッ。

 ラルンドの顔にウィンディギルの血が飛ぶ。

「ウィンディ!」

 村人達も次々に風に巻き上げられていく。しかし地面に伏せて居るためか、老人の首だけがアリアードの側から離れずにじっと目を見開いていた。

「エーオースの子等よ!私に力を貸して!」

 ラルンドの必死の叫びにも関わらず、アリアードがつなぎ止めている風の力の方が数段強い。

 先程までの赤子の力など無に思える程の力が、アリアードの中に沸き上がっていた。

 ラルンドが風圧に押され、じりじりと後退して行く。

「思い知った?ラルンド。見た目は赤子でも私はあなたより大きな力が使えるのよ」

 言っている側からアリアードの身体が変化し始めた。

 髪が伸びる。

 小さく握られていた手が歪に伸び、皮膚の生成が追い付かないのか、血を絡めた骨がにょきにょきと掌から突き出てきた。

 手だけではない。足も腰も肩も、アリアードの身体全体が凄まじい勢いで成長している。

 ラルンドは大木の幹に押し付けられた恰好のまま、その光景を見ていた。

 白い布にくるまって居た赤子は、二本足で立ち上ると、今や血で赤く染まった布を身に纏った。

 赤子は五歳児程度まで成長していた。

 楽しい遊びでもしているように、可愛らしい笑い声を立てている。

 轟々と唸る風の音に混じって、高い笑い声がクスクスと響いていた。

「アリアード!目を覚ましなさい!あなたは希望を受け継ぐ者なのよ!」

 ラルンドの声は風に飛ばされ、虚しく宙に舞う。

 クスクスクス…

 力を解放することが楽しくてたまらないらしい。

「アリアード!」

 ラルンドの声に耳を貸すこともなく、小さく歌まで口ずさんで居る。

 虚空に舞い上げられた人々を満足そうに眺めた後、ふと、視線の隅に入ってきた固まりに目を止めたアリアードは、瞬時に顔色を変えた。

 笑いが貼り付いたままの表情で、恐怖に声を荒げた。

 老人の何も写していない筈の目が、未だにアリアードを見ていたのであった。

「やめろ!私を見るな!」

 子供の姿をしたまま、大人の声を発していた。だが仕草は子供のままで、いやいやと我がままに振舞う時のように、めちゃくちゃに老人に向かって風を叩き付け始めた。

「消えろ!消えろ!消えろ!」

 もう既に死んでいる老人の身体が、細かく千切り取られていく。

 手首が腹が、太股が…。

 気が狂ったように力を叩き付けていたアリアードは、十数回目にしてようやく首に向かって風を叩きつけることが出来た。

 その拍子に首が持ち上がり、閉じていた老人の口が開く。

 笑っているようにも見える老人の首は、胴からちぎれ、ごろごろと歪な円を描いて止まった。

 アリアードの動きが止まる。

 一点を凝視する目に赤黒い塊が写っている。

 無残に千切られた肉片が辺りに飛び散り、辛うじて胴体と首とが、肉片が人間であったことを示していた。

「いやぁぁぁあああっ」

 目を見開いたまま、アリアードは両手で頭を抱えていた。

 力を解放したことにより、過去のおぞましき闇の力までもがアリアードの中に蘇ったのである。

 エリスの支配していた闇の記憶が一気に押し寄せる。

 ありとあらゆる醜い思念。恐怖、憎悪、嫉妬それらがアリアードの周りを取り囲む。

 そして、目の前には否定出来ない事実—自分がたった今行った残虐な光景—が写し出されていた。

 叫び声と共に閃光が疾る。

 ワンテンポ遅れてズン、という衝撃がラルンドを襲った。

 したたかに幹に頭が打ち付けられる。

 光の中心にいるアリアードの姿が揺らいだかと思うと、閃光と共に一点に凝縮され、消えた。

 無理に空間をねじ曲げたためか、空に亀裂がはしり、髪を焼いたような鼻に突く臭いが立ち篭めていた。


 辺りに支配する者を失った風が吹き荒れていた。

 木々はおろか建物さえも、その威力に形を変えてしまいつつある。

 ラルンドは朦朧としながらもアリアードが消えた虚空から、視線を辺りにはしらせ、ウィンディギルを探した。

 さほど離れていない大木の根元に、気を失った彼女の姿があった。

 ラルンドは意識を集中させ、荒れ狂う風の流れに気を集めると、倒れているウィンディギルに剣先を向けた。

