表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の流れ星  作者: えりさかりお
3/19

01ウォータリアス_02

 智佳の心は空になっていた。

 涙を奪われた彼女は、それと同時に思考という概念まで無くしてしまったらしい。

 つい先ほどまでの悲しみの感情が智佳の中から消え去っている。

 ラルンドは愕然とした。

 手違いとはいえ、自分のせいで智佳はこうなってしまったのだ。

 ラルンドはアリアードに会うことを恐れた。アリアードにどういう目で見られるのかが怖かったと言ってもいい。

 本当に犠牲者を出すつもりはなかった。単にアリアードの良心に訴えるために脅していたに過ぎない。

 だが、そんなものは単なる言い訳だ。

 愛し子達にしてみればアリアード個人よりも国の民を守りたいと思うのは当然のこと。

 強引に力を奪われたのだから取り戻そうと強硬手段に出る事は想定内だ。

 むしろ手をこまねいていたラルンドよりもウォータリアスの行為の方が正しい。

 ただ、大半の力を奪われた愛し子の力がここまで作用すると思っていなかったのも事実だ。

 智佳は普段の生活の中に取り込まれている行動は理解しているようだが、誰かが指示を与えなければ動かない状態だった。

「家に帰りましょう」と声をかければ素直に立ち上がり歩き出す。

 この状態は一時的なもので、暫くすれば思考力を取り戻すのではないかと、わずかな期待を持った。

 しかし明くる日、いつも通り登校はしたものの、授業中も何もしないで放心している智佳がいた。 

 智佳の動向がおかしいことに気付いた教師により、彼女は早々に家に帰された。


 放課後、校舎の屋上に二人は立っていた。

 他に人影はない。

 良子はラルンドを睨みつけて言った。

「智佳に何をしたの。昨日、一緒に帰ったって他の子から聞いたわ」

「あなたに水の支配力を奪われたウォータリアスが、彼女の涙を奪ったのよ」

「何言ってんの?」

「忘れているだけなの、愛し子達にした仕打ちを思い出して」

「愛し子とか何とか頭おかしいんじゃないの?私にヘンな言いがかりをつけるのは勝手だけど、智佳には何の関係もないわ!」

 良子は一気にまくしたてた。

「ウォータリアスに水の支配力を返してあげて」

「何回言わせんのよ!そんなの知らないって言ってんでしょう」

 ラルンドは何も言い返さなかった。ただ、睨み付けて来る良子の目を彼女も睨み返した。

 アリアードの記憶さえ戻れば智佳を元に戻すのは容易いことなのだ。

 もちろん、アリアードが説得に応じればだが。


 この頃さぼりがちな良子をクラブに誘おうと、良子の教室を訪れた克彦はクラスメイトに彼女の居場所を聞き出していた。

「先刻、赤矢さんと一緒に屋上に行ったみたいよ」

 先日、良子から赤矢に脅されていると聞いていた克彦は急いで屋上に向かった。

 しかし屋上に着いた時、漏れ聞こえて来た会話に、思わず息を潜めた。

「アリアード、あなたは女王になる筈だったのよ」

「やめて!そんな話聞きたくない!智佳をどうするつもりかって言ってんの!」

 言葉が噛み合わない。

 どうしたらアリアードの記憶が戻るのだろう。

「この傷を覚えているでしょう」

 そう言ってラルンドは額にある傷跡を指した。

 良子が後じさる。

 腕にある傷跡から蠍が飛びかかって来た記憶が蘇ったため、無意識に距離をとっていた。

 だが今度は額から青紫色の花が浮かび上がった。

 宮殿の中庭に咲いていた花を幻視として作り上げたのだ。

 その花を手にしたラルンドが、一歩前へと足を踏み出す。

「美しいでしょう、アリアード。あなたは美を求めて、愛し子達の“支配力”を奪ったのよ」

 良子は両手で頭を抱え込みさらに距離をとる。

 そんな良子の前にラルンドは青紫色の花を容赦なく突き付けていく。

 見る間に青ざめて行く良子を見て、克彦は二人の前へ飛び出した。

「やめろ!何をやってんだ!」

 ラルンドは素早く手を引いて、克彦の方を振り返った。

 今は誰にも邪魔をされたくはない。

 ラルンドの額から放たれる輝きを受けて、克彦は意識が遠退くのを覚えた。

 それでも必死にラルンドの腕を掴み、足掻く。

 ラルンドは掴まれた腕をほどき、気を失った克彦をその場に横たえた。

 微かなため息をついた時、開かれていたはずの階下へと通じる扉がバタンと大きな音を立てた。

 振り返ったラルンドの視界に人影は写らない。

 その間に良子は昇降口へ通じる階段へと向かっていたのだ。

 

