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影の流れ星  作者: えりさかりお
13/19

05一人きりの神話/ラルンド_01

幼い頃、愛情を司るエロースに告げられた

【人々の心を黒く染めるもう一つの“感情”と戦う運命にある】と言う予言 

そしてそれに打ち勝つために手に入れるべき【炎】 

【炎】が何であるのか答えを探すラルンドの物語

【一人きりの神話/ラルンド】


 アリアードを追い外の世界に降り立ってから一度目の季節が巡ろうとしていた。

 その間何度かアンタレスへと帰りはしたものの、休む間もなくアリアードの消息を辿る生活を続けてきたラルンドは、疲れた日々を送っていた。

 ラルンドの支配する愛情を、彼女自身が欲していたのだ。

 アリアードはラルンドの気配を察知すると空間を支配するスカエルスの力を使い、追跡の目を眩ます為に異次元へと潜り込んでしまうのである。

 過去三度に渡りラルンドによって支配力を取り返された経験から、アリアードは慎重にならざるを得なかった。

 それによりラルンドは、アリアードの消息を掴む為に日夜神経を集中させねばならなくなった。

 支配力を奪われている今、自分と同調する力を見つけ出し辿るには、繋がりの道はあまりにも細かった。

 アリアードの元へと飛ぶには、その道の上を違えずに歩いて行かなければならない。

 度重なる空間移動にラルンドの精神力は尽きる寸前のところまできていた。

 しかし追跡の手を緩める訳にはいかない。

 精神を集中する為に、ラルンドは人通りの少ない朝の公園へと足を踏み入れていた。

 初夏の陽射しが、まだ濃く染まっていない緑を透かし、足元に複雑な模様を創り出している。

 車が短くクラクションを鳴らして通りすぎていった音が遠くに聞こえる。

 風が頭上の梢を撫でて行く。

 ラルンドはベンチに腰掛け、久しぶりに空を見上げ流れる雲を目で追った。

 陽光が温かい。

 世界がオレンジ色に染まっている。

 暫く空を見上げていたラルンドは、何時の間にか目を閉じていたことに気付いた。瞼を透かして陽射しがオレンジ色の世界を創りあげていたのだ。

《いけない。こんな所で落ち着いてる時ではないのに…》

 軽く深呼吸をすると、ラルンドはアリアードの気を探した。

 神経を尖らせ、針の先程のアリアードへの道を捜し出す。

 ふと、視線に気付いて首を巡らすと、散歩の途中と思われる青年と目が合った。

 青年は足を止め、微かに口元をほころばせた後、そのままラルンドの視界を通りすぎて行った。

 ラルンドの意識はアリアードから青年へとそがれた。

《何処かで会ったような気がする》

 フッ。軽く息を吐く。

《ダメだわ。やり直し》

 ラルンドは一旦逸れてしまった意識をもう一度集中した。

 アリアードは確かにこの辺りに飛んだ筈。ここからなら割合簡単に見つけられそうだった。

 だが、このほんの一瞬とも言える僅かな間に、園内に朝の喧噪が立ち始めていた。

 ラルンドの座っているすぐ後ろを、慌ただしく駆け抜けて行くビジネスマン。

 早朝練習でもあるのであろうか、始業にはまだ大分時間があるにも関わらず、ハイスクールの生徒が目に付きだした。

 人の気が多くなると、その中からアリアードの気を見つけ出すのは困難になる。ましてやラルンドは、精神的に参っているのだ。

 自分の使命が何であるのか知っているだけに、朝の喧噪が収まるまでのロスは痛手であった。しかし、それと同時に、ほっとしている自分にも気付いていた。

 ラルンドの頬に柔らかい風が当たっている。

【おまえは“感情”を支配し、人々の心を黒く染めるもう一つの“感情”と戦う運命にある。おまえの心が黒く染まらぬように、私の支配する“愛情”を贈ろう。人々の心を黒く染める者が近い将来おまえの前に現れる。その時は私の贈った力を使うがよい。力は、炎によって解き放たれる】

