00序章
はるか昔、神々は地上に生きるものすべてに様々な恩恵を与えていた。
いつしか神々と会話をするものが生まれ、興味を惹かれた神々はこぞってそのものたちを寵愛し、自分たちの力を分け与えるようになった。
しかしそのものたちが力を私利私欲のために使い始めた頃から、神々の寵愛は薄れ次第に距離を置くようになっていった。
だが、一度力を持ったものたちは離れていく神々の心情に気付くことはなく、僅かに残された寵愛を我が物にしようと諍いを始めた。
神々は失望し、ひとり、またひとりと隠り世へと去っていった。
そんな中、神々を崇拝し争いを好まないものたちは、自分たちも隠り世へと連れていって欲しいと懇願し、残っていた七人の神々と共に地上から姿を消した。
さそり座が中天にかかる月のない夜のことだった。
風が強くなって来た。
いや、正確には風を肌に感じているわけではない。壁と透明な物質に遮られた空間から雲を目で追っているうちに、流れる雲の速さが変わったことに気付いただけだ。
しかし、彼女の目に映るものは何の意味も持ってはいなかった。
彼女はただ空を見詰めながら、ほんの数日前に起きた出来事を他人事のように思い起こしていた。
この国—アンタレスでは国を守護する神々に守られ、人々は平和に暮らしていた。
はるか昔に争いを嫌ったものたちが平和の象徴となる女性をたて、眼に余る行いをしたものには守護神が警告を与えることで、覇権を競うような諍いは避けられていた。
しかし過去には国の頂点に立ちたいと力を振るう者達により、大勢の血が流されたこともあった。
諍いに巻き込まれた女王が心痛のため病に臥せった際には、守護神の怒りを買い、大規模な災害に見舞われたとの記録が残されている。
以降、人々はそれを教訓に、血を流すことは汚れとされ、禁忌となった。
過去の出来事により恐れられる存在となった神々は、極力人前には現れず、代わりに愛し子を見出して己の力を授けるようになっていく。
水、風、空間、物質、緑、闇、そして感情。
代々女王が受け継いできた“希望”を中心に置き、六角錐を描くように国を守るとされる七人の神々から力を授かった者は、現人神として民から敬われる存在へとなる。
時代と共に神を祀る神殿が女王の住む宮殿となり、神官は家臣となり、そして人々は日々平和の祈りを捧げるようになっていった。
特に、次代女王になるべき者を育てている間、一切の災いを起こさぬように自重する風潮が作られていた。
次代女王が育成期に強い感情に触れると平和をのぞむ心が歪められ、神々の守護を失うのではないかとの懸念が上がったため、人々は継ぐべき者の心を無垢にしておく必要があると考えたのである。
幼年期を過ぎて過程が順調に進むと、次代女王の証として戴剣式が催される。
国を守る証としての剣が授けられるのである。
剣は力の象徴であり、力を発動する武器でもある。
本来次代女王に成る筈であったラルンドは、幼き日に守り神の像が建つ丘で“感情”を支配するエロースから“美”=“感情を支配する力”を授けられた。
神の持つ圧倒的な力によりラルンドは意識を失い、目覚めた時には己に流れ込んでくる様々な”感情”を制御できず、過剰なまでに怯え部屋に閉じこもるようになってしまった。
当然女王としての教育も、立ち居振る舞いも、最低限の社交すらできなくなった。
その結果、女王教育を無理強いすると彼女の精神に異常をきたす恐れがあると判断した家臣達は、次に女王の血を濃く受け継ぐ妹アリアードを、次代女王として育てることに決めたのであった。
今から十二年前の事である。
ラルンドは長い年月をかけて力の使い方を覚えていった。
己の心が穏やかであれば周りの”感情”の波に飲まれることもなく、無作為に流れてくる”感情”は、そよ風に揺れる花びら程度の感覚に抑えることができるようになると、人と会話することも苦痛ではなくなった。
数年にわたり、ラルンドは妹アリアードの世話役として過ごしていた。
姉の二の舞にならないようにと、限られた交流の中でひっそりと育てられる環境は、感情に引きずられて怯えていたラルンドの心を穏やかにするには最適であった。