 息が上がっている。

 頭がズキズキと痛み、考えがまとまらない。

《とにかく逃げなければ》

 足がもつれる。

 心臓がいつもの何倍もの速さでで鼓動しているのが解る。

《早く逃げなければ》

 体の奥から突き上げてくる不快感に苛まれる。

 苦しくて息が出来ない。

《遠くへ逃げなければ》

 封印が解かれつつあった。

 かろうじて留まっている良子の意識は、自分の中に棲んでいるものが、気管の中を通って無理に這い出そうとしている感覚に襲われていた。

《何から、どこへ、どうやって?》

 アリアードは限界を迎えた。

 良子としての意識が遠のくのと同時に闇の力が目覚め始めた。

 闇の気配を感じて、ラルンドの顔つきが変わった。背筋に冷や汗が流れる。

 ラルンドは走り出していた。

 いきなり廊下に倒れた良子を見た女生徒が駆けつけ「どうしたの?だいじょうぶ?」と声をかけてきたことで、魔力が目覚めつつあった彼女は、良子の意識を取り戻した。

 同時にラルンドの足が止まる。

 良子の意識が戻ったことを知り、彼女を追うのをやめたのだ。

 ラルンドはアリアードに対する対応を考えあぐねていた。

 最初はショックによって記憶を蘇らせようと考えた。しかし、それは何の効果も上げられなかった。いたずらに彼女を怖がらせたに過ぎない。次は彼女の良心に問いかけようとした。しかし、これもまた、記憶を失ったアリアードからは何の効果も得られなかった。

 そして今“美”というキーワードを使った。

 だが、それはあまりにも危険な賭であったことに気付かされる結果となった。

 今、この場でアリアードが力を解放したら、この学校にいる生徒に怪我を負わせる程度では済まない。この街全体が消滅してしまう危険すらあるのだ。

 アリアードから支配力を取り戻す為には、奪われた時と同様に彼女に危害を加えるしかないのか…。

 血を流させ、神々との絆を引き剥がすしかないのか…。

 ラルンドは自分の腕の烙印を見詰めた。

《暫くはアリアードの様子を見ることにしましょう》

 

