02ウインディギル_01
【ウィンディギル】
ラルンドが着いた場所は、見渡す限り植物に囲まれた所だった。
回復していない体を酷使したためか、ラルンドはアリアードの気配に辿り着いた直後、猛烈な眩暈に襲われ気を失った。
柔らかい葉ずれの音が聞こえていた。
宮殿の中庭で寛いでいる時の音に似ている。
《何時の間にか眠ってしまったようだわ》
梢を渡る風、花の揺れる花壇、青い空。そんな情景が瞼の裏に浮かぶ。
だが、開かれたラルンドの目には青い空ではなく、天井が写っていた。
「…ここは、…」
その声を聞き付けて「気がつかれたか」と、声がかかった。
声の方へと目を向けると板の間に老人が座っている。
「私、どうしてここへ」
床の上に一組の布団が敷かれ、ラルンドはそこに横になっていた。
「林の中に倒れていたんじゃよ。それにしても、そのような格好でこんな所へ何しに来なさった」
老人に向き合うように、ラルンドは半身を起こした。
「人を、探しているのです」
「人を?」
「えぇ、この辺りにいることは間違いないのですが」
老人は訝しげな眼差しでラルンドを見た。
ラルンドも本来ならば、外の国に住む人達に怪しまれないように変装するつもりでいたのだが、あまりに予期せぬ老人との出会いだった為、その機を逸してしまっていた。
「失礼ですが、あなたはどちらさまで?」
ラルンドの見慣れない服のせいか、やたらと丁寧な物言いだった。
「申し遅れました。私の名はラルンド。妹を探しております」
「どこからおいでなさった」
「それは…」
ラルンドは言葉に詰まった。
「まぁ、いい。何にもないが、元気に成るまでここで休んでおいでなさい。わしはちょっと出掛けますが、小一時間程で戻るんで」
そう言って老人は部屋を出て行った。
老人が出て行くと辺りには葉ずれの音しかしない。どうやらここに老人が住んでいるわけではなく、仕事−主にそれは草木から作る細工物のようである−で使っている小屋らしかった。
ラルンドはゆっくりと起き上がり窓から外を眺めた。
朝の陽光が辺りの葉を透かし、まだらな影を創り出している。
《大分意識を失っていたのだわ》
どうやら小高い丘の上に小屋は建っているらしい。そこからかなり下方に町並みが見渡せた。
小屋からさほど離れていない場所に、屋根の上に剣が立てられた白い家があった。
その家へ向かって何人もの人達が集まって行くのが、木々の間から途切れ途切れに見える。
不思議に思えたラルンドは左手を振り、服をすっぽりと覆える程の丈の長いマントを取り出した。
小屋を出ると、思っていたよりも陽射しが強い。取り出したマントを纏って細い小道を降り、建物へと近付いて行く。
誰からも咎められることなく白い家へと入ったラルンドは、人々に習って胸の前で両手を組んだ。
自国の民の祈りに似ている。
先程の老人がラルンドに気付いて声を掛けてきた。
「もう起きて大丈夫なのかね」
「ええ、お蔭様で。ところで、これは何の集まりなのですか?」
素直に疑問を口にする。
「神に祈りを捧げておるんじゃよ」
「神に祈りを?家の中でですか」
その質問に老人は戸惑った。
「あんたは神に祈ったことはないのかね」
「あることは、ありますが…」
ラルンド自身、守護神から力を授かった現人神なのである。彼女は言葉を濁した。
だが、その答えに老人はあきれ返った。
「あそこをご覧なさい。あそこにいらっしゃる方が神様じゃよ」
老人の指した先には、この家の屋根に刺さっていた剣と同じ形のものに張り付けられた、痩せ細った人形が置かれていた。
「あれが、神、なのですか?」
「そうじゃよ。知らんのかね?」
老人は目をまるくして聞いた。
「神ならば何故、あのような格好をしているのですか?あのように痩せ細って、あれではまるで死人のようではありませんか」
「神は人々の罪を被り、天へと召されたのじゃよ」
「ならば何故いつまでもあのような姿をさらしているのです?神は人々に平和と豊饒をもたらす者のはず。それともこの国では人々の身代りになる者を神と呼んでいるのですか?」
白い家に集まっていた人々はラルンドの言葉に一斉に振り返った。
ヒソヒソと語らう声が聞こえる。