平和と愛情に囲まれて育ったアリアードは幸せな日々を過ごしていると家臣はおろか、民の誰もが疑わなかった。
無事戴剣式を済ませるまで、家臣達はアリアードに女王としての決め事以外の一切を教えようとはしなかった為、ほんの些細な不祥事でさえアリアードの耳に届くことは無かったのである。
只一人、彼女の姉であり“感情”を支配しているラルンドだけは、アリアードがこの創られた環境を疎ましく思っていることを感じ取っていた。
決められた事を決められた通りにこなす。妹のそんな行為を哀れに感じたラルンドは、せめて自分と二人きりの時くらいは素直に思っていることを表現していいのだとアリアードに伝えようとした。
穏やかな陽光が中庭に射し込んでいる日だった。
宮殿内には神々が訪れた際に喜んでもらえるようにと、様々な花が植えられている。
ラルンドは中庭の一角で青紫色の花を摘むと、アリアードへと差し出した。
彼女は感情を閉じ込めているアリアードに、美しさを素直に受け止めることを教えようとしたのだ。
「アリアード、この花を見てどう思う?」
決められたことを忠実に繰り返すことばかり教えられていたアリアードには、ラルンドの言わんとしていることが理解出来なかった。
「綺麗とか、可愛いとか」
ラルンドは、花をアリアードの目の高さまで持ち上げると“美しい”という思いを伝えるため、アリアードの瞳を見詰めた。
《アリアード、もっと素直に感情を表していいのよ》
花を一輪差し出されても綺麗とも、可愛いとも思わないアリアードにとって、『素直に感情を表す』とは抑圧していた思いを解放することに他ならない。
不意にラルンドを見詰め返すアリアードの目に強い意志の光が宿った。
さわさわと中庭の木々がそよぐ。
「…そう、私は、素直に感情を表して、いいのね。…我慢しなくても、いいのね」
一句一句、念を押すようにアリアードが口を開いた。
ざわざわざわざわ…
風によるざわめきにしては不自然な音をたてて、木々が騒ぎ始めた。だが、木々に背を向けているラルンドはその不自然さにまだ気付いていない。
「じゃあ“美しいもの”を手に入れたいと思っても、構わないの?」
「そうね、女の子は誰でも“美しいもの”に憧れるわ」
ラルンドはアリアードの瞳に感情を吸いとられていくような錯覚に陥った。
ラルンドはただ単に花を見たアリアードに笑顔になって貰いたかっただけだ。花を摘み取ったことが気に入らなかったのだろうか。
「アリアード…どうしたの?」
これまで見たこともない微笑みがアリアードの口元に貼り付き、瞳が異様に大きく見開かれている。
まるで今まで押し込めていた感情を一気に吐き出そうとしているかのような、堰き止められていた水が出口を見つけ、その一点から猛然と流れ出そうとしているような、そんな危うさを帯びた笑いだった。
「アル?」ラルンドは胸の奥から突き上げてくる恐怖という塊を押えつけるように、彼女の名を呼んだ。
ゆっくりと微笑みを称えていた唇が開かれ、今まで聞いたこともない声がアリアードの口から漏れてくる。
「私は“美しいもの”が欲しい。それは創られた“平和”でも“愛情”でもない」
ねっとりとまとわりつくような声色を発しながら、アリアードの手がラルンドに向かって伸び、ゆっくりとラルンドの首を締めつけてゆく。
ざわざわざわざわざわ。
木々のうねりとアリアードの動きが同調していた。
あまりのことにラルンドは、自分の身に何が起こっているのかさえ理解出来ないまま、アリアードの声が段々遠くなって行くのを不思議に感じていた。
額に鋭い痛みが疾る。
「優しいお姉さま…私に“美しい支配力”を与えてくれて嬉しいわ」
その声を最後にラルンドは気を失った。
どれ程時間が流れたのだろうか、柔らかい光を瞼に感じながら、ラルンドは聞き覚えのある声により目覚めた。
「しっかりしろラルンド。何があった」
女神ニュクスから闇の支配力を授かったエリスが、心配そうにラルンドを見詰めていた。
土のひんやりとした感触が伝わってくる。ラルンドは自分が土の上に、直に横になっていることに気付いた。