 良子は一瞬何が起こったのか解らなかった。

 屋上から逃れたはずの自分が、名前も知らない女生徒に背中をさすられていたからだ。

 激しい頭痛も不快感も去っていた。

 良子はその女生徒に大丈夫だと声を掛け、この場から逃げるように、慌てて家へと帰っていった。


 夜、ラルンドは智佳の部屋の前にいた。

《窓を開けてごらんなさい》

 智佳は意識の外から呼びかける不思議な声に反応した。

 しかし窓を開けた彼女はただ、ラルンドから放たれている光を見ているだけだった。

 本来なら、この光景に驚くか、感嘆の意を表すか、何らかの変化が表れるはずなのだ。

 ラルンドは智佳の感情を引き出そうと色々話掛けてみた。

 机の上にある雑貨のこと、今日の天気のこと、窓から見える景色のこと、何でもいいからきっかけが欲しかった。

 しかし智佳はそのどれにも反応してはくれなかった。

 智佳の部屋の窓が開いているのに気付き家の人が来る。

 その気配を感じ取ったラルンドは、フッと、そこから姿を消した。

 辺りに悲しみの余韻が漂っていた。


 それから何日かが過ぎた。

 智佳はその間、ずっと家から出ないで過ごしていた。

 クラスでは智佳の為に、休んでいる間の授業のノートをとったり手紙を書いたりしていたのだが、智佳のことを心配した素振りも見せない良子は、友人に白い目で見られていた。

 そんな日が続いたため、良子の心はラルンドに対する憎しみで一杯になっていた。

《なんで私が悪く言われるの?智佳がヘンになったのはあの女のせいでしょう》

 そんな折も折。ラルンドが良子を呼び止めた。

 —放課後—

「何で私につきまとうのよ!あんたなんかが現れたせいで、私の生活が狂っちゃったじゃない」

「愛し子の力を取り戻すため」

「またそれ?私は何もしていない!」

「あなたは罪の意識から、自分の記憶を消し、この地へと逃れたのよ」

「そんなことが出来る訳ないでしょう!」

「スカエルスの力を使って隠り世の扉を開けたの」

「うるさい!そんなの知らない!勝手に決めないで!」

「あなたはこの地での過去を何も知らない筈。自分が何者かを思い出すのです」

「黙れ!これ以上私につきまとうな!」

 良子は走り出した。

 ラルンドが良子を追う。

 良子は住宅街へと入って行き、細い路を曲がったが、その先にはラルンドが立っていた。

 良子はその場から逃げた。

 細い路を何度も曲がり、自分自身が今何処に居るのかも解らなくなる程、走った。

 後ろを振り返る余裕すら無いほどの勢いで走り続けたが、しかし、ラルンドの影から逃れることは出来なかった。

 そして、空き地。新たにマンションでも建つのだろうか、住宅地の一角が拓けていた。

 良子は諦めて足を止めた。

 ラルンドが近付いて来るのが解る。

 良子は気の強い娘だった。唇を噛み締め一点を睨んでいる。

 良子の背中から数歩離れた場所で、ラルンドの足が止まったのが解る。

「私を、苦しめて、うれしいの?こんなことして、楽しいの?」

 言葉を発した事により、良子の目からそれまで堪えていた涙が溢れ出した。

「その涙を、ウォータリアスに返してあげて」

 良子は黙ったままである。

「あなたの涙はウォータリアスから奪ったものなのよ、だから、返してあげて」

「そんなこと、言われたって、知らな、…」

 理不尽に責められて、悔しさに声が震える。

 ラルンドの心は暗かった。いくら記憶が無いとはいえ、実の妹を苦しめているのだから。

 ラルンドはその場に居たたまれなくなり、そっと消えて行った。


 どのくらいそこに立ち尽くしていたのか、良子の涙が止まった頃、克彦が通りがかった。

「あれ?良子じゃないか。どうしてこんな所にいるんだ?」

 良子が逃げ込んだ場所は、学校からさほど離れていない通学路に面していた。

 黙ったままの良子に克彦が近付いて行く。

「おい、どうしたんだよ」

 良子の顔をのぞき込むと、その目が腫れていた。

「何があったんだ?」

「ねぇ、いつだったかしら」

 良子はゆっくり喋り出した。

「そう、赤矢さんが転校してきた日、あの日、克彦、私の家に来たでしょう」

「うん」

「あの時、私、蠍に脅かされてる、みたいなこと言って、克彦、笑ってさ」

「あぁ、蠍座が綺麗だとか何とか言って?」

「あの時、女の人が見えたでしょう」

「えっ?」

 克彦は一瞬、良子が幻覚でも見たのかと思った。

「えっ…って、蠍座の前に女の人が…」

「覚えてないなぁ」良子を気遣って当たり障りの無い返事をする。

「そんな、ねぇ、思い出して。罪がどうのって」

「解らない、な」

「じゃあ、じゃあさ、この前屋上で私と赤矢さんがいて、私が苦しんでいる時、止めてくれたでしょう」

 克彦は記憶を手繰った。

「覚えてないの?」

「いや、だけど、苦しんでっ…て、俺、確かすぐ教室に戻った筈だよ」