 ラルンドは幼い日に、感情を支配する神、エロースから伝えられた予言を思い起こしていた。

《エロースの予言は、アリアードと戦うことを指しているのかしら》

 ラルンドは戦うという言葉の持つ意味に、これからの不安を隠せずにいた。今までもアリアードの力によって、傷を負ってきていたからである。

 アリアードに洗脳された人々が、ラルンドに無数の刃物を投げつけたこともあった。

 腰まであった髪がその時の刃物によって切り落とされ、今は肩から僅かの長さしかない。

 その時の傷は愛し子達の力により、完治していた。髪も月日を重ねれば元の長さに戻るであろう。

 しかし、癒しの技を持つサンフィールの力を持ってしても治らない傷が残っていた。支配力を奪われた時に付けられた額の傷だ。

 さらにその後の争いによって、同じ場所に新たな深い傷を負っていた。

 ラルンドの額には、その傷を隠す為、瞳と同じ色をした石が飾られている。

 頬に当たっていた風の向きが変わった。

 ラルンドは何気なく、向きを変えた風の行方を追った。

 と、散歩から帰ってきたのであろうか、先程の青年が園内の敷石に足を踏み入れようとしているのが目に写った。

 ラルンドは青年を視線の端に捕らえながらも、僅かに視線をそらし、思いに耽った。

 過去ラルンドは、一度だけアリアードに憎しみの感情を抱いたことがあった。

 守り神の像の丘で、国の平穏を乱した者に見せしめとして付けられる烙印を押された時のことだ。

 その時自分の中に芽生えた、胸を押し潰すような黒い感情によって、ラルンドは意識を失いかけたのだった。

 その後は一度たりとも、アリアードに対し憎しみの感情に駆られたことは無かったが、自分の中に、あんなにも黒い感情が潜んでいることに不安を感じていた。

 この先、アリアードを憎むようなことがあるのだろうか。あんなにも重く黒い感情から、私は自分を守ることが出来るのだろうか。

 ラルンドの思いは取りとめも無く広がっていった。その思いの中には、何時か出会ってしまう人々の心を黒く染める者に対する畏怖も混じっている。

 ジャッ。

 足元の砂利を踏む音が止まった。

 先程の青年がラルンドから僅かに離れた場所で足を止めた気配が伝わってくる。

 視界の隅に写っている人影に顔を向けると、青年と目が合った。

 瞳の中に幼さが見える。少年の面影を残した顔立ちの青年であった。

《やはり何処かで会ったような気がする》

 ラルンドは記憶の片隅に同じ目をした人を探した。

 青年は笑いかけ、ラルンドに告げた。

「このまま君が彼女を追えば、彼女の力に倒れるか、君の力により彼女の心が砕け散るか、どちらかの道しかなくなってしまう」

 ラルンドは青年の声を聞いた途端、記憶の片隅から一条の光が差し込んだかのように青年の名前を思い出した。

「エロース!」

《どうしてすぐに思い出せなかったのかしら。幼い頃告げられた予言は片時たりとも忘れてはいなかった筈なのに、予言の言葉のみ記憶に残し、声の主の顔を忘れてしまっていたなんて…》

