07前章
何の準備もないままアイテールによってファリアスと共に隠り世に戻されたラルンドは、戸惑いながら空を見上げていた。
アイテールが守り神の像を一瞥しただけでファリアスを連れてどこかへと去って行ってしまったからだ。
人嫌いだとは聞いていたものの挨拶もろくにしないまま去っていくとは思わずに暫く呆けていたが、ふと我に返り女王の容体を知るべきだと宮殿へと向かうことにする。
守り神の像の丘から延びる緩やかな下り坂の先に宮殿はある。
儀式でもなければ人が押し寄せる場所ではないためか、以前訪れた時と辺りの景色に変化は見られなかった。
道端の花を摘みながら通っていた頃を思い出す。
守り神の像へは次代の希望の支配力を継ぐべき者が月に一度感謝の祈りを捧げる慣習になっていた。
ラルンドは王女教育の一環として物心ついた頃には守り神の像の丘へと毎月足を運んでいた。
折しも五歳の誕生日そこでエロースと出会ったのだ。
『腕の中の花を一輪くれないか?』
不意に声をかけられ見回した先に黄金色の髪の男の人がいた。
その時のラルンドは何の躊躇いもなく二番目に気に入っていた花を差し出した。一番は女神様に捧げるのであげるわけにはいかない。
エロースは「ありがとう」と言いながら花を受け取った。
子供心に綺麗な人だと思った。
道端の花よりも豪華な花が似合いそうな人に一番綺麗な花をあげなかったことを後悔した。
『君が気に留めた花は私にとってはどれも素敵なものだよ』
まるでラルンドの気持ちを汲んだかのようにエロースは柔らかく微笑んだ。
エロースにあげた花は、親指の爪ほどの花の横に小指の爪ほどの蕾が寄り添っている形が可愛らしいと思っていたものだ。
綺麗とは言えないけれどラルンドが道すがら摘んだ花はどれも素敵なものだった。
今日の空と同じ色の花、葉のつき方が均等で真っ直ぐ伸びている花、首を傾げているように見える花、女王の冠に似ている花、鮮やかな赤色が目を引いた花、柔らかそうな綿毛で覆われた花。
子供が歩くには長い道のりであったが、花を摘みながら歩くのは楽しくもあった。
『お礼にこれをあげよう』
ラルンドはこの綺麗な人が自分の差し出した花を気に入ってくれたことが嬉しくて、お礼に何か貰えるのなら自分もそれを大切にしようと、何も考えずに「ありがとう」と答えた。
その人が左手を大地から天に向け弧を描くように振り上げると、綺麗な赤い石が付いている銀色の剣が現れた。
《魔法の剣だ!》
ラルンドはこの剣でお花が妖精になったり、鳥の言葉がわかる魔法をかけたりしてくれるのではないかとワクワクしながら待った。
期待いっぱいに自分を見上げるラルンドにエロースはこの時何を思ったのだろう。『この剣を使うには名前がいるのだよ』そう言ってラルンドに支配する者の名を授けた。
特別な名前をもらい魔法使いの仲間に入れてもらえたのだと思ったラルンドは、その剣の本来の力が何であるかなど知る由もなかった。
ラルンドの手には摘み取られた花が握られていたためエロースは剣を差し出したまま動きを止め、ラルンドはどうやって受け取ろうかと悩み、お互いにどうしようかと同じように首をかしげたことで笑いが生まれた。
クスクスと野原に小さな笑い声が響く。
『剣はしまっておこう』と言ってエロースがパッと手を離すと、剣は跳ね返されることなくスッと地面に吸い込まれて行った。驚いて大地を見つめていると、取り出す時は「アンタレスの血にかけて」と言えばいいのだと教えてくれた。
ふわふわとした気分のまま女神像へと花を捧げ、練習すれば色々な魔法が使えるようになるのかなと空想に浸りながら帰路についた。
それからのことはよく覚えていない。女王にその日の出来事を報告したのかさえ曖昧だ。
ただその日以来ラルンドは、己の中に流れ込んで来る他人の感情に翻弄されて心を病んでしまった。
