表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の流れ星  作者: えりさかりお
16/19

06ファリアス_01

力を思うように扱えないでいたアリアードは、力を引き出すために必要な感情が何かを知る。

それは負の感情。

理不尽な扱いを受けた女性の負の感情に引き寄せられたアリアードは、その女性に手を貸すかたわら、

更なる暗い欲望を持つ男へと近づき、己の力を蓄えていく。

そんな折、禁忌を犯したアリアードから“物質を支配する力”を取り戻すべく、ファリアスが立ち向かう。


【ファリアス】


 アリアードは夢を見ていた。

 青紫の夢だ。

 夢の中で彼女は”美”を求めて手を伸ばす。

 現実ではたやすく手に入れられた”美”が、夢の中では彼女が手にした途端形を変え、おぞましいものへと変わっていった。

 夢の中に漂う闇が彼女に言う。

《それはお前の心だ》

《お前の欲する”美”に真実はない》

 アリアードは自分の足元の影が背後の闇へと延びていることに気付き、慌てて青紫色の光へと手を伸ばした。

 光に近付けば近付く程、自分の影が濃く長く延び、更成る闇を形創って行く。

 アリアードの形相が変わった。

 闇を溶かす程の光を何としても手に入れなければならなかった。

 必死の形相である。

 闇を溶かす程の光とは以前、良子であった時、生まれたばかりの赤子であった時、周囲の人々がアリアードに与えてくれたものだ。

 それが何であるのかアリアードにもおぼろげに伝わってくる。

 しかし、アリアードはその光を手に入れる術を知らなかった。

 夢の中で手を伸ばす。関節が抜けてしまいそうなほど思いきり伸ばす。

 体が固定されてしまったように、いくら伸ばしてもなかなか光には近付けなかった。

 あと少し。

 光の中に指が掛かりそうになった時、アリアードの背後に迫った闇が光を翳らせた。

 弱まった光が急速に遠のいて行く。

《全てを棄てなければ、お前にその光は届かない》

 何処からか声が言う。

 光の中にはかつて交流のあった七人の愛し子が戯れていた。

 その中には姉のラルンドの姿もある。

 一度はアリアードの手中に収まった水、風、闇の支配力が既に奪い返されていた。

 支配力を取り戻した愛し子達は光の中で一層輝いて見えた。

 人々に恐れられる闇を支配しているエリスでさえ幸せそうに微笑んでいる。

 闇の支配力を持つ者でさえ光の中にいるということにアリアードは嫉妬にも似た感情を覚えた。

 カッ、と体の奥が熱くなった。

《今一度我が手に収めてくれようぞ…》

 わずかに残っていた一条の青紫の光が消え、目の前が真っ暗になる。

 アリアードは暗闇の中目覚めた。



 アリアードはこの街の人々が輝く石を宝石と呼び、それを手に入れることを至上の悦びとしていることを知った。

 街中のいたるところに宝石店が建ち並び宝石を求める人達が街を活気付かせている。

 アイテールの力を使えばそれ等はたやすく手に入るのだが、アリアードは力を使いこなせずにいた。

 何かが足りなかった。

 今までの様に意のままに力を操れないもどかしさに、果たして自分にその様な力があるのかすらも解らなくなることがあった。

 このところ神経が疲れている。

 眠りが浅く、まどろんだかと思うと夢を見る。

 アリアードが目覚めとともに忘れてしまう夢は、何時も憎悪を伴っていた。

 全能を手にした筈の自分から力が奪われていく。

 自分のものが他人へと奪われていく。それに対する憎悪だ。

 その憎悪と同調する者に出会ったのはそれから数日後のことであった。


 その日アリアードは街を歩いていた。

 ダイアモンドストリート。そう呼ばれる通りからさほど離れてはいない場所。

 名高い宝石店の陰になりながら目立たない店が並ぶ通り。

 それは同じダイアモンドでも、まだジュエリーとして扱われていない石が取り引きされている場所だった。

 石を研磨して成形したルースと呼ばれるもの。

 付加価値をつけられ店頭に並べられる前の、石そのものを扱っている店。

 その一角に申し訳程度に看板を出している店があった。

「出て行きな!あんたの面なんざ見たくもない!」

 女のカン高い声が聞こえた。

 アリアードの一歩毎にその声が大きくなって行く。

「出て行けって言ってんだろ!」

「そう怒鳴んなくても出て行くよ」

 男の薄ら笑いを含んだ声が混じる。

 安っぽいジャケットを片方の肩に掛けた男がしかめた顔を店内に向け、後ろ手に扉を開けているのが目に入った。

 視線に気付いたのか、男は後ろを振り返り、アリアードと目が合うとバツが悪そうに視線を逸らし肩を竦めた。

「ま、元気でやんな」

 男は店内に声を掛けるとそそくさとその場を立ち去った。

 歩調を緩めず通りすがりにアリアードが何気なく店内に目を遣ると、30歳前と思われる女が薄暗い店内のカウンター内にいた。

 女は床の一点を見詰めたまま身動きせずにいる。

 アリアードは店先を通り過ぎたものの、何かに引かれるように足が止まった。

《私がどこの誰かを証明する唯一のものが無くなってしまった》

 女の声が聞こえたわけでは無いがアリアードには女の思考が読み取れた。

《私はお母様との約束を破ってしまった》

 深いため息が女の口から漏れる。

 女の脳裏に様々な絵が浮かんでは消えた。

 ピンク色のドレスを纏った幼い自分がブランコに揺られている。

 大きなケーキの向こうで両親が笑っている。

 父が沢山のお土産を鞄から取り出している。

 母がベッドの脇で絵本を読んでいる。

 幸せな場面を思い浮かべながらも女の表情に笑みは無く、延々と床を見詰めている。

