06ファリアス_02
時は少し遡る。
フレイヤの店で指輪を探していた男は不穏な噂を耳にした。
クリスフォード伯爵の娘と称する女が、指輪とお揃いの意匠でアクセサリーを作りたいと宝石店を回っているというのだ。
軒を連ねる名高い宝石店を何軒も回ればすぐに噂になる。
男は早々に噂の娘を見つけた。
緩くウェーブのかかった淡い金髪の女の指には男物と思われる大きめのリングが嵌められていた。
探しているものと似ている気もするが、いきなり指輪を見せろと近づくわけにもいかない。
フレイヤの店にそれらしい指輪は見当たらなかったことと、不審な女がいることを依頼主に伝えると、その娘を連行するように指示された。
指輪一つに対しやたらと物々しい態度をとる依頼主に不信感を抱きながらも、依頼は依頼だ。仲間に新規依頼内容をメールする。
既に女を一人拉致している。男は《派手な犯罪行為はしたくないな》と思いながらも娘の行方を目で追った。
「誘拐なんてしなくても大丈夫よ」
文字を入力するわずかな時間、目を離しただけだというのに、追跡していた対象者に背後から声をかけられた。
指輪を見せつけるように頬に軽く手を添えた格好で微笑んでいる。
ぞくり、と男の肌が泡立った。
直感する。この女は人を殺せる。いや、既に殺したことがある。
「何が望みだ」そう言いながら男は逃げるルートを模索した。露地に逃げ込むのは得策とは言えない。かと言って大通りでは人目に付く。
「あなたの雇い主に会ってみたいだけよ」
新作映画を観に行くような気軽さで女は答えた。
アリアードが抱いたクリスフォード男爵の第一印象は“狡猾”だった。
アリアードを信用していないことがあからさまで、アリアードに向けられる負の感情は心地よくすら感じる。
「何のためにクリスフォード伯爵の娘のふりをするのか」との問いに、「伯爵の名前に踊らされる人を見るのが面白いから」と答えると、男爵はニヤリと笑った。
男爵自体が伯爵の名前に振り回されてきたようなものだった為、アリアードの言葉は男爵の暗い感情を掻き立てた。
アリアードは男爵の目を覗き込み、フレイヤに告げた“クリスフォード男爵が社交界にいられなくなるくらいの醜聞”を広めるために、都合のいい夢を見せてあげることにした。
「伯爵家の指輪は多く出回っている。どれが本物かなど判断できるものではない」と、アリアードは指輪を男爵に見せた。
石の大きさといい、リングの意匠といい、寸部違わぬ指輪を目にした男爵は、自分が手に入れた指輪で継承の儀を乗り切れると確信した。
「それならばもっと面白い体験をさせてあげよう。なに、簡単なことだ。ハロルドの娘であるフレイヤを名乗り、指輪の権利を私に譲ると言うだけで良い」
男爵の負の感情はアリアードに力を蓄えさせる。
窮地に陥った時、この男はどれほどの憎しみを世間に対し抱くことになるだろう。
この先、追いかけてくるであろうラルンドと対峙した時の力は多ければ多いほど良い。
肌寒い曇り空の日、クリスフォード伯爵邸を見上げる人影があった。
いよいよだ。
ノックの後、弁護士が若い女性を伴って入室した。
部屋にはクリスフォード男爵の他に、壮年の女性と老年の男性がソファに座っていた。
「皆様お揃いになりましたので、これより爵位継承の儀を執り行わせていただきます」と弁護士が告げる。
執事はまるで扉に溶け込んでいるかのように佇み、一同の動向を見守っていた。
継承者のクリスフォード男爵、立会人のクリスフォード伯爵の姉エミリアと、クリスフォード伯爵夫人の父モーブ男爵、そして同伴した女性は行方不明になっていた伯爵の娘フレイヤだとの簡単な紹介が弁護士からなされた。
事前にハロルドの死亡申請が受理され、継承権の譲渡が決まったことは知らされていた。それに加え娘が見つかったとの連絡を受け、立会人としてこの場に臨んだのだが、エミリアもモーブ男爵も子供の頃のフレイヤにしか会っていない。
髪の色は歳とともに変化することもあるし、歳よりも若く見えるが女性に容姿のことをとやかく言うのは躊躇われる。
だが伯爵令嬢としての立ち居振る舞いも言葉遣いもしっかりしている。両親を亡くした娘が自分を見つけ出してくれたクリスフォード男爵に恩義を感じて、継承権を認めることも自然な流れであるように思えた。
一通りの説明の後、「後のことは全て弁護士にお任せしておりますので」とフレイヤは退席した。
