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影の流れ星  作者: えりさかりお
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05一人きりの神話/ラルンド_02

 夜、ラルンドは独り、蠍座を見上げていた。

 既に最終電車は通り過ぎ、先程まで疎らにいた酔客も姿を消した。

 時折通りを流れる車の排気音が、時間の流れをラルンドに思い起こさせる他は、文字どおり街は寝静まっていた。

 朝、エロースと話をしたベンチに座り、アンタレスの光を見詰める。

《エリス、私はどうしたらいいの?アリアードに対して、どういう行動をとればいいの》

 外の世界に降り立ってから、ラルンドは初めて孤独を感じていた。

 今まで彼女に優しかった風も、水も、木々のささやきも、今は、ラルンドの周りを通りすぎて行くに過ぎなかった。

《アリアードは国を出てからずっと、こんな思いをしていたのかしら…。いいえ、もしかしたら、国で暮らして居る時からずっと…。だとしたら、エロースに心を開いたことに、私は喜びを感じるべきなのに》

「嫉妬、だね」

 不意に声を掛けられたラルンドは、慌てて声のした方を振り返った。

「こんばんは、ラルンド」

「どなた?」

 ラルンドは声の主を探した。

「ここだよ、もっと上」

 視線を空に向ける。

 声は、わし座のアルタイルの位置から聞こえていた。

 そこにはゼピュロスのような、痩せた体に大きな羽を持つ者のシルエットが浮かんでいた。だが、昼間聞いた声とは明らかに違っている。

「僕はエウロス。東風さ。朝、西風のゼピュロスに会っただろう?」 

 屈託のない話し方に、ラルンドは警戒心を解いた。

「はじめまして、エウロス」

 アルタイルに向かって言った。

「僕には剣を抜いて自己紹介してくれないのかい?」

 そう言うとエウロスは大きな羽音を立て、翼を閉じた。瞬時にシルエットが落下する。

 ラルンドは慌てて声を掛けた。

「エウロス?」

「心配ないよ、ラルンド。僕は見た目よりかなり軽いんだ」

 なるほどその通りで、かなり高所から落下した割には、当然聞こえるべき地面への衝突音がまるで聞こえなかった。

 シルエットが近付くにつれ、街灯の明りに表情が浮び上がって来る。

 ゼピュロスよりも幼い、まだ十五、六の少年が笑っていた。

「…アンタレスの血にかけて」

 ラルンドが自己紹介するため、剣を取りだそうとすると「エロースの名にかけないのかい?」すかさずエウロスが口を挟んだ。

 弧を描いていた手が止まる。

「そんなことをすると、エロースが寂しがるよ」

 ラルンドは少年を見詰めた。

「あなたは何でもお見通しなのね」

「何でもじゃないさ。僕の好きな人のことは全て知りたいんだ。だから、君のことも知りたくなった」

「好きな人?」

「そう」

 エウロスはにっこりと笑うと、ラルンドの横に座った。

「僕も今、孤独を感じて居るんだ。独りぼっちの寂しさじゃなくて、大切な人に思いが届かない孤独さ」

 エウロスがラルンドをのぞき込むように、顔を近付けた。

「君もそうだろう?」

《そうなのかしら》

 ラルンドには、自分が感じている孤独が、どんな種類であるかまでは解らなかった。