 ラルンドは赤面した。

 幼い頃に出会ったエロースは、彼女が幼かった故に、かなりの成人した男性に思えていたのだ。しかも、記憶の中の彼は美しさを伴っていた。

 トキメキとも呼べる感情を幼いラルンドはエロースに抱いていたのである。

 それが少年の目をした青年であったとは。

「ラルンド、私は人の心により、どのようにでも写るのだよ」

 ラルンドはエロースの言葉が理解出来ずに、口を結んでいた。

「私と君とが同じ歳位に見えるのは、君自身の心が成長したからだ」

 エロースは目で隣に座ってもいいかと聞いた。

 ラルンドが軽く頷き、気持ち体を右にずらすと、エロースは躊躇うことなく隣に腰を下ろした。

「私が子供に見える人もいる。私自身を見るのではなく、余計な感情を付随させる故に」

 ラルンドはエロースの言わんとしていることが解らず、ただ、頷いた。

「特に若い女の子はね。愛に夢を持ちすぎるのだ。だから必然的に、私は彼女らの玩具程度の価値観になってしまう」

 クスクスとあどけなく笑う。

「私は喜んでいるのだよ、こうして君と話せるようになれたことを」

 お互い一時見詰め合ったものの、どちらからともなく視線を空へと向けた。

 あの予言から十三年の月日が流れていた。

「炎は手に入れたか?」

 空を見詰めたままエロースがラルンドに聞いた。

「いいえ」

 ラルンドの心は焦っていた。

 人々の心を黒く染める人と戦う運命。その人との戦いに勝つ為に、手に入れるべき炎。

 ラルンドは、炎が何を意味する物かすら見当がつかないでいるのだ。

 すっ、とエロースがラルンドの髪に触れたかと思うと、ほんの軽い力によってラルンドの頭を自分の胸へと包み込んだ。

 びくっ、と肩を震わせたラルンドに告げる。

「力を抜いて。今、君に必要なものは休息だ」

 言葉とともに柔らかい風が新緑の香りをまとって通り抜けた。

 西風を吹かすゼピュロスが二人の上に安らぎの風を贈ったのだ。

「ゼピュロスは私の良き友だ。私の心を察してくれた」

 その言葉を聞いたラルンドは以前、アンタレスでゼピュロスに力を貸して貰った事を思い出した。

「私は過去にあの方に安らぎの風を贈って頂きました。あの時のお礼を…」

 体を起こし、そう言ったラルンドをエロースは先程より強い力で自分の胸に押し付けた。

「ラルンド、神々は気まぐれだ。その神々が贈った力に対し過度の思いは不用なのだよ」

 子供に言って聞かせるような口調で続ける。

「過去、君は愛情を贈った者に、何らかの見返りを期待したかい?」

 声に出さず、ラルンドは首を横に振ることでエロースの問いに答えた。

 ラルンドの心の中に新しい感情が芽生え出していた。エロースに、いや、他の誰かにでも、自分の身を委ねる事など一度たりとも考えてはいなかったことだ。

 自分の気持ちが安らいでいるのが解る。

 今、この一時だけは、国の民のことも、自分の成すべき事柄も、全て心から消し去ってしまって良いのだ。

 ラルンドの心は無垢に戻っていた。幼き頃の、全てが正しいと思っていた頃の、疑念も、憤りも無い真っ白な感情。

「それでいい。暫く休みなさい」

 柔らかい声がそう言った。

 大河の流れのように、緩やかに形を変える感情がラルンドを包んでいた。太古から決められている時の流れの中にたゆたうように。

 エロースは胸に抱えたラルンドの髪に軽く頬を当て、自分の支配力を分け与えた愛しい者を眠りに就かせた。



 アリアードは緊張の日々を過ごしていた。

 いくら姿を変えてもラルンドの目をごまかすことは出来ないと解っている。

 全能を手に入れることと、宮殿での何不自由無い—国の民に希望を与える為だけの—生活と、どちらが自分の望んでいることなのかさえも解らなくなってきていた。

 ラルンド同様、アリアードもラルンドから逃れる生活に疲れていたのだ。

 例えラルンドに追い詰められたとしても、支配力を放棄すればそれ以上の危害は加えられないことは解っている。だが、単なる飾りとして女王の椅子に座ることは、アリアードにこの上ない屈辱を与えるであろうことも解っていた。