あっさりと退席してしまったことに部屋の中には乾いた空気が流れた。
エミリアもモーブ男爵もフレイヤには聞きたいことが山のようにある。
今までどんな生活をしていたのか、今どうしているのか、これからどうするのか。
だがクリスフォード男爵にしてみれば予め決めておいた流れの通りだ。
余計な詮索をされる前に書類にサインを書かせてしまわなければならない。
弁護士は鍵のついた箱を三人の前に出してから、継承に必要とされる条件を読み上げた。
曰く、直系血族四親等以内の男子、継承の指輪を受け継いだ者。
初代伯爵には庶子が多くいたこともあり、生まれた順で継承させるには憚られたのだろうと推測できた。故に“継承の指輪を受け継いだ者”とわざわざ明記させ、指輪を伯爵位の証とした。
「では継承の指輪をあらためさせていただきます」
男爵から指輪を受け取った弁護士が箱の鍵を開け、中から指輪の鑑別書を取り出した。
四人が広げられた鑑別書を覗き込む。
幅広のリングに百合の葉の模様が彫られ、百合の花を模った台座にオーバルブリリアントカットの青い石がはめ込まれた写真が貼られている。
写真は色褪せ判然としないが写真の下に石の特徴が書かれてあった。
【クリソベリル ブリリアントカット 濃青色 変色効果】
聞きなれない宝石名にサファイアではないのか?と男爵の顔色が変わる。
四人が沈黙するなか、部屋の外がざわついた。
何やら問答をしている様子に、扉の近くにいた執事がそっと廊下を伺うと、先日誘拐まがいの仕打ちをした女性が体当たりをする勢いで扉の隙間から室内へと大声で叫んだ。
「その指輪は偽物です。本当の石はここにあります」
「やっぱり追ってきたのね」
屋敷の庭に出てきたアリアードが二人を見据える。
伯爵邸の門扉の近くにラルンドとファリアスが佇んでいた。
ここ数日、クリスフォード男爵の感情に刺激され、アリアードは支配力の使い方の感覚を取り戻していた。
愛し子が持つ剣に宿る力よりも、奪い取った支配力の方がはるかに大きいことが直感でわかる。
ファリアスが歩を進めながら「あなたは信じるかしら?石には不思議な力が宿っているのよ」とアリアードに問いかけた。
「何が言いたいの」
唐突に何を言い出すのかとアリアードは身構えた。
「アリアード、あなたが作り出した石にはそれがないわ」ファリアスは淡々と告げた。
本来、身につけることで神経が休まったり、感覚が研ぎ澄まされたり、気分が高揚したり、体調を崩したりと石にはそれぞれ目に見えない力が宿っている。石の本質に気付いていないのかと問うたのだ。
「こんな小さな石ごときで大げさだこと」
アリアードにとっては石によってもたらされる精神的変化などどうでも良い。
アリアードは微笑みをたたえ、指輪を掲げて見せた。
「人を惑わす物を作ることは禁忌とされているの。その石は壊さなければいけないわ」
「わざわざそれを告げに来たの?愛し子というのは大変ね」
ファリアスの言葉に耳を貸そうとしないアリアードに対し、小さく息を吐く。
「アイテールの名において」
ファリアスは、両手を伸ばし素早く交差させると、クリスタルの結晶を思わせる両端が鋭く尖った剣を取り出した。
ぶわっと、空気が膨れ上がる。
目に見えない磁場がファリアスを取り囲んだ。
以前ラルンドはファリアスから贈られた石により、アリアードの物理攻撃から免れたことがある。
感情を支配するラルンドよりも実質的な力をファリアスは持っていると言えた。
ファリアスに呼応してアリアードが指輪をつけている右手を体の正面に伸ばした。
ぼんっ、大気が揺れた。
パチパチと弾ける音がファリアスの周りで響く。
アリアードは自身の力がファリアスに優っていることを実感した。
「この石を壊すのではなくて?」
更にファリアスに攻撃を加えようとしたアリアードに向け、ラルンドも剣を取り出し応戦しようとするも、それを察したアリアードが指先をラルンドの足元に向ける。
地面が隆起し、ラルンドの行く手を阻む。
僅かな隙を見逃さず、ファリアスが指輪に向けて力を飛ばすも、力は指輪に弾かれた。
アリアードの力の方が強かった。
獰猛な肉食獣が獲物を嬲るように四方八方から圧を伴った指弾をファリアスに打ち込む。
それをファリアスはことごとく剣で弾いていく。