「私、こんな所で眠っていたの?」
記憶が錯乱しているようだった。
エリスは中庭の一角にある噴水から掌に水を溜めると、軽くラルンドの顔にかけた。
その水の冷たさにラルンドの意識がはっきりする。
「アリアードは…。エリスお願い、アルを止めて、さもないと…」
「わかったラルンド。それ以上話すな。おまえの心を読み取る」
この間、アリアードは愛し子達に次々と襲いかかっていた。
彼女は“美しい”という言葉に刺激され、愛し子達の持つ“支配力”=“美”を奪っていたのである。
ふふふ、ふふ。
森に笑い声が響いていた。
《私が支配力を手にすれば、もう、何も我慢することはなくなるわ。全ての力が手に入ればもう、誰も私に何一つ押し付けることは出来なくなるもの》
ふふふ、ふふふふ。
まるで無邪気な少女のように血塗れの剣を携え、踊っている。
守護神から支配力を分け与えられた愛し子達は何の警戒心も抱かないままアリアードと語らい、不意のアリアードの攻撃により意識を奪われていた。
神々の血は神聖なものである。力は血の中に宿り、その血に触れた者には神々との間に絆が出来、時には力を与えられると考えられていた。
無論、それは己の中に星の力を秘めている者か、神々の寵愛を受けた者にのみ与えられる特別なものではあったが、希望を受け継ぐべき血を持つアリアードにはそれに足る力が充分にあった。
アリアードは愛し子達の流した血を舐めとるだけで、たやすく彼女達の持つ支配力を奪う事が出来たのである。
《残るはエリスの持つ闇の支配力のみ…》
アリアードの足元には水の支配力を授かったウォータリアスが横たわっていた。
手首から流れた血が地面を赤黒く染めていた。
「そこまでだ、アリアード」
振り返ったアリアードの足元からスッと影が伸びたかと思うと、瞬時に影が人型へと変化し、エリスが現れた。
「良いところへ来てくれた。エリスの美しさを私にちょうだい」
「アリアード、自分が何をしているのか解っているのか?」
「もちろん。心の赴くままに“美”を奪っているの」
「何故この国の希望を支配すべきおまえが、他の支配力をも得ようとするのだ」
「美しい者がこの世界にいるからよ」
「人にはその人なりの美しさがある。“美”を求めるのならば自分の心を磨くことだ。他人の“美”をいくら奪ったところで、それは自分の“美”にはならない」
にっ、とアリアードの唇の端が吊り上がった。
「構わないわ。私は心などいらない。生まれてから今まで、私は心を無くしたまま生きてきたのよ。今さら何処に磨くべき心があると言うのかしら」
「心を無くしてきたのなら“美”を欲することもあるまい」
「ラルンド姉さまが本来の私の在り方を釈いてくれたのよ。“美”に憧れるのは自然なことだって」
「憧れることと、奪うことは別だ」
「そうかしら。心の赴くままに手を伸ばせば届くのだもの、我慢する必要はないわ」
血に塗れた剣とその剣により右手首から血を滴らせているウォータリアスを交互に身遣ると、アリアードはウォータリアスをエリスに向かって飛ばした。
同時に、ウォータリアスを抱き止めようと手を伸ばしたエリスに攻撃を仕掛ける。
ウォータリアスを受け止めたエリスの首筋には、アリアードが投げた剣により浅く傷が付けられていた。
「おまえがそのような気持ちで私の支配する闇を奪えば、おまえの心自体が、闇に支配されることになるのだぞ」
言いながらウォータリアスを傍らに寝かすと、エリスはアリアードに向き直った。
「私にはそんな心なんてないわ」
「罪の意識に身動きが取れなくなる。仮の美しさを纏う自分の存在自体が闇に思えてしまう。それでも闇を奪おうとするのか」
「試してみる?私にそんな脅しは通じないのよ」
今までおとなしくしていた反動からなのか、アリアードは饒舌だった。
《ラルンド。アリアードを止める術を教えてくれ。このままでは彼女が闇に染まってしまう》
エリスの思いも虚しく、アリアードが風の愛し子ウィンディギルから奪い取った[風を支配する力]を解き放った瞬間、エリスの体は突風により遥か上空へと持ち上げられ、それ以上の加速で地面に叩きつけられてしまった。