 サァー、と音を立てて風が通りすぎた。

 アリアードの髪が乱れる。

 ほんの数瞬前までラルンドの気配に怯えていたアリアードは、自分を圧迫する空気が消えたことに軽い戸惑いを覚えた。ぴりぴりと肌を刺していた感覚が、今は感じられない。

《諦めたのか、それとも新たなる罠か?》

 アリアードは細心の注意を払いながらラルンドの気を探った。

 一つ間違えれば自分の居場所を教えてしまうことになり兼ねない。

 カオスの力に神経を紛れさせていく。

 程無くラルンドは見つかった。

 アリアードの気付かぬうちに、目と鼻の先ともいえる近くまで追ってきていたのだ。

 幼子が母の胸でそうするように、男の腕の中で眠っている。

 少なからぬアリアードの動揺が、ラルンドを眠りに就かせているエロースに伝わった。

【カオスの力を持つ者よ、何用だ】

 思いがけぬ声の呼掛けに、アリアードは自己を閉ざした。しかし閉ざした筈のアリアードの心に、なおも声は語りかけてきた。

【閉ざしても無駄だ。そなたは私と同調する力を持っている】

 そのセリフにより、アリアードは声の主が誰であるのか悟った。ラルンドが幼き頃出会ったという神、エロースであることを。

 腕の中で眠っていたラルンドの顔が浮かんだ。不安など微塵も感じられぬ程、安らいだ寝息を立てていたラルンド。

《何故、誰もが皆、ラルンドばかりを庇うのだ》

 アリアードの心の中にラルンドに対する嫉妬にも似た感情が膨れ上がった。

 アリアードは気付いていない。エロースが誰の為にラルンドに休息を与えたかを。

 エロースは自分の胸の中で安らかな寝息をたてているラルンドを見詰めた。

 起こさぬようにそっと体を離すと、軽く唇に触れ、立ち上がる。

「我が友よ、彼女を頼んでもよいか?」

 そう言ったエロースの髪をゼピュロスが巻き上げた。

 黄金色がかった褐色の髪が舞う。

 と、時を同じくして、エロースはアリアードの前に現れた。

 髪を風になびかせた青年が微笑んでいる。

「エロース?」「いかにも」

 突然現れた人影にアリアードが声を掛けると、その問いが解っていたかのように声が重なった。

「何故、私の前に現れた」「君が私を呼んだのだよ」

 またしても声が重なる。

 アリアードは心を読まれていると思い、エロースを拒絶した。

「アリアード、あなたも休みなさい。ラルンドは今暫くは目覚めぬ。安心してよい」

 エロースを拒絶したことにより、アリアードは素直に言葉を信じることが出来なかった。

「私は見てくれには騙されぬ」

「ほう、君の目に私はどのように映っているのだ?」

 エロースの問いにアリアードは沈黙したままであったが、アリアードがラルンドから奪った—エロースがラルンドに分け与えた—力が同調し、イメージがエロースに伝わった。

 フッと笑う。

「何が可笑しい!」

 アリアードは自分の心が相手に見抜かれていることに赤面した。

 何となればアリアードの目にはエロースがかなりの美男子、言い換えればアリアードの好みの青年に写っていたからである。

《愛情に憧れを抱いている。これもラルンドへの嫉妬の裏返しか?》

 確かにエロースはこざっぱりとした、目鼻立ちの整った顔をしていたが、しかし、人々の中に紛れば、感じの良い好青年、見る人によって美少年に見える程度である。

 アリアードの目に写っているのは、ギリシャ彫刻のような完全に近い肢体と、それに見劣りしない顔を持った青年であった。

「失礼、君を笑った訳ではない。見てくれには騙されぬと言っただけあって、なるほど、私は感情の読みにくい顔をしているなと思ったまで」

 アリアードは警戒したままもう一度エロースに聞いた。

「何の為にここへ来たのだ」

「君が私を呼んだのだ」

「そのような覚えは無い。私は…」

 すっ、と風が動いたような気がして、アリアードの言葉が途切れた。

 エロースがラルンドにしたように、そっとアリアードの髪に触れたのだ。

「アリアード、君も休みなさい」

「離せ、私は偽りの優しさには騙されぬ」

 手を振り払うパシッ、という音が響いた。

「偽りなどではない」

 手を振りほどかれたことに気分を害することもなく、エロースが続けた。

 だが一旦疑念を抱いてしまったアリアードには、エロースの言葉は真実として届かない。何か腹黒い考えを抱いているが故にアリアードの前に現れ、偽りの優しさで信頼を得ようとしているかのように感じられた。