 一転してモノトーンの絵が女の脳裏に浮かんだ。

 父が家に帰ってこなくなる。

 大勢の大人達が家の中を歩き回る。

 小さな家に引っ越しをする。

 絵本も可愛いドレスも無くなってしまう。

 薄暗い部屋で痩せ細った母が小さな布を手にしている。

『フレイヤよく聞いて。この指輪は絶対に手放してはだめ。持っていることを他人に知られないように、肌身離さず隠しておきなさい』

 布に包まれていたのは青紫色の石がはめ込まれた、女性がつけるには大きめの指輪だった。

『約束してちょうだい。どんなに生活が苦しくてもこれだけは持っていて』

 切実な声の響きに、骨の浮いた母の手を握り、何度も何度も頷いた。

 その頃には、幼い頃の贅沢とも言える生活からかけ離れた質素な生活にも慣れていた。

 自分の置かれた境遇も理解できるようになっていた。

 父は爵位を持っていたが相続争いに巻き込まれて命を落としたらしいこと。

 母は私を連れて逃げるように家を出たらしいこと。

 正当な後継者の証である指輪を持っていることを知られてはいけないこと。

 だが、相続争いの騒動について詳しく聞く前に母はこの世を去ってしまった。

 身を隠すような生活は深窓の令嬢として育った母にはきつかったのだろう。

 父を殺したのであろう追っ手に怯え、実家を頼ることすらしなかった。

 命を守るために逃亡生活を続けた結果、日々を楽しむこともなく本来の寿命を全うすることもなく、母はこの世を去った。

 父の葬儀にも参列していないのだ。親戚の顔など誰一人として覚えていない。

 頼れる心当たりは何処にも無かった。

 貴族の婦人とは思えない質素な葬儀を済ませ、母は共同墓地の一角に埋葬された。

 読み書きとある程度の計算と宝石に関する知識は母から教えられていたため、女一人でもどうにか食べていくだけの仕事にはありつけた。

 女が一人で生きていくには、がさつな言葉遣いと大柄な態度の方が都合が良いことも学んだ。

 フレイヤの脳裏に先ほど店を出ていった男の顔が過ぎる。

《ギルバート…》

 小さいながらも店を構えることが出来て、取り引き先の人と親しくなった。

 その人は陽気で気さくで、仕事以外でも話が合った。

 身寄りのない自分のことを詮索することもなかった。

 将来のことを考えるようになったのは店を構えてから一年くらい経った頃だ。

 ギルバートは原石に関しては目利きと言えた。

 加工技術も身につけていたため、大店からの注文にも対応できた。

 裕福とは言えなくても二人で店を盛り立てていこうと結婚の約束をする段になり、自分の出自を語った。

《指輪は隠しておくように言われていたのに》

 今更後悔しても遅い。

 今、思い返してみればどこまでが本心だったのか。

 私を油断させ素性を探るために結婚を言い出したのではないのか。

 出自を調べるために貴族の紋章に詳しい人に指輪を鑑定してもらおうと言い出したのは騙すためだったのか。

 それとも素性がわかった後で、指輪を盗むように入れ知恵されたのか。

 はっきりしていることは一つ。

 指輪を見てからギルバートの態度が一変したことだ。

《お父様は欲にまみれた身内に殺され、お母様と私は家を追われた》

 不当な扱いを受けても我慢して世間から隠れるように生きてきた。

 もう出自のことなど関わりのない生活を送っていたというのに。

 いつまでこんな思いをしなければいけないのだろう。

 納得できることではない。

 だがどうすれば指輪が戻るのか見当もつかなかった。

 騙された私が悪いのか。

 将来を語り合った男の言葉に嘘は感じられなかったのに。

 口先だけの信頼関係などどこにでもある。

 心を開いたから付け込まれた。

 悔しい。

 泣き寝入りなんて嫌だ。

 取り戻したい。

 後悔と憤りの念がフレイヤの頭の中で渦を巻いていた。

《私を騙して指輪を奪った奴らみんな不幸になればいい》

 ピリピリと肌を刺すような思考がアリアードに“足りない何か”を伝えて来た。

 カッ、と体の奥が熱くなる。

 気付けば、アリアードは店内に足を踏み入れていた。

 ドアに取り付けられたベルがカランと鳴る。

 外からの光が遮られたことでフレイヤは顔を上げた。

 いつのまにかカウンター越しに女性が佇んでいた。

 プラチナブロンドというほどではないが、緩くウェーブのかかった淡い金髪の若い女性だ。

 ゆったりとしたドレープの白いワンピースに若草色のショールを羽織っている。

 若い女性が一人で店を訪れることは珍しいが、身なりから察するに単なる冷やかしではないであろう。

「あ、いらっしゃいませ」

 動揺を押し隠し、歯切れ悪くフレイヤがアリアードに声をかける。

 アリアードは暫く思念すると「あなたが取り戻したい石はこれ?」と、手のひらの上に乗せた青色の石をフレイヤに差し出した。

 突然のことに訝しみながらもフレイヤはアリアードの手のひらへと視線を向ける。

 そこには先ほどから思い浮かべている宝石によく似た色味の石があった。

 だが一目で違うものだと判る。

「失礼ですが、どういったご用件でしょうか」

 警戒心をにじませた声に、アリアードはフレイヤの求めている石が違うものだと判断した。

 もう一度思念すると「じゃあ、これかしら?」と、再び手を差し出す。

 先ほどよりもやや深みを帯びた青い石が乗っていた。

「あの、なんなんですか?」

 アリアードは一歩前へと進み、至近距離からフレイヤの目を覗き込んだ。

 フレイヤの頭の中を青い宝石が次々に過っていく。

 ブルートパーズ、サファイア、アクアマリン、パライバトルマリン、アウイナイト、アメジスト、アパタイト、カイヤナイト、ベニトアイト、アイオライト、タンザナイト、ラピスラズリ、ブルーガーネット…。

