01ウォータリアス_03
克彦の声が聞こえた。
《ラルンド!どこだ、どこにいるんだ!ラルンド!》
ラルンドは額に意識を集中させると克彦の元へと飛んだ。
そこは既に歪められていた。
アリアードの力が発動したのだ。
「良子が、良子が…」
説明出来ずに取り乱している克彦の足元に青紫の破片が散乱していた。
《これが発動の原因?智佳さんが連れ去られたのは何故?この花を贈られたのが智佳さんだから?》
ベッドの上に散っていたバラの花びらを拾うと「私はアリアードの元へ飛ぶ。あなたにはついてくる権利があるわ」と克彦に告げた。
一瞬、克彦の顔に躊躇いの色が浮かんだ。
「あなたが決めるのよ。最早、あなたの知っている良子ではなくなってしまったアリアードの後を追うか否か」
先程見た、拓海の躊躇いの無い行為に克彦は圧倒されていた。
《俺は果たして良子にあれほど果敢に向かって行けるだろうか…》
「ぐずぐずしては居られない。飛ぶわ」
「まて!俺も、俺も行く」
ラルンドは素早く克彦を抱き止めた。
瞬間、克彦の目に何万という色が混ざり合った。そしてそれは、ある一点に向かって吸い込まれるように流れ、漆黒の闇へと変わっていった。
「あなたの体にはきつかったようですね」
声を掛けられて克彦は正気に戻った。
「ここは?」
「私にも解らないのです」
辺りには湿った重みをもった空気が渦巻いていた。
ラルンドは克彦を離すと薄暗い視界に目を凝らした。
目が慣れてくると、茎が折れて無残な形になった花束を抱え、智佳を引きずったまま立っているアリアードがすぐ先にいるのが見えた。
「違う、こんなものは欲しくない」
呟く声が聞こえた。
焦点の合っていない智佳の目は、眠って居るかのように何も写していなかった。左手をアリアードに捕まれているため、人形のように首がうなだれてしまっている。
大分引きずられたと見えて、下半身の服が擦り切れ、膝と足の甲に血が滲んでいた。
「アリアード、あなたにはもう求める“美”は無い筈よ」
歩きながら唱えた。
「エロースとアンタレスの血にかけて」
ラルンドの左手が大地から天へ向けてゆっくりと弧を描く。
自分に近付いて来た人が敵であることに気付いたアリアードが振り返った。
無造作に掴んでいた花束と智佳の手を投げ捨てる。
二人の瞳が交わされただけで熱風が吹き荒れた。
辺りに凝っていた空気がかき混ぜられ、視界が開ける。
その熱風に思わず顔を伏せた克彦の耳にキン、という鋭い金属音が届いた為、慌てて顔を上げると、ラルンドがアリアードに剣を振りかざしているのが映った。
「良子!」
その言葉に一瞬身を硬くしたアリアードに向かってラルンドの剣が振り下ろされた。
「オーケアノスの子等よ汝ら主の証である剣を持つ者の元へと還りなさい」
ラルンドが剣を引き抜くのと同時に、アリアードの右肩から血がほとばしった。まるで激流のように、全てのものを押し流してしまえる程の勢いで空へ向かって飛び散る。
飛び散った血と、アリアードの腕から流れ落ちる血とで足元に転がされた智佳の服が赤く染まっていく。
奇怪な叫び声と共に激しい衝撃が克彦を襲った。
痛みを振り払うが如く、無闇に衝撃波を飛ばしている。
弾き飛ばされながら克彦は、苦痛に顔を歪めたアリアードの姿を見た。その顔が以前見た良子の泣き顔とオーバーラップする。
《良子…》
出血の為、動きが鈍くなったアリアードにラルンドは容赦無く剣をかざした。
「やめろ!やめるんだ!」
全身を強打しながらも克彦が叫ぶ。
「いいえ、やめる訳にはいかないのです」
そう言って剣を振り下ろしかけたラルンドの前に、克彦が躍り出た。
「どきなさい!」ラルンドの瞳は強くそう言っていた。が、克彦はその瞳の力に耐えた。
苦しさのあまり立っていることすら出来ない状態であるにも拘わらず、克彦はラルンドの瞳から目を逸らすことを拒んだ。
「やめて、くれ。俺達は、いや少なくとも俺は、良子と本気で、付き合ってきたんだ」