小鳥の言葉がわかれば素敵だと思ったけれど、人の心の声を聞きたかったわけではない。
ふとしたことで向けられる悪意や、不平不満、笑顔を浮かべながら悪態をつく人、無関心を装いながら他人の不幸をあざ笑う人、今まで聞こえなかった声が津波のように押し寄せてきた。
人と会話をするのが怖くなった。
人と目を合わすのも怖くなった。
エロースから貰った剣のことも言い出せず、部屋に引きこもり人と接触することを避け続けた結果、ラルンドは王女としての務めを果たせないと判断された。
たまに女神像を見たくなり守り神の像の丘へと足を運ぶこともあったが、人に会うことを厭っていたため早足で地面ばかり見ていて花を摘むこともなくなった。
《あの頃の私はエロースを魔法使いだと信じていたな》
ラルンドはフッと息を吐いて空を見上げた。
夕暮れが迫ってきていた。
次代の女王の資格を失ってからの女神像への訪問はアリアードが引き継ぐことになった。
そればかりかそれまでしきたりとは無縁だったアリアードの日常は一変した。
傍目には心配そうにラルンドを気遣う大人たち。
《王女だというのに困ったものだ》《一体何が気に入らないのかしら》
ラルンドを慰る言葉とは裏腹な心の声に苛まれていた当時のラルンドには、日に日に笑顔が消え態度が硬くなっていく妹を気遣う余裕などなかった。
《何でお姉様は何もしなくていいの》《私ばかりちゃんとしろって怒られる》《贔屓されてお姉様はずるい》
アリアードの心の声が聞きたくなくて仲の良かった妹とも疎遠になった。
感情を支配できるようになってから何とか心を通わせようとしたけれど、今に至っても関係はこじれたままだ。
心細さがそうさせるのか普段は封印している子供の頃の記憶が次々と思い出された。
何度も通った道のりがやけに長く感じられるのは疲れているからかもしれない。
辺りに人影がないことも時間の感覚を狂わせる要因の一つのように思えた。
女王が病に倒れてから宮殿内は人影がまばらになった。
容体の急変に備えて医者が待機しているとはいえ、常に女王のそばに侍っているわけではない。
日々の報告に訪れる者もなく、女王が参加する行事がなくなればそれに伴う人員を確保する必要もなくなる。
女王への謁見も見送られている状況では最低限の人の往来しかない。
女王の寝所が閑散とするのも当然といえた。
父のいる別邸にはそれなりに人の往来があるのだろうが、そもそも家族としての関係は希薄だ。
女王は希望の剣を持つ者であり、アリアードは剣を受け継ぐ者として特別視されている。
神に見出されたラルンドもまた愛し子として信仰の対象であり別格の扱いを受けていた。
父は希望を受け継ぐ女王の夫、すなわち王であり、ラルンドもアリアードも親子として気安く接することはなかった。
女王の夫という立場は栄誉ではあるが宮殿での扱いは全てにおいて女王が優先される。
神と共に隠り世へと移った先祖を持つのだ。宮殿に仕える人たちにとって王は一般人とみなされている傾向が強かった。
父は生家の仕事を手伝うという名目で別邸を生活の拠点としていた。
成長した今だからこそ矜持によるところもあるのだろうと理解できるが、幼い頃は父は宮殿で生活してはいけない人なのだと勘違いするほど顔を会わせることは稀だった。
女王が病床についてからは執務は全て別邸で行われ、頻繁に届いていた見舞いの品も女王の目覚めの時間が短くなった今では途絶えている。
ラルンドは華々しい正面からではなく、敢えて裏門から宮殿へと足を踏み入れた。
女王の私室へは何箇所か警護のための扉を通らなければならないが、流石に王女であるラルンドを止める者はいない。
ひっそりと静まり返っている廊下をゆっくりと進む。
回廊から見える中庭は季節折々の花で彩られていた頃の面影はない。
病人のいる静かな邸内に職人を入れて煩くするべきではないとの配慮もあるのだろうが、愛でる人のいない庭に手を加える必要もないのだろう。
