05一人きりの神話/ラルンド_03
ラルンドは高層ビルの屋上から、遠くに霞む町並みを眺めていた。
《地下に棲むドワーフが創ったと言う、どんなものでも切れる剣。この剣を持ってすれば、私とエロースとの絆をも断ち切れましょうか》誰にともなく問う。
剣を取り出して何するでもなく、弄んでいる。
今までは気配を消しアリアードの行方を追っていたが、今は己の存在を隠すことなく、屋上に置かれている資材に凭れ掛かっている。
ここ何日かのラルンドは努めて明るく振舞うかと思えば、今のように放心している時もある。精神のバランスが崩れているのだ。
《危ういな。一度話をすべきだろうな》
エロースは先日とは違う人の姿を借りてラルンドの様子を伺っていた。
先日、何も言わずに去ったことが気まずく、声をかけるタイミングを掴めずにいた。
成長を見守って来た愛し子に、あらぬ感情を抱いてしまったことに戸惑っているのも事実だ。
そのため、二人ともアリアードのことは念頭に置いていなかった。
陽が陰ったわけでも無いのに寒さを感じた。
不穏な気配に気付いたのはエロースの方が速かった。
辺りを見回すがそれらしき影は見当たらない。
放心していたラルンドはその気配に気付くのが遅れた。
ばしゅ!
熱を伴った空気の塊がラルンドへと叩き付けられた。
手にしていた剣が弾かれ、光を反射しながら転がる。
同時に資材の置かれていた場所のコンクリートに亀裂が走る。
ラルンドは身を反転し、亀裂を避けると剣へと手を伸ばした。
ばしゅ! ばしゅ! 幾筋もの亀裂がラルンドの周りに出来上がって行く。
「姉さま、決着をつけましょう」
屋上の隅から声が届いた。
アリアードの姿を見とめたラルンドは、額に意識を集中すると、本来の姿に戻った。
瞬き一つ程の間に、ラルンドの周りを霧が取り囲み、消えて行った。
左手に剣が握られている。
「カオスの力は使わないとエロースに誓ったのではなかったの?」
「知らぬ」アリアードは言って退けた。
「決着と言うからには、それなりの覚悟が有るのでしょうね」
《まだ早い。時期を誤るな、ラルンド》
エロースの言葉が聞こえたのか、ラルンドは虚空へと視線を向けた。
と、同時に体が宙に浮く。
ラルンドの足元の空間が捩曲げられていた。
「だめじゃないか、気を抜いちゃあ」
その声に、自分を背後から抱えているのが誰であるのか知った。
「エウロス」
エウロスはラルンドを庇うようにしながら、屋上に舞い降りた。
「なんだお前は」
「僕はラルンドの味方だ。この娘を傷つけようというなら、君は僕の敵という事になるが、あっているかい?」
あっけらかんとエウロスが言う。
「邪魔をするな!」
アリアードはエウロスに向けて亀裂によって生じた瓦礫を飛ばした。
ばさっ。
だが、重量のある瓦礫も、エウロスの羽の一振りで勢いを無くし、ドカドカとその場に落ちてしまう。
「何故だ!何故ラルンドを庇う!」
以前にも同じ事をアリアードは言った。
「簡単さ。僕はラルンドのことが好きなんだ。好きな娘を守るのは当然だろう?」
エウロスの言葉は、わざとアリアードを挑発しているように聞こえた。
アリアードの中で何かが弾けた。
《では、私は誰からも好かれていないというのか。誰もが皆私よりラルンドを選ぶというのか》
ぶわっ、とアリアードを取り囲んでいる空気が膨れ上がる。
「解るかい?ラルンド」
同時にエウロスが言う。
「ええ、この空気の流れが、アリアードの炎なのね」
『感情を抑圧させられて育った妹が、もっともっと君に嫉妬するように、思いっきり感情をぶつけていいんだ。…それが、炎を見つけ出す鍵となる』
エウロスがラルンドに告げた事を、エウロス自身が実践していた。
「そうだ。これに打ち勝つには、これ以上の炎が必要なのさ」
口調こそ明るかったが、エウロスは笑っていなかった。
ラルンドにも、アリアードの力の大きさが読み取れる。
《邪魔な姉さま。エロースの力も、民の尊敬も、愛し子達の信頼も、全て一身に集めているお前には私の心が解るまい!どれ程姉という存在を疎ましく思っているか!》
