02前章
紆余曲折を経て、感情を支配する愛し子であるラルンドの力により、
奪われた七つの支配力のうちの一つ、ウォータリアスの持つ水の支配力を取り戻すことが出来た。
しかし、その力を取り戻す代償としてラルンドは傷を負ってしまった。
彼女の傷を癒すため、二人は一旦国へと帰ることになったのである。
ラルンドが出会った人々から、詳細の記憶を消すのを待って、ウォータリアスが告げた。
「ラルンド、焦る気持ちは解るけれど、今あなたが無理をすると、私達皆が悲しむことになるわ」
ウォータリアスの言いたいことは解っている。アリアードによって付けられた傷の心配をしているのだ。
ラルンドは素直にウォータリアスの言葉に従った。
「そうね。ウォータリアス、力を分けてもらえるかしら…」
新月に合わせ蠍座が中天に来る場所を探し、移動しなければならない。
ウォータリアスはラルンドを抱き抱えるように支えると、呼吸を整えた。それに合わせ、ラルンドもタイミングをはかる。
二人は目で合図すると、とん、と軽く地を蹴って、そのまま空間に溶け込んで行った。
隠り世の扉を開けるには番人の協力が必要となる。
タイミングを間違えると辿り着く場所が変わってしまうからだ。
時には何億という色の集合、漆黒の中に小さな光が無数に散りばめられた空間、光の束、目まぐるしく変わる平行感覚、そんな中を延々と彷徨うことになる。
隠り世の扉を開けることが民に禁じられている所以である。
危険を伴う行為だからこそ神々が人と断絶を図るには効果的で、奇跡的な偶然が重ならなければ隠り世には辿り着けない。
そんな中をウォータリアスに抱えられながらラルンドは歩いていた。
鼓膜を圧迫する空間の中では声は聞こえない。低い地響きのような、どどどど、という振動音に混じって、自分の鼓動が聞こえるばかりである。
ラルンドは目をつぶり、意識だけを前へと向けていた。
不意に圧迫感が消えたことにより、二人は隠り世に辿り着いたことを悟った。
がくっ、と重心が崩れ、ラルンドはその場に膝をついた。
肉体的疲労はもちろんのこと、精神的にもかなり参っていることは誰の目にも明らかである。
その彼女が危険を伴う移動をしたのだ。
ここまでもったことが奇跡に近かった。
「ラルンド、もう少しの辛抱よ」
肩で息をしているラルンドにウォータリアスが声をかける。
「ここで少し休みましょうか?」
その問いにラルンドは首を振った。
「大丈夫、少し眩暈がしただけ…」
ウォータリアスに支えられながら立ち上がると、ラルンドは首を巡らした。
国は以前と変わっていた。
辺りに咲き乱れていた草花も、美しい日の光もなかった。人々の声はおろか、鳥の囀りさえ聞こえてこない。
二人は黙ったまま、宮殿の正面に当たる門の前へと進んだ。
様子がおかしいことは解ってはいたが、それが返って二人を無口にさせていたのだ。
階段を上り切った所で、改めて辺りを見渡すと、宮殿からさほど離れていない南の方角に、星の守り神の像が建つ丘が見て取れる。
そこにもやはり、人の気配は感じられなかった。
まるで息を潜めて家の中で何かに怯えてでもいるかのようだ。
ラルンドの息が上がっている。
「私、人を呼んでくるわ。ラルンドはここで待っていて」
ラルンドを扉の脇にもたれかけさせ、ウォータリアスは宮殿へと足を向けた。
キ、と小さく音をたてて扉が開く。
目の前に開けた空間と、二階へと上がる為の緩やかに弧を描いた階段が見て取れた。広間の奥には真っ直ぐに伸びた廊下が続いている。
宮殿の中は閑散としていた。
ドーム状に吹抜けになっている広い空間にはまるで人の気配が感じられない。
ウォータリアスは奥へと続く廊下を進み、突き当たりを右に折れた。
その先には家臣達の宿舎があり、非番の者が寛いでいる筈であったからだ。だが、やはりここにも人の気配は微塵も感じられなかった。
ウォータリアスは引き返し、中庭方向にある女王の間へと向かった。
静かな廊下はいつもより更に広く感じられる。足元を照らす明り取りの窓からの光がゆらゆらと廊下に漂っている他は動くものが何も無い為、ウォータリアスは深海を歩いているような感覚を味わっていた。