《平和と豊饒を願うあまり、生け贄の儀式を行っているのでは》と、ラルンドの中で疑念が沸き上がる。
ラルンドの表情を見て、何かしら感じとったのであろう。老人が低い声で言う。
「わしはとんでもない者を助けてしまったようじゃな。あんたのような者はここへ入る資格はない、さっさと出ていかれよ」
老人の剣幕に圧されたラルンドは、言われた通り白い家から出て行った。
「何だ今の娘は」
「異教徒が紛れ込んだみたいだな」
小声で人々がラルンドを噂した。
建物を取り囲むように植えられた並木を潜り、建物の裏へとまわると、アンタレスでの豊饒の祭りの際行われる、民の祈りを思い浮かべた。
守り神の像が建つ丘に民が集まり、今年最初に仕込まれた酒が振舞われる。
長老達が、来年もまた良い風と雨と光が大地に注がれるよう祈りを捧げる。
人々は自分の胸に左手を当て、自分の生まれ月の神に豊饒の喜びを伝える…。
そこまで思い返したところでラルンドの思考は止まった。
その喜びも、今は、無い。
空を見上げて大きく息を吐く。
自分は何故ここにこうしているのだろうと思いたくなる程、青い空が広がっていた。
ここから見える空の色も隠り世から見える空の色も、一様に青かった。
その青さにより望郷の念に駆られる。
ラルンドはアリアードの罪を被って押された烙印を見た。
もう既に腫れはひき、かわりに白い肌の上に剣を背に突き立てられている蠍の図案がくっきりと浮び上がっていた。
《私は憎しみにかられてアリアードを探しているのではない》
外の国へ来てからというもの、ラルンドは左腕に押された烙印を見る習慣がついてしまった。
『わしはとんでもない者を助けてしまったようじゃな。あんたのような者はここへ入る資格はない、さっさと出ていかれよ』
先程の老人の言葉がよぎった。
《私は間違っているのだろうか》
この国の神は痩せ、衰え、天に召されてしまったという。それも、人々の罪を被ってだ。神をそんな目に合わせた後に一体何を祈るというのだろう。
そして何より、この国の神はこの世から去った後も、人々の祈りを聞き届ける力を持っているのだろうか。
老人がラルンドに対し呆れたのと同じように、ラルンドもまたこの国の人々の行為を理解出来ずにいた。
自国へ思いを馳せる。
そんな折、一陣の風が吹き、裏庭の隅に小さな吹き溜りをつくった。
風にラルンドの長い髪が乱れる。
その疾風が治まると、そこから髪の長い黒い服を纏った女性が現れた。
膝までの丈しかない貫頭衣を金色の太めのベルトで止めただけの飾りのない衣装に、鈍色の胸鎧をつけ、黒い腰丈のマントを羽織っている。膝当てのついた編上げ靴も黒いため、木陰では輪郭が掴みづらい。
明るい飴色の癖のついた髪は風に煽られ、無造作に波打っている。乱れた前髪の下から藍色の切れ長の瞳が細められていた。
「ラルンド、探したよ」
「ウィンディギル、どうしてあなたがここに?」
「エリスから話を聞いた。エリスがいなくなるとアンタレスに休息がなくなると言って追い返したそうだね」
「追い返しただなんて」
ラルンドの困った様子を気にも止めず、ウィンディギルは続けた。
「だから私が来たのだ。私は風を司る者。風がなくとも人々は過ごせる」
「そんな」
愛し子達の気遣いが解る。
誰かがラルンドの側に付いていなければ、また彼女がアリアードに因って倒されるのではないかと思ってのことであろう。
ラルンドは微笑んだ後、「ありがとう」そう言って剣を取り出すと額に翳し、片膝を付いた。
「ラルンド、そんな堅苦しい挨拶は抜きにして欲しいな」
剣を取り出して片膝を付く形式を取るのは、誓約や儀式の際行われる挨拶の仕方だった。
「そうね」
ラルンドは立ち上がりざま、剣を大地に向けて突き立てた。地面に刺さる筈の剣がフッと消える。
剣は支配する者の象徴である。力を授かった愛し子達は、各々の守護神にかけ、縁の深い場所へ剣を封印していた。
ラルンドに例えるならば、守護神エロースの名と、剣に飾られている石=アンタレスの血にかけて、劔は大地の底に眠っている。
ラルンドに対して少しきついことを言ってしまったと思い、後を追ってきた老人は、この一部始終を見てしまった。