エウロスの体が宙を舞った。アリアードが投げつけた空間の力を利用して、僅かに流れる逆風に乗りアリアードの腕を取りに行ったのだ。
「甘いわ!」
エウロスの触れたアリアードの腕が、蔓のように伸び、反対にエウロスの腕を絡め取った。
《!これは幻覚か?》
「エウロス!」
腕だけに留まらず、触手と化した指がエウロスの首にまで巻き付いて行く。
エウロスにはアリアードが愛し子達の力を奪ったことについて詳しく伝えていない。
まだアリアードには四つの支配力が潜んでいるのだ。そしてその力を以前より確実に使いこなしている。
「邪魔者は去ね!」
発せられた叫び声と共に、エウロスの体が宙に浮く。
捩曲げられた空間の力に因り、瓦礫が凶器となってラルンドを襲う。
受け止めきれず、剣が弾かれ宙に舞った。
アリアードの触手が剣に伸びるのと同時に、瓦礫の上にエウロスが叩きつけられた。
態勢を崩しながらも、触手に向けて力を飛ばす。
ジッ。
太陽の光を写し取ったラルンドの額の石の熱を浴び、エウロスを絡み取っている触手が、ゴムを焼いたような嫌な匂いを発した。
熱に驚いたのか、アリアードの腕が元に戻る。
全身を強打した上、荒い息をしているエウロスは動けずにいた。
「エウロスを傷つけてはいけない!これは私たちがつけるべき決着でしょう!」
その言葉に耳を貸すこともなく、奪われたラルンドの剣がエウロスに向かう。
「だめ!」
《来るな!いいんだラルンド。これは僕が望んだこと。君と血の絆を結ぶ為に》
肺が空気を求めている為、エウロスは声を出すことが出来ずにいた。
ラルンドはエウロスの上に被さるように、己の身を投げ出した。
キン、という澄んだ高い音が響く。
何者かに因って弾かれた剣が、大きく弧を描いて瓦礫に突き刺さった。
「いい所へ出てきてくれたよ、エロース。僕とラルンドの血の絆の邪魔をするのは、やっぱりあなただったね」
呼吸を整えたエウロスが告げる。アリアードに締め上げられた首筋に、青黒い痣が浮び上がっていた。
きつく瞳を閉じてエウロスにしがみついていたラルンドは、半身を起こしたエウロスにつられて顔を上げた。
逆光の位置にいる男のシルエットが目に入る。
「三対一だ、君に勝ち目は無い」
「エロース?」ラルンドが声を掛ける。
男はゆっくりと、アリアードに向かって歩を進めた。
「言った筈だ。君がカオスの力を無闇に使うのなら、これ以上守ってあげられないと」
「約束を違えた訳ではない」
アリアードの声が震えていた。
「解っている。君は力を使わないと私と約束したわけではない。私が一方的に頼んだに過ぎぬ」
アリアードを覆っていた、重たい空気が揺らぎ始めた。
男の一歩毎に、目に見えない熱の力により蒸発していくかのように、確実に薄れて行く。
「残念だよ。アリアード」
ぱん。
その言葉と共に、アリアードの周りに残っていた、重たい空気が全て弾けた。
糸の切れたマリオネットのように、アリアードが重力に任せて崩れ落ちる。
「アリアード!」
ラルンドがアリアードの元へと駆け寄ると、先日と姿形の違う青年が、アリアードを支えていた。
「エロース?」疑問が口をつく。
青年は無言で頷いた。
「アリアードは…」
ラルンドは屈み込んで、アリアードの顔を両手で覆い顔色を確かめた。
エロースはジャケットを脱ぐと、瓦礫を避けて敷き、そこへアリアードを横たえながら告げた。
「カオスの力を甘んじた結果、体はおろか、精神にも害が加わったかも知れぬ。最早、カオスの力は使えまい」
アリアードはスカエルスより奪った“美”=“空間を支配する力”を使っていたのだ。
エロースの言うカオスの力とは、そのことを指している。
ラルンドの体を電撃にも似たショックが流れた。
隠り世の扉を抜けるには国の運行を守るとされる、剣の力が必要である。
そうでなければ道に迷う。
アリアードは未だ、受け継ぐべき“美”=“希望”の剣を授かっていない。
「では、隠り世へ、帰れなくなってしまったのですか?」