 晴れた空の色、深い海の色、夜明けが近い空の色、水の中から見上げた空の色、空に現れる光の帯、氷に反射する光。

 それらを閉じ込めたような石、石、石。

《違う、違う、違う!これじゃない!私が…》

「取り戻したいのは!」

 フレイヤは自分の声にびくりと肩を震わせた。

 何が起こったのかわからず自分の周囲に視線を彷徨わせる。

 青い宝石に囲まれた白昼夢を見た。

 だがその石の中に取り戻したいものは無かった。

 失ったものは二つと無い宝石なのだと実感するとともに虚無感が押し寄せてくる。

 同時にやり場のない怒りがこみ上げてきた。

 自分のものが理不尽に奪われた怒りは憎悪へと変わっていく。

 フレイヤの憎悪が流れ込むほどにアリアードの持つ支配力が安定していくのがわかる。

 アリアードは口元にわずかな笑みを浮かべフレイヤに告げた。

「私が手を貸してあげる」

 その声にフレイヤの意識がはっきりとした。

 目の前に若い女性がいた。

 緩くウェーブのかかった淡い金髪の白いワンピースに若草色のショールを羽織った女性だ。

 見覚えがあった。

 妖艶とも言える微笑みを浮かべた女性に見とれているうちに、その人が昔からの知り合いだったことを“思い出して”いた。

 

 

 ラルンドはアリアードの気配を追って街を歩いていた。

 きらびやかな商店が立ち並ぶ街中でアリアードの気配を辿るのは難しい。

 忙しなく行き交う人々により、微かな気配など喧騒に紛れてしまうからだ。

 歩道の端を人を避けながら歩いていると、不意に青色の思念が流れ込んできた。

 晴れた空の色、深い海の色、夜明けが近い空の色、水の中から見上げた空の色、空に現れる光の帯、氷に反射する光。

 それが何を意味するのかは判断できないものの、アリアードの気配が紛れ込んでいる。

 ラルンドは足を止め、青色の思念が流れてくる方向を探った。

 ドンッ。

 雑踏の中で意識を逸らした為、前から歩いてきた男にぶつかった。

 ぶつかって来た男がチッ、と舌打ちを漏らす。

 それにより追っていた青色の思念の糸がプツリと切れた。

 しかし、ぶつかって来た男の脳裏に一瞬アリアードの面影が浮かんだことにラルンドは気付いた。

 ラルンドとアリアードは背格好が似ている。

 髪も瞳の色も違うが、姉妹だけあり肌の白さやぱっと見の印象が似ているのだ。

 ラルンドを見てアリアードのことが浮かんだのであろう。

《今の人、どこかでアリアードを見たんだわ》

 ぶつかって来た男は先ほど宝石商の店先でアリアードと目があったギルバートだった。

《一体、どこで?》

 ラルンドはそっとギルバートの後をつけ始めた。


「くそっ、何もかもうまくいかねぇ」

 ギルバートはふて腐れながら道を歩いていた。

 通行人を気にすることなく地面に視線を落としながらぶつぶつとつぶやいている。

 向かってくる人はそんなギルバートを避けるように道を開けていた。

 ぶつかろうものなら何かしら言いがかりをつけられそうな雰囲気を纏っている。

 後をつけているラルンドにギルバートの感情が漏れ聞こえて来た。

「指輪一つでぐちぐち言ってんじゃねぇよ」

 指輪を鑑定してもらった結果、クリスフォード伯爵家のものであろうと判断された。

 何年か前から古物商の仲間内で“このような指輪を探している”という依頼書が出回っていたが、鑑定を依頼した指輪と特徴が一致したとのことだった。

 銀色の幅広リングに百合の葉の模様が彫られ、百合の花を模った台座にオーバルブリリアントカットの青い宝石が埋め込まれている。

 家の紋章を模った指輪はパッと見ただけでも高価なものだと分かる。

 まさかフレイヤは伯爵の隠し子か?もしそうなら世間体を気にする貴族を強請る材料になるかも知れない。

 フレイヤには鑑定に時間がかかっていると嘘をつき、取引に有利な条件を探ることにした。

 伯爵家を調べると当主は失踪、家族は行方不明。現在は従兄弟のクリスフォード男爵が仮の当主となっていた。

 仮のという何ともいわくがありそうな情報を元に、さらに調べを進めると、どうやら爵位継承には指輪の提示が必要らしい。

 ギルバートはクリスフォード男爵の足元を見て、指輪を高値で売りつけようと目論んだ。

 指輪を持っていたとはいえ、フレイヤが伯爵家の娘だというのは本当かどうかわからない。

 当主がいない今、突然娘だと名乗り出たところで門前払いが関の山だ。

 古物商に伯爵家の指輪を持っている人を知っていると情報を流してもらい、証拠写真や指輪の特徴を書き付けたものを提示して、ようよう取引にこぎつけた。

 指定された場所は伯爵領の外れにある公園の一角だった。

 後ろ暗いことでもあるのだろう。執事と称するさして特徴のない男が人目を避けるように取引現場に現れた。

 指輪と現金を交換し、このことは一切口外しないように、今後関わりも断つようにと念押しされた。

 願ったりだ。フレイヤにクリスフォード家と関わったことをバラされては困る。

 指輪は思った通り高値で売れた。中古品にもかかわらず、新品同様の値がついたため、ギルバートは以前から欲しかった新型のタブレットを買い、高級ホテルに宿泊し、豪華な食事で成功を喜んだ。