誰に会うこともなく女王の私室の前にたどり着き、何と言葉をかけようかと逡巡したのち「戻りました」と来訪を告げると、伏せ目がちな侍女が対応に現れ、会釈をしてラルンドを部屋へと招き入れた。
ラルンドはリビングを素通りし寝室の扉を細く開け、淡い光の中で眠りにつく女王を認めホッと息をついた。
女王にアリアードのことを何と告げれば良いのかわからなかった。国に戻る気は無さそうだとは言えない。かと言って元気でいたなどと近況を報告するのは憚られる。
黙したままのラルンドを見かねてか、世話係の娘が女王の目覚めの時間が短くなっていることを端的に告げた。
世話係の娘に軽く会釈し、ラルンドは女王の私室を後にした。
無意識に向かった先は荒れ果てた中庭の一角だった。ここでアリアードに支配力を奪われたのだ。
民の反乱の折り、人々に沈黙を促したためか今は不安を口にする者はいない。
しかしラルンドの“感情を支配する力”が奪われたままの状態では、いずれ不安のタネが人々の口から不満となってラルンドを攻め立てるだろう。
塔に監禁された時に見上げた空の色を思い出す。
一人の憶測があたかも真実のように語られ、それを信じた人がさらに憶測で噂を広め、大勢に罪人として認識され理不尽な扱いを受けた日のことは未だに忘れることができずにいる。
不平不満の矛先が自分に向けられた時の絶望感は息をするのさえ忘れるほどの衝撃だった。
狂喜に満ちていた人々の顔が浮かぶ。皆一様に口元を歪め異様な目つきで刑が執行されるのを見ていた。
左腕に押し当てられた焼印の感触が蘇り、ラルンドは小さく身震いした。
《次は命で償えと言われるかもしれない》
あの時アリアードに支配力を奪われた愛し子たちだけがラルンドに罪はないと言ってくれた。
たまたま女性の愛し子たちが揃っているせいか、儀式以外でも親しく接してもらっている。
《私が欠けたら次にエロースの愛し子に選ばれるのはどんな人なんだろう》
そもそも国の運行を司る愛し子たちの力は女王が受け継ぐ希望を守るためにある。
遥かなる昔、争いを好まぬ神々が隠り世へと去る際に、我々も連れて行って欲しいと懇願した人たちが抱いていた“希望”=“争いのない平和な世界”を守る力だ。
儀式に於いて、空間を支配する隠り世の扉の番人でもあるスカエルスを頂点に、他の愛し子たちは正六角形の位置に配置される。
七人で六角垂を作りその中心に希望を置くことであらゆるものから希望の光を守ってきたのだ。
その力が欠けたため目に見えない厄災が女王の身体を蝕んでしまっている。
目に見えない厄災。
平和な時には感じ取ることができないほどの小さな亀裂。
本来六人は隣に位置するものが循環を円滑に行う手助けをし、人々に平穏な生活の場をもたらしている。
植物を支配するサンフィール、風を支配するウィンディギル、感情を支配するラルンド、物質を支配するファリアス、水を支配するウォータリアス、闇を支配するエリス。
端的な例を挙げるならばサンフィールの植物の種がウィンディギルの風に運ばれ根付き、ラルンドの愛情で芽吹き、ファリアスの土壌とウォータリアスの水で成長し実を結んだ植物がエリスの闇で枯れるという一巡だ。
さらに対角線上に位置する者同士がお互いの力に干渉しあうことで調和が生まれている。
植物と物質を例に挙げるならば、枯れ葉が土に還り養分を糧にまた新たな芽をつける。土が肥沃であれば植物もそれに見合った育ち方をする。
同様に、水と風も干渉しあっている。水温が上昇すれば気流が発生し、強風が溜まった熱を拡散することであるべき水温に戻すのだ。
愛情と闇も然り。愛情が強すぎても闇が深すぎても心の平穏は得られない。
お互いの力が干渉することでより良い結果を生み出すが、過干渉になればかえって調和を乱すことにもなる。
だが今現在、支配力を取り戻したのは四人にすぎない。