「ラルンドに頼まれたのか?」

「何をだ?」

「痴れたこと!私を手なづけようとしているのであろうが!」

「何を恐れているのだ。私をか、それとも私に心を開くことをか?」

 エロースはアリアードを見詰めながらそう言うと、口元をほころばせた。

 だがアリアードの目にはそれが自分を挑発する仕草に映った。

 堅い表情のままのアリアードを見て、エロースは軽く息を吐く。

 アリアードの正面に歩を進めながら、

「人に心を開かねば安らぎは得られぬぞ」

 そう言ったエロースから逃れるように、斜め後ろへと数歩下がったアリアードを見て、そのままエロースは歩き去った。

 アリアードの横を通り過ぎたかと思うと、その姿は辺りの景色に紛れ、水たまりが自然に乾燥する瞬間のように、何の違和感もなく消えていった。


 エロースがラルンドの元へと戻ると、ゼピュロスが眠っているラルンドの耳元で歌っている姿が目に入った。

 あまりにも穏やかな顔で眠っているラルンドは、その耳元で歌っているゼピュロスと、愛を誓い合った者同士のように見える。

「エロース、君のそんな顔を見たのは初めてだ」

 安らいでいるラルンドの顔に見とれて、ゼピュロスがこちらを向いたことに気付かずにいたエロースは、慌ててラルンドから視線を逸らした。

 口元に笑みを浮かべながら問う。

「どんな顔をしていた?」

「言い当てるのは難しいが、まるで愛しい娘を見ている父親のようだった」

 父親と表現されたエロースは渋い顔をして見せた。

「父親とは随分な言い方だな。せめて兄にはならぬか」

「いや、父親だ。それも嫁に出した娘を見ているような、幸せでもあり、自分以外の者に取られた悔しさもあり、といった感じの」

「そうか、ならば我が子を取り返させてもらおうか」

 エロースは自分の心に僅かに点った嫉妬の炎を見破られた動揺を悟られまいと、わざとおどけた調子で言った。

 ラルンドをそっと抱え、先程より長く唇を押し当てる。

 古来キスは目覚めを意味するものである。ラルンドは日溜りの中で氷が溶けるように、ゆっくりと眠りから覚めた。

「気分はどうだ?」

 光を透かした琥珀色の髪が目の前にあった。

 声の主の瞳の中に自分の顔が映っている。

「心が軽くなりました。アリアードに対しての罪悪感や国の民に対しての義務感、私自身の焦燥が軽く感じられます」

 思ったままを告げた。

 自分を見詰めるエロースの瞳が慈愛に満ちている。

 瞬きも忘れ暫く見詰め合っていた二人は、悪戯なゼピュロスに瞳を嬲られ、痛さに涙を浮かべた。

「ふふっ」「はははっ」

 吹き出すように二人の口から笑いが漏れた。見詰め合っていたことに対する照れもあった。

 同時にお互い目を閉じ、瞼を手で抑える。

 その行為があまりにも似通っていたため、それを見ていたゼピュロスにも笑いが伝染した。

 笑い合うエロースとラルンドの髪が風に巻き上げられる。

「笑うな、ゼピュロス。私をからかうと後で仕返しをするぞ」笑いながら風に向かって矢を射る真似をして見せている。

「お目覚めですか?」

 エロースの声に答えるかわりに、満面に笑みを称えた天使が姿を現した。

 透けるような白い肌と黄金色の髪を持つ痩せた青年の背中に、見事な翼が生えていた。

 痩せた肢体に不釣り合いな程、白く大きな翼だ。飾りではなく実用性に適っている。

 青年の声にラルンドが答えた。

「夢の中で歌ってくださったのは、あなたでしたのね」

