㊽-④第三部 第四章 無有の国へ 四節 焼野の雉子(きぎす) 四
四 初蝉
五月二十二日。(1615年6月18日)
佐平の庵の縁側に二人の姿があった。
信州の深山では朝晩はぐっと冷え込む。
十四年も手が入れられていない庭に生気が戻った。
夏草は葉先に宝石のような朝露を宿している。
軒には燕がやってきて巣創りをはじめた。
信繁は昨夜のうちに髪を剃った。
出家僧の様に見える。
「お坊様の頭の方がお顔の八の字眉と良くお似合いです」
「これで何度も髪を結い直して貰う事も無くなり、少しはそなたの手を煩わさずとも済む」
「いえいえ。これからは毎日わたくしがきれいに頭を剃って差し上げます」
桃の木には青い実が膨らんでいる。
春蝉がやって来て鳴き始めた。
短い命を燃やし尽くさんとばかりに懸命に鳴いている。
蝉しぐれが幸村と綾の心に滲み入んでいく。
「初蝉じゃなあ」
「蟬は七年を土の中で暮らし七日を地上で生きる、と父が申しておりました」
「蟬の声こそ天の声かもしれぬ」
「はい、『命果てるまで』ですね」
そう答える綾の顔には微塵も憂いが無い。
真田信之は七年後の元和八年(1622年)に松代へ移封された。
旧領と合わせて十三万五千石の大名となる。
万治元年(1658年)まで長寿に恵まれ、九十二歳で没した事となっている。
松代藩として真田家は明治維新まで生き続ける。
信繁の娘のうち、姉の阿梅は片倉小十郎重綱に嫁いだ。
夏の陣で激闘を交えた伊達家の名将である。
弟の大八と妹の阿菖蒲も重綱が保護をした。
年号は三か月後の七月十三日に慶長から元和に改められる。
家康の死は半年後の元和二年四月(1616年4月)に発表された。
…慶長二十年閏六月一日。(1615年7月26日)
堺の岸壁に繋がれた南蛮船に白髪白髭の翁とその孫娘らしい二人の姿がある。
「初めてそなたを見たのはあそこの松原だった。
あれから十五年になる」
海は凪いでいる。
岸に打ち寄せる波の音が柔らかい。
時折吹く潮風が涼味を運んで来る。
翁ががポツリと言った。
「長い間待たせて済まなかった」
孫娘は日本人にしては色白の頬を薄紅に染めている。
二人は一面の焼け野原となった堺の町を眺めている。
町からは復興の槌音が力強く聞こえて来る。
佐助とまゆが「碧と白の珠玉」の謎を解くために呂宋へ旅立つのだ。
…遥か彼方の南西の海に神々が休息をするという島々がある。
昫が幼い時によく夢で見ていたのはどうやらその島々だ。
夢の中では昫は佐助の妹だった。
同じ夢を一緒に見た事もある…。
大昔にはそのあたりは大陸であったという。
優れた文明が栄えていたが一夜にして滅んだという。
まゆもそう聞いている。
鳥居峠とは全く違うところのようだ。
無有の国…。
碧玉と白珠がそこで待っているような気がしてならない。
まゆもそう思う。
…波の光が舳先と二人の顔に映り揺らいでいる。
あの日とは異なり眩しい光だ。
堺の町も異なっている。
おびただしい人馬と南蛮船や千石船で賑わっていた堺の町のあの喧騒は今はもう無い。
一世を風靡した自由都市のあの豪邸も、店々に並んでいたもの珍しい物品も…。
財宝も、茶道具も、大坂城と供に灰塵と化していた。
その堺の町を二頭の馬が走り抜けて来る。
赤沢と朝暮殿だった。
今井宗薫は徳川家の旗本になった。
赤沢は宗薫を支えている。
二代目蔦谷宗次として、朝暮殿こと和泉屋新三郎と共に、江戸、駿府、博多、長崎にまで根城をはる豪商となっている。
先代の蔦谷宗次こと沼田天水の事が偲ばれる。
長男の春風は甲賀衆の上忍として江戸に詰め、南光坊天海の補佐をしている。
次男の春水は金沢で前田家の執政、篠原一孝こと亀井八右衛門地久の補佐をしている。
ヨモギは信濃望月家の六郎に未だにこき使われている。
楓の尻にも敷かれっぱなしだ。
望月蔵人として甲賀衆の上忍の「人の役」を立派に勤めているし、甲賀望月家の当主の役も何とかこなしてしている。
海野六郎は海野家に戻り、上田宿の一つ手前の海野宿で殿様然とした生活をしている。
甚八と十蔵は鹿児島だ。
鎌之助は駿府で風太郎とともに小太郎を支えている。
小太郎は穴山清庵、風太郎は沢木清風と佐助から命名された。
風太郎は医術の筋が良かった。
もともと風魔の頭領で基礎知識がある上に、どうやら天性の素質があるらしい。
「爽やかな風が谷川の木々でそよぐ『沢木清風先生』とはな。
そんな名を頂いたら、わしでもその気になるわい」
鎌之助に冷やかされても全く気にもしない。
嬉しいらしい。
小太郎の感化よろしく、無欲で治療に没頭している姿は名前の通り爽やかだ。
施療院の経営の考え方は九度山時代の清庵と同じだ。
資金面を心配した今井宗薫が徳川からの援助を申し出た。
小太郎は権勢との関わりを持つことを良しとせず、きっぱりと断ってしまった。
資金は鎌之助が支えている。
薬と真田紐を製造し、赤沢に販売させる。
孤児も引き取り、駿府の志ある子弟と一緒に医術も教えている。
九度山で最初に引き取った子供達の中にはすでに独立している者もある。