 その翌日、ギルバートの宿泊しているホテルに執事と数人の男が現れた。

 ギルバートには今後関わりを持つなと言っておきながら、どうやら行動を監視されていたようだ。

『本物の指輪を渡せ』

 部屋に押し入って来た執事が開口一番ギルバートに告げた。

 ギルバートには言われた意味がわからなかった。

 指輪の宝石が違うと言うのだ。

 ちゃんと現物を見て納得したはずだと主張したが、執事は本物を渡すと見せかけて偽物とすり替えたに違いないと言い張る。

 口論の末、指輪は返すから代金を返せと言われたが、ギルバートは受け取った金をすでに使い込んでいた。

 一度取引が成立したのだから知ったことではないと突っぱねたが、当然男爵家の手の者が黙っている筈がない。

 しくこく代金の返却を求め、さらには指輪の出所はどこだと脅しをかけて来た。

 ギルバートは追手から逃れるために電車を乗り継ぎ、逃げ回り、散々遠回りしてからフレイヤの元へと戻った。

 当然、指輪の代金をさらに使い込む結果となった。

 クリスフォード家の執事は古物商にも指輪の件を問い合わせたのだろう。鑑定人から指輪がクリスフォード家に売られたと知らされたフレイヤは激怒した。

 ギルバートはフレイヤの機嫌をなだめようとするばかりで、自分がした事の重大さを解ろうとはしなかった。

 結婚資金が必要だった、店を大きくしたかった、二人の将来を思ってした事だと言い訳を並べ、指輪を取り戻すために店を売ってでもお金を作ると言い出したフレイヤを反対に叱りつけるに至って、二人は決裂した。

 身寄りのない年増女は結婚のためならば自分の言うことを聞くと思っていたのに。

 事実、今まではうまくいっていた。結婚してもいいと思えるほどにはフレイヤを気に入っていた。

 せめてもの詫びに残った金は置いて来た。半年は楽して暮らせる程は残っている筈だ。

「悪かったって謝っただろうが」

 ぶつぶつと文句を言い続けるギルバートに向かって走り寄る複数の足音が聞こえた。

 顔を上げたギルバートが前方から迫り来る男たちを見て慌てて身を翻した。見覚えがあった。

 ギルバートのすぐ後ろを歩いていた通行人が突き飛ばされる。

 悲鳴と非難する声にかぶさる「どけ!」と言うギルバートの怒鳴り声が響いた。

 少し離れてギルバートを尾けていたラルンドの元へ、なりふり構わずと言った体でギルバートが向かって来る。

 と、ギルバートの足元のレンガが突然隆起した。

 僅かな隆起にギルバートが足を取られ勢いよく転倒すると、その機を逃さず走り寄って来た男達に拘束された。

 一連の出来事に通行人が何事かと集まって来る。

 ギルバートが喚き散らしているが、拘束しているスーツ姿の男達を止める者はいない。

「危ないところだったわね」

 向かって来るギルバートの勢いに硬直していたラルンドは、己の袖を引く小柄な女性に目を向けた。

 くるくると癖のある銀髪にアクアマリンのような淡いブルーの瞳。

「ファリアス」

 あまり感情を外に出さない彼女は、周りの喧騒など聞こえていないかのように平然としていた。

「どうしてあなたがいるの?」

 今は隠り世の扉が開かれる時期ではない。

「禁忌を犯した者がいるとアイテールが怒っているの」

 アイテールは滅多に人々の前に姿を現さない神々の中でも、特に人との関わりを嫌っている。

 人の目には見えない力を持ち人智を超越したものを作り出す神。

 ラルンドの持つ剣にはめ込まれているアンタレスの血と呼ばれる石もその一つだ。

 どれほどの熱と圧力とどんな物質が織り混ざって出来たのか、ラルンドには解らない。

 それはそうとして「どうやってここへ?」とラルンドは問いを重ねた。

「カオスが特別に扉を開けてくれたのよ」

 禁忌を犯した者とはアリアードのことであろう。それを正すためにファリアスを遣わしたのだろうが、隠り世の扉の番人であるスカエルスに話を通さず、カオスに話を持っていくあたり本当に人嫌いなのだと実感する。

 そうこうしているうちに逃げそびれたギルバートは追手の男達に連行されて行った。

「ファリアス、さっきの人はどこかでアリアードと会っているの。記憶を覗けばそれが何処だか分かるかもしれないから、私はあの人を追ってみるわ」

 アリアードのように気配を消しているわけではないので、追うのは容易い。

「あなたはどうする?」

「んー、ここへ飛ばされたのはラルンドと一緒に居るようにと言うことだと思うから、ついて行くわ」

 小柄なファリアスはアイテールの加護があるとはいえ、か弱く見える。

「乱暴な人達みたいだったけれど、大丈夫?」ラルンドはファリアスが怖がっていないか心配になる。

「心配しないで。ラルンド一人くらいは守れるから」

 そう言ってファリアスは微笑んだ。


 