力が均等に作用していない今は正六角形が崩れて頂点の位置がずれてしまい、その結果守られるべき希望の結界の威力が弱まっている。
ラルンドが気に病んでいる頃、カオスから空間を支配する力を授けられたスカエルスは、希望を守る結界に出来た小さな亀裂から入り込もうとする厄災の気配を感じ取っていた。
隠り世の扉の番人でもある彼女は基本的に中立の立場をとっている。たとえそれがその人のためにならないと分かっていても扉をくぐる力と理由があれば誰にでも扉を開く。
カオスとスカエルスの関係は複雑だった。
愛し子たちは幼い頃に神に見出され力を与えられ、神を身近に感じながら成長し力の使い方を覚えていった。
それに対し、スカエルスは初潮が済んだのちに生贄として神に捧げられたのだ。
その為か人との付き合い方に距離を置いていた。全てに達観しているようでもあり、悟っているようでもある。
スカエルスが気付いた亀裂から入り込もうとする厄災とは人の側から見てのことだ。
あらゆる神の祖とも言われるカオスから派生したものたちは善悪の概念すら持ち合わせない。
東風のエウロスが生まれたときからずっと東風であったように、己の存在を否定することはない。
エリスに名を与えたエキドナも、腐肉を食する住人を“そういう存在”として扱い、人肉を餌として与えることすら厭わない。
神は善でも悪でもなくただ在るものだ。しかし人々は自分に不幸をもたらすものは受け入れない。
病を恐れ、死を恐れ、自分より恵まれている他人を羨み己の現状を不幸だと嘆く。
そのため終焉と破滅を司る神は、存在自体を否定され忌み嫌われてきた。
神として敬われることもなく、遠巻きに近寄ろうともしないどころか拒絶し、清めるためだと言って聖水や塩を投げつけられることが続けば、人に悪感情を抱くようにもなろう。
そんな神が結界の亀裂から様子を伺っていた。
《煩わしい人々を避けるために隠り世に来たというのに、神にすがってこの地にまで人は押し寄せて来た。自分たちに都合のいい神を祭り上げ、他のものは排除するわがままなやつらなどいなくなればいいのに》と終焉と破滅を司る神は思う。
《希望など取り上げてしまおう。人間はみんなおとなしく破滅に向かえばいい。鬱憤を溜め込んでいた王女に破滅を呼ぶ力を送り込み、希望を守る愛し子たちの力を削いだのだ。希望など早く潰えてしまえばいい。希望がなくなれば隠り世から人間どもも去っていくに違いない》
ラルンドがエロースに告げられた言葉【おまえは“感情”を支配し、人々の心を黒く染めるもう一つの“感情”と戦う運命にある】それが現実となろうとしていた。
女王の容体が日毎に悪くなっているのは、終焉と破滅を司る神によるものだ。
じわじわと侵食し、心を弱らせ負の感情を植え付けていく。
終焉と破滅を司る神がなぜ今になって行動を起こしたのかは、愛し子たちにしてみれば巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
隠り世にやって来たばかりの人々は争いを好まず、神々とともにあることを望んでいた。信仰心により希望を守る結界は強固なものだった。
だが神を敬い争いを好まなかった人々も今は昔。
時代が下るとともに神の存在は薄れ、今やかろうじて愛し子たちを現人神として敬っているような状態だ。貧富の差も大きくなれば不平不満の声も大きくなる。
少し感情を揺さぶられれば簡単に争い、神をも冒涜する。
愛情の象徴であるエロースの愛し子でさえ人々の憎悪の前では罪人として扱われた。
終焉と破滅を司る神は思う。
《人など所詮は自分の都合のいい夢を見たがる愚かな生き物だ。猜疑心から争いがおこり、戦火が広がれば破滅が訪れる。希望の剣を受け継ぐ者が隠り世から出て行ったのだ。人間どもは皆ここから出て行けばいい》
結界に出来た亀裂は未だ入り込むには小さかった為、神は弱っていく女王を見て満足気に頷いたのち気配を消した。
