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影の流れ星  作者: えりさかりお
19/19

11一人きりの神話/ファリアス

ファリアス・リアに執着しているアイテールが、ファリアスの死後、同じ魂を持つ生まれ変わりを探し出すものの、はたして自分は必要とされるのかと不安にかられ、傍観者に徹しようとする。

【漸く見つけた】

 だが、アイテールはただ見ていた。

 自分から離れることを望むなら、見守るだけでいいと思っていた。



 白い部屋の窓際にベッドが置かれている。

 初夏を思わせる外からの日射しをレースのカーテンが柔らかく遮っている。

 ベッドの上には小学校高学年と思しき少女が横たわっていた。

 レースの裾が風に煽られ、少女の顔を日光が照らした。

 すっと少女の目が開く。

 声。

「かわいそうに」

 そう聞こえた。

 少女は怪訝そうに目だけを動かして声のした方へ視線を送る。

 同時にドアが開く音がした。

 少女は今度はドアの方に顔を向けた。

 開けられたドアの向こうに白衣を着た看護師と薄暗い廊下が見えた。

 ここは病院の個室なのだ。

 殺風景な部屋のドアの脇に母親の姿があった。

 小声で看護師と話しているのだが、内容までは聞き取れない。

 無意識に耳をそばだたせてしまったらしい。

 気配に気付いて母親が振り返った。

「あら、さつきちゃん起きていたの?」

 少女は黙ったまま頷いた。

 看護師に会釈した後、母親は「まぶしくない?」と少女に声を掛けながら窓へと寄り、光を透かしているレースのカーテンを引き、少女の顔にチラチラと当たっていた直射日光を遮った。

 一連の動作を見届けた後、少女は口を開いた。

「ママ、先刻何か言った?」

「先刻って」

「ここにくるちょっと前」

「ああ、廊下で看護師の方とお話していたけど…うるさかった?」

 少女は質問には答えず、先程声がした辺りに視線を送った。

「何?」

 一拍間が開いた。

「何でもない。空耳だと思う」

 少女の返事に対し母親はいきなり話の流れを変えた。

「何か食べたい物とか欲しい物とかある?」

 少女は黙って首を振った。

「そう」と口の中でつぶやいて、母親は意識的に何かをしようと試みた。

 彼女は花瓶に生けてある花を整えながら、先日医者と交わした会話を思い出していた。


 書類や専門書が積み上げられた机に向かう医者の背中。

 彼女は辛抱強く医者がこちらを向くのを待っていた。

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、文字を書き綴りながら医者はため息を洩らした。

「大変申し上げにくいことなのですが…」

 言いながら彼女の方へと向き直る。

「病状が少しづつですが悪化しています」

「それで?」

「この先痛みを訴えるようになった場合、強い薬を投与したいのですが…」

 歯切れの悪い物言いに不安が募る。

「どういうことでしょうか」

 医者は机に向き直り、看護記録に目を落とした。

「痛みを訴える回数が増えています。病状の悪化に伴い痛みの強さも増していると判断されます」

 抽象的な医者の言葉に「どのくらい痛いんですか」と身を乗り出して聞く母親をなだめるように軽く手を挙げてから、医者はもっともらしい言葉を口にした。

「痛みというのは個人差がありますのでどのくらいと言われてもハッキリとした数値は無いのですが、今の薬が効かなくなってきているのは間違いありません」

 医者は言葉を切った後、カルテをパラパラとめくった。

 1年以上にもわたる看護記録は薄目の文庫本程の厚さになっていた。

「これ以上痛みを訴えるようでしたら薬を変えようと思うのですが…」

 子供が進行性の難病に苦しむ姿を見るのは痛々しい。

 医者はカルテに目を落としたまま、再度同じ言葉を口にした。

「どういった薬なんですか?」

「麻酔のようなものです。ただ、痛みは和らぐのですが、意識がぼんやりしたり、多少の混濁が生じることもあるので…」

「麻薬か何かなんですか?何かの本で読んだことがあるんですけど、痛みが強すぎる場合、麻薬を投与するって…」

 慌てた母親の様子に動じることなく医者は続けた。

「麻薬程強い作用は起こりませんから安心してください」

 医者が麻薬と同じような作用を引き起こす薬を娘に投与しようとしているのは明白だった。だからと言って娘に痛みを我慢させるのも忍びない。退屈な病室でただ痛みに耐えるだけの日々を送る娘を見たくない思いの方が強かったかも知れない。