 伯爵家の広間へと繋がる廊下には先祖の肖像画が飾られている。

 先祖といっても伯爵に爵位が上がった曽祖父からのものだ。

 曽祖父の指にも祖父の指にも伯父の指にも嵌っている指輪。

 経年劣化のせいか指輪の石の青色は肖像画ごとに微妙に違って見える。

 だがどの肖像画の宝石も存在を主張するように輝いていた。

 伯爵家の紋章を模った伯爵当主の証。

 何年も探し続けていた指輪の消息がつかめたのは二週間前のことだった。


 従兄弟のクリスフォード伯爵が失踪してから今年で15年。

 失踪後10年待ってから裁判所に死亡認定を申請した。審議に5年を要したのは夫人と娘の行方が分からないからだ。

 夫人が息子を身ごもっていた場合、継承権が移る可能性があることから慎重にならざるを得なかったと言える。

 そろそろ申請が通りそうだとクリスフォード男爵の元に弁護士から連絡が来たのはひと月前のことだった。

 伝えられた内容は、従兄弟が死亡したことで受け取ることになる遺産とは別に、爵位を継ぐためには後継者の証である指輪の提示が必要だと言うものだった。

 伯爵家の初代当主が遺言として残したものがそのまま引き継がれているらしい。

 そのため指輪があれば伯爵を名乗れるが、提示できなければ後継者不在とみなされ爵位は返上となる。

 家財や貯金は遺産として受け取れるが、伯爵領は国に返還されることとなるのだ。

 歴代当主の肖像画に描かれている指輪は爵位継承の鍵となることを知る以前から探していた。

 当主不在のため仮の当主として資産管財人を任されて早々探したが、屋敷にも貸金庫にも指輪は無かった。

 クリスフォード伯爵自身は視察先で指輪をしていなかったのだから、残るは夫人が持っているとしか考えられない。

 当の夫人は娘と一緒に屋敷から姿を消して、現在も行方不明だ。

 広大な領地が手に入る筈だったのに、たかが指輪一つのために計画が崩れるなど我慢がならなかった。

 クリスフォード男爵は地方の農村を治めている父に幼い頃から聞かされていた。

『兄さえいなければ伯爵になれるのに』と。

『こんな田舎で細々とした生活などしなくて済むのに』と。

 伯父の子供は女児ばかりだったため、このままなら自分に爵位が回ってくるかも知れないと父は希望を持ち続けた。

 大都市を領地に持つ伯爵ともなれば、愛人でもいいからと子種を欲しがる女も群がってくることだろう。

 嫡子ではなくとも血のつながりさえあれば家は継げる。庶子を正妻の子として届け出れば良いのだ。世継ぎのために愛人を持つことは貴族の中では暗黙の了解だった。

 だが、伯爵は愛人を持つことはなかった。

 そのことが長年にわたり父の未練を引きずることになる。

 しかし、壮年に差し掛かった頃、伯父の家に息子が生まれた。

 早々に息子に爵位を譲り、伯父は後見人となった。

 高年齢出産で体調を崩した伯爵夫人と寄り添いながら伯父は隠遁生活を送り、息子が十歳の頃に二人は亡くなったと聞いている。

 今度は甥さえいなければと嘆く日々を送ることになった父は、結局、望んでいた爵位を手にすることなく従兄弟が成人した年にこの世を去った。

 そうこうしているうちに従兄弟は二十歳そこそこで結婚した。

 歳の離れた姉達にせっつかれたことも一因だろうが、すぐさま娘も生まれた。

 ぐずぐずしてはいられない。

 男児が生まれたらますます爵位が遠ざかる。今ならば継承権一位なのだ。

 従兄弟はいくつかの事業を手掛けているため視察に出向くことが多い。

 取引先の名を騙り呼び出すことなど容易いことだった。

 視察先での不慮の事故、病死、毒殺、いくらでも処分する方法はあった。

 父は妬みはしても行動に移すだけの気概は持ち合わせていない人だった。

 手を貸してくれたのは母だ。

 後に知ったのだが、先代の伯爵が娶った令嬢は父の思い人だったらしい。

 お互いの家と交流があり、同い年だった父と男爵令嬢は仲が良かった。

 幼い頃から付き合いがあればそのまま婚約、結婚という流れは珍しくない。

 父は勝手に男爵令嬢と結婚するものと思っていたのだろう。

 しかし17歳になった令嬢のデビュタントの際に、父ではなく3歳年上の伯父がエスコート役をつとめたことがきっかけで、二人の仲が急速に近付いたのだという。

 もちろん、両家に否はない。すぐさま二人の婚約が決まり、羨ましがる同年代の娘たちの間で馴れ初めの噂が広まった。

 男爵令嬢が伯爵家の後継に見初められたのだ。娘達は政略ではない恋愛結婚話に花を咲かせた。

 そのことも父が伯父を妬む要因の一つであることに母は気付いていたのだ。

 態度にこそ出さなかったが、自分の夫が思いを寄せていた女の息子に良い印象があるわけがない。

 あんな女の息子に良い思いなどさせたくない。自分の子供の方が優遇されるべきだと勝手な持論を展開する。

 母は息子のアリバイ工作に進んで手を貸してくれた。

 兄さえいなければ伯爵になれるのにと嘆いていた父の気持ちはよくわかる。

 爵位の差は大きい。

 クリスフォードの名前に寄ってくる女達はクリスフォード伯爵との繋がりが欲しいのだ。

 伯爵ではそうそう手が届かないが男爵ならば手軽とでも思っているのか、親しくなる女達は従兄弟の伯爵を紹介してくれとねだってきた。

 一回りも年下の従兄弟に近付くための踏み台にされているのかと思うと、従兄弟の存在を消したくなった。

 家柄を気にする爵位持ちは、地方の農村を治めている男爵など見向きもしない。むしろ自分の娘に手を出すなと牽制して来た。

 ならば何としても伯爵位を手に入れてやろう。

 そう誓ってから15年。

 指輪さえ手にすればそれが叶う時が来た。


 