スカエルスはそんな神を否定しない。もちろんそんな神を厭う人々も否定はしないのだが。
ただ終焉と破滅を司る神が発端となり、カオスから授かった支配力を奪われたことへの憤りは禁じ得ない。
スカエルスは彼女を贄として扱わず『いつでも我が館に戻って来て良い』と言ってくれたカオスを母のように慕っているのだ。
終焉と破滅を司る神に付け入られたアリアードに対し非難も擁護もするつもりはなかったが、支配力を取り戻すためには冷酷な対応も辞さない。
スカエルスはラルンドの元へと飛んだ。
「お帰りなさい」
自分の未来を悲観的に捉えていたせいか、ラルンドは落ち着いた女性の声にもびくりと肩を震わせる。
そんなラルンドの態度に苦笑を漏らしながらスカエルスは改めて声をかけた。
「アイテールの力に引きずられてしまったようね、具合が悪そうよ」
振り返ったラルンドの目には、薄茶色の髪と茶色の瞳をもつ女性が微笑んでいる姿が映った。
見知った顔に安堵の息を漏らす。
「ただいま、スカエルス」
ラルンドにとってスカエルスは実年齢の見当がつかない不思議な女性だった。
自分より八歳年上のエリスと同じくらいにも見えるし、女王と同い年だと言われても納得できる容貌だ。
その為、距離感がつかめず儀式の時に会話をする程度の付き合いだったのだが、支配力を取り戻すために隠り世の扉を何度も行き来するようになり自然と会話も増えた。
「まずは身体を清めなさい。ここには侍女はいないの?」
スカエルスに言われてアリアードとの戦いを終えたままの格好で女王の部屋を訪れた無作法に気付いたが、感情を司る力を手にしたばかりの頃、些細な不満の声が毎日のように流れ込んできていたため、ラルンドは自分のお願いを口にするのを躊躇うようになってしまっていた。
女王のための侍女ならばいるのだが、そもそもラルンドの帰還は突然のことだ。お茶一杯頼むのも気が引けた。
そんなラルンドの表情を読んだスカエルスは片手を上げラルンドの返答を遮り、どこかに連絡を入れ始めた。
二人して人気のない廊下に立ち尽くすことしばし。
「支度を頼んだわ。カオスの館に行きましょう」とスカエルスに腕を掴まれたラルンドは、次の瞬間には見慣れない館の前に立っていた。
空間を支配する彼女にとって世界はものすごく狭いのかもしれない。
ラルンドも空間を移動することはある。その場合目的地と自分を融合するように神経を練り合わせていくことで初めて成し得ることだ。瞬きの間に成し得るものではない。
支配力を授かった者の力の大きさを目の当たりにして、ラルンドは改めてアリアードに奪われた力に脅威を感じた。それと同時に一人で複数の力を持つにはアリアードの体にも心にも負担が大きすぎるのではないかと心配になる。
実際にこれまでの戦いの中でアリアードの心が乱れた時に支配する力が弱まり、支配力の要である剣へと解放された力が還って行ったのだ。
奪われた力は残り三つ。
普通に生活を送るぶんには何の危険もないが、できるだけ急いだ方が良いだろう。
そんなことをつらつらと考え込んでいたラルンドはいつの間にか門を潜り、庭を横切り、気付いた時には湯場に連れてこられていた。
「ラルンドも仲間に入れてちょうだい」と言い置いて、スカエルスは立ち去ってしまった。
湯場では二人の女性が「洗い布はこれを使って」「今日は湯に薬草を浮かべているの」などと話しかけてきた。
あれよあれよと服を剥ぎ取られ、面食らっているラルンドとは対照的に女性たちは気にする様子もなく寛いでいる。
「ここから見える景色は夜も綺麗なのよ」「湯上りの服は棚から好きなものを選んでね」と気さくに声をかけてくれるものの、落ち着かないラルンドは手早く身ぎれいにした後女性たちに挨拶して早々に湯場を後にした。