鎌之助はこのやり方を全国に普及させるつもりのようだ。
鎌之助には経営の才能が潜んでいた。
「日本一の律儀者」という佐助の言葉が気に入ったらしい。
大きな自信にもなっている。
経営の根幹は信用である。
律儀者が成功しない訳がない。
ちなみに『由利信誠』という名前を佐助から貰った。
…「やっと生まれましたんや。
玉のような大きな男の子ですわ」
朝暮殿が笑顔で息を弾ませている。
「ふき様のお子が?」
まゆの顔が輝いた。
「そうですとも。
お名は、ご存知でっしゃろかな」
「なんでしょう?」
蔦屋宗次が口を挟む。
「『佐助様』ですわ!」
今度は朝暮殿が、
「『男なら佐助。女ならまゆと付けてくれ』
と、清海様がふき殿に言い置かれてはったそうですわ。
『猿飛様と才蔵様にくれぐれも宜しくお伝え下さいませ。
清海様はわたくしの心の中でいつ迄も生きております』
とふき殿が…」
「そうか、清海の子が…」
佐助もまゆも涙ぐんでいる。
「大坂の陣が終わってまだ二か月。
目立つと迷惑をかけるので、見送りには来ぬ様に皆には頼んでおいたので解せなんだが。
それなら二人がわざわざ来てくれたのもわかる」
「はい!」
「嬉しいな、まゆ。清海の子だと。
後でちょっと時空の扉を開けて拝んで行こう」
「ところで志乃様にはご挨拶はもうお済みでっしゃろな」
「ああ。姉上にも、宗薫殿にも、母上にも、ようく後の事を頼んである」
一羽の大鷲が青空の中から翼を黄金に光らせて舞い降りて来る。
帆柱に止まった。
「珝はもう二十歳を超えてまっしゃろ。
何か神々しい雰囲気がただようてまんなあ」
朝暮殿が感心している。
「それはそうと。
堺の町は残念でござった」
「はい、誠に残念至極。
しかしなあ、猿飛様。
生成化育が世の習い。
わし等とて元は裸一貫。
確かに自由都市、堺の町は惜しゅうてなりまへん。
堺人の誇りでしたさかいな。
しかし、もう過去の事。
過去の栄光にしがみ付いた時が『老い』のはじまり。
それは商人とて武士とて同じでっしゃろ」
その後を蔦屋が繋ぐ。
「『なに、無くなったものを悔いるよりは、これからもっとええものを作り出せば良いのじゃ。
それが生きるという事にござる。
それも明るくな!』
と、清海様も、朝暮殿のご隠居はんも、きっとおっしゃいますやろなあ」
「成る程。
清海も利休様もいまだ死んでおらぬ。
皆の心の中でしっかり生きておる」
「堺の町かて、前より立派なものにして御覧にいれますわ。
なあ、蔦谷はん」
「はい。十勇士の皆様から助けて頂いたこの命。
皆様の分も、生き抜いて生き抜いて、生き抜いて見せまっさかい。
猿飛様、才蔵様。
呂宋やシャムや、イスパニアをご覧になったら出来るだけ早うお帰り下さいませ!」
「朝暮殿も蔦谷殿も達者でな。
艫綱がはずされておる。
そろそろ船が出る様だ」
朝暮殿と蔦谷の二人は船から降りて岸壁に立ち、目に涙を溜めて湧き上がる感情を堪えている。
南蛮船がいよいよ岸壁を離れていく。
その時、疾風が起こったかと思うと銀色の影が二人の横で止まった。
太郎だ。
口に白いものを銜えている。
舳先に留まっていた珝が大きく一羽ばたきすると、海の上で旋回をして太郎の前に降りた。
太郎は銜えていた白い生き物を珝の背に預けた。
珝は大切そうに飛び上がる。
佐助の所へゆっくりと飛んで来た。
やんちゃそうな仔だ。
珝の背から勢いよく佐助の肩の上に飛び乗る。
なんとか肩にへばりついた。
と思ったら、当たり前のように佐助の懐の中に潜り込んでしまった。
「無茶をするなあ…」
佐助は両手で取り出すと、頬ずりをしてからまゆに渡した。
「まあ、かわいい。白狼の赤ちゃんです」
岸壁では太郎が頻りに首を縦に振っている。
太郎も十八歳だ。
人間にすれば百歳を超えている。
しかし、まだ衰えなど感じさせない。
「クー、クゥ、クゥ。ク、クーゥ、クーゥ」
ーーーワシハ呂宋ヘハ行ケヌ。
コレカラ佐助ヲ、オ守リスルノハコノ仔ダ。
雌ジャ。
ワシハ太郎山ヘ帰ル。
シカシ、イツマデモ佐助ト一緒…。
朝暮殿と蔦谷には「クー、クー、クー。」としか聞こえない。
だが、二人にも何となく意味がわかる。
太郎の別離の声を聞いて、今まで堪えていた涙の堰が切れてしまった。
とうとう鼻水まで出して泣いている。
南蛮船は沖に向かって遠ざかっていく。
まゆは佐助に寄り添ったまま岸に向かって手を振っている。
熱いものが込み上げて来て、ただただ涙が溢れて景色が滲んでいる。
岸壁の朝暮殿と蔦谷と太郎の姿が点となっても手を振り止めない。
まだ名前の無い白狼の子はまゆに抱かれていたが、いつの間にか首まで掻き上がっている。
涙に濡れる頬を優しく嘗める。
青と黒の瞳からは涙が止まりそうもない。
その瞳が佐助の顔を見上げた。
「佐助様!御髪が黒・・・」
…この仔の名前は決まっている。
「昫」だ。
取り合えずこれにて筆をおかせていただきます。
是非、皆様からの忌憚のないご批判を頂ければと存じます。