 自分の知らない時間を共有していた二人にエロースは軽い嫉妬を覚えた。

「私は暁の女神エーオースの血に繋がる者、ゼピュロス。あなたの友、ウィンディギルの友でもある」

 ゼピュロスはそう言いながら、ゆっくりと大地に降り立った。

 それを受けてラルンドは立ち上がりざま、左腕で大地から天に向かって弧を描いた。

「エロースとアンタレスの血にかけて」

 天を指した手に剣が握られている。

「私はエロースの意志を分け与えられし者、ラルンド・ルーク・オィングス。お見知り置きください」

 剣を額に翳す。

 ラルンドの額の石に、剣の柄にはめ込まれているアンタレスの血と呼ばれている石が共鳴して、鮮やかな赤い色に輝いた。

 ラルンドの口から自分の名が告げられたことで、エロースの中からつまらない嫉妬が消えた。

 ベンチに座ったまま右足を左足の上に組み、その上に左腕をのせ、掌で顎を支える格好をすると、ラルンドに上目使いで話しかけた。

「ラルンド、剣を取り出すおまじないは『アンタレスの血にかけて願え』と、教えなかったか?」

 エロースに指摘されたことで、いつもの習慣で何も考えずエロースの名を口してしまったことに気付いた。

 はっ、としたまま身を硬くしたラルンドに向かって笑いかける。

 緊張したラルンドの姿が、悪戯を見つけられた子供のように思え、緩い笑い声がエロースの口から漏れ出たのだった。

「怒っているのではない。君が何時も私を気に掛けていたことを知って、喜んでいるのだよ」

 ラルンドの左手から剣がフッと消え、同時にエロースの右手に剣が納まった。持つ者の力が伝わるのか、剣の柄にはめ込まれているアンタレスの血が青みを帯びた緑色の輝きを発していた。

 女性向きの細い創りの剣にも関わらず、エロースが手にしても、何の違和感も無い。男と言うよりは、まだ少年の面影を残した、どこか中性的な部分があるせいかも知れない。

「相変わらず、似合わぬな」

 ゼピュロスが声を掛ける。

 器用に剣を半回転させると、剣がフッと消え、ラルンドの手に戻った。

「私に武器は不要だ。私にとって剣は儀式に用いる飾りでしかない」

 エロースの言葉にラルンドはドキリとした。

《私は今まで剣を武器として使ってきた。私の手の中でアンタレスの血が赤く輝くのは、人の血を吸ったせいなのだろうか?》

 アンタレスの血を見詰めてしまったラルンドを見て、エロースが声を掛けた。

「どうした」

 一瞬目が合ったラルンドは、慌てて視線を逸らす。

「私は、あなたから預かった剣を、武器として、使っていました」

 抑えたつもりではあったが、声が震えてしまう。

「構わぬ。剣は飾りではない。本来の役割を成さぬ剣は剣とは言えぬ」

「でも、血で汚してしまったなんて…」

 語尾が消え入りそうなほど声が震えている。

 ラルンドの剣を持つ手に、エロースが右手を重ねた。

「安心しなさい。この剣は過去、私自身の血を吸っている。そして、君が手にしてから初めて吸った血は、ラルンド、あなたのものだ」

 ラルンドの頭の中に、烙印を押された時の赤黒く焼け焦げた血が思い起こされた。

《あの時の血が…》

 そっと置かれていた手が握られた。

「ラルンド。人は生を享けてから死の衣を纏うまで、人生と言う物語を綴って行くのだよ。その物語の善悪を決めるのは読み手である他の人間だ。作者は自分の良かれと思った行動を取っていれば良いのだ。自分の過去を反省することは良いことだが、過去に囚われてはいけない」