遠去かりそうな意識を手繰り寄せながらも訴えてくるその言葉にラルンドは怯んだ。
「俺は、良子を、守る」
克彦の中にラルンドの支配力を弾き返す程の意思が沸き上がるのを感じて、ラルンドの瞳の力が弱まった。
「アリアード、あなたはもう“美”を求める必要はないのよ。あなたにとってこの力こそが、最高の“美”なのだから」
そっとつぶやくように告げる。
「違う、そんなものは欲しくない!」
だが、ラルンドの瞳の力が弱まったのを機にアリアードが反撃に出た。
克彦は背中の産毛が逆立つ程の恐怖を感じた。それはまるで無数の針が皮膚に付き刺さる瞬間を思わせた。別の言い方をするならば、何枚も並べられた剃刀の刃を皮膚に押し付けられ、今にもそれが引かれようとしているような。
反射的に横へと跳んだ克彦は、同時に足元の空間が消滅したのを知った。
足元に出現した虚無が克彦を喰らおうとその手を伸ばして来る。
「危ない!」
ラルンドは克彦と智佳を虚無から遠ざける為に二人を突き飛ばした。
その一瞬の隙を狙ってラルンドに闇の手が疾る。
剣を両手で支え、アリアードから放たれた力を受け止めようとしたラルンドは、額を打つ衝撃と共に自分の体が宙に舞うのを感じた。
体を切り刻む風圧は、痛みよりも熱として伝わってくる。
激流が押し寄せる音を遠くに聞きながら、ラルンドは何処かへ消えて行くアリアードの姿を見た気がした。
心地よいせせらぎに混じってラルンドの名を呼ぶ声に目覚めると「気がついたようだね…」と、克彦がラルンドの顔をのぞき込んでいた。その背後に細かい水の結晶が舞う空が見える。
《私、なんでこんな所で空を見ているのだろう…》
何時だったか同じような経験をした覚えがあった。
「ラルンド、危ない処だったわね」
「ウォータリアス?」
「この人が襲いかかって来る闇を押し流して、助けてくれたんだ」
傷を負っていたアリアードは、新たなる敵の出現に、ラルンドに危害を加えるよりも、この場から逃れることを選んだのだろう。
ラルンドの頭の隅に激流が押し寄せる音が残っていた。
《あの音はウォータリアスの力によるものだったのね》
克彦の手を借りて半身を起こすと虚空を見つめている智佳が目に映った。
「智佳さんは…」
その問に克彦が首を横に振った。
傍らを見上げて言う。
「ウォータリアス、彼女に涙を返してあげてちょうだい」
躊躇いがちに「もう、返したわ」と、答えが返ってきた。
「彼女自身、思い出したくない出来事があるのだと思うの。忘れてしまいたい涙を私が奪ってしまった為、その涙を返しても、彼女は受け入れようとしない」
ラルンドには心当たりがあった。
立ち上がろうとしたラルンドを克彦が制した。
「やめろ、君は怪我をしているんだ。動かないほうがいい」
そう言われてはじめて、ラルンドは見えている景色が赤く染まっていたことに気付いた。
額に手を当てると、ヌルッとした感触が指に絡み付く。どうやら額から流れた血が目に入ってしまったらしい。
「ラルンド、手をどけて」
ウォータリアスがラルンドの前に手を伸ばすと瞬時に視界から赤い色が消えた。指先に絡んでいた血も消えている。しかし、すぐにまた新たな出血により世界が赤く染まった。
ラルンドは構わずに左腕で弧を描いた。
「エロースとアンタレスの血にかけて」
その手には先ほど弾き飛ばされてしまった剣が握られていた。その剣を見詰めながら言う。
「ウォータリアス、あなたの剣を貸してもらいたいの」
声を出さず頷いたウォータリアスが、瞬きと共に右手で軽く顔の前の空間を薙払うと、ラルンドの持つ剣より一回り小振りの、ガードの部分に飾り細工の入った剣が現れた。
ラルンドは二つの剣を交差させ、ゆっくりと剣先を重ね合わせていった。
ウォータリアスの剣の力が宿ったかのようにラルンドの剣が光り始める。
「なにを、」
克彦の質問をウォータリアスが制した。
「これが彼女の持つ力。彼女は今、オーケアノスの子等と会話をしている。邪魔をしてはいけません」