ピリピリと静電気が走り、プラズマ放電の軌跡が生き物のようにうねる。
ファリアスが力を弾けば、アリアードはそれ以上の力を込めて攻撃を重ねる。
見えない力の応酬に、ラルンドは見守ることしか出来なかった。
アリアードの攻撃が指弾から手のひらに変わり、組んだ両手から発する力に変わる。
余裕の笑みを浮かべていたアリアードの顔つきが変わっていた。か弱そうな外見からは想像できない強靭さでファリアスが立ち向かって来るからだ。
僅かずつだがファリアスの剣にヒビが入っていくのを見て、ラルンドは焦りを覚えた。手にした剣で自分を囲んでいる土塊を必死に削る。
「私に盾突くものは許さない」アリアードが叫んだ。
更に勢いをつけて繰り出されるアリアードの力に、力を弾く音に混じって亀裂の広がる音が大きくなる。
二人の周りにはアイテールの力が渦巻いていた。
髪が逆立ち、衣服は不自然に波打ち、足元の地面がえぐれていく。
キンッ、と澄んだ高い音が響いた後、シャラシャラと細かい音が続いた。
ファリアスの水晶の結晶のような形の剣が砕けていた。
アリアードの奪った支配力に剣が打ち負けたのだ。
アリアードの口元に笑みが浮かぶ。
だがファリアスはこの瞬間、自分の左手の甲にある布を剥ぎ取った。
両手を伸ばし素早く交差させ「ファリアス・リアの名において」と唱える。
細かく砕けたカケラが、辺りに満ちている力を取り込みながら再生され、瞬く間に元の結晶を形造る。
「ばかな」
支配力の象徴である剣を粉々に砕いたのだ。再生など不可能なはずだ。
驚愕するアリアードの隙をつき、ファリアスが剣を向ける。
アリアードの作り出した指輪はファリアスの放つ怒気に触れただけで霧散した。
粉々に砕けるどころではなく、粒子のレベルで分解されていた。
それと同時にラルンドを阻んでいた土塊が消える。
一気に力を使ったファリアスが膝から崩れ落ちたのを見て、すぐさまラルンドが二人の間に割って入った。
「リアの名は、アイテールから授かったもの。どんな力を持ってしても、奪うことなどできぬ」
荒い息でファリアスが告げる。
戦意を喪失したアリアードが自分の手のひらを凝視していた。
隠されていたファリアスの傷痕には、ルチルインクルージョンのような複雑に交わる細い線状の模様が描かれていた。
愛し子は幼少期に見出されることが多いと伝えられているが、アイテールとファリアスは生まれた時から絆があると聞いたことがある。傷痕を見るたびに心を痛めていたファリアスを見兼ねて、アイテールが剣に変わる守護を施したものなのだろう。
【ちゃんとできたね。リア、もう戻っておいで】
ゆったりとしたテノールの声が聞こえた。
ファリアスには見えているのか、声のした辺りを見上げている。
ラルンドには曇り空の中、光の揺らぎが見えるに過ぎない。
あえて言うのならば水の入ったコップの中に透明なシロップをゆっくり注ぎ込んだ時のような揺らぎだ。
普段、表情を変えないファリアスが笑った。
至福の表情で声の主に向かって両手を伸ばす。
次の瞬間、ラルンドは一気に大気の中に放り込まれた。
感覚的には成層圏まで飛ばされたかのような気圧の変化が肉体を訶み、体内の水分が一気に沸騰、膨張し、細胞が弾け飛んだ錯覚を味わったのだが、無論、実際はそれ程負荷がかかったわけでは無い。
【我が力がそなたにまで及んでしまったようだ】
声を頼りに視線を向けると、ファリアスを抱きかかえた空の色と同化した大柄なシルエットが目に映った。
【そなた、エロースから剣を授かったで者であろう】
その言葉にぼんやりと輪郭が見えるだけの存在が誰であるのか分かった。
「ダメよ。名前を呼んではいけないわ」
ラルンドが口を開く前にファリアスが止めた。
名は本質を表す。神の領域に招かれている状態で、無闇に名を口にすれば何が起こるかわからない。
【そうだね。名前を呼んでいいのはリアだけだ】
そう言う意味で名を呼ぶことを止められたのか?とファリアスの真意を汲み取り兼ねる。
二人の空気にあてられて気まずくなったラルンドは、そっと視線を逸らした。
ゆっくりと体が降下している感覚にとらわれているうちに、眼下に見覚えのある景色が見えて来た。
守り神の像が建つ丘。
ラルンドとファリアスは隠り世の扉を通ることなくアンタレスへと戻っていた。
一方、『その指輪は偽物です。本当の石はここにあります』との声を聞き、沈黙に固まっていた室内は慌ただしくなった。