風の中から現れた女性、何時の間にか取り出して、大地に吸い込まれるように消えた剣。
気付かれないようにこの場を立ち去った方が良いと思う半面、無意識に言葉が口を突いて出ていた。
「あ、あんたらは、一体、何者だ」
その声にラルンドは身を硬くした。
瞬間、ウィンディギルがラルンドの腕を掴み、風と共に姿を消す。
後には風に舞う木の葉しか、老人の目には写らなかった。
三日後、村で祭りが執り行われた。
ラルンドはその日、ようやくアリアードを探し当てることが出来た。
「祭りの日に生まれてくるなどとは、まさに神の子だ」
「この子が生まれた時、南の空に星が流れたそうだ」
村人の注目を集めている赤ん坊。それがアリアードの姿だった。
白い家の壁に寄り掛かって、村人達の行為を眺めていたウィンディギルが口を開いた。
「アリアードは自分の姿さえも自在に変えてしまえるのだね」
目線をアリアードに向けたまま、隣に立っているラルンドに言う。
「そのようだわ。でも、アリアードの心が赤子のままならば支配を解くことも可能な筈。まだ“美”に対する執着心は持っていないでしょうから」
ラルンドとウィンディギルが話しているのを隠れて聞いている者がいた。他ならぬ、ラルンドを助けた老人である。
彼はあの日以来、こっそりと二人をつけていた。
あの日、教会の裏で二人を見失った後、仕事小屋へと戻ると、小屋の中は既に片付けられており、ラルンドからと思われる親指ほどの大きさの金塊が机の上に置かれていたのだった。
床を貸しただけのことに対して、只ならぬ謝礼である。
何者であるのか確かめたい好奇心が老人を駆り立てていた。
一通りの赤子への賛辞が終わったようだった。人々は祭りの準備へと戻り始めている。
軽く息を整えると、ラルンドは人々の中へ割って入った。
一旦人々の雑談が途切れ、新たに疑問を並べる会話が広がってゆく。
「誰だい、あの娘さんは」
「いつぞやの、神を敬わぬ娘だ」
「あぁ、そんなのがいたな」
「一体何なんでしょう」
そんな声を制してラルンドは言った。
「聞いてください。ここにいる赤ん坊は私の妹、アリアードです」
ラルンドの言葉の意味が人々に理解されるまで暫くの間があった。
「私は妹を連れて帰らねばなりません。どうかその子を返してください」
ざわめきが起こった。そして、それは次第に大きな動揺となった。
その言葉を聞いて慌てたのは他でもない、両親である。
「うちの子をどうしようっていうの!」
母親がひきつった声をあげた。
「今お話した通りです」
「冗談じゃない、そんなこと!」
父親も声を荒げる。
「そうよ、この子は私達の大切な子供なのよ」
「あなた方は、本当はそうでないことを知っている筈です」
「ど、どういう意味だ」
父親は怯えた目でラルンドを見た。
「その子とあなた方とは同族ではないのです。間違いなく、あなた方は不幸な目に遭うでしょう。そうなる前に、私達の元へ返して欲しいのです」
確かに二人の間にいる赤ん坊は、両親とは似ても似つかぬ風貌と髪の色をしていた。この土地の子にしては、肌の色も白すぎる。
「何を言っているの!この子は私の子よ」
母親は叫んだ。
産後で体調が思わしくないせいか息が荒い。
村人達は当然若夫婦を庇った。
「村の祭りに関係のない者は出て行け!」
「そうだ!神を愚弄するものは失せろ!」
村人はラルンドから赤ん坊と若夫婦を遠ざけた。
その行為を見ていたウィンディギルの目付きが変わる。
黙って建物の壁に凭れていた彼女が、すっ、とラルンドの横に並んだ。
ウィンディギルはラルンドと違い、きつい風貌をしている。藍色の切れ長の瞳、通った鼻筋、薄い唇。黒い服を身に纏い、現れただけでその場の空気が変わる。
村人達はますます騒ぎ立てた。
「他所ものの言うことなど、聞いていられるか!」
そうだそうだ、と、同意する声が辺りに響く。
若夫婦の周りに何重もの人々の垣根が出来上がっていた。
軽く息を吸うウィンディギルの気配に気付いて、ラルンドは左手で彼女の胸の前を遮った。
「今は、力を使うべきではないわ」
村人達が動揺している今、力を解放すればパニックを起こしかねない。
ラルンドの言葉に、ウィンディギルは無言でその場を離れた。