ウォータリアスの剣が薄れて行く分、ラルンドの剣は光りを増していった。
やがて剣が一つになると、ラルンドはその剣で自分の左の小指に傷を付けた。
「うっ」見守っている克彦の方が小さく呻く。
血の付いた剣を智佳と自分の間に翳し、ラルンドは瞳を閉じた。
ラルンドの額が輝き、剣に反射する。その反射はウォータリアスの持つ水の力に共鳴し、辺りは光りに包まれていった。
《この傷はあなたの悲しみを癒すもの》
ラルンドの言葉が克彦の頭の中に響いて来る。どうやら光りを媒体にしてメッセージが送られて来ているらしい。
《大切な思い出を悲しみと一緒に捨ててしまってはいけない。大切な人との思い出まで忘れようとしてはいけない》
ラルンドがゆっくりと瞳を開き智佳を見詰めると、虚空を見ていた智佳がラルンドの小指に自分の小指を絡ませた。その行為により、傷口が押し広げられ、新たな血が流れる。
ラルンドは傷の痛みに耐えた。血の絆は媒介の役目を果たす。
やがて、智佳の瞳に光りが点り、一雫の涙が流れ落ちた。
一つになっていた剣が二つに別れ、ラルンドは持ち主であるウォータリアスに剣を返し、自分の剣を仕舞うと、絡められた指を外した。
智佳に涙が戻ったのだ。
智佳をウォータリアスに預け、坂東家でおきたことをできるだけ消し去ってもらうように頼み込む。
智佳を彼女の部屋へと飛ばす為、空間と時間を支配する愛し子の名を呼ぶ。
「スカエルス、力を貸して」
ラルンドは今は見えないアンタレスに向かって祈った。
「とにかく、ここから抜け出しましょう」
ラルンドは先程と同様に克彦を抱き止め過去に訪れた場所を目指した。
一度訪れた場所であれば辿れるはずだ。
今度はゆっくりと色が混ざり合い、次第に視界が白一色に変わって行く。
唐突に重力を感じて克彦はバランスを崩し、着いた手の下がコンクリートだということに気付いた。
下の方から歓声が聞こえる。
そこにはいつもと何ら変わることの無い放課後の光景が見て取れた。今までの事がまるで夢であったかのような錯覚を起こすほど、変わりの無い日常が送られている。
「良子は何処へ行ってしまったんだろう」
もしかしたら、良子もいつもと変わらないまま、この何処かに居るのではないかと思える。だが、良子が克彦の知らない他人になってしまった事実は否定しようが無かった。
「それでいいのです」
ラルンドは克彦の心を読んだ。
えっ、という疑問符を声に出さずに克彦はラルンドの方を振り返った。
「アリアードを愛する自信が無くなったのでしょう」
「そんな…」ことはない、と言う筈だった克彦のセリフは途中で途切れてしまった。
克彦はラルンドに背を向け、良子のことを思った。
「アリアードの力が弱まった瞬間、私は彼女から水の支配を解きました。ごらんなさい」
ラルンドの指した方向に虹が出ていた。
「ウォータリアスが喜んでいる」
半円の三分の二が見て取れるほど大きな虹が、街全体を覆うように掛かっていた。
「君はこれからも良子を追って行くのか?」
「はい。あと六人の支配力を取り返さなければなりません。あなたもご覧になったでしょう、あの力を」
克彦の背に剃刀の感触が蘇った。
「あの力は本来七つに分かれているものなのです。一つに集まるとあまりにも危険です」
「以前、良子は女王に成る筈だったと言っていたね。彼女には何の力も無いのか?」
「アリアードが正式に女王になれば、彼女は希望を支配する筈でした。今は支配されるべき希望を受け継ぐ次代の主を無くし、民に不安が広がっています。私はアリアードから全ての支配を解き、国へ連れ帰らねばならないのです」
ラルンドの目は、昼でもアンタレスが映っているかのような赤い色をしていた。
その目が克彦を見詰めている。
「俺は、その邪魔をしてしまったのか…」
ラルンドの長い睫毛が伏せられた。
「いいえ」
首が横に振られる。
「あなたの行為は決して間違ってはいませんでした」
そう言ったラルンドの瞳が次の言葉を躊躇っているかのように潤んでいた。
「こんにちは」