人の感情を読み取れるラルンドは人と距離を保ちたいと思っているため、自分から声をかけることを極力避ける傾向にある。
淡い水色の貫頭衣と幾何学模様の飾り紐に布で出来た靴。この格好でどこへ向かえば良いのか迷っているうちに、一人、また一人と女性たちがラルンドに声をかけ、髪を結われ化粧を施され、なされるがままに豪華な扉の前へと連れてこられた。
計ったかのように扉が開かれた大広間の奥まった場所に、豪奢な飾りを施された寝台のようなものが置かれているのが目に入った。気だるげに肢体を投げ出した格好の女性が手招きをしている。
「よう参られた。近う」
深い紫色のベールで顔を覆っているが、この部屋で寛いでいるのであれば館の主人であるカオスに違いない。
ラルンドは湯上りの簡素な服のままなので気後れたが、呼ばれている手前今更引き返す訳にも行かず歩を進めた。
慣例的に長剣の届かないほどの距離をとり、片膝を床につけ右の拳を心臓の上へと当てがう神聖なる誓いの姿勢をとった。
「この度は謁見の栄誉を賜り…」「挨拶はいらぬ」
ラルンドの口上はあっさりと遮られた。
「スカエルスより聞いておる。好きなだけ寛いでいかれよ」
あっけにとられながらも「寛大なるお心遣いに感謝いたします」と言葉を返すなり、今度は食堂に飛ばされた。
瞬間的に目の前の景色が変わると次に自分が何をすべきなのか判断が追いつかない。
食堂では数人の女性がお茶を飲んでいた。
「お菓子があるのよ、一緒にいかが?」
カオスによってここへ飛ばされたのだから誘いを断るのは失礼だろう。
「ありがとうございます」と挨拶し、ラルンドは席に着いた。
初対面のラルンドの素性を聞くこともなく、甲斐甲斐しくお茶やお菓子を取り分けてくれる。
質素な焼き菓子は見た目とは裏腹に濃厚な味わいで歯ざわりもよく、さほどお腹が空いている訳でもないのにラルンドは勧められるままお茶とお菓子を堪能した。
他愛ない会話に相槌を打ちながらスカエルスを探すために折を見て退席しようとするも引き止めるように会話を振られる。
「中庭の花が見ごろを迎えたから明日にでも見に行きましょう」
「そろそろ野菜の収穫時期だからそれに合わせて一緒にお料理しましょう」
そんな会話が続きラルンドは居心地の悪さを感じ始めた。
客であるラルンドを気遣ってくれているのだろうが、随分と時間が経ったもののお茶の時間が終わる気配はない。
《私をもてなしてくれているのはわかるけれど、いつまでもここに留まる訳にはいかないのに》
ラルンドは失礼を承知で話を遮った。
「スカエルスがどこにいるのかご存知ないかしら」
話に興じていた人たちの口が一斉に閉ざされた。
折角もてなしてくれているのに場の空気を乱してしまったとラルンドは恐縮する。
が、一呼吸の後、何事もなかったかのようにまたお喋りが始まった。
「お茶のお代わりはいかが?」
ラルンドの問いに答えてくれる者はなく、和やかな雰囲気に戻ったお茶会が再開されてしまう。
途方にくれたラルンドはスカエルスの元へと思念を飛ばした。
《もう充分もてなしていただいたわ。ここから帰るにはどうしたらいいの?》
笑顔を貼り付けたままお茶のお代わりを辞退していると、ラルンドの思念に応えるようにスカエルスが食堂の扉を開けた。
カチャリと扉の開く音に振り返った一同に向かって「ごきげんよう」と笑顔を向ける。
「お菓子があるのよ、一緒にいかが?」
お茶を勧めてくる女性に対し軽く手を上げて動作を止め「ラルンドを迎えに来ただけなので」とラルンドに視線を送る。
退席のきっかけを貰ったラルンドは立ち上がり「美味しいお茶と楽しい時間をありがとうございました」と優雅に会釈しその場を離れた。
「カオスは好きなだけ寛いでいていいと言っていたのにもういいの?」と問うスカエルスに、ラルンドは今度はどこへ向かっているのだろうと考えながら「お茶もお菓子も充分いただいたわ」と返事をする。