「先刻、アンタレスに向かって何か語っていたろう?」

「ええ」

 抑揚の無い声でラルンドは答えた。

「誰の名を呼んだの?」

 両膝を抱え込むように腕を回し、揃えた膝の上に顎を乗せた姿勢でエウロスが尋ねた。

 ふっ、と息を吐くように微笑むと、ラルンドは少しじらすように言った。

「知りたい?」

「うん」

 会ったばかりだというのにエウロスは打ち解けた口調で返事をした。それが何故だかラルンドには嬉しい。

「エリスよ」

「エリス?」

「そう」

 ラルンドの答えにエウロスは戸惑いの表情を見せた。

「闇の女神の、エリス?」

「ええ」

「エロースじゃないの?」

 その問いにラルンドは、反対に聞き返した。「どうしてエロースだと思ったの?」

「女の子は寂しい時は、好きな人の名を唱えるんだと思っていたから」

 その答えにクスッと笑う。

「エリスは私の腹心の友だもの。心細い時は何時も彼女の名を唱えてきたのよ。エロースは私にとって先生だもの。寂しい時に唱える名前ではないわ」

 自分で言ってから軽い違和感を覚えた。

《先生、なのかしら…》

「腹心の友か。いい響きだね」

 エウロスの声のトーンが沈んだ。

「ずるいや。そんな風に呼べる友達が居るのに、誰に嫉妬しているの?」

「嫉妬?」

「そうだよ、君の周りに冷たい炎が揺れているもの」

「炎が?」

 ラルンドは自分の周りに揺れているという炎が何であるか解っていない。

 ただ、手に入れるべき炎ではないことは、おぼろげに感じ取った。

「あなたには私の炎が見えているの?」

 ラルンドの口調にエウロスは戸惑った。

「お願い、教えて欲しいの。どうしたら炎を見ることができるのか」

 膝を抱えたままの姿勢のエウロスに、ラルンドはすがるように聞いた。

 面食らったエウロスは、おどけた調子で、「見えている訳じゃないよ。感じるんだ。言ったろう、僕は東風さ。君は風を見ることができるかい?」というと、そのままの姿勢から軽々と宙返りしてみせた。

 その回転に合わせて風が舞う。

「…見えないわ」

「でも、感じることは出来るだろう?それと同じさ」

「じゃあ、エウロスには、私の炎を感じることが出来るのね?」

「もちろん。これも言っただろう。僕も、ラルンドと同じ孤独を感じているって」

「でも、私にはあなたの炎は見えないわ」

「それはね、ラルンドが君自身の本心に気付いていないからさ、きっと」

「本心?それに気付けば、炎を見ることが出来るの?」

 ラルンドの執拗とも思える質問に、エウロスは肩を竦めた。

「どうかな?それはラルンド自身にしか解らないよ」

 エウロスの答えに、ラルンドは自分がした矢継ぎ早の質問の非礼を詫びた。

「謝ることなんか無いよ、僕はラルンドのことを仲間だと思っているんだから」

「…同じ孤独を感じているから?」

 ラルンドはエウロスの言う仲間の意味が解らず、聞き返した。

「違うよ。君は以前、ウィンディギルの血を浴びただろう?僕たち風の一族は、同族の血に触れた者を仲間と見なすんだ」

 ラルンドの脳裏に、アリアードによって傷つけられ、全身に血を絡めたウィンディギルの姿が蘇った。

 あの時、ウィンディギルの血を浴びたラルンドは、【我が一族の血を吸いし者よ、汝の名の元に我が名に掛けて力を解き放つがよい。我が子等が答えてくれよう】と言う、エーオースの声を聞いた。

