㊽-③第三部 第四章 無有の国へ 四節 焼野の雉子(きぎす) 三
三 育む心
「うむここは・・・」
「鳥居峠の隠し里にござる」
信繁は五日ぶりに目覚めた。
「佐平殿の?」
「いかにも。まだあの世ではございませんぞ」
「鎌之助か。良く生き延びてくれたの」
「殺さぬ。死なぬ。それが約束ゆえに」
「わしは約束を破ってしもうた」
「済んだ事は仕方がございませぬ」
「すまぬな…」
信繁はまた意識をなくした。
…その五日前の五月七日。
黄昏の気配が微かに安居神社の境内に残っている頃…。
ふきと赤沢達十五人の堺衆が駆けつけて来た。
その顔には血の気がない。
三好兄弟の遺体は四台の荷馬車に乗せて運ばれた。
無論、桜木も青葉も一緒だ。
…佐助と才蔵が空から安居神社に降りて来た時には清海はすでに事切れていた。
銃弾の盾になる前に清海の心臓はその役目を終えた。
同時に桜木の心臓も鼓動をやめた。
桜木は兵を追い払うように地響きを立てて大地に倒れた。
四天王寺に稲妻が落ちたのはその時だった。
地面が大きく揺れ、白く光り、その後しばらく静寂が訪れた。
佐助と才蔵は何度も清海と伊佐の名を呼んだ。
だがもうこの世には戻らなかった。
清海の巨体は白く光る大地との間で信繁をしっかりと挟み込んでいた。
三好清海入道 四十歳。
三好伊佐入道 三十八歳。
清海と伊佐の亡骸は九度山の桃源郷に帰った。
ふき達は九度山に帰ると鎧を解いてやった。
体に刺さっている矢や鉄砲の弾などを一つ一つ取る。
満身創痍だったが、いずれも分厚い筋肉の層でとどまっていた。
鎧の下に着込んでいた鎖帷子はぼろぼろになっている。
いつの間にか、清海の亡骸の傍には赤犬の次郎がうずくまっている。
鼻を擦り付け、小声で泣き続けている。
「クーン。クーーン」
ふきは次郎を抱きしめて泣いた。
母の熊野も哀しみを押し堪えて座っている。
兵衛作とお奈良も息を切らしてやって来た。
「清海様は自分の食べる分まで次郎にやってましたさかいな・・・」
赤沢は言葉にならない。
はらはらと涙が流れて止まらない。
丁寧に遺体を清めて楽にしてやった。
太郎が傷口を嘗めてやっている。
まだ明るい夏の夜空に次郎の悲鳴のような声が響く。
「キュン。キューン。キュキュキューン」
桃源郷の中に小さな山ができた。
その中に桜木も青葉も一緒に眠った。
山の天辺に桜の苗木を一本植えた。
佐助が三好桜と命名した。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。千年を生きよ。ウン!」
才蔵が気合いを入れると苗木の枝から新芽がニュッと出た。
「笑うてはります」
ゆやが涙声で言った。
空から大粒の雫が一滴。
三好桜に落ちてきた。
西に傾いている半輪の月が慈しむように光を投げかけている。
…同じ五月七日、戌の刻。
甚八は九鬼水軍の小早船の甲板にいた。
海風が東風に変わった。
水夫達は顔馴染みの連中で皆たくましく綱さばきも早い。
帆綱のうなりが張り切った。
これで順風満帆だ。
舳先に片脚をあげる。
甚八の顔に激しい波飛沫がかかる。
陽は沈んだが西の空は薄紅色に霞んでその上は透明な紫だ。
左手には淡路島が黒い島影を落としている。
後方の大坂城の炎はどんどん遠ざかっていく。
半日前は生地獄の中にいたのが嘘のようだ。
…一刻前の酉の刻ことだ。
両六郎他真田衆二十名は隧道で待機していた。
桐の局が糒蔵から出るのを今や遅しとばかり待っている。
戸が閉められた。
間髪を入れず、糒蔵の地下室に進入する。
蔵に残っている全員が気を失ったままだ。
息を確かめてから着物を脱がせて町人姿に替える。
二十九人を山里曲輪から搬出した。
搬出は簡単だった。
糒蔵の地下から脱出用の隧道や間道を天満川の岸辺まで海野六郎が造ってあった。
脱出の為の仕掛けは十蔵の火遁だけではない。
甚八の水遁、海野六郎の土遁、望月六郎の人遁の網が綿密に張ってある。