「この館で遠慮はいらないわ。心のままにふるまって構わないのよ」
念を押すようにスカエルスは告げた。
「アリアードのことなど忘れてお茶を飲んでいても誰も文句など言わないわ」
スカエルスの言葉にツキンとラルンドの胸が痛む。
急かされることのないゆったりとした時間。他愛のないお喋り。美味しいお茶とお菓子。寒くも暑くもない快適な温度。雑踏も喧騒もない穏やかな空間。
疲れを癒すには最適とも言えるこの館が何故かラルンドには居心地が悪かった。
《ラルンドが呼ばなければいつまででも放っておいたのに…》
隣を歩くラルンドを横目で見ながらスカエルスは思う。
汚れたままでは嫌だろうと思い風呂を用意して貰った。主人に挨拶をしないままでは気にするだろうとカオスの元へ連れて行って貰った。風呂上りには喉が渇くだろうとお茶を用意して貰った。
風呂も挨拶もーこれはカオスが遮ったのだがーお茶の席も、ラルンドは腰を落ち着けようとしない。
この館に招かれた者は居心地の良さに浸り、普段気を張っている人ほど緊張感から解放されて時間を忘れて寛ぐのに。
日常から隔離されたような快適な空間の中で違和感を覚えるのは、その身に星を宿しているからなのだろうか。星が留まることを良しとしないのだろうか。
かくいうスカエルスもこの館に着いて早々生贄として必要ないのであれば館を出たいと申し出ていた。
自分はここに馴染めない異分子だと感じたからだ。
カオスはその申し出を受け入れ、スカエルスに支配力と【オグマ】の名を与えたのだった。
スカエルスは普段から積極的に人と付き合おうとはしない。それはラルンドとは別の理由によるもので、人と距離を置いていれば愛別離苦に苛まれることも、人を傷つけることもないと思っているからだ。
贄として扱われた時スカエルスは心を閉ざした。自分に向けられる言葉も愛情も嘘に感じ、倫理観さえ信じられなくなった。
この館にいるほとんどの人はスカエルスと同様に贄としてカオスに差し出された者たちだ。
ここでは命の危険に怯えることもないし、不当な扱いを受けることもない。閉鎖的な慣習から解き放たれ自由を得た人は安堵し開放感を得るのが常にもかかわらず、スカエルスの心はそうはならなかった。
「何かしたいことはないの?大きな声で歌を歌ってもいいし、庭の花で花冠を作ってもいいのよ」
まるで子供扱いされているような言葉に、ラルンドはクスリと笑った。
ラルンドを普段の緊張感から解き放とうと気を使ってくれているのが伝わってくる。
「敢えていうなら…」ラルンドは一旦言葉を切った後「着替えたいわ」と続けた。
言われてみれば、宝石が嵌められたサークレットに見合った髪型に化粧を施された顔に対し、貫頭衣に飾り紐の衣装はあまりにもちぐはぐだった。
ラルンドの着ていた服はあちこちにかぎ裂きが出来ていた上に泥で汚れており、とてもそのまま返せる状態ではなかった。
一拍思案した後「着られる服があるか聞いてみるわ」と言うなりスカエルスはラルンドの腕を掴んだ。
次の瞬間には木の飾りプレートが掛かった扉の前に立っていたラルンドは、驚くのはやめよう、と小さく息を吐く。
「リレイン、服を見繕って欲しいのだけれどいいかしら」
扉をノックしながら問うスカエルスの声にかぶさるように「入って」と返答があった。
扉を開けるなり目に映ったのは色とりどりの布の山。
「彼女は服を作るのが好きなのよ。可愛いレースのついたものから誰が着るのかわからない奇抜なものまで作るから、ラルンドに似合うものもあるかも知れないわ」
言葉の中に多少の心配要素は含まれるもののどんな服があるのか見たい気持ちが大きい。
スカエルスに続いて入室すると、果たしてそこにはラルンドの想像を超えた数の衣装があった。
リボンだらけのブラウス、継ぎ接ぎだらけのシャツ、細かいプリーツのスカート、ポケットの沢山ついたズボン、模様が複雑な編み方のセーター、何枚もの布を重ねたコート…。