 あの時、どうして“風”が自分に力を貸してくれたのか不思議に思っていたのだが、その訳が今、解ったように思えた。

「ラルンド、剣を見せてくれないか」

 明るい口調でエウロスが続けた。

 自己紹介が途中のままだったことを思い出し、ラルンドは剣を取り出す為、掌を地面に向け、ゆっくりと弧を描きながら天へ翳した。

「エロースとアンタレスの血にかけて」

 今度はいつものように、エロースの名と封印を解く言葉とを唱える。

 ラルンドの剣は十字型ではない。

 円を貫くように刃が突き出ている。φの形に近い。

 握りの部分にサークル状の細工が成され、末端にアンタレスの血と呼ばれる石がはめ込まれている。その剣が左手に握られていた。

「持っても構わない?」

 そう言ったエウロスに、剣を差し出す。

「この剣が、ゼピュロスとエロースの絆を創り上げたのか」

 つぶやくようにエウロスが言った。

「絆を?」

「そう。君が闇の女神を腹心の友と呼ぶように、ゼピュロスにエロースを腹心の友と言わしめる元を作ったのが、この剣なんだ」

 エウロスは右手で剣を握り締め、左の中指と人指し指を揃え、刃の上を滑らせた。

 つっ、と指先から血が流れる。

「エウロス!」

 ラルンドは、剣を握っているエウロスの手を抑えた。

 一瞬、エウロスの体に不思議なオーラが取り巻くのを見た為、何か良くない事が起こるのではないかと不安に駆られたからだ。

 ラルンドが触れるのと同時に、オーラが消えた。

「この剣で血を流すのは、ゼピュロスの筈だった」

 エウロスは己の血を見つめながら、ラルンドを伴ってベンチに座り直し、過去へと思いを馳せた。

 蠍座が星の自転により、右方向に移動していた。

 暫くの沈黙が、今が夜であることを改めて感じさせる。

「この剣がエロースの血を吸っているって、聞いたことがある?」

「つい昨日、エロースから聞いたわ」

「じゃあ、この剣の由来も知っている?」

「いいえ、知らないわ」

 ラルンドは知りたいような、エロースの口からでなければ聞いてはいけないような、複雑な気持ちでエウロスの言葉を受けた。

「この剣はね、元々、エロースの物ではなかったんだ」

 ラルンドはエウロスの血が止まり始めたのを確認すると、深々とベンチに座り直した。

 それを見て、ゆっくりとエウロスが語り始めた。

「ある時、ゼピュロスは乙女に恋をされたんだ。その乙女は、ゼピュロスがたまたま立ち寄った島の、族長の娘だった」



 その島は大きな湾の中心にある為、滅多なことでは、南風の他は吹かなかった。

 ある日、北風のボレアースに伝言を頼まれた西風のゼピュロスが南風のノトスを待っている時、ゼピュロスを見留めた娘が、僅かな時間に恋をした。

 娘はそれ以来ゼピュロスが島を通るのを待ち焦がれ、出会った場所で一日中空を見上げ、ゼピュロスの姿を探す毎日を送っていた。

 族長はそんな娘の態度を見て、娘が誰かに恋をしていると悟った。

 そこで、魔法使いのおばばに娘の意中の人を占わせたところ、「娘の願いは決して叶わぬ」そう判断された。

 何故かと問う族長に、おばばは、「娘の意中の方は人にあらず。西風の神ゼピュロス様じゃ。人と神とが結ばれるのは、神の寵愛を受けたときのみ。人の思いは神には届かぬ。」と答えた。