「何で?…でも、そうね、きっと…私にしか見えないのかも知れない」

「いったい、どうしたんだ?」

「…いい、もう」

「よかないよ。お前、泣いてたろ。何があったんだよ」

 良子はその後、何を聞いても答えようとはしなかった。

 そんな良子を家まで送ってから、克彦は帰宅途中考え込んでいた。

 ふと、気配を感じて立ち止まると、数軒先の門の所に赤矢と見知らぬ男が立っていた。

「まぁ、拓海くん。よく来てくれたわね」

「おばさん。智佳ちゃん具合悪いって?何ですぐ知らせてくれなかったの」

 玄関先で暫くやり取りがあった後、二人は中へと通された。

《坂東さんの家?あの男、隣の高校の制服を着ていた。何で赤矢さんと一緒にいるんだ?》

 部屋へ通されると、いつもと何ら変わった処の見あたらない智佳が、窓際に座っていた。

 拓海は、ラルンドを振り返った。

 しかし、ラルンドの表情は何も語らない。

 学校の校門の所でラルンドに呼び止められた拓海は、智佳の具合が悪いので見舞ってやって欲しいと告げられたため、その足で智佳の家まで来たのだった。

 しかし、外見上は何処も具合が悪いようには見えない智佳を前にして、拓海はラルンドの真意を図りかねた。

「智佳、どういうつもりだ?友達を使って俺を呼び出したりして」

 安心した為か、幾分口調が荒くなる。

 しかし、智佳の反応は、無い。

「智佳!答えによっては怒るぞ!」

 お茶の用意をしていた母親が、拓海の声を聞き付けて慌てて階段を駆け上がって来た。

「ごめんなさい、拓海くん。ちゃんと症状を説明しなくって」

 母親が『症状』と口にしたことで、拓海は智佳に詰め寄るのを止めた。

「この娘…」

 言葉に詰まった母親を見兼ねて「感情を無くしてしまったんです」とラルンドが言葉を受け継いだ。

 部屋の中に重たい空気が流れた。

 そこにいる誰もが動くことを忘れてしまったような時間が過ぎていった。それはほんの数瞬だったのであろうが、拓海にはいやに長く感じられた。いたたまれなくなったのか、母親が階下へと降りて行く。

「…どういう、ことなんだ?」

 拓海は未だ、騙されているとしか思えなかった。

「見た通りです。智佳さんは感情と一緒に、思考力も失ってしまったのです」

 拓海はゆっくりと智佳に近付き、そっと顔をのぞき込んだ。智佳は窓の外を見ているだけで、拓海の顔を見ようともしない。

「智佳、やめろよ。出来の悪いジョークだぜ」

 だが、その声は智佳には届かなかった。

 拓海はそっと智佳の手を握り「何時からなんだ?」と、智佳に向かって聞いた。

「あなたと、道で擦れ違った日」

 ラルンドが変わりに答える。

「何でだよ、全然、普通だったじゃないか。あの日、あれから何があったんだよ。君は智佳と一緒だったんだろう?」

 ラルンドは何も答えられなかった。

「何で黙ってんだよ。教えてくれよ」

「私が智佳さんを泣かしてしまったんです」

「どういう事だよ」

 彼女の抽象的な説明に拓海はいらついた。

「お天気雨の、話をしたんです」

「お天気雨?」

「ずっと、前の話だって…。それで、私が、泣きたい時は、泣いたほうがいいと…」

 拓海は握る手の力を強めた。

《それって、俺との約束のことか?》

「あなたは信じないと思いますが、彼女の涙を見た水の女神が、涙と一緒に感情も奪ってしまったのです」

 拓海はラルンドの言葉を、そのまま鵜呑みにはしなかった。ただあの日、自分が智佳に対して何らかの悲しみを負わせてしまったことだけは理解した。

「君が、泣かしたんじゃない。俺が、智佳を泣かしちまったんだ」

「違います。あなたに罪はありません。全て、私の責任なんです」

「何の責任なんだよ。智佳がこうなっちまった原因は俺だろ」

 拓海の脳裏に一年半前の光景が浮かんだ。


『幼稚園からずっと一緒だったのに、高校は別々になっちゃったね』

 —中学三年の春休み—

 お互いの高校合格をお祝いしようと近所の公園で缶ジュースで乾杯した後、智佳がぼそっと、そうつぶやいた。

『家が近いんだから、嫌でも顔会わすさ』

『わかんないよ。たっくん高校行ったら私のこと忘れちゃいそうだもん』

『ばーか、忘れないよ』

 二人は付かず離れずの仲だった。いつも一緒にいることが当たり前になって、お互いの関係を確かめようとしたこともなかったのだ。

『あ、お天気雨』

 三月の陽気にありがちな、気まぐれな雨が二人の上に降り注いだ。ぱらぱらと降る雨は太陽の光りに負けて、土の上に染みをつける事もないほどの僅かな量だ。

『なぁ、覚えてるか?小学生の頃。お天気雨の日に、俺たち、結婚しようなんて約束したんだぜ』

『うん、覚えてる。でも、たっくん幼稚園の時も同じ約束したよ』

 お天気雨は狐がお嫁に行くときに降るんだよと親から教えてもらった時に、ついでのように「智佳ちゃんは僕のお嫁さんになってね」と言われ「うん」と返事をしたことを伝えた。