「自力ではな。どうする?強引に国へ連れ帰るか?」
ラルンドの心は揺れた。
民は“希望”を受け継ぐべき者を求めている。そして、それを受け継げる者は、今現在、アリアード唯一人であるのだ。
だが、継ぐことを拒んでいる者が“希望”を継いで、果たしてそれが正しいと言えるのだろうか。
答えは否、である。
もう一つの選択肢である、同じ女王の血を引くラルンド自身がエロースに剣を返し、“希望”を受け継ぐことも考えられた。
だが、それではアリアードに託された“使命”は、果たされずに終わることになる。
「国へ帰るか否か決めるのはアリアード本人です。説得することは出来ても、強引に連れ帰る権利を私は持ちません」
希望の光は日毎に弱まっている。
《エロース、私は、この先どうすればいいのですか?》
ラルンドはその言葉を飲み込んだ。
解っているではないか。何の為に今、自分が此処に居ると言うのだ。
アリアードが奪った愛し子達の“美”を取り戻し、連れ帰る為ではないか。
だがそう思う一方で、エロースに確実な答えを示して貰いたいと思っている自分がいる。
ラルンドは答えを出すことを引き伸ばすかのように、アリアードの頬を撫で続けた。
「また、つまらない事で悩んで居るんじゃないだろうね」
ふっ、と体が後方へ引っ張られた。
同時に肩ごしにエウロスの息がかかる。頬に軽く触れる唇の感触が伝わった。
スッ、とエロースが立ち上がった。
「我が愛し子に、力を貸してくれて有難う。エウロス」
そう言って、握手を求めるように手を差し出した。
それを受けてエウロスも立ち上がる。
「礼には及ばないよ。僕は自分の意思で動いたまで」
そう言ったエウロスの周りを、以前、ラルンドの剣を持った時と同じ、不思議なオーラが取り巻いた。
エロースの差し出した手に応える為、エウロスの手が伸びる。
「エウロス!」
不安に駆られたラルンドがエウロスの名を呼ぶ。
エロースの目の端に、エウロスを見詰めるラルンドの姿が写った。
《私以外の者を、そんなにも直向きな目で見詰めるな!》
ヒュン。エロースにもオーラが取り巻くのを見た。
《エロース?》ラルンドが言葉を呑み込む。
二人は平然と握手した。
お互いの瞳を見つめながら…。
手を解いたエウロスは、己の右手に視線を移して言った。
氷を握った時のような、冷たさとも、痛みとも取れる感触が残っている。
「嬉しいよ。エロース。君にもこんな感情があったんだね」
そう言って、掌を握り締める。
「でも、覚えておいて欲しいな。僕は君が嫌いだよ」
《何故?エウロスは以前、エロースのことが好きだと言ったのに》
「覚えておこう」
エロースの手にも、擦りむけた時のような、ジンジンと痺れる感触が残っていた。
視界からエロースを追い出し、「ラルンド、君の探している炎が何か、僕が教えてあげるよ」エウロスが笑いかけた。
ラルンドの瞳が輝く。
《炎、そうよ。まだ、希望が断ち切られた訳ではないわ》
「それには及ばぬ」
エロースが静かに、だが、力を込めて言った。
瞬時にラルンドの瞳が曇る。
その言葉の強さで、エウロスはエロースの意思が読み取れた。
「もし、君に僕のことを思いやる優しさがあるのなら、僕の力の届かない場所に連れて行ってくれよ」
「約束しよう」
エウロスは一瞬躊躇ったが、「僕は自由の風だ。心に制約はしない」そう言って、二人の会話に疑問符を浮かべているラルンドに笑いかけた。
つられてラルンドも微笑みを浮かべる。
ふっ、と体が宙に浮いた。
軽くステップを踏んだエウロスが、そのままの勢いでラルンドを抱き竦めると、空へと飛び立ったのだ。
「エウロス?」
そう言ったラルンドの周りを、白い羽が取り囲む。まるで、エロースの瞳の中からラルンドの姿を消し去ろうとするかのように。
「僕がエウロスではなく、ハルピュアイだったなら、こんな思いはしなくて済むんだろうな」
「エウロス?」
不安気な声でラルンドが重ねて名を呼ぶ。
「御免よ。びっくりしたかい?」
クスッ、と小さく笑う。
「出会った時からずっと、エウロスは唐突なことばかりしているわ」