「つまみ出せ!」と指示を出すクリスフォード男爵の言葉にエミリアが異論を唱えた。
「その者をこちらへ」
エミリアは伯爵家へと嫁いでいた。この場では彼女の意見が優先される。
部屋へと迎え入れられた娘は明るい茶色の髪にブルーの瞳をしていた。
モーブ男爵は既視感を覚えた。《エリザベートに似ている》
「指輪が偽物とはどういうことかしら」と、エミリアがクリスフォード男爵に問いかける。
フレイヤを睨みつけて「言いがかりだ」と答えた男爵に、フレイヤは「秘密裏に事を運ばずに、きちんと鑑定に出せば良かったのに」と呟いた。
「この石は男爵が持っている指輪から外された物です」
取り外された石にジュエリー用ペンライトで光を当てると、少し紫を帯びた深い青色からピジョンブラッドを思わせる強い赤色へと変色した。
クリスフォード男爵が息をのむ。
「この石はアレキサンドライト」
「アレキサンドライトだと?」
納得がいかないと言いたげにクリスフォード男爵は声を荒げた。
「一般的に知られている特徴は緑から赤へとカラーチェンジをするモノだけれど、これは青から赤へと色が変わる」
貴族御用達の店は当然貴族が好む最高級品を揃えている。昼のエメラルド、夜のルビーとも称されるアレキサンドライトの特徴が顕著なものしか取り扱わないのだから、男爵が知らなくても無理はない。
アレキサンドライトとはクリソベリルの変色効果のあるものを指す。
クリソベリル自体は黄色や黄緑、茶色のものまで多様にある。
人工物ならばいざ知らず、天然の宝石に全く同じものは存在しない。色も形も変色の仕方も様々だ。
見分けが難しいダイアモンドでさえ、各々生成に至るまでには不規則な成長模様が刻まれている。
「どういうことかしら」と、再びエミリアがクリスフォード男爵に問いかける。
だが、男爵に答える術はない。
男爵は青い宝石にこだわりすぎていた。
肖像画はどれも昼間の明るい光のもとで描かれていた為、陽光を受けた指輪は皆、存分に青く輝いていた。
白熱灯の光で赤く変われば指輪の宝石がアレキサンドライトと気付けただろうが、蛍光灯のもとで見た青い宝石は肖像画の色よりも濁って見えた。そのため男爵は指輪を売りつけた男が、輝りの強い高価なサファイアを抜き取り、安物に差し替えたと思い込んだのだ。
男爵はわざわざ肖像画の色味に近いロイヤルブルーサファイアを取り寄せ加工した。
一同の視線がクリスフォード男爵の持っていた指輪に向けられている。
これまでの苦労は何だったのか。
最後の最後でこんな簡単なトリックに引っかかった。
いや、トリックではない。伯爵家の財力と男爵家の財力の差を見せつけられたようなものだ。
青から赤とはいえ見事に色を変えるアレキサンドライトならば、ロイヤルブルーサファイアを3つ買ってもお釣りが来る。
立会人として呼ばれたエミリアとモーブ男爵には知る権利がある。
指輪を偽物と判断された男爵は何故同じデザインのものを持っているのか、先ほどフレイヤと名乗った女性は男爵が用意した偽物ではないのかと追及された。
そして後から現れたフレイヤが本物の石を持っていることにも言及がなされる。
クリスフォード男爵に好意的だった弁護士も、弁護できる限界を超えていた。
クリスフォード伯爵の失踪、家族の行方不明、15年の長きにわたって隠されていた事実がようやく明らかになったのだった。
その後、日を置かずしてクリスフォード男爵が伯爵失踪事件に関与していることが公になり、クリスフォード伯爵の財産はハロルドの姉達とフレイヤに分配されることとなった。
クリスフォード伯爵家は正当な後継となる男児がいないことから領地は国に返還された。屋敷も後々誰かの手に渡ることだろう。
フレイヤは母エリザベートの実家であるモーブ男爵家に引き取られ、伯母にあたるエミリアが後見人としてつくことになった。
エミリアは、クリスフォード伯爵家は二代にわたって男爵家から嫁を貰っただの、花壇の柵が一箇所色が違うのはハロルドが子供の頃壊したからだだの、フレイヤの知らないことを教えてくれた。
小さい頃は肖像画が怖くて近寄らなかった記憶がある。そんなことも伯母との会話で思い出した。
落ち着いたら母の墓もクリスフォード家の墓地へと移すことになるだろう。
結局、偽物の証拠品として押収された指輪はクリスフォード男爵に戻された。