躊躇いがエリスに隙を作っていたのだ。
呆気なく倒され気を失ったエリスの唇から血が流れていた。衝撃で口内を切ったものらしい。
アリアードが人差し指で拭った血をひと舐めすると、“支配者”の意識を感じとれない“闇”がアリアードの意識の中に吸い込まれていく。
ふふふ。
少女の笑い声が響く。
「私は国を守る七つの力を手に入れた。これで私は自由よ!」
エリスの中から闇の支配が解放されるのと同時にアリアードの心の中に闇が漂い始めた。
【おまえは姉の美しさに嫉妬したんだ】
アリアードの頭の中に声が聞こえた。
「誰?」
【欲を満たすためならば、人殺しも出来る】
声は瞬く間に数を増し、巨大な影となってアリアードの意識を蝕み始めた。
【おまえの美しさは作り物だ】
【見るがいい、おまえが“美”を奪った友の姿を】
アリアードの頭の中に愛し子達の苦痛に満ちた表情が浮かぶ。
【おまえの心は汚れている】
【民はおまえを許さない。現人神を傷付けたおまえを呪う】
アリアードの意識は闇の言葉で埋め尽くされて行った。
声はいくつも重なり不協和音を奏で、圧迫感を伴って頭の中に響く。
「何なの?何が言いたいの!」
【おまえはそれでも平気な筈さ】
【おまえは闇そのものだから〜。ひひひっ】
粘着質な笑いを伴った声が大きくなっていく。
「不敬な!」
【心の中はきっと蛆虫だらけよ】
【うわぁ〜やだぁ〜】
卑しい笑い声がひしめく。
「やめなさい!」
アリアードを嘲る笑い声が大きくなる。頭の中だけではない。今や空間全てが闇の笑い声と化していた。
老若男女の不快なぬめりを纏った気配に包まれて息が苦しくなる。
アリアードの心は乱れた。《逃げなければ。このままでは、闇に喰われる!》
「私の周りから消えろっ!」
両手で顔を抱えながら大きく頭を振って叫んだアリアードは、自分の意識を“闇”と一緒に心の奥底へと封じ込めてしまった。
しかし、それでも心の奥から出口を求めて蠢き沸き上がってくる闇の感情を完全に断つことは出来ず、動転した彼女は[空間を支配する力]を使い虚空へと姿を消して行った。
その事件は瞬く間に国中に伝わって行った。
ところが、平和と愛情に恵まれたアリアードが、現人神を傷付けることなどありえないと信じて疑わない家臣達の疑念から、本来ならば女王になる筈だったラルンドが、アリアードを妬み罪を被せたのだという噂がたちはじめた。
真相を突き止めようにも、アリアードは既に国から姿を消し、愛し子達も傷を負って真相を語れる状態ではなかった。その間にも噂は広がり次々と尾ひれが付いていく。
—その結果—
事件とは裏腹に、ラルンドが塔に幽閉されてしまったのであった。
風の流れが変わっていた。
流れていた雲が動きを止め、次第に体積を増して行く。
幽閉された塔の中で、ラルンドは国の人々の声を聞いた。“感情”を支配する力は弱まってはいたが、まったく力が失われた訳ではなかった。幸いにも力の象徴である剣を奪われることが無かったからである。
だがそれ故に、人々の誤解から生じたラルンドへの怒りが、彼女の心に突き刺さってきていた。
《ここまで大きな流れとなってしまった感情を、今の私には止めるだけの力が無い…》
それから何時間過ったのか、辺りには僅かな星の光さえ届かぬ程闇が立ち篭めていた。
「ラルンド…」
“美”を奪われた愛し子達が塔の外からラルンドを呼んだ。暗がりの中、薄く光を纏った人影が浮かんでいる。
「どうしたの?こんな所に来たりして。エリス、傷はもういいの?」
「ラルンド、そんなことはどうでもいい」
傷を隠すようにエリスの首にはリングがはめられていた。唇の端が切れて腫れているのが痛々しい。
「逃げるのよラルンド」
空間を司るスカエルスがラルンドを塔から出す為の扉を開ける。
「どういうこと?」
「速く!時間がないの!」
愛し子達は、明日の夜明けとともにラルンドがアリアードの犯した罪をきせられて、国の平和を乱した者に付けられる烙印を押されてしまうことを手短に語った。