女王の間の前で彼女は足を止めた。扉のすぐ脇に一人の老女が眠ったように座っていたからである。
ウォータリアスが近寄ると老女はゆっくりと目を閉じたまま顔を上げた。
「愛し子様、お帰りになられましたか」
しわがれた声でウォータリアスに声を掛ける。彼女はウォータリアスとラルンドとを間違えているようだった。恐らく盲目なのであろう。
「他の者は何処に居るのですか」
ウォータリアスの言葉に老女はゆっくりと左右に首を振ることで答えた。
「部屋へ入っても構いませんか」
そう聞いたウォータリアスの言葉に老女はゆっくりと立ち上り、重い扉を内側に押した。
中庭に面した窓を薄いカーテンで覆った室内は、やはり深海のように静かな光が舞っていた。
奥にベッドが見える。
恐らく女王が横たわっているのであろうが、ウォータリアスはラルンドが居ないこともあり、女王の側に行くことを憚った。
扉に手を掛けたままの老女の手をそっと外し、ウォータリアスは黙ってその場から立ち去った後、二階にあるゲストルームにまで足を伸ばしたが、それも徒労に終わった。
大理石を敷き詰めた大広間にウォータリアスの足音だけが響いていた。
ラルンドの介抱を家臣達に手伝ってもらおうと宮殿内を歩き回り、最後にこの大広間へと辿り着いたのだ。
本来ならばラルンドの帰りを喜ぶ宴が催されるであろうこの場所にはカーテンが引かれ、中央の大きなテーブルだけがシルエットとして浮び上がっていた。
《これは一体どういうことかしら…》
ウォータリアスは剣を取り出すと水を呼んだ。最早、家臣達を探すまでもない。この国は変わってしまったのだ。
剣の先から溢れ出した水は生きもののように滑らかに動き、シャーッ、と音を立てて大広間のカーテンを開けた。
薄暗く、陰湿なムードが立ち篭めていた室内が僅かながら明るくなる。だが、窓際が明るくなっただけで、広い室内全体を照らせるだけの光は入ってはこなかった。
ウォータリアスが水を呼び戻し、剣で触れると、本来ならば流れてしまう水が回転し、円柱のベッドを創り上げた。
中央の大きなテーブルの上には、真っ白な布だけがぴったりと覆ってある。
ウォータリアスは無造作にそれをはぎ取ると、たった今、彼女自身によって創り上げられたベッドへと被せた。
不思議と布は濡れることもなく、円柱に沿って幾つもの襞を作り上げた。
黴び臭いわけでも、埃がたまっているわけでもない。つい最近までは人々が暮らしていたことが推測できた。
ウォータリアスは宮殿の入口の扉へと戻り、力なく横たわっているラルンドを抱き起こした。
ある程度予想していたのであろう。ウォータリアス一人で戻って来たことにラルンドは何の質問も浴びせることは無かった。宮殿内のただならぬ雰囲気を感じてはいたものの、今はそのことを問う程の気力すら残っていなかったとも言える。
広間の窓際に設えたベッドへラルンドを運び込み、横たえ、荒い息をしている彼女の口に僅かな水分を与える。
「ラルンド、暫く眠りなさい」
せせらぎが子守歌を奏でるようにラルンドを取り囲んだ。
「ありがとう」
掠れた声でつぶやくようにウォータリアスに告げると、ゆっくりとラルンドは眠りに落ちて行った。
ラルンドが眠りに落ちたのを確認してからウォータリアスは中庭へと足を向けた。
剣を空へと翳すと、それまで曇っていた空に厚い雲が漂い始める。
彼女が雨を降らせたことにより、二人の帰りを知った愛し子達が三々五々宮殿へと集まって来た。
広間の窓際で眠っているラルンドの側で、ウォータリアスが愛し子達を迎えた。
「ウォータリアス、ラルンドは…」
ラルンドの腹心の友であるエリスが集まった愛し子達を代表して聞く。
「先程、眠ったところです」
アリアードから“美”を取り戻すためにはある程度の危険が伴うであろうことは予想できたが、愛し子達の想像を遥かに越えたラルンドの憔悴ぶりに、一同声を失っていた。
中でも目を覆いたくなったのは、以前アリアードによって付けられた額の傷の上に、新たな傷が出来ていたことだ。
ラルンドの白い顔にそこだけ色を付けたように、不自然な赤黒い傷が浮かんでいた。