 解ったか?と目が語っていた。

 おずおずと頷く。

 それを見て、ゼピュロスが安らぎの風に乗って舞い上がった。

「エロース、私は行くよ。風はいつまでも同じ処に留まっている訳にはいかない」

「ゼピュロス」

 慌てて礼を言おうとしたラルンドの声に被さるように、ゼピュロスがラルンドに向かって言った。

「私の歌が聞こえたのならば、あなたの心は無垢のままだ。恐れずに己のが道を進むが良い」

「また会おう、友よ」

 ラルンドを握っていた手を解き、ゼピュロスに向かって手を振ると、ゼピュロスは一層高く舞い上がり、空に溶けるるように消えて行った。

 暫く空を見上げていたラルンドは、「お礼を、言いそびれてしまいました」と、小さな声で言った。

「いらぬこと、気持ちは通じていよう」

 ふっ、と軽く息を吐く。

「私はこの剣のおかげで、沢山の優しさに出会えました。でも、私がこの剣を持つ資格があるのかどうか、悩んでいたのです」

「知っている。妹に支配力を譲ろうとしたことも」

 エロースの言葉に、ラルンドの手がピクッと震えた。

「あの時、君は私に何故アリアードではなく君を選んだのかとも言った。だから私は君の前に現れたのだ」

 闇の支配力を持つエリスが、地獄へ墜ちるのならば、共に行こうと言った時に思わず口にしたセリフだった。

『その優しさを、私が受ける訳にはいかないわ。私は、孤独になってしまったアリアードに刃を向けようとしているのだもの!』

《解せぬ!何故そうまでしてラルンドを守るのだ!》

 アリアードが言った言葉にラルンド自身が疑問を抱いていた。

『私が、エロースから力を頂いたお陰で、私ばかりが多くの人に助けてもらえるなんて、あまりにも不公平だわ!何故エロースはアリアードではなく私を選んだの!』

 ラルンドの中で、エロースとの出合いが単なる偶然であったのなら、支配力を受け継ぐ者が自分でなくとも良いのではないか、という思いが浮かんだのだ。

「君を選んだ訳は簡単だ」

 回想しているラルンドにエロースが声を掛けた。

「ラルンドの心が無垢だったから。君の瞳に内なる宇宙を見出せたから。そして、私の力を恐れることなく信じたから」

 黙ったままエロースを見詰めるラルンドに、「納得いかぬか」と、エロースは続けた。

「心が無垢でない者に心は渡せぬ。内なる宇宙をもたぬ者に、国の運行を司る七つの力の一つは渡せぬ。そして何より、私に心を開かぬ者を私は愛さない」

 エロースはラルンドの視線を捕らえ、「出合いは偶然かも知れぬ。しかし、支配力を受け継ぐべき必然。あの時私達が出会わなくとも、違う形で出会っていたはずだ」そう付け加えた。

 国の運行を司る七つの力とは、水、風、空間、物質、緑、闇、そして感情。

 代々女王が受け継いできた“希望”を中心に置き、六角錐を描くように位置される七人の神々の力を指す。

「不思議です。あなたのお話しを聞いているだけで、答えが見つかる気がします」

 手に入れるべき炎のことを言った。

 エロースはそれには答えず、ゆっくりと立ち上がった。

「さて、私も行かなければならない」

「また、いつの日か会えましょうか?」

 ラルンドは不意に駆られた心細さに、エロースにすがるように声を掛けた。

 ふっ、と口元に微笑みを浮かべながら、「私は何処にでも存在している。私を見つけ出すのは、君自身の心なのだよ」そう言って、エロースは歩き出した。

 幾らも歩かないうちに輪郭がぼやけ、陽射しに溶け込むようにゆらゆらと薄れて行った。

 ラルンドはエロースを見送った後、胸の前で剣を握っていた手を開いた。

 熱した鉄の上に垂らされた一滴の水のように、瞬時に剣がその場から消える。

《私も行かなければ、アリアードの元へ》

 ラルンドは瞳を閉じ、意識を額に集中した。

 