 久しぶりに店を訪れてくれた“友人のアリアード”にフレイヤは悩みを打ち明けていた。

 自分の出自にまつわる指輪がどれほど大切なものか、どうすれば取り戻せるのか。

 それに加え、これまでの理不尽な仕打ちに対して許せない気持ちを延々と語った。

 ギルバートの裏切り、クリスフォード男爵の父にしたであろう残虐な行為。

 フレイヤの憎しみが増すようにアリアードは仕向けていた。

 憎悪が強くなればなるほどアリアードが思い出せずにいた“足りない何か”が明瞭になっていく。

「クリスフォード男爵が社交界にいられなくなるくらいの醜聞を広めてやればいいわ」

「どうやって?」

「正当な後継者の証である本物の指輪を持っていると言えばいいのよ」

「でも、本物はクリスフォード家の人が持っているのに、そんな話を信じるかしら」

「簡単よ」そう言うとアリアードはフレイヤの記憶をトレースした。

 幅広のリングに百合の葉の模様が彫られ、百合の花を模った台座にオーバルブリリアントカットの青い石が埋め込まれている指輪が手の中にあった。

 リングについていた細かな傷も年月を経た汚れも、記憶と寸部の狂い無いものが存在していた。

「これがクリスフォード伯爵家のものだとこの界隈のお店に言いふらせば、真偽を確かめにクリスフォード家の人が来るでしょう」

 指輪は確かに本物のように見えた。

「そうなればギルバートもただでは済まないはず」

 アリアードは簡単そうに言うが、出自を隠している身でノコノコ出向いていく訳にもいかない。

 実家に頼ることをしなかった母親の態度から、見つかれば自分達も殺されるのではないかと思っていたふしがある。

 指輪は取り戻したいが命をかけるのは本意ではない。

「手を貸してあげると言ったでしょう。私がフレイヤのふりをしてあげるわ」

 アリアードは至近距離からフレイヤの目を覗き込み微笑んだ後、指輪を持って大通りに店を構えている宝石店へと出向いて行った。

 ドアが閉じられた拍子にカランとベルが鳴る。

 店に残されたフレイヤは不思議な感覚に囚われていた。

 先程まで会話をしていた女性が誰だったのか思い出せない。

 あれほどの憎悪をつのらせていたのが嘘のように、今は喪失感が心を占めている。

 まるで憎しみの感情を抜き取られたかのようだった。

 ガラン、ガラン。

 店のドアが乱暴に開けられ、ベルが大きな音を立てた。

 入り口に濃い色のスーツを着た男が三人立っていた。

「フレイヤというのはお前か?」

 髪を短く刈り上げた大柄な男の声が響いた。

 威圧的な物言いにびくりと肩が震える。

 男は店内を見回しフレイヤ以外の人影がないことを見てとると、カウンターの中まで入って来た。

「何ですかいきなり、警察に通報しますよ!」

 男はフレイヤの言葉に怯むことなく内ポケットから取り出したハンカチをフレイヤの顔に押し当てた。

 さしたる抵抗もできぬままフレイヤは気を失った。


 フレイヤが目を覚ました時、最初に目に映ったのは夕焼けだった。

 どうやらソファーで眠っていたらしい。

《ここは何処?》

 半身を起こすとこめかみに鈍痛が走り、思わず目をつぶり頭を押さえた。

 記憶を辿るが今いる場所に覚えがない。

 うめき声が聞こえた気がして辺りを見回すと、縛られた状態で床に転がされているギルバートが目に入った。

 ギルバートは暴行を受けたようだった。破れたシャツの隙間から赤黒い痣が見て取れる。

《私に嘘をついたバチが当たったんだわ》

 途端、店で男に薬を嗅がされたことを思い出した。

 フレイヤの脳裏に嫌な想像が浮かぶ。

《私も同じ目にあわされる?》

 フレイヤはそっと窓へと近寄り外の様子を確かめた。

 芝が植えられている庭に人影はない。どうやらここは2階のようだ。

 音を立てないように窓を開け身を乗り出すが、飛び降りるには勇気がいる高さだった。

 だがフレイヤの判断は早かった。ここに居たら殺されるかも知れないのだ。多少怪我をしたとしても逃げたほうがいい。

 窓の桟に足を掛け、態勢を入れ替えて室内の方を向くとギルバートが目に入った。

 指輪のことがなければ将来を共にしようと約束した人だ。このまま置き去りにしていいのだろうか。どうにかして助ける術はないのだろうか。

 前触れもなくキッ、と小さな音を立てて部屋の扉が開いた。

 ロマンスグレーの髪をきっちり固めた壮年の男とフレイヤの視線が交わった。

 ギルバートのことなど気にしている場合ではなかった。

「女が逃げる!外へ回れ!」

 慌てて飛び降りようとしたフレイヤの腕を部屋へと走り込んで来た男が捕えた。

「放して!」

 男の手を振り解こうとした拍子に桟にかかっていた足が外れ、フレイヤは宙吊りになった。

「暴れるな怪我が増えるだけだぞ!」

 中肉中背の体格では、さすがにフレイヤを引っ張り上げるだけの腕力はないのだろう。

 腕を掴んでいる男の持久力が心配になる頃「いいぞ!落としてくれ!」と足元から声が聞こえた。

 見覚えのある短髪の大柄な男が下で手を広げて居た。

 映画のようにはいかない。きっと自分には運がないのだ。

 フレイヤはおとなしく落とされるに任せた。


 連れ戻された部屋には身なりの良い男が一人がけのソファーに座っていた。

「君がハロルドの娘か?」

 フレイヤは返答に迷った。

 きっとこの人がクリスフォード男爵だ。

 ペリドットにグレーを加えたような瞳の色は父と同じだった。

「さて、端的に話そうか」

 フレイヤは男爵の前の三人がけのソファーに座らされた。

「本物の指輪のありかを教えなさい」

「な、にを、言っているのでしょう…」

 指輪はクリスフォード家に売られたのではなかったか?