 おばばの所から戻った族長は、何度となく娘にゼピュロスを諦めるように言って聞かせたのだが、娘の思いは日毎に募るばかりであった。

 思い余った娘はおばばを訪ね、せめてゼピュロスに思いを伝える方法を教えて欲しいと懇願した。

 そのあまりの真剣さに、おばばの心は動いた。

 娘の思いを叶える為に、おばばは愛の神エロースに、娘がゼピュロスに恋をしている事を、どうか西風の神に伝えて欲しいと祈ったのである。

 だが、何日かして娘の前に現れたのは、ゼピュロスではなくエロースであった。

 娘の思いは、ゼピュロスに受け入れてはもらえなかったと知らされたのだ。

 ゼピュロスの伝言を受けた後、何日も泣き続ける娘を見て、族長は何とかしてゼピュロスに仕返しをしてやりたいと、再度おばばのもとを訪ねたのである。

 本当の孫のように慈しんできた娘が、心無い神の仕打ちに涙していると知らされたおばばは、魔法使いとして、してはならない黒い魔法に手を染めた。

 地下に棲むドワーフに“どんなものでも切れる剣”を創らせたのである。

 おばばはその剣を受け取る代償に、己の両足を失った。

【この剣で神の背の翼を切り落とせば、彼は神の力を使うこと能はず、ましてやこの地より飛び立つこと能はず】

 両足を失ってしまったおばばから、族長は手紙と剣を受け取った。


 その頃、娘の元にエロースが現れていた。

 何日も泣き続ける娘を見かねて慰めようとしたのだが、何故ゼピュロスではないのかと、かえって娘は悲嘆にくれた。

《お顔すら見せてくださらぬとは、何と言う酷いお考えでしょう》

「娘よ、ゼピュロスは西風を司る者。この地に降り立てるのは、一年の内、ほんの僅かな日にすぎぬ」

「ですが、私は本人の口から答えを聞きとうございました」

 詰る娘にエロースは告げた。

「答えを聞いても、尚、ゼピュロスに会いたいと願うのか?彼の優しき者の口から、そなたを拒む声を聞きたいと申すのか?」

「そんな、愛の神エロースともあろう方が、あまりに酷いお言葉」

 純粋な好意を人伝てに断る、神の冷たい仕打ちに娘が嘆いた。

「我ら神と呼ばれし者も心は人と変わらぬ。出会った者全てに愛は語れぬのだ」

 娘はそれでも構わない。ゼピュロス本人からの言葉なら自分の気持ちに区切りをつけられるだろうとエロースにすがった。

 娘の強い願いに、ほんの一時会うだけならば出来ることをエロースは告げた。

「次にノトスの力が弱まるその日までゼピュロスを思う気持ちが変わらねば、オリーブの葉を窓に挿すがよい。夕刻、私はゼピュロスを伴ってこの島を訪れよう」

 そう言葉を残して、エロースは消えた。

—ここで大いなる誤算が生じた—

 エロースは娘の言葉を真実と受け止めた為、『本人の口から、答えを聞きとうございました』と言う以上の感情は既に無いと思ったのだ。しかし二度と会うことが叶わないと思っていた相手に会えるということが、娘に微かな光を残してしまったのであった。

 族長は娘がゼピュロスと会う機会を得たことを知り、娘におばばから受け取った剣を授けた。

「この剣でゼピュロスの翼を切り取れば、彼はこの地から飛び立つ事が出来なくなる。そればかりか、神々の座を追われるのだ。この地では儂に敵う者はおらぬ。お前は愛する者を手に入れられるのだぞ」

 族長の言葉に、娘は惑わされた。

 剣の力を使えば、ゼピュロスに会いたくて心が張り裂けそうな日々を、もう送らなくて済むのだ。

 恋する者にとってそれは抗い難い誘惑であった。

 族長は娘を悲しませたゼピュロスを憎んでいたこともあり、何としてもゼピュロスの翼を切り落とそうと奸計を巡らせた。

 娘がゼピュロスを仕留めそびれた場合に備え、周囲の木々に網を張り、ゼピュロスを捕えようとしたのだった。

 約束の日、何の警戒心も持たず、エロースはゼピュロスを伴って現れた。

 娘は前以て用意していた言葉通り、思いが届かぬのならば、せめて羽を一本、思い出として授けて欲しいと告げた。

 ゼピュロスは娘の気持ちに対し、せめてもの慰めになればと思い羽を抜かせる為に娘に背を向けた。

 その瞬間、側で立ち会っていたエロースが、娘の手に光る剣を見て取った。

「やめろ!」

 声と同時に、ゼピュロスと娘の間に割って入る。

 何事かと振り返ったゼピュロスの目に、剣を翳す娘が写った。

 そして次の瞬間、その剣が振り下ろされるのを、スローモーションでも見ているかのようなゆっくりとした時間の流れの中で見た。

 ザシュッ!

 鮮血がゼピュロスの左頬にかけて、斜めにほとばしった。

 なま暖かい液体の感触が、頬を伝って首筋に絡む。

 呆然と立ち尽くすゼピュロスの耳に、うめき声が届いた。

 剣がゼピュロスに届くより一瞬速く、エロースの肩に食い込んだのだ。

 娘の剣を持つ手が恐怖に震え、今まで難無く打ち下ろせた剣が、斧のように重く感じられた。

 その手をエロースが抑えると、自然と娘の手から剣が解けた。

 膝を崩し、自分の肩に付き刺さっている剣を引き抜くと、大量の血がエロースの肩を濡らす。

 キン。

 エロースの手より落とされた血塗れの剣が、石に弾かれ、澄んだ高い音を発した。

 自分のした行為の恐ろしさに震えているカリンにエロースは優しく声を掛けた。

「ドワーフの作った剣は切るべき相手を間違えたりはしないのだよ。呪われるべきは我が身。愛を司りながら侭ならぬ故に人を苦しめてしまう力の無い私にこそ、剣が向けられるべきなのだ」