傷口はまだ癒えていないらしく、傷の中心部には肉の色が覗いている。僅かな刺激で、すぐにでも新たな血を滴らせそうであった。
所在無げに立ち尽くすままの彼女達を分けて、愛し子達の間では一番小柄な、普段は殆ど口を開くことのないファリアスが、スッとラルンドの傍らへと動いた。
真っ直ぐに伸ばした腕を素早く交差させ剣を取り出すと、ラルンドの傷跡に翳す。
愛し子達は黙って彼女の行為を見守っていた。
ファリアスが水晶の結晶を思わせる両端が鋭く尖った剣を器用に回し始めると、剣の回転により空気がヒュンヒュンと高い音を立て始めた。
と、次第にその空気が固まるかのようにラルンドの瞳と同じ色の石を創り出した。
その石で傷跡を覆う。
「アイテールの名の元に、この者の加護を」
両腕を真っ直ぐ伸ばし剣を目の高さまで上げると、ピンッという金属が弾けたような音と共に剣から光が放たれた。
その光がラルンドの額に置かれた石へと吸い込まれていく。
光が吸い込まれたことで、それまではただの石だったものが、生き物のように輝き出した。
ラルンドの呼吸にあわせ、微妙な光沢が彼女の白い額を照らす。
ファリアスが守護神の名を唱えた石はそうそう手に入るものではない。この国の民の誰もが欲している代物だった。
例えば、ラルンドの剣の柄にはめこまれているアンタレスの血と呼ばれる石のように。
伝説では、アイテールがエロースの気を惹こうと、またとない贈り物をした。それがアンタレスの血であるという。
だがその時エロースは、いくら素晴らしい贈り物を贈られようと、それによって特別な人にのみ愛情を注ぐことはしなかった。
彼の心は全ての人を同じように愛していたからだ。
物で気を惹こうとした愚かな行為を恥じて、アイテールはエロースに忠誠を誓った。
【アイテールの名に於て、あなたの愛が枯れぬかぎり、この石も砕けることはないだろう】
それ以来、アイテールの名の元に与えられた石には、その者を守る力があるといわれている。
この国の民が自分の心の証として、想い人に石を贈る習慣は、この伝説になぞらえてのことだった。
—あなたの愛が枯れぬかぎり、私の心も砕けることは無いでしょう—という意味が込められている。
ファリアスが守護神の名を唱えるほどに、ラルンドは哀れであった。
ラルンドの額の大きさに合わせ、金のようでもあり、銀のようにも見える物質で、石の周りに幾何学模様を掘り上げた細いリングが形取られていく。
ファリアスが剣を仕舞うまで、愛し子達は黙ってその光景を見詰めていた。それが終わると、彼女達は各々ラルンドに軽く会釈し、彼女を眠りにつかせたまま、一旦宮殿を離れた。
女王は既に倒れており、いたる所で反乱が勃きていた。
国の運行を司る愛し子達の力がアリアードによって奪われた為、希望を守る力が衰えてしまったのである。
この国の希望が力を失いつつあった。
希望の光が民に届かなくなるのは、もはや時間の問題といえよう。
国では女王派と反女王派との対立が繰り広げられていた。希望にすがる者と、希望を失った者との対立と言っても良い。
ラルンドとウォータリアスがこの地に着いた時、人の気配を感じなかったのはその為であった。
人々は衝突を恐れ、極力家から出ない生活を送っていたのだ。
人々の恐れが障気を作り出し、今や鳥の囀りさえも、野山に聞こえなくなっていた。
宮殿に出入りする家臣が反女王派によって次々と傷付けられて以来、家臣達も宮殿を離れる現状だ。
そんな中、女王の娘であるラルンドが帰ったと情報が流れた為、ラルンドに対して反女王派が強硬手段に出ようとしていた。
ラルンドに無実の罪を着せ後悔したはずだというのに、不安の種は簡単に根を広げて行く。
愛し子達の説得も虚しく、反乱の勢いは衰えはしなかった。
もはや愛し子達もこの国の守り神ではなく、単なる象徴としてしか見られていなかったのである。
ラルンドが戻ってから二日目が過ぎようとしていた。
愛し子達は宮殿の大広間に集まっていた。
誰もが口を開こうとしない。
部屋に差し込む光の角度だけが時を告げている。
「ラルンド、あなたの力が必要だ」
眠っているラルンドにエリスが声を掛けた。