『人に心を開かねば安らぎは得られぬぞ』

 エロースの言葉にアリアードは反発を覚えていた。

《他人を信用した愚かな愛し子共は、容易に支配力を奪われたではないか。他人に心を開くことは、同時に己の弱さを相手に教えるようなもの》

「それはどうかしら」

 ふいに背後から声が掛かった。

 振り返るまでもなくアリアードには声の主が誰であるのか理解できた。

《ぬかった。エロースに気を取られてラルンドのことを忘れるとは…。これが奴の狙いだったのか?》

 振り向きざま、アリアードはスカエルスの空間を支配する力を叩きつけた。

 だが、ラルンドはそれを予期していたかのようにかわすと、アリアードの腕を取った。

 ギュン。

 同時にラルンドがそれまでいた空間が縮む。

「もう、おやめなさい。希望を受け継ぎたくないのならば、私が替わりに継ぎましょう。誰もあなたを責めるようなことはありません。一緒に国へ帰りましょう」

 ゆっくりと諭すように言葉をつなぐ。

「触るな!」

 アリアードの掌に空間が圧縮され、ラルンドに向かって放たれた。

 ギュン。

 だが、ラルンドは平然とそれをかわす。

 ギュン。

 ギュン。

 度重なるスカエルスの力の使用により、空間が捩曲げられ、アリアードとラルンドの回りに一種の結界が出来上がっていた。

 辺りが異変を感じ始めた。

 木々に止まっていた鳥達が一斉に飛び立った。

 近所の犬達が遠吠えを始めた。

 風が至る方向から集まり、結界に弾かれたように空へと巻き上げられていく。

 空に広がっていた雲さえ、二人の頭上に集まり出した。

「止めぬのか?」

 異変を感じたゼピュロスが中空からエロースに声を掛けた。

「どちらを?」

 エロースは平然と二人の行為を見守っていた。

「無論、お前の守りたいほうだ」

 ふっ、と軽く微笑んだかと思うと、その微笑みを残してエロースが消えた。

「もう、お止め」

 声と一緒に、アリアードの手首を握る者があった。

「エロース」

 ラルンドが声の主の名をつぶやいた。

「カオスの力は国の運行を司る頂点の力だ。無闇に乱用してはいけない。君の体に負担が掛かりすぎる」

 エロースの言葉と共に、アリアードがその場に崩れ落ちた。

「アリアード!」

 駆け寄ろうとしたラルンドをエロースは手で制した。

 そっと労るようにアリアードを自分の腕に抱き止める。

「アリアード、解って欲しい。剣を持たぬ君には、カオスの力は大きすぎるのだ」

 アリアードは優しく語りかけてくる声に耳を傾けていた。ラルンドと対峙していた緊張が溶け、その反動で力が抜けて行く。

「アリアード、この力をこれ以上使わないと約束してくれるね?」

 アリアードはその質問に答える前に、眠りに落ちていった。

 ラルンドは複雑な思いで二人を見詰めていた。誰にも心を開こうとしなかったアリアードが、自分が一番理解してあげられる存在だと思っていたのに、今、エロースの腕に抱かれているとは。

《アリアードがエロースに心を開いている》

『…私に心を開かぬ者を私は愛さない』

 先程エロースがラルンドに告げた言葉が不意に蘇った。

 それと同時にエロースが顔を上げた為、ラルンドと視線が絡み合う。

《エロースに心を開いた者は皆、彼に愛されるのかしら…》

 衝撃がラルンドを襲った。

 背骨が折れて、心臓に突き刺さったような、全身の筋肉が硬直するような痛みを伴った衝撃だ。

 こめかみに流れている血液が倍増したかのように、頭が急激に重くなった。

 視界に霧がかかる。

 胸が締め付けられるように痛い。

 アリアードを抱いているエロースが、遠い存在に感じられた。

 エロースはアリアードを抱えたままラルンドの瞳を見詰め続けている。しかし、先程の慈愛に満ちた目ではない。

 ラルンドはいたたまれなくなり、その場を去って行った。

「よいのか?」

 ゼピュロスが問う。

 少し間を置いてエロースは答えた。

「よい」


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