 シュッ、シュッ、と空気を切る音が到るところにたち始める。

「エーオースの子等よ、汝ら主の証である剣を持つ者へと還りなさい」

 アリアードがこの場に居ない為か、いとも簡単に風達はラルンドの言葉に従った。

 集まった風の流れは細長い竜巻状になると、自らウィンディギルの体の中へと入って行った。

 剣を下ろし、息を吐く。

 頭を幹に打ち付けたことにより、耳鳴りがしていた。

『思い知った?ラルンド。見た目は赤子でも私はあなたより大きな力が使えるのよ』アリアードの言葉が蘇る。

《私は何て無力なのだろう。私の支配力では仲間に対して何の助けにもならない…》

 辺りに吹き荒れていた風が体に全て取り込まれると同時に、ウィンディギルは目覚めた。

 大木の根元で動く気配がしたことで、ラルンドは慌ててウィンディギルの元へと駆け寄り声を掛ける。

「ウィンディ…」

 名を呼ぶ声に目を開けると、ラルンドが上から覗き込んでいるのが目に入った。

 フッと、ため息を吐くと自分の体が宙に浮く。その感覚からウィンディギルは力が元に戻っていることを悟った。

「どういうこと…だ」

 つぶやくようにラルンドに問うと、ゆっくりと辺りを見回した。

 根元から倒れている大木。

 ガラスというガラスが砕けてしまっている建物。

 そして、僅か数名、土に横たわっている村人—おそらく今の風で大方の人々はどこかへ飛ばされたのであろう—光景が見て取れた。

 剣を消し、かわりに真新しい布を取り出すと「まだ、アリアードは完全に目覚めていないのだわ」血塗れのウィンディギルの傷口を優しく拭いながらラルンドは答えた。

「老人を殺してしまった罪悪感にかられた時、風の支配よりもこの場から逃れることを祈った為、彼女の中で空間の支配が風に勝ってしまったのでしょう」

「アリアードから解放されたエーオースの子等が私の中に戻ったと言うわけか」

 ウィンディギルは上半身を起こし、幹に背を預けながらラルンドの手当てに身を任せた。

 ラルンドの背越しに無残な遺体が横たわっていたが、二人共そのことには触れずに沈黙する。

 静かすぎる時が流れていた。

 人々の声はおろか、虫の気配すら感じられない。

 太陽からの熱だけが、この情景が現実であることを物語っているように、二人の上に降り注いでいた。

 ウィンディギルの一応の止血を済ませ、ラルンドは顔を上げた。

「ラルンド、私は大丈夫だ。遣り残した事を始末してくるといい」

 そう言ったウィンディギルに礼を言い、ラルンドはアリアードによって殺された老人の魂を探した。

「さて、どうしたものかな」

 ウィンディギルはため息と共に言葉を吐いた。

 ラルンドとの付き合いの長さにより、彼女が今、何を思っているかがウィンディギルには想像出来たからだ。

 どんな言葉を持ってしても、ラルンドを慰めることなど出来ないことは解っていた。 


 老人の魂は“神”と呼ばれた人形の回りを漂っていた。

 薄暗い室内はステンドグラスを通した様々な色の光が斜めに差し込んでいる他は、ぼんやりとした光に包まれている。

 高い天井の為、幾つも並べられた長椅子の背がいやに低く感じられた。

 先日ここを訪れた時は、人々で埋め尽くされていて気付かなかったが、祭壇の上方にある丸いステンドグラス以外、これと言った飾りのない殺風景な空間だった。

 祭壇の中央に並べられた燭台に火が点っていないせいもあるが、しんと静まり返った室内は霊安室を思わせる。

 ラルンドが近付くとそれに気付いたように魂から発せられている光りが力無く瞬いた。

 ラルンドは老人の魂に今までのこと、自分の素性、アリアードの生まれ変わった赤ん坊のこと、そして、アリアードの力によって老人が死んでしまったことを手短に語った。

 しん、とした室内にラルンドの言葉だけが響いていた。

【そうか、わしは死んじまったのか…】

 謝って済むことではない。それはラルンド自身痛いほど解っていた。

 悲しみの空気が辺りに漂い始める。

 その空気を読んで老人が語った。

【あんたを責めるつもりはないよ、神様がお決めになったことじゃ。連れ合いに先立たれてもう十五年にもなる。そろそろあいつの元へといってやれと、神様もお考えになったんじゃろう】