 羽が一本欲しいと言いながら、翼を切り落とそうとしたことに、ゼピュロスの顔に怒りの色が浮かぶ。

「やめて!私をそんな目で見るのはやめて」

 娘が叫び、その場を逃れたのを見て、族長が合図を送った。

 ザザッと、周囲の木が軋み、ゼピュロスとエロースの頭上を網が覆った。

 ドス、ドス、と網に付けられている重りが地面に食い込む。

 その音に振り返った娘の目に、囚われた二人の姿が入り込んできた。

「済まぬ、ゼピュロス。私が愚かなばかりに、君をこのような目に遭わせてしまった」

 二人の周りを数人の男達が取り囲んでいた。

「エロース、あなたはこんな状況に於ても、人に怒りを覚える前に私のことを気遣ってくれるのだね」

「これは一体、どういう事なの!」

 慌てて引き返して来た娘が男達に詰め寄った。

「娘よ、愛は暴力では満たされぬぞ。心の無い者を側に置いたとて、それは人形と変わらぬ」

 左半身、血塗れのエロースが告げる。

 ゼピュロスが膝を折り、抱き竦めるようにエロースを抱えた。

 エロースの血が、ゼピュロスの白い翼に赤い染みを広げる。

「私の翼を切り取ったとて、私はお前のものにはならぬ」

 心が締め付けられるように苦しくなり、娘は言葉を失った。

「娘よ、お前の願いは既に成就された。これ以上心を曇らしてはならぬ」

《ゼピュロス様の翼を赤く染める程、血を流しているというのに、そしてその血を流す傷を負わせたのは、私であるというのに…》

 娘はその場に泣き崩れた。それは、自分の犯した罪に対しての涙でもあり、罪を責めることなく自分の身を気遣ってくれたエロースの心に感謝しての涙でもあった。

 だが、それを見た男達は、二人の言葉を娘を非難する言葉として受け取った。

「お嬢様の心がどれほど辛いか、解ったような口をきくな!」

 男の鞭がゼピュロスの翼に打ち付けらた。

「やめて!」

 娘が叫ぶ。

「痛むか?エロース」

「この程度の傷で、私は倒れぬ」

 網を纏ったまま、ゼピュロスはエロースを抱き上げると、大きく翼を広げた。

 それだけの動作で風が舞う。

 重りの付けられた網をものともせず、ゼピュロスは空へ舞い上がると、軽く体を反転させ、男達の上へ網を落とした。

 うろたえる叫び声が上がる。

 ゼピュロスはゆっくりと舞い降り、エロースを大地に横たえた後、男達と一緒に網の下へと潜ってしまった娘を助け出した。

「解って欲しい。私は風を司る者。風は一箇所に留まる訳にはいかぬのだ」

 男達が網の下で、もがきながら訴える。

「お嬢さん、今、そいつ等を逃がしたら、一生捕まえられませんぜ」

 男の一人が、先程エロースを傷つけた剣を拾った。それを見て取ったエロースが声を上げる。

「避けろゼピュロス!」

 今度は庇うにしては距離があった。

 間に合わないと顔をしかめた時、ゼピュロスに抱きつく娘の姿がうつった。

 がっくりと膝を折った娘をゼピュロスが抱えるように支えている。

 ゼピュロスの右胸から腹にかけて、赤い液体の這った痕が見て取れた。

 表情に苦悩の色が浮かんでいた。

 翼で風を起こせば、難なくかわせた剣だった。だが、ゼピュロスの動作より早く娘が身を乗り出した為、風を起こせば娘もろとも吹き飛ばしてしまう躊躇いが、ゼピュロスの判断を鈍らせたのだ。