村人達に背を向けたウィンディギルの後を追うようにラルンドも踵を返す。
その後ろ姿を村人達はうさんくさそうに見送っていた。
教会から少し離れた雑木林の中を二人は歩いていた。
辺りに人影が無くなってからウィンディギルがラルンドに向かって聞く。
「何故アリアードを奪ってしまわない」
「無理に奪えばあの夫婦が傷付くでしょう」
「だが、時間をかける訳にはいかない」
「そうね、どう説明したら理解してもらえるのかしら」
うなだれてしまったラルンドを見据えて言う。
「簡単なことだ。アリアードを連れ出した後、この村の人達の記憶を消せば済む」
「でも…」
「ラルンド、あなたは優しすぎる。国の民の事を考えてみなさい。今こうしている時も、人々は苦しんでいるのだよ」
愛し子達の力によって意思を閉ざした民の顔が浮かぶ。愛し子達の、と言うよりはラルンド自身の力に因るところが大きい。
ラルンドは顔をあげた。
「そうね、誰も傷付けずに済むなんて、出来ないわね」
「しっかりなさい。アリアードから支配を解くには弱気になっていてはいけない」
ウィンディギルは左手を目の高さまで挙げた。
「これは、心を司るあなたでなければ出来ないのだから」
ウィンディギルの言葉が言い終わらないうちに突風が吹いたかと思うと、二人の前にアリアードが置かれていた。
白い布に包まれて、まるで邪気の無い顔をした赤ん坊が静かな寝息をたてていた。
突然の疾風が村人達を襲った。
祭りの為に用意されていた飾り付けや料理が飛び散り、家畜が暴れ、教会の前の広場に集まっていた人々は混乱の渦に巻かれていた。
「まいったな。折角の飾りが台無しだ」
「まぁ、どうしましょう!今から作り直して間に合うかしら」
あちこちから嘆き声が上がっている。
人々のざわめきを破って教会の中からカン高い叫び声が上がった。
「子供が!私の子が!」
声の主は先程の女だった。
ラルンド達がこの場を離れた後、女は教会の中で赤ん坊を休ませていたのであった。
「どうした!」
扉の内側からざわめきが上がっている。
広場に居た全員の目が扉に注がれた。
ぎ、ぎ、と音をたてながらゆっくりと扉が開かれる。
薄暗い室内から白い手が浮び上がり、震えながら更に扉を押し広げた。
女の体が小刻みに震えている。
「消えたの、私の子が消えたのっ!」
女は倒れそうになる自分の体重を支えるようにドアにもたれ掛かり、荒い息で人々に赤ん坊が消えたことを訴えた。
ざわざわと騒ぎが広がっていく。赤ん坊が消えたという事実が納得出来ずに、各々が勝手なことを口にしたためだ。
扉の内側に居た他の女達も赤ん坊が一瞬にして消えた事実を目の当たりにして、言葉を失っていた。しかし、そんなことは有り得ないという意識が働き、ただその場に立ち尽くすことしか出来ないでいる。
村人達が騒ぐ中、先日ラルンドを介抱した老人が女の前まで歩み寄ると、小さいため息と共に口を開いた。
「聞いてくれ」
村人達は一旦言葉を切り、老人の方を見た。
「先程の二人は妖精じゃ。妖精が仲間を連れ戻しに来たのじゃよ」
村人達から更成るざわめきが起こる。
確かにこの村の者と比べると二人は異様だった。
生活するには不便とも思えるほど伸ばされた髪、日に灼けた痕すら見あたらない白い肌、不思議な色の瞳。
「先日、わしはあの二人が一瞬のうちに目の前から姿を消したのを見た」
ざわめきの輪が広がっていく。
誰もが老人の言葉を信じようとはしなかった。−異国の者が妹を探している−その程度にしか思えなかったからだ。
「では、赤子が消えたのをどう説明するのだ」
老人が声を張り上げたことで、老人の言葉に気を取られていた女が赤ん坊が消えたことを思い出した。
「いやよ!あの子は私の子よ!」
周りに集まっていた村人をかき分け、叫びながら赤ん坊を探し始めた。
アテがある訳ではない。手当たり次第に荷物を探り、片端から赤ん坊を見なかったかと声を掛ける。
尋常ならぬ女の振舞いに人々は事の重大さに気付き、一呼吸遅れて村人達も赤ん坊を探し始めた。
もちろん、老人の言葉を信じてのことではない。赤ん坊がいなくなった現実だけを認め、探し始めたに過ぎない。