『えっ、マジかよ。ませてんな、俺たち』

『そうだね』

 智佳は屈託なく笑った。

『あの頃の恐れを知らない俺は、一体何処いっちまったんだろう。今じゃ怖くてそんなこと言えない』

『ひっどーい。怖いって私のこと?』

 拓海はちょっと躊躇った後、小指を立てて智佳の目の前に突き出した。

『後、十年して売れ残ってたら、俺んとこ来いよ。もらってやっからさ』

 視線を僅かにずらしたまま言う。

『じゃあ、十年後、たっくんに彼女が出来てなかったらお嫁に行ってあげるね』

 智佳も小指を立てて、二人は指を絡ませた。

《あの時、ちゃんとつき合ってくれって、言っておけば良かったんだ…》

『わかんないよ。たっくん高校行ったら私のこと忘れちゃいそうだもん』

 高校生になり周りの友人に彼女ができ始めた頃、仲良くなったクラスメイトと何となく付き合い始めた。

《俺の方が忘れられたのか、忘れたいと思わせちまったのか…》

 拓海は智佳の小指に自分の小指を絡ませ、窓の外を見たまま何も喋らない智佳の横顔を見詰めていた。


 ラルンドはその日から毎晩智佳の部屋を訪ねた。

 夜、決まった時刻に訪れる柔らかな光りを纏った人に、智佳は次第に心を開いていったが、あいかわらず智佳の中の感情は眠ったままであった。

 ラルンドは智佳の悲しみを消し去ることが感情を呼び戻す最良の手段だと考え、星に伝わる幸福の神話を夜毎語って聞かせていた。

 

 克彦は転校して来たばかりの赤矢が智佳の家の前に居たことに疑問を感じていた。

《以前、良子の家に行った日、赤矢が転校して来た日、屋上で良子と赤矢が話していた日、確かにおかしい。俺はその日のことを殆ど覚えていない。それに、良子と俺の記憶がくい違っている…どういうことだ》

 良子の言っていた通り赤矢には何かあるのかも知れない。

 それ以来克彦は赤矢の行動を監視し始めた。しかし、赤矢はつけられている事に気が付くとすぐに姿をくらました。克彦はそんな赤矢の行動に不信を抱くにつれ、良子が以前克彦に『赤矢に脅かされている』と言った意味も納得出来るようになっていった。

 ある日、良子が智佳のお見舞にも行かない冷たい女だと噂されているのを耳にした克彦は、嫌がる良子を強引に智佳の家へと連れて行った。

 玄関先で幾分やつれた感のある母親が二人を出迎えてくれた。

「よく来てくれたわね、智佳ちゃん、お友達が来てくれたわよ」

 玄関から二階へ向かって声を掛けた後、母親は克彦達を部屋へと案内した。

 智佳の母親、克彦、良子の順で部屋に入ると、今まで誰が訪れても口を開かなかった智佳が「もう夜なの?」という言葉を口にした。

「何を言ってるの、今はまだ…」

 一瞬の間を開けてから

「喋った、智佳が、智佳が、喋ったわ」

 喜ぶ母親のセリフを無視して智佳は続けた。

「今夜は、何をお話してくれるの?」

 それらのセリフはどうやら良子に向けて語られているらしかった。だが、智佳の瞳に良子の姿は写っていない。

 口調こそ喜んでいるようだったが、表情には何の変化も見られなかった。

「なんだ、こっそり見舞に来てたのか?」

 克彦の問いに「違うわ」そう一言良子が口を開いた途端、智佳は窓へと向き直り、またいつものように外を見詰めてしまった。

 その後、母親が智佳に何を語ろうと、智佳は口をつぐんだままであった。

 —夜—

 克彦は智佳の部屋が見て取れる場所に潜んでいた。夕方訪れた時の智佳のセリフが気になったからだ。

『もう夜なの?』

『今夜は、何をお話してくれるの?』

 誰かが智佳に会いに来ている。その人と良子には何らかの繋がりがある筈だ。

 九時を回った頃であろうか、一条の光りが智佳の部屋の窓を照らした。それは、注意して見ていなければ気付かない程の柔らかな光りだった。

 克彦はそっと身を屈める。

《窓を開けて》

 光りの中から声が届いた。

 実際に克彦の耳に届いた訳ではなく、光りの微妙な反射が空気と擦れて音を創り出しているような、不思議な音色を伴ったものだ。

 部屋の窓が開かれ智佳の顔が覗いた。その顔にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいる。

 光りは段々と強さを増し、やがて淡い光りを放つ人影を創り上げた。

 その人影を目にした瞬間、克彦の記憶の奥で疼くものがあった。過去に同じ光景を見たような気がしてならなかったのだ。

 鼓動が激しくなっていく。

 何か大切なことを忘れている。それが何であるのか思い出せないもどかしさに、身動きしたいのをじっとこらえ、光りを見詰める。

 智佳とその人影は何かを語っているようだが、克彦の潜む所まではその声は届いてはこなかった。

 やがてその人影は、少し悲しげな雰囲気を残して空へと消えて行った。

 人影が消えると智佳も部屋の窓を閉めた。

 軽く息を整えた後、克彦は一気に人影がいた場所まで走って行くと、その影を追うように空を見上げた。木と木の間から蠍座が見て取れ、丁度アンタレスが木の幹へと隠れていく処だった。