「そうだね、でも、多分これが最後さ」そう声を出した口が、ラルンドの口を塞いだ。
ズキン。
ラルンドに痛みが伝わった。
《これは、エウロスの痛み?それとも、私自身の?》
ゆっくりと体に重力が伝わってきた。
空気の抵抗…。地に向かって降りている。
「ちぇっ。嫌んなるな」
エウロスはラルンドの骨が軋む程、力を込めて抱き締めた。
でもそれはほんの数瞬のことで、「僕がラルンドをエロースの元に返すって、頭っから信じてんだもんな」そう言って、エウロスは抱き締めていた力を緩めた。
「えっ?」ラルンドが疑問の声を発した。
ラルンドを覆っていたエウロスの羽が退けられ、瓦礫の上でアリアードを介抱する傍ら、空を見上げているエロースの姿が写った。
「君達、二人共だよ。だから僕はハルピュイアイにはなれないんだ」
ラルンドの足が、瓦礫の山を踏んだのを確認すると、そのまま空へ舞い上がった。
『また、会おう。約束してくれ』そう言って去って行く彼を予想していたラルンドは、何も言わずに飛び立ったエウロスを見上げた。
「エウロス!いつか、また」
遥か上空に飛び立ったエウロスに、果たして、ラルンドの声は届いたのか。
風は何も告げてはくれなかった。
アリアードの介抱と言っても、外傷は何も無い。精神的な痛みを和らげる為に、身体から緊張を解いているに過ぎない。
《アリアードは、己の内に、一体どれ程の苦しみを抱え込んで居るのだろう》
介抱をエロースに任せながら、ラルンドは妹の身を案じた。
《滅多に笑うことも無い子だった。最後にアリアードの無邪気な笑い声を聞いたのは、一体いつだったかしら》
「ラルンド」
アリアードを眠りに就かせているエロースが、背を向けたまま声をかけた。
「はい」
「少し、散歩につき合ってくれないか」
ラルンドは傍らに眠っているアリアードを見遣った。
「ですが、アリアードは…」
「心配いらぬ。目覚めはすぐそこまで来ている。我々はこの場に居ない方が良いだろう」
そう言って立ち上がると、瓦礫に突き刺さったままの剣に掌を向けた。瞬時に右手に剣が握られる。
エロースは何時になく真剣な目をしていた。
剣を握っている腕の周りに、青白い光が集まり、アンタレスの血が反射する。
ピシッ。
薄いガラスに亀裂の入る音がしたかと思うと、辺りが閃光に包まれた。
突然の光がラルンドの目を眩ませる。
眩しさに両腕で目の前の空間を庇ったラルンドは、同時に何処かに引き込まれる感覚を味わっていた。
目がくらむ光が落ち着いたためラルンドは腕を解いた。
先程まで流れていた街の騒音が途絶えている。
静寂が立ち篭めた空間にゆっくりと顔を巡らす。
「ここは…?」
クリスタルの輝きが辺りを取り囲んでいた。
「私が剣を封印した場所。…地の底だ」
黄金色の髪の輪郭を輝かせた青年が、逆光の中、右手に見覚えのある剣を携えていた。
青年はクリスタルを背に、全身に光を纏っているかのようだった。
改めて、目を凝らして見る。
「そして、我々は、この中にいる」
青年の差し出した剣の柄に、アンタレスの血と呼ばれる石がはめ込まれていた。
その石を目にした途端、辺りが赤く染まる。
赤みを帯びた透明の壁が、不意にラルンドを取り囲んでいた。
氷の内側に居るような、不思議な空間だ。
「ここならば、風の力は及ばぬ」
声の主を振り返ったラルンドは、その場に、幼き頃出会ったエロースの姿を見た。
長い間探し続けていたものに、ようやく巡り会えたような、感動にも近い衝撃が疾る。
《エロース!》
黄金色の髪、慈愛に満ちた瞳、細い線にも拘わらず弱さを感じさせることのない肢体。
鼓動が何倍もの速さで、ラルンドの身体の中を駆け巡った。
幼き頃に抱いた、ほのかな想いも一緒に。
赤味を帯びた透明な壁の向こうに、クリスタルの柱が乱立している。
幻想的な背景に浮び上がるエロースは、まさしく、愛情を司る者と呼ぶに相応しかった。
「ラルンド、炎は手に入れたか?」
以前と同じようにエロースは聞いた。
「いいえ…」