甚八と十蔵は天満川に手配した六曹の小舟で待っていた。
両六郎に糒蔵の後始末を任せて、暫しの別れを告げた。
そして、木津川で待機している九鬼水軍の小早船と合流したのだ。
両六郎は真田衆が用意してあった二十九の遺体を隧道から糒蔵へ運び込み、着物を着せ替えて化粧をさせた。
・・・・・
…船底にいた十蔵が駆け上がって来た。
「心臓が持たぬほど暴れおって・・・!?」
甚八も茫然としている。
「西方浄土というところはあんなぼうっとした綺麗なところかのう・・・」
佐助からの心話で三好兄弟の死を告げられた二人は西の空を見つめている。
込み上げる涙の堪えようがない。
心の中に広がる大きな空洞に飲み込まれそうだ。
ただ茫然と立ち尽くす。
時だけが動いた。
十蔵は気持ちを切り替えた。
「猿の呪いとはな・・・!?」
甚八の渋い顔は一段と渋い。
「四国五十万石の和議を何度も潰しおったのは…。
太閤の執着が加担しておったのかも知れぬ?」
「薩摩に身を隠すのが呪いを解きやすい、と猿飛は見たのだな?」
「多くの人の命が犠牲になった。
ここまで大ごとになってしまっては、秀頼君は世に出ぬ方が良いだろう」
「下座の行から出直しをさせろと、猿飛に言われただろうが」
「わしは良いが、性急なおぬしには気の毒じゃ」
「そうでもないかも知れぬぞ」
「そうだな。秀頼君はものになるだろう。
胤が良い」
「それにしても、殿が魔に魅入られていたとは…」
甚八の着物はぐっしょりと濡れている。
気にする様子もない。
「子を思う親心は尊いものだが・・・」
「それは闇烏天鬼とて同じことだ」
「殿も淀殿も、さぞかし辛かったであろう」
船が大波を砕いて音を立てた。
十蔵は己れに言い聞かすように、
「誤ちは誤ちだ。
今日の殿は修羅に堕ちておった。
四万の人の命を犠牲にされては困る」
「まったくだ。
確かに誤ちだ。
権勢の中にあって、力を持つ者は常に狙われる」
「そうでなくても狙われる」
甚八が奥歯を噛みしめる。
「『生きる』とは難しい…」
舳先にいつの間にか大きな烏が止まっていた。
烏は月光を受けて黄金の輝きを放っている。
「悔いるまいぞ。
おぬし等は良くやった。
この世は全てが思うように行くわけではない」
烏は人間の言葉を喋った。
大きな羽で音を立てずに羽ばたいて東の空に消えた。
「あれは八咫烏ではないか?
三本足だったぞ」
「あゝ。あれは紛れも無い八咫烏だ」
「熊野で修行し、九鬼水軍の鬼才と言われた甚八が言うのだから間違いあるまい」
「おぬしこそ、雑賀孫市殿の秘蔵っ子だったと聞いておるが」
「励ましに来てくれたのじゃなあ・・・」
上弦の月が正面から煌々と行く手の海面を照らし出した。
大助が左脚を引き摺りながら甲板に出て来た。
十蔵が声を掛ける。
「若、目覚めたか?」
甚八は大助の世話役を十蔵に押し付けていた。
大助は子供のころから十蔵に懐いている。
頭の回転が速い者同士、気が合うのだ。
「はい。やはり海の上でしたか」
「気分はどうじゃ?」
「なんだか頭がすっきりしています。
憑き物が落ちたとはこんな感じでしょうか?」
「鋭いな、若は」
何も知らない大助は怪訝な顔だ。
「若が一番軽傷だったようじゃ」
「狐にでもつままれていたのでしょうか?」
「重い連中はまだ船底でござる。
まだまだ目覚める気配もござるまい」
勘の良い大助はおおよそを察した。
「鹿児島に着くまでには目覚めてもらわんと、ちとめんどいが…」
「鹿児島ですか?」
「ああ。鹿児島じゃ。
猿飛が島津忠恒殿に話をつけてある」
「猿飛様なら間違いないでしょう。
それに逃げるなら、遠方で、しかも徳川と渡りあえるしたたかなところが良い」
十蔵が「燻し銀」の声を真似て、
「島津は代々食えぬぞ。
琉球との揉め事を理由に、このたびとて一兵も大坂には寄越しておらぬ」
「一難去ってまた一難でしょうか?」
「さあ、どうなるかな?