 克彦はゆっくりと忘れていたものを思い出していった。

《今の人影は、前に良子の家で見た蠍座の人…?》

 克彦の胸の中に赤矢の面影が浮かんだ。

 長い髪、角度によって赤く見える琥珀色の瞳、顔の創りこそ違え、彼女の持つ雰囲気は紛れもなく先程の人影と同一のものだった。

 良子と智佳と先日見た男と、克彦の知らない所で何かの糸が絡みあっている。それを解こうとする思いとは別に、蠍座の人の正体を突き止めたい思いが克彦の中に沸き上がって来ていた。


 克彦の行為は日を追うごとに目立ってきた。

 このところずっと赤矢の後を付けている克彦に、色々な噂が立ち始めていた。

 そんな噂の一つ『克彦は赤矢のことが好きなのだ』というものが良子の耳にも入って来た。

「克彦、私に飽きたんだったらハッキリ言ってよ」

「いきなり、何言い出すんだよ」

「とぼける気?」

「何なんだよ、一体」

「あんたと赤矢の噂、知らない訳じゃないでしょう」

「あれは誤解だよ。いつだったか良子が言ったこと、本当かどうか確かめたくて尾行してたんだ」

「そんな言い訳、みっともないわよ」

 良子に隠そうとしていた思いを見抜かれたような気がして「くだらない噂なんか信じるなよ」そう吐き捨てると、克彦は良子に背を向けた。

「今から赤矢さんに会って真相を確かめてくる」そう言った克彦の後を良子は追おうとしなかった。

 —屋上—

 向い合ったまま二人は口を開こうとしない。

 軽く深呼吸した後「赤矢さん、君は蠍座の人だね」克彦は言葉を選びながら切り出した。

 一瞬赤矢の顔に浮いた戸惑いの色を見逃さず克彦は続けた。

「思い出したんだ。君は俺の記憶を操作したみたいだが、手抜かりがあったようだな」

 何のことだか解らない、といった顔つきをしている赤矢に向かって

「今さらとぼけるなよ。俺が君の後を付け回していたのは知ってるだろう」

 諦めたように赤矢は答えた。

「知っています。でも、何故私を思い出すことが出来たのですか?あなたの私に関する記憶は全て消した筈」

「そんなことは知らない。ただ、昨日坂東さんの家へ来た君を見て思い出したんだ」

「そんな、私はあの時姿を消していました。それに、見えたとしても今のこの姿とは似ても似つかない…」

「あぁ、ハッキリとは見ていないさ。だけどね、以前何処かで似たようなものを見たのを思い出したんだ」

 赤矢の目に克彦を警戒する色が浮かんだ。

「たまたま君の去った場所から蠍のアンタレスが見えた。…君の目の色と同じだ」

 その言葉を聞いてラルンドは軽く瞳を閉じ、「この地の人は、直感で物事を測ってしまうのね」と呟いた。

「そんなことはどうでもいい。今度は俺が質問させてもらう」

 一呼吸間を置いて言う。

「何故良子に付き纏うんだ」

「説明しても、理解出来ないわ」

「説明しなければ理解出来ることも理解出来ないだろう!」

 ラルンドは覚悟を決めた。

 自分の存在に怯えず、真実を見極めようとしている克彦の思いが読み取れたからだ。

 ラルンドは左手で大地から天へ向けて弧を描くと、剣を取り出した。

 瞬間、霧が立ち篭めた錯覚に陥る。

 剣が現れるのと同時に赤矢の姿はラルンド本来の姿に変わっていた。

「良子さんの本当の名はアリアードといいます」

 柔らかな響きを持つ不思議な旋律に、克彦は耳を傾けた。

「アリアードは自分で自分の記憶を消し、この地へ逃れたのです」

「それが、君が良子に付き纏う理由か?」

「いいえ、アリアードは本来女王になるべき者でした。ですが、アリアードは七人の愛し子の“美”を奪ったのです。その力を取り戻す為です」

 一呼吸置いてラルンドは続けた。

「私もその七人の中の一人。そして、アリアードの姉でもあります」

 克彦には女王や愛し子の存在がどういったものなのか解らなかった。その心を読んだラルンドはこう付け加えた。

「“美”と言うのは愛し子の持つ“支配する力”のことを指します。私に例えるなら心です」

「心?」

「感情と言った方が解りやすいかも知れません。私は人の心を読むことも、人に私の想いを伝えることも可能です。その他には、人の心を消すことも出来ます。それは、あなたにも理解して頂けるでしょう」