「…解っているわ」
人々から容赦なく浴びせられる悪感情から、自分の身に降りかかるであろう災難は予想がついていた。
「ならば、急いで!今なら私たちの力で逃がしてあげられる」
「ありがとう。でも、私は逃げる訳にはいかないの。そんなことをしたらお母様までが民から批難されてしまうもの」
「ラルンド!女王のことより自分のことを考えなさい」
ラルンドの答えにエリスが声を荒げた。
「アリアードを止められなかった為に、あなた達にまで傷を負わせた責任は、取らなければならないわ」
「ラルンド…」
「平気よ私のことなら」
「…私達はあなたの味方よ、真実が民に聞き届けられなくても、あなたに罪が無いことは私達が知っている」
「ありがとう…」
「私はアイテールの名において誓うわ」
物質を支配するファリアスは、両手を伸ばし素早く交差させると、クリスタルの結晶を思わせる両端が鋭く尖った剣を取り出した。
「私はカオスの名において」
空間を支配するスカエルスが、胸の前に握り拳大の隙間を開け掌を合わせると、柄の部分に星を象った剣が現れた。
「私はレートーの瞳にかけて」
植物を支配するサンフィールが両手を首に当て天を仰ぐと、彼女の髪から剣が現れた。
「私はオーケアニデスの歌声にかけて」
水を支配するウォータリアスが軽く顔の前を薙払うと、右手に水の流を思わせるレリーフが彫られた剣が握られていた。
「エーオースの翼にかけて」
その言葉と共に、風を支配するウィンディギルの前に竜巻が起こり、その中から黄金色に輝く細い剣が現れた。
「わたしはニュクスの名において誓おう」
エリスは腰に差している剣を抜いた。
闇を支配するエリスの剣は、他の女神達に比べ大きく、引き抜いただけでかなり威圧されるものがあった。
「アリアードに奪われた支配力を取り戻すために」
その言葉を聞いてラルンドの表情が曇った。
「支配力を取り戻す為に、何を、誓うの?」
ラルンドの質問に次の言葉を躊躇っているエリスから「復讐」と、ウィンディギルが言葉を受け継ぐ。
「ラルンドも剣を出して誓って欲しい」
サンフィールの瞳が緑色に萌えている。
「復讐なんて…私には出来ないわ」
「あなたの力が必要なのだ。力を取り戻す為には、アリアードに支配力を放棄しようとする感情を起こさせるしか方法がない」
ファリアスの剣が歪んだ。
「でも…」
「聞き届けておくれラルンド。さもないと私もアリアードに対して、闇の力を使わなければならなくなる」
「そんな…」
「あなたが誓わなければ他に方法がない。姉であることを忘れなさい。その傷もアリアードによって付けられたものなのだよ」
ウィンディギルの髪が風で乱れた。
ウィンディギルの言葉により、ラルンドは己の額に醜い傷跡が残っていることを知った。
考えることを放棄していたラルンドは自身も傷を負っていることを失念していた。指摘されたことで今更ながらに傷が痛む。
「…私にはアリアードを傷つけることなんて出来ない…」
そっと額に手を当てながら答える。血を流したことにより奪われた力は血で贖わなければならない。
「復讐と捉えてはいけない。支配力を取り戻す為の誓いだ。今この瞬間にも、アリアードによって人々が脅かされているかもしれないのだ。アリアードをかばうことにより、人々が苦しんでも良いと言うのか」
「エリス…」
ラルンドはすがるような眼差しでエリスを見詰めたが、《あなたは女王の血を引く者だ。民を思いやることを第一に考えなければいけない》エリスの瞳は強くそう語っていた。
しばらくの沈黙の後、ラルンドは左手で大地から天に向け弧を描くと、アンタレスの血と呼ばれる石が柄にはめ込まれている剣を取り出した。
「エロースとアンタレスの血にかけて、誓うわ」
—夜が明けた—
ラルンドは塔から出され、六人の愛し子達が見守る中、馬車で守り神の像の建つ丘へと運ばれて行った。その像の前でラルンドは烙印を押されるのだ。
人々が遠巻きに丘を取り囲んでいた。
一段高い場所に木を筒状に刳り貫き、目の部分だけ穴を開けた被り物を付けた執行人が立っている。
ラルンドは執行人に言った。