リングこそ本物だが石は別物だ。指輪に未練は無かった。
フレイヤの手元には台座から抜き取られたアレキサンドライトのみが残った。
先祖が伯爵位を賜った際に作ったとされる指輪にはめ込まれていた石。宝石言葉は高貴、出発、光栄、誕生。
誕生と出発の意味があることに、フレイヤは新しい自分の生き方を踏み出すのに相応しい指輪を作ろうと思った。
屈辱的な仕打ちを受けたことも、石が戻ったことで薄らいだ。
父の遺産で祖父の領地に小さな店を構えることも出来た。
相続を争うほどの身分も財産も無い。もう隠れながら生活しなくても良いのだ。
クリスフォード男爵は、気力も何もかも失せて男爵領へと戻って行った。同行したのはアリアードのみだ。
屋敷のエントランスには出迎える者の姿はなかった。
男爵は吹き抜けのホールから伸びる奥まった通路へと足を運び、使用人の部屋の扉を開け、誰もいないことを確認する。
部屋の中には作り付けの棚と奥に簡素なベッドが置かれていた。執事の部屋だったのだろう。
男爵は部屋の中央に立ち、生活感のない部屋を一通り眺めた後がっくりとうなだれた。
そんな男爵をアリアードは扉付近から黙って見ている。
アリアードにとってクリスフォード男爵の側は都合が良かった。
人を陥れようとする悪意はアリアードの支配力を高めてくれる。
ハロルドの娘であるフレイヤを名乗り、権利を譲ると言うだけで良いなどと、その場限りの軽薄さも気に入った。
この男の伯爵位への執着心には多分に見栄と嫉妬が含まれている。
フレイヤに出会った時のピリピリと肌を刺すような感覚よりも、重量感のある刺激が“支配力”を手に入れた時の高揚感に近かった。
だが、今やこの男の側にいても力が湧いてこない。
もう一度男爵の野心に火が点くかと同行してみたものの、一向にその気配は無かった。
ファリアスの“支配力”を失った今、アリアードの気力も失せつつあった。
あの時、剣を壊した力はアリアードがファリアスから奪った“支配力”だった。
まさか剣が再構築されるとは思わなかった。
ファリアスの手の甲に描かれていた模様は剣よりも強いアイテールとの絆だ。
アリアードは男爵に問いかけてみた。
「伯爵の称号はもういらないの?」
アリアードの言葉に男爵は冷めた声を発した。
「今更何の意味がある」
貴族社会において醜聞は命取りだ。財産と身分欲しさに伯爵家を一家離散に追い込んだ主犯。その噂は一生ついて回る。
クリスフォード男爵が爵位を返上しなくて済んだのは、伯爵の失踪から15年も経っていて確たる証拠が無かったからだ。
だが伯爵位は継げず、家格は底辺まで落ちた。
醜聞を気にした母親は隠居すると言って侍女を1人連れて出て行った。
資産管財人を任されて使用していた伯爵邸も、ハロルドの持ち株の運用も使用禁止となった。
雇っていた使用人も執事もボディガードも暇を出した。雇い続けるには向けられる視線が痛かったし、財力も無い。
男爵の言葉にアリアードはがっかりした。
貪欲なまでの執着はアリアードの支配力を欲する気持ちとリンクして、力が蓄えられたのだ。
力が蓄えられないのならばここにいる必要はない。
男爵は床の一点を見詰めたまま身動きせずにいる。
いつだったかフレイヤも同じように床を見詰めていたことがあった。
自分の気持ちに整理が追いつかなくて固まってしまうのだろう。
指輪に振り回された哀れな一族。
宝石は同じ組織構造をしていてもまるで違うもののように扱われる。
成分が同じでも人工物と自然が作り出したものとでは価値が違うのだ。
人間も同じ先祖のもとに生まれても生まれた順番で立場はまるで違う。
育てられる環境や教え込まれる教育、価値観が違うのだ。
付け焼き刃で男爵が伯爵の真似をしたところで偽物にしかなれない。
「あの場に、まさか本物が出向いて来るとはな」
卑下た笑いを含んだ嘲る声が響く。
「お前も何の価値もない偽物だったな」
床から視線を上げた男爵の濁った瞳がアリアードを写していた。
『偽物』の一言はアリアードの逆鱗に触れた。
ファリアスに愛し子であることを見せつけられたのだ。
アリアードが手に入れた支配力など守護神の力の前では無きに等しい。
——偽物——
七つあった支配力のうち残っている力は三つ。
自分には力がある筈なのに。
どうあっても自分のものにはならないのか?