ところで若。黄金二万枚、銀五千貫ほどこの船に積んであるぞ」
甚八がどさくさに紛れて埋蔵金の一部を積み込んだ。
四神獣になった時に金銀の所在を見ている。
甚八は金銀のありかを海野六郎から詳細に聞いていた。
海野六郎には金子の気持ちがわかるという異才がある。
望月六郎が甲賀衆五十三家筆頭格の望月家で百年に一度の才人と呼ばれていた。
が、海野六郎もまた富豪の海野家でそう呼ばれている。
「金子の匂いを嗅ぎ分ける海野様の計らいですか?」
「鹿児島で足元を島津に見られるのも嫌だろう」
「それにもともと秀頼様のものですから、盗っ人にもなりますまい」
「城と一緒に埋もれてもしようがない。
金子は大切にして活かしてやると金子が喜ぶそうだ」
「徳川に渡すのも癪ですし、下で眠っているお方達に、いきなり九度山のような生活はできますまい」
「物分かりが良いのう。
だが、取り敢えずは贅沢な暮らしはさせぬぞ。
使うのは金子の有り難みが解ってからじゃ」
せっかちな十蔵は世話役の責任を早速果たし始めた。
「ところで…。
秀頼君は若の兄だという事が今分かったぞ」
「・・・・・・」
「若には伝えよ、とのことゆえに下の連中が目覚める前に伝えておく」
佐助から心話で説明を受け、十人衆は事の顛末の概要を聞いたばかりだ。
十蔵も今までの謎が氷解し始めているところである。
「よくわかりませぬな」
「今は解らずとも良い。
一応聞いておけ。
他言無用じゃ」
もともと無口な甚八は舳先にたたずんだまま半輪の月を見つめている。
傾き切った月は瀬戸内の島々の間の海面に浮かんでいた。
「何か良からぬ事でも?」
「三好兄弟は死んだ…。
・・・・。
殿は無事じゃ。
詳しい事は又にしよう。
若も今日は大変だっただろう。
下に戻るが良い。
寝た振りをして、二十八人の監視をしてくれ」
素直な大助は船底に戻ると横になった。
疲労がどっと出て、再び深い眠りに落ちてしまった。
徳川方の九鬼水軍の船は佐助が手配してあった。
志摩鳥羽藩主、九鬼守隆は婿の戸田忠能をわざわざこの船に寄こしている。
忠能は旧知である甚八の顔を見ると懐かしがり、心から喜んだ。
帆は追風をはらみ、軍船の船足は海面を滑るように早い。
…五月七日亥の刻。
信繁は意識がないまま四天王寺の小太郎の治療所に寝かされていた。
赤備えの鎧兜は外されている。
心話で呼ばれた鎌之助が颯と共に現れた。
暗闇の中で赤沢が持ってきてあった商人の衣に変えて姫月に乗せる。
鎌之助も用心棒らしき出で立ちに着替えさせられた。
佐助が「空蝉の術」をかけると姫月の馬上で信繁の身体がむっくと起き上がる。
「しばらくは殿の魂を鎌之助の身体に預ける」
「畏まった」
「鳥居峠まで頼む。
ゆっくりで良い。休み休み行ってくれ」
「颯も姫月も限界を越しておりますからな」
「おぬしもだ!」
髭面の才蔵が腰から竹筒を出すと二人に水を振りかける。
二頭の周りにもうっすらと霞がかかった。
…それから八日経った五月十五日。
天頂には満月が差しかかっている。
大猿の琿を挟んで、佐助とまゆが佐平の庵の縁側に座っている。
積もる話をしているようだ。
珝は四阿山の上空を気持ち良さそうに旋回をしている。
太郎は佐助の脚元に前脚を投げ出して眠そうに話を聞いている。
大猿の琿は二十七歳だ。
まだまだ鳥居峠の主は譲らないらしい。
琿がほとんどしゃべりまくっている。
信繁が鎌之助に支えられながら縁側に出てきた。
「お目覚めになったか」
「もう満月か…?」
「八日も眠っておられたぞ」
「今は大潮の満ち潮。
そろそろと思っておりました」