だが、起こそうとしているようには聞こえない。眠っている子供に話しかけるような、静かな口調だった。
《出来ることならば、このまま休んでいて欲しい。だが、そうも言ってはおられぬのだ》
眠り続けているラルンドの夢にエリスが入り込んだ。
闇の一族である夢の神オネイロスの力を借りたのだ。
【ラルンド、目覚めの時が来た】
—ラルンドは夢を見ていた—
冷たい大理石のベッドに自分が横たわっている。
音の無い寒々とした空間にただ一人仰向けになり、そこから見える唯一の色である空を見ていた。
遥か遠くに見える空には白い雲が流れている。しかし、自分の横たわっている場所は暗く冷たい。
【ラルンド…】
誰かが呼んでいる。
聞き覚えのある声だった。
【ラルンド…】
その声は段々と近付いて来る。
…一体何処から?…誰かを探しているのかしら…ここには私の他は誰も居ないのに…
寒々とした空間に声だけが響く。
【あなたの力が必要なのだ】
…私の?…
空の青が色を増した。
微かだが風を感じたことにより、ようやくラルンドは自分の名前に気付いた。
…私を呼ぶのは誰?…
眠りに就いているラルンドの睫毛が揺れた。
エリスは白くなって行く空間から逃れるようにラルンドの意識から抜け出すと、肉声で呼びかける。
「ラルンド…」
その声によりラルンドは目覚めた。
暫くぶりに見るエリスの顔がそこにあった。
軽く首を巡らし、自分が今、何処に居るのか理解したラルンドは、同時に自分の額にファリアスからの贈り物があることに気付いた。
「これは…」
「アイテールの名の元に」
ファリアスがそう告げるとラルンドの顔色が変わった。
「受け取る訳にはいかないわ」
その意味は他の愛し子達にも理解できた。
“支配する者”が守護神の名の元に贈り物をするということは、贈った者に忠誠を誓ったも同然だからである。
国の運行を司る愛し子達は、カオスを守護神に持つスカエルスを頂点として、正六角錐を作りだす場所に位置している。
言わば、偏ることを許されない関係であった。
「私の守護神であるアイテールは、あなたの守護神エロースに忠誠を誓った。それはエロースに媚びたわけではない。何者にも犯されぬ大いなる心に対しての忠誠だ。私は力を受け継ぐものとして、あなたの心を守る義務がある」
淡々とファリアスは語った。
今まであまり口を利くことも無かったファリアスからの言葉に、ラルンドは胸を打たれた。
《私はエロースから何と言う大きな力を授けて頂いたのだろう。私の心が黒く染まらないように愛する力をいただき、その愛を守る力まで、今こうして授けて頂けるなんて…》
ラルンドの瞳から涙がこぼれていた。
《私はこんなにも、多くの力に支えられている》
ラルンドは起き上がり、左手で大地から天に向かって弧を描くと剣を取り出した。
剣を額の正面に翳し、片膝を付くと、ファリアスに向かって言う。
「エロースとアンタレスの血にかけて、感謝します」
ラルンドの一連の動作を見守ってから、エリスが口を開いた。
「ラルンド、辛い知らせがある」
剣を消し立ち上ると、ラルンドはエリスと向き合い、ゆっくりと頷いた。
エリスはラルンドが国を離れてから今までに起きた出来事を手短に語った。
女王が倒れたこと、民による反乱が勃きようとしていること、そして、これから自分達が民に対して力を使わなければ反乱を抑える事が出来ない現状を。
宮殿に押し寄せて来る反女王派の人々の前にエリスが立ち塞がる。
「ニュクスの名において」
エリスは腰に差している剣を引き抜いた。
辺りに暗雲が立ち込め、暗闇が押し寄せる。
人々の間から愛し子に対する罵声が飛んだ。
「ラルンドを出せ!」
「希望などというものに、いつまでもしがみついている我々ではないぞ!」
エリスの横にウィンディギルが並ぶ。
「エーオースの翼にかけて」
その言葉と共に、ウィンディギルの前に竜巻が起こり、その中から黄金色に輝く細い剣が現れた。
彼女が剣を振ると突風が吹き荒れる。
押しかける人波の最前列にいた十数人が、一瞬にして宙を舞った。
二人の愛し子が現れたことにより、人々の半数は、戦意を失った。