ならば今あるこの力は何だと言うのだ。
「偽物では何の役にも立たない。この指輪がいい例だ」
はははは、と乾いた笑い声が癇に障る。
「本物しか、必要とされて、いないんだよっ」
アリアードの胸にとん、と小さく刺激が伝わった。
男爵が怒りに任せて指輪をアリアードに投げつけたのだ。
カツンと小さく床が鳴った。
矮小な。
私を偽物と言い張るのならば力を見せてやろう。
アリアードはサンフィールから奪った“美”=“植物を支配する力”を練り上げる。
幸いにもこの部屋は床も壁も木で覆われている。
アリアードは静かに踵を返した。
《そんなに本物が欲しいのならば望みを叶えてやろう》
男爵の頭の中に声が届いた。
《何千万年かの後、貴重な宝石としてさぞや重宝されることだろう》
パタンと扉が閉じられる音に視線を向けるがそこに人影は無かった。
周りの温度が上がったのか、一気に汗が噴き出して来た。
ふと気付くと、足が粘つく何かを踏んでいた。
足を持ち上げようとしたが粘着力が高いのか思うように持ち上がらない。
足元を見ると金茶色の液体が湧き出している。
粘度を持っているせいか湧き出す速度はそれほど速くはないが、早々にこの場を離れた方が良いことは見て取れた。
《なんだこれは。接着剤か?》
力一杯足を持ち上げ、ようよう粘着物質を剥がしたが、足を下ろした先も既に液体が広がっていた。
ねちゃ、ねちゃ、と一歩毎に音を立てながらも男爵は扉に向かって歩く。
まるで泥に膝まで埋まったかのように、一歩を踏み出す足が重い。
ビリッ。
靴底が粘着力に耐えられずに剥がれ落ちた。
いきなり高く足が持ち上がった反動で男爵はバランスを崩し前のめりに膝をついていた。
ぶよぶよとした感触が膝に伝わる。
「うわっ」
男爵はすぐさま立ち上がろうとしたが粘着面積が多くなった分、容易に立ち上がることが出来ない。
男爵はベルトを外しズボンを脱ぎ捨てた。
もたもたしていたら動けなくなる。
次の一歩でもう片方の靴が脱げた。
次の一歩で靴下が脱げた。
次の一歩を踏み出そうとしてよろけた。
半身が液体に触れる。最早液体というよりは固形物に近い粘度になっている。
「誰か!誰かいないか!」
執事を始め使用人には暇を出した。誰もいない屋敷に虚しく声が響く。
半身を起こすも両手にべったりと粘着物がまとわりついていた。
ねちゃっとした感触と匂いに覚えがあった。
樹液だ。
松ヤニのような青臭さとゴム臭さが混じっている。
素足に触れている粘着物の体積が増していた。
最早立ち上がることは不可能だった。
《本物が欲しいのならば…何千万年かの後、貴重な宝石として…》
先ほど聞こえた声と松ヤニから連想されるものが頭に浮かぶ。
有名な映画で観た虫入りの琥珀。
「やめろ、冗談じゃないぞ」
ばくばくと心拍数が上がり、周りの高温と相まって呼吸がままならない。
床を這うようにして進むが、扉までのたかが二歩程度の距離が遠い。
「誰か!おーい!誰かっ!」
みしっ。
目の前の扉が膨らんだ気がした。
バキン。
扉を壊して隙間から半透明な金茶色が流れ込んできた。
床を這う目線の高さを超えるうねりが迫る。
男爵の叫び声は辺りに響くことなく呑み込まれた。
怒りは原動力になる。
だが、怒りに任せて力を使ったところで虚しいのも事実だ。
男爵家の上空を一筋の流れ星が闇へと溶け込むように消えて行った。