「俺の、記憶を、消したことか?」

「はい。しかし、本来の私が支配する“美”とは、民に幸福を訴えることです」

「そんなものを取り戻す為に、こんな回りくどいことをしなければならないのか?」

「そうです。私の他に自然の力を“美”とする愛し子や、空間や物質を支配する愛し子もいます。それらの支配力をアリアードが奪ったのです。それ故に彼女をこのまま放っておけば、彼女の魔力が目覚めた時、莫大な力となってこの地を脅かすでしょう」

 克彦には良子にそんな力があるなどとは思えなかった。

「彼女は自分自身で記憶を消した為、その力の使い方を思い出せないでいるのです。ですから今、彼女から“美”を取り返さなければなりません」

「…もう一つ、君は何故、坂東さんの家に行った?坂東さんがあんな風になったのもお前達の仕業か」

「はい。アリアードに水の支配力を奪われた愛し子が彼女の涙を奪ったのです」

《あの男も君の仲間か?》

 克彦の中で一つのラインが見えてきた。それは絡まった糸の結び目がようやく一つ解けたに過ぎないが。

「智佳さんには、申し訳ないことをしたと思っています。アリアードから支配力を取り戻し、必ず、元に戻します」

 ラルンドは浅いため息をつくと「今は彼女を慰めることしか、私には出来ないのです」そう付け加えた。

「…良子は、どうする気なんだ」

「愛し子の“美”を取り戻します」

「どうやって」

「それは、…私にも理解出来ないのです。アリアードが“美”を求めなくなればいいのですが、今の私の力ではそれを抑えることすら出来ません」

「そんな話を信じられると思うか?」

 そう言った克彦に「信じて下さらなくて結構です」とラルンドはキッパリと言い放った。

 そのラルンドの語尾に押されて「支配力を返したら、良子はどうなってしまうんだ」言葉に詰まりながら克彦はラルンドに尋ねた。

「どうにもなりません。支配力がなくなるだけです。つまり、力を自由にあやつることが不可能になるだけです。アリアード自身に弊害はありません」

 ラルンドの言葉に嘘はないと本能的に理解しながらも、良子がアリアードであるということを認めることが出来ずに「どうして良子が、その力を悪用すると解るんだ」と、克彦はラルンドにくってかかった。

「先程申し上げた筈。私は人の心が読めるのです」

「それでも、俺は良子をお前達には渡さない」

「…無駄なことです。あなたは私達の力を理解していません」

 目に哀れみの色を湛えてラルンドは続けた。

「力を奪われた私ですら、あなたの記憶を消すくらい訳ない事なのですよ」

 克彦は言葉に詰まった。

「意地の悪い言い方でしょうが、魔力の目覚めたアリアードはあなたのことを忘れ、危害を加える可能性が充分にあります」

「そんな…」ことはない、と続けるつもりだった言葉を克彦は口に出せなくなっていた。何故ならば、ラルンドの克彦を見詰める瞳が真実だと語っていたからだ。

 克彦は慌てて視線を逸らした。

 その行為を《話すことはもうない》という克彦の意思表示とラルンドは取った。

「もし、私が近くに居ない時にアリアードの魔力が目覚めた場合、私の名を呼んでください。繰り返しますが、あなたの考えているような力ではないのです。…私の名はラルンド。忘れないでください」

 そう言ってラルンドは空へと消えて行った。

 ラルンドの溶け込んだ空間を見詰めていると今までの事が夢であったかのように思える。

《私の名はラルンド。忘れないでください》

 ラルンドの最後のセリフを克彦は繰り返していた。


 天文部の部室へと入って行くと良子がいた。

 口ではきついことを言っても、自分のことをちゃんと待っていてくれたことが嬉しくて、克彦は良子に声を掛ける。

「これから坂東さんの家にお見舞いに行かないか」

 あえて赤矢とのことは口にしない。

 軽く視線を克彦に向けると「別に、いいけど…」と、良子は返事をした。

 智佳の家は学校から歩いて二十分足らずのところにある。

 二人は黙ったまま歩いていた。

 良子は克彦の真意が掴めずにいたし、克彦は克彦で、赤矢が言った言葉をそのまま良子に伝える気にはなれずにいたからだ。

 智佳の家の玄関先にあるインターホーンを押すと、覇気のない声が届いた。しかし訪問者が良子であることが解ると、大喜びで二人を招き入れた。以前良子が訪れた時、智佳が口を聞いたことを覚えていたのだ。