着る人の好みやスタイルに関係なく、思いついたままに作ったと思われる衣装が所狭しと並んでいた。
「ようこそ」そう言って作業台から顔を上げたのは全体的に色素の薄い細っそりとした女性だった。
彼女自身は着飾ることもなく、ラルンドが着ている貫頭衣と同じ形の服に刺繍が入っただけの簡素な衣装を身につけていた。
リレインはラルンドに近付くなり臙脂色の布を腰に斜めに巻きつけ大きめのピンで留めだした。
アッシュグレーの髪に左側の一房のみ紅色という特徴のあるラルンドの髪に合わせたような色の選択だった。
更に紺色の毛糸でざっくりと編んだチェニックを着せ、細く裂いた臙脂色の共布を前身ごろの半分に編み込んで行った。
見る間に簡素な貫頭衣が外に着て行っても恥ずかしくない衣装に様変わりしていく。
「靴までは作れないけれど、こんなものかしら」
「すごいわ」
ラルンドが感嘆のため息を漏らすとリレインは満足気に頷いて「何かあったらまた声をかけて」そう言って作業台に向かってしまった。
その背に向かってお礼を言うも何の反応もなし。
「気にすることはないのよ。ここでは皆それぞれしたいことをしているだけだから」そう言ってリレインの部屋を後にする。
疑問符を顔に貼り付けているラルンドにスカエルスは続けた。
「花を飾るのが好きな人は好きな場所に花を飾る」そう言ってエントランスに飾られてある花を指す。
「絵を描くのが好きな人もいる」そう言って指差した先には庭先でスケッチに興じている人がいた。
「眠りたい人は好きなだけ寝ているし、食べることが好きな人は見かけるといつも何かを食べているわ」
話しながら歩いていると見覚えのある石壁が見えて来た。どうやら入って来た門へと向かっているようだ。
来た時には開けられていたため気付かなかったが、重厚な作りの扉には幾何学模様と植物や動物のレリーフが彫られており見るものを圧倒する。
辿り着いた門に手をかけたスカエルスがラルンドに問いかけた。
「さて、ラルンド。あなたは何がしたい?」
王女として躾けられて来たラルンドは規律を守る生活が身についていた。
好きなことを好きな時にする生活には憧れる部分もあるが、神に祈りを捧げる時間を蔑ろにする気にはなれなかった。
カオスの館で出会った人たちの顔を思い浮かべてみる。ラルンドが祈りを捧げていようといまいと気にする人などいないだろう。それでも希望の光は受け継いでいくべきものだと思うし人々にとって必要なものだと思う。
「何がしたいかよりもまず、アリアードの元へ行かなければならないわ」
スカエルスはラルンドの出した答えを否定しない。たとえ一晩ぐっすり眠るくらいゆっくり休むべきだと思っていたとしても。
「ならば秘密を教えてあげるわ。カオスの館の扉は強く願えば行きたい場所へと繋がるのよ」
「どこへでも?」
「そうね。愛しい人の元へも行けるわ。ただし戻ることはできないから、思い人が埋葬されていたらそのまま生き埋めになるわね」
さらりと不吉なことを言うが、安易に行きたい場所を願うのはやめろとの警告だろう。
ラルンドは考える。
アリアードの居場所の近くで、人目につかない場所。突然人が現れても気付かれない場所。どんな人が暮らしているのか予め分かればなお良い。
具体的に条件を加えていくと不思議と行き着く先が脳裏に浮かぶ。
眩しい日差し。鬱蒼と茂る背の高い草。潮の香りが濃く混じる風。
ラルンドはそっと扉に触れ、スカエルスと視線を交わす。
「助けが必要な時は私を呼びなさい」
「ありがとう。館の皆さんにも感謝を伝えてもらえるかしら」
ラルンドは自分の支配する力、人の感情を左右する力の大きさがどれほどのものか気付いていない。
ラルンドの感謝の気持ちは館の最奥にいるカオスの元にまで届いていた。
スカエルスはゆっくりと頷き「さあ、願って」とラルンドに微笑んだ。