 ラルンドは老人の魂をそっと両手で包んだ。

【せめて、わしの変わりにあの若夫婦に子供が出来ればいいのじゃが…】

「もしもあなたにその気持ちがあるのでしたらば、あの夫婦の為に生まれ変わってはいただけないでしょうか」

 ラルンドの言葉に、老人は一瞬躊躇った。

「あの夫婦は命を宿す力を失ってしまっているのです。亡くなった子供が生まれ落ちた時に、次に宿す力も一緒に落としてしまったのです」

 ラルンドは異次元に溶け込み始めた魂に呼びかけた。

「その心の隙にアリアードがつけこんだのです。このままでは一生あの夫婦は傷を負ってしまうでしょう」

 ほんの少しの間があった後、

【またこの村に生まれるのも良かろう。これも神様のお考えじゃろうから】

 老人は答えた。

 ラルンドは隠り世の扉の番人スカエルスに呼びかけた。願いをサンフィールに伝えてもらうためだ。

 サンフィールは夫婦の体に生命の芽生える力を注いだ。

 この先、二人が子供を授かりたいと願えばそれが叶う筈である。

 老人の意識がゆっくりと闇に紛れて行く。

 あの夫婦に子供が出来た時、その生命の光を出口として、もう一度この世に生まれ変わる為の道標を残してから、ラルンドはこの国の“神”に祈りを捧げた。

《あなたの力が何を支配しているのか知りません。ですが、どうか、この方の魂を導いてあげてください》

 ラルンドは左手で弧を描き剣を取り出すと、それを額に翳した。

 だが、“神”は何も答えてはくれない。

 静寂の中、老人の魂は闇に消えて行った。

 不思議と涙は出なかった。

 ラルンドを責めることなく消えた魂。何も答えてはくれない“神”

 ラルンドは改めて、自分が異世界の者であることを実感していた。

 建物の扉が開いた。

 振り返るとウィンディギルが風で飛ばされた村人達を連れてきているところだった。

 そこだけ四角く切り取られたように、白く浮かび上がっている。

 ラルンドは集められた人達に、偽の記憶を植え付けた。

 祭りの最中“不慮の事故”で亡くなってしまった老人を弔う儀式に参列している。という書き換えられた記憶によって、老人の遺体はこの国の方法で別れを告げられる筈である。


 ラルンドは老人に介抱してもらった小屋の屋根から葬儀を眺めていた。

 一人の命と引き換えにアリアードから風の支配力を取り戻したが、心の中に割り切れないものがあった。

 “神”がラルンドに対し、何も答えてくれなかったことにも一因はある。

《この国の神に、私は受け入れてはもらえないのだろうか…。私は、間違ったことをしているのだろうか…》

 その疑問に答えられる者はいない。

 ラルンドの行うべきことは、まだ終わった訳ではないのだ。

 ファリアスの物質を支配する力、エリスの闇の力、サンフィールの植物、スカエルスの空間、そして人々の意識を支配するラルンド自身も、アリアードによって“美”を奪われたままなのである。

《アリアードから支配を解くには弱気になっていてはいけない》

 ウィンディギルの言葉が蘇った。

「ラルンド」

 声の方を振り向くと、すぐ後ろにウィンディギルが立っていた。

 風で服の裾がはためいた拍子に、白い足が覗いた。

 まだ痛々しい傷跡が残っている。

 服に覆われて見えない分、全身に付けられた傷の具合が、返って案じられた。

 自分に向けられた労りの表情から、ラルンドの心を読み取ったウィンディギルは、「ラルンド、私の傷のことは心配いらない。10日もあれば治る。それよりもあなたの心の傷を直した方が良い」そう言って手を差し延べた。

 木々の葉が風に揺れる。

 日は既に傾き、夕暮れが空を赤く色付けていた。

 辺りの景色がモノトーンに変わって行く。

 夕日により朱色に染められた教会から人々の参列が老人の遺体を運び出し始めた。

 柔らかい歌声が聞こえる。

 悲しい別れを惜しむ歌だ。

 ラルンドもまた、老人に別れを告げた。

 差し延べられた手に振れると、フッと体が浮く。

「新月を待って、一緒に国へ帰ろう」

 ウィンディギルの目には否定を許さない強さが満ちていた。

 ラルンドの返事を待たず、ウィンディギルは空へと舞い上がった。

 見る間に小さくなって行く村を見下ろしながら、ラルンドはやりきれない思いを残してこの地を去った。


 夕暮れの赤に紛れて、二筋の流れ星が南の空を過っていった。

 


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