以前と同じ言葉を繋ぐ。胸の中に沸き上がった思いを悟られまいと、エロースの視線を避けるように、下を向きながら。
「ですが、おぼろ気に、炎を見ることは出来ました」
エロースの脳裏に、ラルンドを抱き締めたエウロスの姿が過る。
《エウロスに教えられたのか》
エロースの手を握った時の、エウロスの挑戦的な瞳が浮かんだ。
チリチリと胸の奥で嫉妬の炎がくすぶる。
《ラルンド自身が答えを見つけ出すのを見守るつもりでいた。だが、これ以上心を欺くことなど…》
「ラルンド」
名を呼ぶ声に、力が篭っていた。
《他の者にラルンドの炎は渡さぬ!》
下を向いたままのラルンドの手を取り、エロースは自分の胸へと引き寄せた。
その力に、思わずラルンドは顔を上げる。
エロースがラルンドの視線を捕らえた。
慌てて逸らそうとしたラルンドの頭をもう一方の手が抑える。
カッ、と、頭に血がのぼった。見る間に火照って行くのが、自分でも解る。
エロース。
喉の奥に声を忘れてきてしまったのか、唇だけが彼の名を呼んだ。
「炎が何であるか教えよう」
その行為に、ラルンドは初めてエロースの中に異性を感じた。そしてそれは、未知のものに対する恐怖となって、ラルンドの心に膨れ上がった。
瞳を逸らそうにも、エロースの瞳の力が、拒むことを許さないでいる。
「炎とは力。何ものにも変え難い想い」
ラルンドの瞳はエロースの言葉に戸惑いの色を見せた。
「現実から目を外らすな。おまえは私の想いを感じている筈だ」
ドン。
エロースの感情が巨大な熱の塊となって、ラルンドの中へと流れ込んで来た。
実際に熱風に煽られている錯覚に陥る。
目に見えない意思の力が、ラルンドの中に眠るエロースに対する想いを目覚めさせようとしていた。
「愛は与えるためだけに存在しているのではない」
我慢出来ずに、ラルンドは瞳を閉じた。自分の心が揺れている。それを抑え込むように。
熱風がピタリと止んだ。
しかし、ジンジンと心の奥底が熱の余韻を残している。
「不安、疑念、不信、嫉妬。全てのものを焼き尽くす力を生み出す」
ラルンドはただじっと、エロースの言葉に耳を傾けていた。
《アリアードとエロースに対しての嫉妬、エウロスとの仲を誤解されたのではないかという不安。その痛みを焼き尽くす力?》
「想いを伝える時の解放感、そして、受け入れられた時の喜び、光、自信。あらゆるものに結び付く」
エロースは言葉を切り、ラルンドの心に言葉が染み込むのを待った。
だが、ラルンドの頭の中には言葉が渦巻き、どんな言葉を持ってしても、真実を言い当てることは出来そうになかった。
《エロースが私に炎を与えようとしている?全ての黒い感情を焼き、白い世界の力に結び付く力を?》
「頭で考えてはいけない。心で感じる方が大事だ。そしてそれは、炎の源となろう」
エロースの息が睫毛にかかった。
ラルンドを握る手に力が篭る。
気持ちを落ち着けようとしても、ラルンドの意識は自分の唇に集中してしまう。
思わず強く目をつぶったラルンドの唇を、柔らかいものが塞いだ。
どくん。
大きく心臓が波打った瞬間、先程とは比べものにならない感情が、ラルンドの身体を巡った。まるで、エロースの感情にラルンド自身が取り込まれてしまったかのように。
星の回転と同じ量の力を持つ熱が、ラルンドの五感を四散させていた。
あらゆる感覚が消えた。
エロースの身体はおろか、触れている筈の、足元の感触すら消えている。
ラルンドは羊水の中に浮かぶ胎児のような気持ちになった。そして、ようやく自分自身がエロースの感情に同調したことに気付いた。
《全てのものを焼き尽くす力、あらゆるものに結び付く力…》
エロースの波動はあらゆるものに同調していた。それは風の流れ、水の流れ、植物の成長、マグマの流動、鉄の酸化、星の満ち欠け。全ての流れを感じることが出来た。
《私は今、時の流れを知ることが出来る…。あらゆる生命に触れることが出来る…》
いつのまにか羊水の中から抜け出し、緩やかな大地のうねりに、身を任せているような感覚を味わっていた。
…暖かい。
「感じたか?」