 思わずギルバートへ視線を向けると、いつから目覚めていたのか、しかめ面で睨み返された。

「私は忙しいのだよ。無駄な会話をする気はない」

「俺は偽物なんか知らない!こいつが持ってたヤツを渡しただけだ!」

 床に転がされたままのギルバートが口を挟んだ。

「黙らせろ」

 男爵の言葉と同時にギルバートの背中を大柄な男が踏みつけた。

 ギルバートの口からくぐもったうめき声が発せられたが、肺を潰されているのかそれ以上の声は出なかった。

「私の知っている指輪と輝きが違うのだけれどね。どういうことかな?」

 男爵の手に青い宝石の指輪が握られていた。

「どう、と言われましても、私が持っていたのはその指輪です」

 フレイヤの言葉に男爵はわざとらしいため息を漏らす。

 店に残して家探しさせていた男から連絡が届いていた。

「店を探したけれど見つからなかったそうだ」

 本物を渡したのだ。店にあるはずがない。

「白状しないのならば、身につけていないか探させてもらうことになるが」

 男爵の言葉にフレイヤは首を横に振る。

「本当に、本当に知りません」

 男爵はフレイヤを一瞥すると「探せ」とだけ残して部屋を出て行った。

 扉が閉まると、先ほど窓から逃げようとしたフレイヤの腕を掴んだ男が口を開いた。

「乱暴なことはしたくない。素直に白状してくれ」

「何を言っているのか分かりません。偽物なんて知りません」

『身につけていないか探させてもらう』『乱暴なことはしたくない』それが何を意味するか悟ったフレイヤは、男から距離を取ろうとしたが体が震えて思うように動けない。

「これも仕事なんでね。悪く思わんでくれ」

 男はソファーにフレイヤを押し倒すと、容赦なく服を脱がし始めた。

 あまりのことにフレイヤの喉が引きつる。

 抵抗するも力の差は歴然としていた。もとより恐怖で体が硬直している。

 出ない声の代わりに涙が溢れた。

 男は淡々と服を脱がし、フレイヤの髪の毛、耳、口の中はもとより、女性の秘部までも確かめた。

 見ず知らずの男の前で全裸にされるだけでも屈辱だというのに、それ以上の辱めを受けるなど許せるものではない。

 強姦されようものなら、男の目玉をくり抜くくらいのことはしてやる。

「本当に嘘は言っていないんだな」

 男の言葉にフレイヤは奥歯を噛み締め涙に濡れた目で男を睨みつけることで答えとした。

「もういい。服を着ろ」と告げて男が部屋を出て行く。

 屈辱に震えながらフレイヤが服を身につけている間にギルバートも縄を解かれた。

 閑散とした室内に、ここが本邸ではなく仮に使用している屋敷なのだろうと今更ながら気付いたが、そのことがかえって誰に訴えたところで事件はもみ消されると推測できた。

 大柄な男に誘導されながら玄関へと歩く。既に男爵ともう一人の男は屋敷を去ったのだろう。

 フレイヤとギルバートは解放されたが、夜に何処とも知れない外をうろつくわけにもいかず途方に暮れていると、ギルバートが凄んだ声を出した。

「俺に渡した指輪は本当に本物だったんだろうな」

 フレイヤはギルバートの問いに答える気力はなかった。

「おい、答えろよ!お前のせいでひどい目にあったんだからな!」

 シャツのいたるところが綻び、ボタンも取れている。

 ひどい目にあったのはこっちだと言い返したいが、もう何もかもが嫌になっていた。

 こんな奴なんか放って逃げればよかった。

 数々の屈辱が思い返される。

 仮にも血の繋がった者に対する仕打ちだろうか。殺されなかっただけありがたく思えとでも言うつもりか?