人々の移動に流されるままに宮殿へと押しかけた者達は、そそくさとその場から離れて行く。
「オーケアニデスの歌声にかけて」
ウォータリアスが軽く顔の前を薙払うと、大粒の雨が人々の頭上に激しく叩き付けた。
方々から一斉に慌てた声が上がる。
彼女の右手には水の流れを思わせるレリーフが彫られた剣が握られていた。
風で飛ばされた何人かが大声をあげながら近づいて来ようとしているが、雨音で何を言っているのか聞き取れない。
サンフィールが瞳を閉じ両手を首に当て天を仰ぐと、彼女の髪が剣に変わった。
「レートーの瞳にかけて」
彼女が剣を大地に突き立てると、雨から逃れようと人々が集まっていた木々が消滅した。
最早、宮殿に向かって来るのは血気盛んな者しか残っていない。
いくら力が弱められているからとは言え、人々に対して使うには、守護神の力は強大である。
だが、反女王派を根絶やしにしなければ、益々希望の光が弱まることは目に見えていた。
更成る力を持った愛し子が守護神の名を唱える。
「カオスの名において」
スカエルスが胸の前で掌を合わせると、柄の部分に星を象った剣が現れた。
彼女が剣の星を回転させると、人々は平行を失った。
自分の足が地に付いている感覚が失われ、まともに歩くことすら出来ず、なす術もなく暴風雨に晒されてしまう。
「アイテールの名において」
ファリアスは、両手を伸ばし素早く交差させると、両端が鋭く尖った剣を取り出し、それを器用に回転し始めた。
人々が風に飛ばされまいとしがみついている岩や建物が形を変えてしまう。
人々は、宮殿に押しかけるどころか、我身を守ることで手一杯になっていた。
始めこそ罵声を浴びせていた者も、今や愛し子達の力に恐怖している。
女王が心痛のため病に臥せった際には、守護神の怒りを買い、大規模な災害に見舞われるとの言い伝えを目の当たりにしていた。
ラルンドは左手で大地から天に向けて弧を描くと、アンタレスの血と呼ばれる石が柄にはめ込まれている剣を取り出した。
「エロースとアンタレスの血にかけて」
ラルンドは人々の心に沈黙を歌った。
—その結果—
人々は皆、沈黙を守り、無闇に自分の意見を人に押し付けなくなった。
本来の争いを好まない性格が戻ったのだ。
愛し子達の力に因って、表面上の平静が辺りに広がっていった。
だが、不安の種は無くなったわけではない。根がどこまで深くはびこってしまったかもわからない。
しかし一時でも野山を覆っていた障気が消えたことで、暫くすれば鳥達の囀る声も聞こえるようになるであろう。
民が落ち着いたのを見て、愛し子達は休息をとった。
今までの彼女達ならば、力をいくら使い続けても疲れなどは現れなかった。なぜならば彼女達は“支配する者”だから。
“支配力”=“美”がアリアードによって奪われた今、彼女達の力は今までのものとは比べものにならない程小さくなってしまっていたのだ。
奥の間で眠ったままの女王に挨拶を済ますと、愛し子達は宮殿から、自分達の休むべき場所へと去って行った。
反女王派が沈黙したことで、半日もすると家臣達も宮殿へと戻って来た。
愛し子達と別れ、家臣達とも簡単な挨拶を済ませると、ラルンドは自身の部屋へと引き篭った。
そのままベッドへと倒れ込む。
また元のような生活が営まれるであろうことは予想出来たが、ラルンドの心は重かった。
ゆっくりと寝返りを打ち、ベッドの上に仰向けになると、暗く沈んだ中庭を見た。
そこから木々の隙間をぬって夜空が見えている。
《民に沈黙を強要するなど、したくはなかったのに…》
ラルンドの脳裏に豊饒の祭りで人々が歌い、踊っていた日が浮かんだ。
今の民にはその時の面影は微塵も無い。
《休んでいるわけにはいかないわ》
空に瞬いている星を見詰めながら、外の世界のことを思った。
《ごめんなさい、お母さま。側にいて差し上げる訳にはいかないのです》
ラルンドは再び外へ向かうことを決めた。
誰かに打ち明けたならば引き留められそうな気がして、誰にも告げずに宮殿を出ることにする。
愛し子達は今まで通り国を守ってくれる筈である。それはそのまま女王を守ることに繋がる。
愛し子達を信頼しているラルンドは、この国に関して何の心配もしていなかった。ただ一つ、アリアードのことを除いては。