 大人の男が大きく掌を広げたほどの刃渡りしかない剣でも、華奢な娘の背から胸までを貫くことは可能だった。

 族長は事の成りゆきを見守っていた。怒りと、畏怖と、娘を失う悲しみとが、族長に呼吸以外の動作を忘れさせていたのだ。

 網の下でもがいていた男達も、動きを止めている。

 最早、助からないことは誰の目にも明らかだった。

 エロースは起き上がり娘の側へと歩み寄った。

「これで良いのです。呪われるべきは、我が身。ドワーフの力は、それを送るべき相手を間違えたりはしない。そうでしたよね」

「いかにも」

「エロース様、どうかあなたが、この剣を持っていてください。…あなたならば、怒りや、愚かな考えを持って、この剣を、使うことは、無いでしょうから…」

「承知」

 ゼピュロスがゆっくりと娘の体から剣を抜く。

 ゼピュロスはエロースの顔が見えるように、娘を背後から抱え直した。

 エロースは片膝を地面に着け、右の拳を心臓の上へと当てがい、神聖なる誓いの姿勢をとった。

「ここに居るゼピュロスが証人だ」そう付け加える。

「ゼピュロス、さま。愚かな私を、…許して、ください」

 喋り続けたことで、娘に残された体力が、急速に失われつつあった。

 答える替わりに、翼を軽く広げ、安らぎの風を娘に贈った。

 娘の胸に、初めてゼピュロスを見た時の、安らかな、暖かい気持ちが膨れ上がった。

「ありが、と、う」

 そう言い残して娘は息を引き取った。

 エロースは娘の涙を拭い、そっと地面に横たえた。

 今はの際に娘が願った想いを、エロースは聞き取っていた。

《もしも、生まれ変われるのならば、ゼピュロス様、あなたと同じ風の一族に…》

 娘の両手を胸の上で組む。

 ゼピュロスは離れたところで立ち尽くしている族長に歩み寄った。

 族長のマントを掴み、剣に付いている血を拭い取るのと同時に、スパッ、と切り裂いた。

 ゼピュロスの一挙手一投足が風を生む。

 切り裂かれたマントが風に煽られ、ばさばさと大きな音を立て、空へと持ち上げられた。

 ゼピュロスは血の付いた部分を掴み取ると、「あなたの娘の血だ」と族長に手渡した。

 だが、放心している彼の手から布は落ち、夜を告げるノトスの風に吹かれ、海の彼方へと飛ばされて行った。

 ゼピュロスはエロースに剣を差し出した。

 受け取ったエロースは「我が名に掛けて封印しよう」そう言うと、剣を天へと翳し、左手で弧を描きながら大地の底へと溶かした。

 二人は、大地に血の染みをつくっている娘を見遣った。

 そして、お互い何も言わず、その島を去って行った。



「そんな出来事があって以来、二人には絆が出来たんだ。ゼピュロスは自分を庇った為に、剣によって流された者の血を浴びた。風の一族は血よって生まれた絆を神聖視するんだ。だから、ゼピュロスはエロースを腹心の友として扱うようになった」