「あら、拓海くん」
智佳の部屋で掃除をしていた母親が振り向きざま、声の主の名前を呼んだ。
「ごめんね、おばさん。勝手に上がって来ちゃって」
「いいのよ、智佳も喜ぶわ」
「これ、智佳ちゃんに」
「まぁ、青紫色のバラなんて珍しいわね、高かったんじゃなぁい?」
そう言って花を抱え部屋を出て行った母親を見送ってから、椅子に座り外を眺めている智佳に目を移した拓海は、智佳が只、此処にいるというだけで気持が和んだ。
《智佳が俺を忘れても、俺は智佳を忘れない。智佳が無くした記憶は俺の中に残っている。二人の記憶がいっぺんに消えてしまわないで良かった。…智佳自身が俺の前から消えてしまわないで良かった》
拓海は智佳に歩み寄り、窓に背を預ける格好でフローリングの上に腰を下ろした。
「今日、彼女と別れたよ」
手を握ろうとして智佳の小指が濡れていることに気付いた。
「どうした、指が濡れている」そう言って小指に振れた拓海の手に水が落ちる。
ハッとして顔を上げた拓海の目に、涙を浮かべている智佳が映った。
「智佳…」
奇跡だ、と拓海は思った。
智佳が拓海の手に自分の小指を絡めている。
《あぁ、智佳を元に戻すのはこんなにも簡単な事だったんだ》
以前、赤矢が語った言葉を思い出した。
『あなたは信じないと思いますが、彼女の涙を見た水の女神が、涙と一緒に感情も奪ってしまったのです』
拓海は掌に力を込めた。
《ならば、涙の原因を消せばいいんだ》
「智佳」
拓海の呼掛けに智佳の目の焦点が合わさって行く。
「た…く、くん」
智佳は目の前に拓海の顔があることに戸惑いの表情を見せた。
「智佳。やっと、戻ってきてくれたね」
拓海はもう片方の手で智佳の涙を拭った。
智佳も自分の指で頬に触れる。
《何で泣いてるのかしら…》
「ごめんな。今まで、俺、何やってたんだろうな」
拓海の言葉が理解できない智佳は、その時になってようやく、自分の左手が拓海の手によって抑えられている事に気付いた。
慌てて手を引こうとした智佳の手を拓海は強引に引き戻すと、視線を下に落してしまった智佳を覗き込みながら続けた。
「智佳。もう、お前の中から、俺を消さないでくれよな」
そのセリフに顔を上げる。
「何の話?」
その目に虹が映った。
「きれい…」
ため息によって智佳の言葉は消されてしまった。拓海も窓を振り返る。
「お天気雨が、降っている」
二人は異口同音にそう語った。
そして、躊躇いがちにお互いの小指をそっと絡めあった。
「ごめんなさい。私はあなたの記憶を消さなければなりません」
「何故、消す必要があるんだ。俺は別に君のことを誰かに喋ったりはしない」
ラルンドは軽く頭を振る。
克彦だけではない。アリアードに関する事は人の記憶に齟齬が生じない程度に抹消しなければならない。
「あなたはアリアードのことを忘れたほうがいい」
ラルンドの額が輝き出したのを見て、克彦はその光りから逃れようとしたが、それより速く全身を光りの帯で包まれてしまった。
「いつかまた、あなたは私のことを思い出してしまうかも知れませんね…その時はアンタレスに向かって私の名を呼んでください。私は夢の中で、あなたに幸福を歌うから…」
ラルンドの瞳は思い出すことを願っているかのように見えた。だが、それさえも現実かどうか区別出来なくなっている。
克彦は薄れて行く意識の中でアンタレスが輝くのを見た。
《私はあなたのような人に会えたことを、ずっと覚えておくわ》
目覚めた時、克彦は自分の部屋にいた。
トントン、とドアをノックする音。
「あら、珍しいわね、克彦が星を見ていないなんて」
洗濯物を抱えた人がドアの所に立っている。
「星?今何時なの母さん」
「あら、寝てたの?もう八時過ぎてるわよ」
そう言いながら無造作に洗濯物をベッドに放り投げると「今日は蠍座がとても良く見えるわよ」そう言って部屋から出て行った。
カーテンを開けると血のように赤く輝いたアンタレスが目に映った。
それを見て、克彦は何故か蠍座がとても懐かしく思えた。