額の傷は、ほぼ塞がっていた。
隠り世の扉の間を移動するくらいの体力も回復している。
《私は今、出来得る限りの最善を尽くさなければいけない…》
そっと寝室を抜け出し、中庭へと足を踏み出した。
夜の冷たい空気が服の布地を通して、肌を引き締める。
ラルンドは女王の眠る寝室へ軽く視線を送った後、北の空を見上げた。
新月とは言えないが月が薄い弧を描いている今の時期ならばさほど扉の中で迷うこともないだろう。
「みずくさいな。わたしにすら声を掛けずに行くつもりか?」
突然背後から声が掛かり、はっとして振り返ると、木々の間からエリスが姿を現した。
「エリス、何故ここに?」
「わたしには休息を守らぬ者を戒める義務がある」
この国では、夜は休息するしきたりになっていた。国の規律を守らぬ者には神々の罰が下ると民は信じている。
実際、闇を支配するエリスは、休息を取らない者の心をはかり、その者の心に闇を見た場合、それ相応の罰を与えていた。
エリスは無表情のままラルンドを見下ろしている。
「ごめんなさいエリス。でも私は一刻もはやく…」
「言うな、ラルンド。あなたの心が読めぬわたしではない」
「ありがとう」
「だがな、闇の中ではわたしの言うことを聞かなければならぬぞ」
エリスは薄く口元に笑みを浮かべた。
「今直ぐにここを離れるのであれば、わたしにはそれを見届ける義務が生じる。ラルンド、それでも良いか?」
気難しいエリスが笑っている。
クスッ、とラルンドも笑った。
「エリスは何時もそうね。私が断れないように話を進めてしまう」
詰まる所、傷の癒えていないラルンドを心配したエリスが付き添って行こうと言うのだ。
僅かな月明りにさえ紛れるように、二つの影が消えた。
—神々が見放した外の国—
二人は夜の川辺に降り立っていた。
広い湿地が広がっている。さほど背の高くない木々と、草のシルエットが僅かな風に揺らいでいた。
闇が水の流れを黒く浮び上がらせている。
さほど大きな川ではない。
夜明けまでまだ大分あるためか、辺りに人影は無く、時折はねる水音以外全てが眠っているようだった。
「エリス、私は大丈夫、国へ帰って」
そよそよと風がラルンドの髪を揺らす。
「無理をするものではないよ」
ラルンドは首を横へ振った。
「無理なんてしていないわ」
「ラルンド、あなたが何を考えているのか解っているよ。民にした仕打ちを悔やんでいるのだろう。それを断ち切る為に一刻も早くアリアードを探そうとしている」
「そんなことはないわ。暴動をくいとめなければ希望が絶たれてしまうのだもの、説得する力を失った今、私に出来ることは人々に畏怖の念を興させること。他にどうしようもないもの。…悔やんでなどいないわ」
「ラルンド自分を偽るのはやめるのだ。偽りは心を黒く染める」
エリスはラルンドの額に手を翳した。
闇を支配する彼女は、敏感にラルンドの心の闇を見出してしまう。
「あなたの心が黒く染まれば、それだけ民は苦しむ事になる」
「ごめんなさい」
「少し休んだほうがいい。わたしが代わりを務めよう」
ラルンドは額に翳されたエリスの手をそっと握った。
「気持ちは嬉しいわ。でもあなたが国を去ると闇の支配が無くなってしまう。人々はずっと安息の無い日々を過ごさなければならなくなってしまう」
国の運行を守る女神の一人として、エリスはアンタレスに必要なのだ。
暫くの沈黙。
草のシルエットが揺れる。
「ラルンド…解った。わたしは国へ帰ろう。でも、いざという時はわたしの名を呼びなさい。すぐにあなたの元へ行くから」
その言葉を聞いてラルンドは握っている手を離した。
「ありがとう」
一瞬躊躇った後、エリスは右手で左の肘を、左手で右の肘を掴み、体の正面を軸にしながらゆっくりと両手を額へとずらして行った。
闇に体が溶け始める。
エリスの腕が直角に曲がった時には、ラルンドの前から姿が消えていた。
折しも、南へ流れる赤い星が、夜空を二分するように弧を描いて消えて行った。
エリスが去った後、大きく息をついたラルンドは、瞳を閉じて心に念じた。
《私をアリアードの元に…》