「智佳ちゃん、ほら、この前のお友達が来てくださったわよ」

 智佳は相変わらず窓の外を見ていた。

 ゆっくりと振り返りながら「まぁ、もう夜なの?」と、言う。

《まただ、坂東さんは良子と赤矢さんとを間違えているのか?》

『私はアリアードの姉でもあります』

 克彦の頭の中に赤矢のセリフが蘇った。

《俺達には無い違う気配を良子から感じ取っているのだろうか…》

「今日はお友達も一緒なの?」

 智佳のそのセリフと共に、拓海が部屋へと入って来た。

「こんにちは」

《やはりこの男、赤矢さんの仲間なのか?》

「あら、拓海くん」

「ごめんね、おばさん。勝手に上がって来ちゃって」

 拓海は良子と克彦に軽く会釈してから「おばさん、これ、智佳ちゃんに」そう言って花束を手渡した。

「まぁ、青紫色のバラなんて珍しいわね、高かったんじゃなぁい?」

 拓海と母親とのやり取りの最中に、良子の目つきが一瞬変わったことに、その場にいた誰もが気付かなかった。

 バラの花は拓海の精一杯の気持ちだった。

 智佳の中から自分の存在が消えてしまったことで、ここ数日、まるで自分の心を半分何処かに置き忘れてきてしまったようなもどかしさにかられていたのだ。このもどかしさは、今付き合っている娘では—智佳以外の娘では—癒されないことを拓海は知った。

 以前ラルンドと共にこの部屋を訪ねてから今日までの間、決心を着けられずにいたのだが、今日、付き合っていた娘と別れ、その足で智佳に会いに来たのだった。

 智佳が只、此処にいるというだけで安心している自分がいる。

《智佳が俺を忘れても、俺は智佳を忘れない。智佳が無くした記憶は俺の中に残っている。二人の記憶がいっぺんに消えてしまわないで良かった。…智佳自身が俺の前から消えてしまわないで良かった》

 拓海が智佳に歩み寄ろうとすると、克彦がそれを制した。

「ちょっと、いいっすか」

 怪訝な顔をして拓海は克彦を見た。

「君は?」

 拓海の心の中に、まさか智佳の彼氏では…という疑念が沸いたせいで声が硬くなる。

 二人は申し合わせたように部屋の外へ出た。

 入れ違いに智佳の母親が花瓶に生けた花を抱えて部屋へと入って行く。

 拓海と克彦はお互いを品定めするかのような視線で見合った。

「何の用なんだ」言葉少なに拓海が聞く。

 

 その頃、ラルンドは空に向かってウォータリアスを呼んでいた。

 隠り世の扉が開かれるまではこの地のどこかにいるはずだ。

 本来の力を失っている今、力を温存しやすい水気のある場所に潜んでいることだろう。


「ここへ来た目的を教えて欲しい」

「目的?お前こそ智佳の何なんだ」

 そのセリフを聞いて克彦は焦った。

「良子が目的じゃないのか?」

「良子?」

 克彦のセリフを拓海が繰り返す。

「…君は赤矢さんの仲間ではないのか?」

「仲間?何のことだ」

 突然部屋の中から悲鳴が聞こえた。

 二人が慌ててドアを開けると、そこにはバラの花びらによる青紫の空間が出来上がっていた。

 智佳の母親は椅子にもたれ掛かりぐったりとしている。そして、ベッドの上には智佳を抱えた女の人が蹲っていた。

 克彦はそれが良子であることを知った。なんとなれば、制服を着ていたからである。いつも見慣れている腕時計、髪に結んでいるリボン、それらは紛れもなく良子の物だった。

 しかし、その人は既に良子ではなくなっていた。

「智佳!」

 果敢にも拓海は智佳を取り戻そうと良子に向かって行った。

 が、良子であったその人が拓海に向かって軽く手を振っただけで、拓海は廊下の壁に叩き付けられ、そのまま動かなくなった。

 克彦は動けなかった。

 得体の知れない恐怖。

 明らかに人間ではない、かといってラルンドの持つ気配とも違う“なにか”をその人は纏っていた。無理に例えるならば、自分の眠る布団の中に蛇が潜り込んで来たような、ムカデが入っている靴に知らずに足を踏み入れてしまうような、そんな嫌悪感を伴う恐怖。

 それだけに留まらずその気配は飢えていた。

 その気配を纏った人は、克彦が動けずにいるのを見ると、薄い唇を横に引いて笑みを作り、一瞬テレビの画面が揺れたような錯覚を残してスッと消えて行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