頭の上から声が聞こえた。
その声を聞いた途端、ラルンドに五感が戻った。ストン、と落ちるように、足元の大地を感じたのだ。
ドクン、ドクン、と波打つ音が、布地を通して聞こえてくる。
左頬に、呼吸によって上下する、エロースの胸があたっていた。
肩と腰とに当てがわれている腕が、ラルンドを柔らかく包んでる。
エロースがラルンドの唇に触れたのは、ほんの二秒足らずだった。その僅かな時間で、ラルンドは炎が何であるかを感じ取っていた。
「はい」
ラルンドは瞳を開き、上を向いた。
すると、そこには、先程ビルの屋上で話をしていた青年の姿があった。
目を見張ったラルンドを見て青年がクスクスと笑う。
優しく包み込んでいた腕を解くと、「あのような行為には、些か勇気がいるのでね。何時までも己を曝しておける程、私は器用ではないのだよ」と言う。
幼いラルンドにトキメキを与えた本来の姿から、平凡とも言える特徴のない姿に変わったことで、ドキドキと高鳴っていた鼓動が、あっさりと治まり始めた。
同時に愛しさが込み上げて来る。エロースのこの笑い方は、照れ隠しに因るものだと解った為だ。
《可愛い…》
自分を包み込んでくれる大きな存在であった筈のエロースが、もっと近しい者に感じられた。
平静を取り戻したラルンドは、この場所が、何時ぞやの公園であることに気付いた。
人の気配を感じ、ラルンドもまたこの地での姿に戻った。それを見てエロースが告げる。
「炎は何時も己の内にある。しかし、それ以上の力を必要とする時は、私を呼ぶが良い」
「いいえ、充分です」
ラルンドは、素直にエロースの想いを受け取ることが出来なかった。
感情に溺れ、自分を見失うことを恐れたからだ。
全ての人に与えられるべきエロースの愛情を、独り占めしてしまう危惧があったからでもある。
エロースはそう言ったラルンドに、剣を差し出した。
「今一度、これを授けよう。力を解放する時は…」
言いかけた言葉をラルンドが受け取った。
「あなたの名と、アンタレスの血に掛けて願います」
フッ、とエロースが微笑む。
「私の名に於て唱えよ。それ以外は不用だ」
治まった筈の鼓動が、どきん、と鳴った。
それを見透かしたようにエロースがクスクスと笑う。
だが、直ぐに真面目な顔に戻るとこう付け加えた。
「ラルンド、疑うな。私が剣を預けるべき相手は、そなたしか居らぬ」
胸の奥が、じん、と熱くなった。
《あぁ、私はこの言葉をエロースの口から聞きたかったんだわ》
「はい」
迷いが晴れたラルンドは返事と共に剣を受け取った。
今までは赤く輝いていた剣の柄にはめ込まれているアンタレスの血が、青みを帯びた緑色の輝きを発した。
顔を上げたラルンドにエロースは軽く頷くと、微笑みを残して辺りの景色に溶け込んで行った。
後日、この地の神について調べる為に博物館へと出向いたラルンドは、一体の像を見掛けた。
キューピッドと称される、背中に小さな羽を持つ幼い男の子の石膏像。
木の上から弓を射ようとしている姿に、何時か、ゼピュロスと戯れていたエロースの姿が思い興された。
《彼は今、どうしているのかしら…》
エロースのことを思うと心が暖かくなる。
像の下に注釈が記されていた。
—キューピッドは別名エロスともいう—
ラルンドは、気まぐれな彼の一面を見付けた気がして、楽しくなった。
クスクス…。
今にも彼の忍び笑いが聞こえそうな気がしたからだ。
ラルンドは周囲に人の気配が無いのを確かめると、軽くその像の唇に触れた。
エロースはしばしば、人間の創り上げた像に身を溶かす。
考え事をする時や休みたい時、ある程度の静けさと快適さが保たれている美術館や、それに準ずる場所は、もってこいの空間と言えた。
彼は今、ヘルメスに抱かれるディオニッソスに溶け込み、愛くるしい幼児に成り済まして時折投げかけられる視線を受け止めていた。
ラルンドが去った後、キューピッド像に凭れ掛かり、苦笑いを浮かべている青年の姿があった。
彼は自分の唇を軽く親指で押さえ、ラルンドの後ろ姿を見送っていた。