 エウロスは軽いため息を漏らした。

「そしてエロースもまた、己の名に掛けて封印した剣を自分が持つに至った証人として、ゼピュロスを腹心の友として認めたんだ」

 そう言ったきり、エウロスは口を閉ざした。

 エウロスの手の中で、剣が常夜灯の光を反射させている。

『私に武器は不用だ。私にとって剣は儀式に用いる飾りでしかない』そう言ったエロースの言葉を、ラルンドは反芻していた。

 それと同時に、ラルンドの心の中でくすぶっていた炎が、何であったのか知った。

 いつの間にか、空が薄らと色を変えていた。

《私はエロースとアリアードが、私の知らない時間を共有することに、不安を感じていたんだわ》

『あなたは何でもお見通しなのね』

『何でもじゃないさ。僕の好きな人のことは全て知りたいんだ。だから、君のことも知りたくなった』

 エウロスと交わされた言葉の意味も、やっと理解できた。

「エウロス、腹心の友は嫉妬の対象にはならないわ」

「解ってるよ。だけど、それまで何時も僕の側に居てくれたゼピュロスが、よりにもよって、エロースを腹心の友とするなんて」

「エロースでは、いけなかったの?」

「いや、他の誰かだったなら、相手を憎めたかも知れないんだ。だけど、僕はエロースのことも好きだから、気持ちの遣り場がない。それで、孤独を感じてしまうんだ」

「その気持ち、なんとなく解る気がするわ。私も身近に感じていた人を、エロースに奪われたような気がしたんだと思う」

「でも、相手がエロースだと、憎めないから困ってしまうだろう」

 そう言ってエウロスは笑った。

 つられてラルンドも笑う。

「そうだ、これ、返しておくよ」

 エウロスは剣を差し出した。

「血は、もう止まった?」

 受け取りながらラルンドが聞く。

「うん。…ねぇ、ラルンド。もう一つお願いをしてもいいかな」

「なぁに?」

「君の本当の姿を見せて貰いたいんだ。今度何処かで出会った時、君だと気付かないと寂しいから」

 ラルンドは微笑むと、左の人指し指と中指とを揃えて、額へと当てがった。

 ラルンドの周りを霧が覆ったように輪郭がぼやけたかと思うと、一瞬にして霧が晴れる時のようにスッ、と視界が開けた。

 そこには、丈の長い衣装を身に着けた、スラリとした女性が立っていた。

 赤みがかった琥珀色の瞳がエウロスを写している。白い肌に蠍と剣を象った烙印が痛々しい。

 エウロスは息を飲んだ。

 愛し子は一様にして美しいものではあったが、ラルンドは群を抜いていたからだ。

 そう思わせるのは、瞳の輝きのせいかも知れない。若しくは、白い肌に付けられた烙印を汚れと感じさせない、威厳ともいえる凛とした緊張感を身に纏っていたからかも知れなかった。

 どくん。

 エウロスは自分の心臓の音を聞いた。

「ラルンド?」

 今まで気さくに話しかけていた相手が、別人のように感じられた。

「はい」

 にっこりと微笑む。

 背筋に電気が走り抜けたような、痺れを伴った鼓動がエウロスの呼吸を詰まらせていた。

「その、よかったら、今度は君のことを話してくれないかな?せめて、夜が明けるまで」

《何を言ってんだ、僕は》

 エウロスは少なからず動揺していた。

《ゼピュロスとエロースの仲を嫉妬しているだなんて、変に思われたんじゃないだろうか》

 黙り込んでしまったエウロスに、ラルンドはベンチに座り直しながら声を掛けた。

「エウロス?」

「はい」

 いやに良い“お返事”をしてしまった事に、エウロスは更に動揺した。

「大した事じゃなくても、いい?」

「うん。大した事じゃなくてもいいから、話して欲しいな」

「変に思わないでね」

「いいから話してごらん」

 エウロスはラルンドに悟られない程度に、二人の座っている間隔を狭めた。

 ラルンドは軽く息を吐いてから、一言一言区切るように語り始めた。

「エウロスは、自分の置かれている立場に、疑問を持ったことは無い?」

「無いよ。僕は生まれた時からずっと、エウロスであり続けているんだ。僕が僕に疑問を持ったら、それは僕では無くなってしまうからね」

「そう」

 ラルンドは声のトーンを落とした。

「ラルンドはエロースの力を授かったことに対して、疑問を感じているのかい?」

 初対面である筈なのに、隣に居ることに違和感がない。

『僕たち風の一族は、同族の血に触れた者を仲間と見なすんだ』と言われたことで安心したのかも知れない。

 ラルンドはこれまでの経緯、自分と妹の育った環境、これから成さなければならない事などを、思いつくままに語った。

 語り終わる頃には、始発電車が通る時間になっていた。

 まだ、幾らか闇の力が勝ってはいるが、夜明けが近いことを空の色が物語っている。

「嬉しいよ、ラルンド。僕が君に教えてあげられそうな事が解って」

 ラルンドは、エウロスの言わんとしていることが理解出来なかった。

「ゼピュロスが安らぎの風を、エロースが慈愛を君に贈ったならば、僕は自由の風を贈ってあげるよ」

 話をすすめるうちに、二人の間には一種の連帯感が生まれていた。

「君はもっと自由に振る舞って良いんだよ。何も我慢せずに、思ったことをしていいんだ。感情を抑圧させられて育った妹が、もっともっと君に嫉妬するように、思いっきり感情をぶつけていいんだ」