「おい!」

 フレイヤの態度に業を煮やしたのか、ギルバートが胸ぐらを摑み締め上げた。

「やっと出て来ましたね」

 不意に女性の声が聞こえた。

 何事かとギルバートが辺りを窺うと、二人の女性が近づいて来た。

「あなたにお聞きしたいことがあるのですが」

 そう言ってギルバートに話しかけた女性を見てフレイヤは既視感を覚えた。

《どこかで会ったことがあるような…》

 フレイヤの脳裏に若い女性の像が浮かぶ。

 ギルバートに話しかけていた女性がフレイヤの顔をまじまじと見詰めた。

 フレイヤを締め上げているギルバートの腕を外し「アリアードを知っているのですか?」と問いかけてくる。

 瞬き一つの間にフレイヤの記憶の片隅に追いやられていた事柄が次々と思い起こされる。

 突然店に来た色白の女性。

 次々に見せられた青い宝石の幻影。

 憎しみを口にするたび微笑んだ女性の口元。

 大切な指輪とそっくりな指輪。

『私がフレイヤのふりをしてあげるわ』

 思い出した女性が何者であったのかは分からない。

「なんだお前ら」

 突然現れて意味不明な態度をとる女性にギルバートががなりたてた。

「ああ、すみません。こちらの女性にお話を聞かせていただきたいのですが」

「はあぁ?何言ってんだ?」

 話しかけて来た人物がスラリとした大人しそうな女性と幼い顔立ちの小柄な女性であったことが、ギルバートの語気に勢いを与えていた。

「失礼、私はラルンドと申します。この方とお話をしたいのですが」

 ギルバートはフレイヤとの話を邪魔された苛立ちをラルンドに向けた。

「あ?お前らに話すことなんかねぇよ」

 ギルバートがラルンドを殴り飛ばそうと腕を振り上げた瞬間、それまで黙って見守っていたファリアスが動いた。

「私達もあなたにお話はありません」そう言ってギルバートの腕を指先で弾いた。

 ゴキッ。

 軽く弾かれただけに見えたが、ギルバートの腕はあらぬ方向に曲がっていた。

「静かにお話がしたいので離れてください」

 信じられないものを見るようにギルバートがファリアスと己の腕を何度も見遣る。

 漸く感覚が追いついたのか、ギルバートが腕を抑えて叫び声をあげた。

「静かに話したいのに」

 ファリアスが呟くとギルバートの足元が不自然に波打った。よろけたギルバートを押し遣るように遠ざけて行く。

 呆然と立ち竦むフレイヤに「お話を伺っても?」とラルンドが声をかけた。


 外では落ち着かないだろうからフレイヤの店で話を聞かせて欲しいとの申し出に頷いた結果、フレイヤは本日何度目になるかわからない不思議な感覚を味わうことになった。

 ほんの少し目をつぶっていただけなのに、いつの間にか自分の店の中にいた。

 知らない間に知らない場所に運ばれていたり、二階の窓から落ちたりしたのだ。感覚がおかしくなっているのだろうと自分に言い聞かせる。

 きっとまた薬か何かで眠らされて…と思いながら見回した店の中は荒らされていた。

 カウンターに飾ってあった花瓶が倒れ、床にシミを作っていた。

 金庫が開けられ、書類が散乱している。

 梱包材やケース、文具や顧客リストが乱雑に散らばっていた。

 慌てて居住スペースの二階へ向かう。

 寝室もダイニングキッチンも一階よりも悲惨だった。

 机とタンスの引き出しが全て開けられている。

 クッションと枕が切り裂かれ、平たく形を変えていた。

 裁縫箱、化粧箱、小物入れも探られた形跡が残っていた。

 さすがに中身をぶちまけるようなことはされていなかったが、食器棚や冷蔵庫も開いていた。

 ポットや鍋や炊飯器といった調理器具、調味料など蓋のあるものは全て開けられていた。

『店を探したけれど見つからなかったそうだ』と男爵が言っていた。

 本物の指輪があると思って家探ししたのだろう。無駄なことを…。

 指輪をシュガーポットの中に隠す訳が無いだろうと、見当違いな家探しの仕方に呆れる。

 本物はもうここにはないのに。

「お話を伺っても良いかしら」

 階下からラルンドの声が届いた。

 ざっと見た限り盗まれたものは無さそうだった。

 フレイヤは一階の店舗へと移動し、とりあえず散らかったものを端によせ座れるスペースを確保した。

 ラルンドが深夜営業している店舗で仕入れてきたのだろう飲料と食料をテーブルに並べる。

「好みが分からなかったもので」と、数種類の軽食、スナック、デザート、飲料が次々に袋から出された。

 こんな中、平然と話をしようとする神経を疑ったが、この二人は自分に危害を加えることはないだろう。少なくとも空腹のフレイヤを気遣ってくれているのだから。

 フレイヤがサンドイッチを食べ終えるのを見計らってラルンドが口を開いた。

「私は妹の行方を捜しているのですが、あなたは私と面差しの似た人に会っていますよね?いつ、どこで出会ったのか教えていただけませんか?」

 ラルンドの言葉にフレイヤは思い出せるだけアリアードのことを語った。

 今日のお昼前に店に来たこと、初対面なのに悩みを打ち明けたらば親身になってくれたこと、指輪が現れる不思議な手品を見せてくれたこと。

 指輪の件に関してはファリアスが執拗に質問を浴びせたが、フレイヤにとってはどんなトリックが使われたのか理解できるものではなかった。忽然と手のひらの上に指輪が現れたとしか言いようがない。

 ラルンドは質問を続けるファリアスの横顔を見つめた。

 ファリアスはアイテールを心酔している。

 アリアードに“美”=“物質を支配する力”を奪われたことは、ファリアスにとってアイテールを汚されたようなものだ。

 あまり感情を表さないファリアスが、力を取り戻すためにアリアードに復讐すると一番最初に声を上げたのだ。『禁忌を犯した者がいるとアイテールが怒っているの』と言っていたことを鑑みて、アリアードを許すことはないであろう。

 ファリアスは力を奪われた時につけられた傷を隠すために、左手の甲に銀色の薄手の布をつけている。

 布は中指にはめられたリングから三角形に広がり手首のバングルで止められていた。

 そっと手の甲を撫でる表情からは何も読み取れない。

 アリアードが未だにこの界隈にいること、フレイヤと名乗っているかも知れないこと、男爵がフレイヤの指輪を欲していること。それだけ分かっただけでも朗報だった。

 男爵を見張っていればアリアードに繋がるかも知れない。

 ラルンドはフレイヤに礼を言いがてら、クリスフォード男爵が近々伯爵邸で親族と弁護士立会いのもと爵位継承の儀を開く予定だと伝えた。

 今更どうしろと言うのだとフレイヤは苦笑した。殺されなかったと言うことは自分は男爵にとって脅威でも何でもないと言うことだ。

 店を出る間際になってファリアスがフレイヤに「あなたに伝えておくべきことがあるわ」と告げた。

 

『同じものを取り戻すことは出来ない。だが、かつてそれであったものならば見つけ出せる』

 銀髪の小柄な女性に告げられた言葉に従って、フレイヤは翌日怪しい店を訪れた。

 正規のルートでは取引を行っていない盗難品を別のアクセサリーへと加工する店だ。

 愛想のない店主に石を売って欲しいと告げると、あからさまに警戒された。

 看板も何も出していない。何を作っているのか分からない店の入り口で石を売って欲しいと言われたのだ。

 フレイヤは店が買い取った値段よりも高く買うと食い下がり、加工される前に取り戻したいのだと言い募った。

 フレイヤの言葉に盗品が持ち込まれた経緯を掴まれていると判断した店主は渋々承諾した。

 つい昨夜持ち込まれたものをいくら位で買ったかまで言われては、しらを切れるものではない。

 2カラットの傷物のブルーサファイアのルースなど加工した分だけ値が下がる。店としては売れれば良いのだ。

 形を変えて研磨し直すため、石は加工を待つ箱の中に雑に放り込まれていた。

 台座から抜き取られた際についたと思われる傷と雑に扱われたことによる微かな傷があった。

 例え傷がついてしまっていても、フレイヤにとってはこの石こそが本物だった。

 皮肉にもフレイヤはギルバートが置いていったお金で石を買い戻した。

 巡り巡って取り戻した石を真実自分のものとするためには、フレイヤにはやるべきことがもう一つあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