「左腕に」
その言葉を聞いた人々の間にざわめきがおこる。大抵の罪人は烙印を極力、人の目に触れぬ場所に押して欲しいと懇願するものなのである。それがよりによって現人神であり、しかも女王の血を引く者が、そのような申し入れをするとは思いもよらなかったからだ。
真っ赤に熱せられた型が取り上げられ、執行人が位置を確認する。
ラルンドは無言のまま頷き、腰の飾りベルトを口に挟むと目蓋をきつく閉じた。
執行人がラルンドの腕を固定する。
じゅっ。
皮膚から黒い煙が上がり、たやすくラルンドの白い肌は熱に溶けた。
痛みが全身を貫き、ラルンドの身体が不自然に跳ねる。
愛し子達は唇を噛んでいた。だが、目を逸らそうとする者は一人としていない。
しかし、これで済んだ訳ではなかった。焼印の跡に顔料を塗込められるのだ。火傷の跡は時が経てば薄れる。だが、傷の上から色を染み込ませることにより、それは一生烙印として残ることとなる。
ラルンドは女王であった。女王足る威厳があった。
彼女は、呻き声一つあげずに処刑を終えた。
執行人が烙印を押した箇所を見せつけるように、ラルンドの左腕を高く掲げると、人々から歓声にも似たざわめきが湧き上がる。
自分の肌の焼け焦げる匂いと、皮膚が裂け、顔料と混ざりあった赤黒い血がこびり付いていくのを目の当たりにして、ラルンドは自分の中にアリアードに対する、今までに無い感情が芽生えるのを感じていた。
どくん。
胸の奥で何かが動いた。そして、それは急速に膨れ上がってくる。
《私はただアリアードに笑って欲しかっただけなのに》
どくん。
《女王の座なんて欲していないのに、私が罪人の烙印を押されれば気がすむの?》
周りを取り囲む民の誰もがラルンドに対し罪人を見る目を向けていることが悲しかった。
執行人はあたかも一仕事を終えたと言わんばかりに、ラルンドを放置したまま片付けを始めた。
見守っていた愛し子達が人々を刑場から追い払うようにしながら近づいてくるのが見える。
ラルンドは、自分の中に芽生えた黒く冷たい感情に押し潰され、あまりの痛みに気が遠くなっていく。くずおれながらも痛みをこらえる意識の片隅で、幼い頃に聞いたエロースの言葉を思い出していた。
【おまえは“感情”を支配し、人々の心を黒く染めるもう一つの“感情”と戦う運命にある。おまえの心が黒く染まらぬように、私の支配する“愛情”を贈ろう…】
エロースの言葉を思い出したと同時に黒く冷たい感情が弾けた。
負の感情と慈愛の感情がせめぎあったのは一瞬だったが、ラルンドの心が乱れたことにより、普段ならば抑えられている支配力が漏れ出していた。
そのためその言葉はまるでエロースがこの場にいて、ラルンドに語りかけているかのようにその場に居合せた民にも伝わった。
神の声を聞いた者達は目を見張った。
神話により語り継がれてきたエロースの愛し子として、この国に生まれ落ちたラルンドの姿に。
なんとなればラルンドの額からは柔らかい光りが放たれていたのである。
罪人の烙印を押されてもなお愛し子として守られているラルンドの姿に、自分達の根も葉もない噂によって創り出された罪を押し付けたことこそが罪であることを悟った。
執行人が「お許しください!」と叫んでいた。
口元に笑みを浮かべていた女の顔が引きつっていた。
この時点に於ても、誰一人として真相を知る者は居なかったのだが、愛し子達がラルンドに対して親愛の情を示していることが、ラルンドに罪の無いことを教えてくれていた。
誰からともなく民は片膝をつき、この愛し子に敬意を表し、そして懺悔した。真実を見ることなく、噂に動かされた愚かさに対して。
ざわめきであふれていた周囲からは音が消えていた。
ラルンドは静かに瞳を開き、軽く息を吐くと、守り神の像へと向き直った。
赤黒くこびりついた血を拭うこともせず、左手で弧を描くと剣を取り出し額に翳す。
自分の心が闇に染まるのを防いでくれたエロースに対しての感謝の意である。
ラルンドの額から光を受けた剣はこれからラルンドが行く道を示すかのように、アリアードが消えた虚空へと光を反射させていた。