 力強いエウロスの言葉に、ラルンドは励まされた気がした。

「それが、炎を見つけ出す鍵となる」

「ええ、あなにそう言われると、何だか本当に見つかる気がするわ」

 エウロスはラルンドとの隙間を一気に埋めた。息がかかる程の近さからラルンドを見詰める。

《予感がする。僕は君との間に血の絆を結ぶことになるかも知れない》

 微笑んでいるラルンドをエウロスは抱き締めた。

 少年の顔立ちからは想像もつかない力強さに戸惑う一方で、今迄このような抱擁を誰からもされたことが無かっただけに、緊張と同時に親愛にも似た感情を味わった。

《愛しいラルンド。君は何て他愛のないことで悩んでいるんだ。まるで、疑念を知らないエロースさながらに》

 ばさっ。

 力強い羽音がした。

「夜明けだ。僕はここから去らなければならない。君に出会えて良かったよ」

 エウロスは、ラルンドの頬に軽く唇を押し当てると、抱き締めていた腕を解いた。

 夜明けの光がラルンドの頬に当たる。

「また会おう。約束してくれ」

 そう言って飛び立ったエウロスに「ええ、いつか、また」途切れ途切れに返事をしたラルンドの鼓動が、激しく脈打っていた。

 出会いも唐突なら、別れも唐突だった。だが、エウロスのお陰で孤独を感じていた心が癒されたのは事実だ。

 ラルンドは一度深呼吸をしてから外の国での姿に戻った。本来の姿ではあまりにも目立ちすぎる。

 かさっ。

 不自然に葉が擦れる音が聞こえた。

 何気にラルンドが音のした方へ首を巡らすと、そこにはエロースが立っていた。

 先程とは違う緊張が疾った。

 どきん。と大きく心臓が鳴る。

 ラルンド…

 声には出さず、エロースの唇が動いた。

 今のはエウロスか?

 エロースの目が語っている。

 見られた!とラルンドは思った。

 別にやましいことは何もしていない。

 だがあまりの事に、ラルンドは立ち尽くすことしかできなかった。

 《先程の抱擁場面を見られていたら、エウロスとの事を誤解されてしまうかも知れない》

 ラルンドはエロースが昨日と同じように話しかけてくれるのを待った。そうしたら、エウロスとの出会いを伝えようと。

 しかしエロースはラルンドに背を向けた。

「エロース!」

 ラルンドの声が届かない距離ではなかったにも関わらず、エロースは振り向く事無く去っていった。

 ズキン。

 昨日、アリアードを抱えたエロースを見た時と同じ痛みが、ラルンドを襲っていた。


 エロースはラルンドとエウロスの行為を、全て見ていた訳ではなかった。

 ラルンドが危惧した通り、別れの数瞬を偶然目にしたのだった。

 もとより、ラルンドに会う為にあの公園へ出向いた訳ではなく、介抱していたアリアードが目覚めた途端、姿を消したことで、行方を探るため、拓けた空間を必要としたに過ぎなかった。

 ふっ、とため息を吐き歩調を緩める。

《何と言うことだ。仲間を愛する風の一族が、ラルンドに心を開くとは。ラルンドもまた、風の一族と血の絆を持ったとでも言うのか》

 ラルンドが己の真の姿をエウロスに教えたことにも、少なからぬ焦燥の原因はあった。

《私がラルンドを愛しているのは、私の力を分け与えし者だからではなかったのか?》

 額に緩くかかる、彼本来の金色に輝く髪を掻き上げながら、エロースは自問を続けた。

《どうしてしまったんだ私は。何故こうも心が騒ぐ。ラルンドに炎を見つけ出させる為に、彼女を突き放したのではなかったのか?》

『我ら神と呼ばれし者も心は人と変わらぬ。出会った者全てに愛は語れぬのだ』

 大いなる過去、エロースは神を愛してしまった娘に、そう告げた事がある。

 その言葉を今、切実に噛みしめていた。

《ゼピュロスがラルンドの夢の中で歌ったのも、エウロスが彼女を抱き締めたのも、ラルンドを単にウィンディギルの友として見ているからでは、決してない。愛しい仲間に対しての、彼等の愛情の表れだ》

 眩暈にも似た感覚がエロースを襲った。

《嫉妬、しているのかも知れぬ。私以外に、あのようにラルンドに接することの出来る男は居らぬと思っていたからな…》

 エロースは瞳を閉じ、呼吸を整えた。

《愛情を司る私自身が、このような感情に振り回されようとは…。真実を、確かめなければならぬな》


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