 読めないカルテに目を遣る。

 日付の横に投与される薬品名らしきものが書き込まれてあった。

「もう、娘の命は、それほど長くない…ということなんでしょうか…」

「先日申し上げた通りです。直る見込みは本人の意思により変わるものです」

 痛みが軽くなれば快方に向かっていると思い、食欲も湧いてくれるだろうか…。

 そんな微かな希望にすがりたい思いも手伝って、医者に同意したのだ。


「ママ、お花なんてどっち向いてたってそんなに変わんないよ」

 声を掛けられたことで我に返ると、先程からいじり続けていた花は少しも整っていないままだった。

『痛みは和らぐのですが、意識がぼんやりしたり、多少の混濁が生じることもあるので…』と言っていた医者の声が脳裏を過ぎる。

「さつきちゃん早く退院できるといいわね。今月の29日で12歳になるんだもの。お誕生日会はお家でやりたいわよね」

 母親の言葉に少女は軽く頷いた。

 入院したばかりの頃は割と頻繁に届いていたクラスメートからの手紙も、ここ2・3ヶ月というもの全く届いていなかった。

 進級し最上級生となった今、部活や委員会で色々と大変なのは想像できた。

 今更お誕生日会を開いたところで、一体誰が来てくれるというのだろう。学校の話題は勿論だが、ろくにテレビすら見ていない現状で、果たして話が合うかどうかもわからない。

 母親にそう言ってみたところで、何の解決にもならない。

「かわいそうに」

 そう聞こえた声は自分自身の心が言ったものだったのかも知れない。


 さつきはこの頃夢を見る。

 夢だと思っているのだが、それはあまりにも現実味を伴っていた。

 母親も看護師も居ない時を見計らったように病室を訪れる人がいる。

「ねぇ、死ぬのは怖いでしょう?」

 白い服の女性がさつきの耳元で囁くのだ。

 別段、害を加えるでもなく、たださつきに話しかけてくる。

 その度、さつきはもう何度も見て見飽きてしまった空の写真集に目を落とす。

「私に願えば助けてあげる」

 今日もまた白い服の女性がさつきの元を訪れた。

 さつきは写真集の一番気に入っているページを開いた。

 夜明けとも宵闇ともつかない濃い群青色の空のはるか上空に、僅かばかりの光源が写っているだけの写真だ。

 月光が射しているわけでもなく、星空でもオーロラが写っているわけでも無い。

 死んだらお星様になるなどと誰かが言っていた気もするが、自分が死んだらきっとこういう所に行くんだろうなとぼんやりと思っている、僅かばかりの光源の他には何も無い所。

「もっと生きたいでしょう?」

 白い服のせいか淡い輪郭に表情の無いぼんやりとした顔の女性が斜め上から声をかけてくる。

 さつきのベッドの上、本来ならばそんなところから声が聞こえる筈はない。

 だからこれは夢だとさつきは思う。

「このまま死んでしまっていいの?」

 女性の声には哀れみが含まれていた。

 さつきは顔を上げた。

 夢の中の人と会話する自分を滑稽にも思うが、哀れみを向けられる謂れはない。

 女性は微笑んで「私があなたを生かしてあげる」と柔らかい声で告げた。

「長く生きてどうするの?」

 さつきの言葉に女性は首をかしげた。

「ずっとこのまま我慢するの?」

 女性は答えない。何を問われているのかわからないという顔をしている。

「あなたにお願いすることなんて無いわ」

 女性はしばらく上空に留まって居たが、やがて大気に溶けるように消えて行った。



 神の御使。

 天使とも呼ばれる聖なる者。

 かつては人であった者が誓約に縛られ使役される者へと成り果てた存在。

 永遠にも等しい時間を過ごすことに疲れた天使は、最後に自分の役目を全うしようとする。


 かわいそうな人、不幸な人、惨めな人、人生を嘆いている人。

 そんな人は神に救いを求める。

 そういう人のために自分は天使として存在しているのだ。

 哀れな人を自分の命と引き換えに救ってあげよう。

 そうすれば、現世のしがらみから解き放たれることでその人の心は癒される。

 かつての自分が救われたように、善意から手を差し伸べるのだ。

 病に苦しむかわいそうな少女がいた。

 苦しみから救い出してあげたかったのに彼女は言った

「あなたにお願いすることなんて無いわ」

 ならばこの先も苦しめばいい。

 救いの手はすがる者にこそ与えられるべきだ。

 


 少女と天使のやり取りをアイテールはただ見ていた。

 今も自分から離れることを望むなら見守るだけでいいと思っている。


 さつきは再び写真集に目を落とした。

《痛いのは嫌い。嬉しくないのにありがとうっていうのは嫌い。楽しくないのに笑うのは嫌い。ママが泣いているのを見るのは嫌い。かわいそうって思われるのは嫌い。ここから動けない私が嫌い》

 声に出さずに心の内で呟く。

《嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い!》

 ぽた。

 写真集の上に水滴が落ちた。

 ぽた、ぽた、と丸い染みが広がって行く。

「何も無い所でひとりぼっちも、嫌い」

 ぽそりと声が漏れた。


【一緒にいてあげるよ】

 ゆったりとしたテノールの声が聞こえた。

 さつきが声のした方へと顔を向けた拍子に、瞼の淵からぽろりと涙がこぼれ落ちる。

【前世から約束していただろう】

「だれ?」

 さつきにはその声の主が誰だかわからなかったが、“知っている”のだけはわかった。

【忘れているのなら思い出しなさい】

 病室のカーテンに、揺らめく人影が映った。

 さつきは約束していた人が迎えに来てくれたのだと直感した。

 驚きと喜びが混ざり合って涙が止まる。

 ゆらりと空気が動いて背の高い男の人が姿を現した。

【ずいぶん遠い場所に生まれ変わっていたんだね】

 普段、表情を変えないさつきが笑った。

 至福の表情で声の主に向かって両手を伸ばす。

【待たせてすまない、私のリア】

 さつきは全身をすっぽり覆われるように大きな手で優しく抱きしめられた。

 キリキリと全身を締め付けていた痛みが引いて行く。



 静かだった病室に絶えずささやき声が聞こえるようになったが、それを咎める人は誰もいなかった。

 入院してからめっきり表情が消えたさつきが笑顔を見せ、幸せそうに誰かと話している。

 薬が効いているのだろう。

 痛みを和らげることと引き換えに意識が混濁すると医者に告げられている。

 

 とても死と隣り合わせの難病に苦しんでいるとは思えない穏やかな数日が過ぎて行った。

 さつきは口元に笑みをたたえたまま12歳になる3日前に息を引き取った。



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