まゆが嬉しそうな顔になり、立ち上がって厨へ行った。
「赤子でも御生れで?」
信繁の肩を後ろから鎌之助が抑えている。
縁側に座ってもまだゆらゆらしているのだ。
満月を見上げる佐助の顔が明るい。
「そうなのだ。
今宵は新しい殿の誕生だ!」
まゆが厨から白湯と重湯を運んで来た。
「琿が汲んできてくれた岩清水と小太郎様の秘薬の入った重湯です」
「おお、琿が!」
信繁は十八年前に出会った時から琿に好意を持っている。
白湯を押し戴いて一口飲むと、重湯を口に運んで食べた。
暖かい固形物が腹の中に収まっていく。
「旨い!
生き返った心地とはこの事じゃ。
五臓六腑に染み渡る」
鎌之助はようやく肩の手を外した。
信繁がつぶやいた。
「『殿が魔物のおおもと、危ない。猿の呪い』
これが小助の末期の言葉じゃった」
生真面目な鎌之助はまだしっくりこない。
「とのがが まものの おおもと、でござったか?」
「間違いない。
今しがた小助が夢枕に現れて、気合いを入れられた」
「それでお目覚めに?」
「そう。小助が起こしてくれた」
「という事は殿が魔物の元締めだと?」
「そういう事じゃ」
「猿飛様と才蔵様は知っておいでだったのか?」
「知っておればこんな事にはならぬ!」
佐助は自分の不甲斐なさに腹を立てている。
険悪な雰囲気になったが鎌之助は手慣れている。
気にするでもなく、庭に降りると太郎の銀色に光る背中を撫でながら、
「灯台下暗しでしたな」
「小助が命をかけて知らせようとしてくれたのに、わしはいいようにやられてしまった!」
「魔物のおおもとの張本人でさえ気づいていない事ゆえ仕方がありますまい」
「怪しいとは思っていたが、確信を持ったのは殿が采配を叩き割った時だった。
殿ではない別人が顔を出していた。
それで急ぎおぬし達の間に心話を開いた。
皆の馬や得物には六日から術をかけておいた。
七日の決戦の時は、殿だけがわしの掛けた術を破って殺戮を始めてしまった!」
太郎が片目を開けてまゆに合図をした。
このところの佐助は赤子返りをしたように気が荒い。
同じく気性の激しい珝に佐助を突っ突かせろ、と言っている。
太郎も太郎だ。
まゆが上手く間に入った。
「四神獣の秘術をした十二月あたりからは、わたくしも怪しいとは思っておりました。
殿は四神獣の波動が当たらぬように護摩壇に逃れておいででしたから」
「今から思うと、昫が殺された時も小太郎が術をかけられていたと思っていたが・・・?」
「どうもわしが巧みに操っていたようじゃ」
「ふむ。幸様の時も殿は操られていたのか?
操られたとはいえ、実の妹まで犠牲にさせられるとは哀れなものだ!」
まゆも驚いている。
「殺された幸様も月様もあの時はお気付きではありませんでした。
今の今、私達が気付いて初めてあちらの世界でもお気付きになったようです…」
鎌之助が驚いて、
「今の今のことか?」
佐助も少しずつ過去の事が繋がって来た。
「そうなんだが…。
あの時、幸様は何か違和感を感じておられた。
何かを訴えるような表情が解せなんだが…。
あゝ、わしはなんと鈍いんじゃ。
あの時、もっと突っ込んでおれば!」
珝と太郎はすでに結界を張っている。
太郎の毛並みは銀に輝き、珝の翼は黄金色ですでに発動状態だ。
異次元の空間に入っているらしい。
大助の顔は警戒色で真っ赤になっている。
まゆは髭面の大男に変身している。
野太い声で、
「真実を知るために、小助が殿を目覚めさせたのじゃ。
魔界の何重にも巡らされた網をようやく破れたらしい」
佐助には小助から次々と情報が降りて来る。
「ふむ? 小助の暗殺の時も…?
正体に気付いた小助を金沢に行かせるように殿が裏で動いていたのでは?」
鎌之助が珍しく雄弁になった。
「なんと、そして見事に小助を殺し、猿飛様に村正で闇烏天鬼の手下を殺めさせたのでござるか?」
「外面如菩薩内心如夜叉を絵に描いたのが殿だ!」
「何のためにそのような事を?」
そういう鎌之助の手から肩あたりまで、太郎の銀色が移っている。
「わしとまゆを魔界に引き摺りこむためだ。
わし達を悲嘆にくれさせ、絶望させ、闇烏天鬼を恨ませ呪わせる。
隙がほんの少しでもできれば、知らぬうちにわし達の中に入り込む」
「殿の中に入り込んだようにでござるか?」
「如意宝珠を持ったわし達が魔界に加担すれば…?」
「戦さの世はさらに収拾がつかなくなり、果てしなく続いたでしょうな」
「そう、今なお、この国は麻の如く乱れていただろう」
「そうはなりませんでしたな」
「それはおぬし達という友がいたからだ」
「わし達のおかげでござるか?」
「『人殺しはせぬ』という変人達だからな。
敵を殺し、大将首を上げれば恩賞がもらえる。
そうして立身出世をするのが当たり前の世の中なのにな」
「大殿も変人だったのでは?」
「そう、名だたる大名の中でもその才能たるや、ずば抜けたお方だ。
『人殺しはせぬ』というのも本気だった。
そしてずっと暖かい目で見守ってくれた」
信繁が重い口を開く。
「しかし、わしは違った。
おぬし達に調子を合わせていただけだった。
心の半分は大坂城にあって、淀殿と秀頼君の行く末を常に案じていた。
結局、我が子のために大戦さを起こしてしまった…」
「わしとて殿を責める事などできぬ。
このたびの大戦さも、わしの働き次第では何とかなっておったかも知れぬ。
為すべき立場にありながら、為すべき事を為さなかった事に変わりはない」
「・・・」
「我が子のために自分の生命を犠牲にした者。
家臣のために他人の命を奪った者。
どちらが正しくどちらが間違いとは言えぬ。
言えるとすれば『魔に刺される隙』があった事だ」
「わしは魔に刺されたのか・・・」
…二十三年前の待庵に入ったつむじ風は魔界の風だったのか?
白雲斎はその時すでに佐助を育てていた。
そして、二組の白珠と碧玉がこの世に現れた。
信繁の元には十勇士が集まった。
穴山小助
海野六郎
望月六郎
根津甚八
筧十蔵
三好清海入道
由井鎌之助
三好伊佐入道
猿飛佐助
霧隠才蔵
いずれも当代きっての凄腕だ。
両六郎がそれぞれの一族で百年に一度の才人と言われたように、皆天才である。
その天才達が信繁の元に集まった。
信繁の人徳が引き寄せたのだろう。
信繁は卓越した人徳と才能を持っていた。
魔界はその信繁を狙った。
白雲斎が十勇士を集めたのか?
十勇士は珠と珠とが引き合うようにそれぞれの魂が呼び合って集まったのか?
宝珠は明らかに意志を持っていた。
小助が去り、清海と伊佐が去った。
四天王寺に白い光を落とした後、宝珠は消えた。
その役目を終えたからだろうか?
とすれば、遺された者にはまだ使命がある。
身体が半分程銀色になった鎌之助が驚いている。
鎌之助は自分の身体の異変にはまったく気付いていない。
「えっ。宝珠は消えたのか?」
才蔵が野太い声で、
「魔物も雲散霧消したが、宝珠達もわれ等の懐には帰って来ぬ」
佐助は己れを戒めるように、
「宝珠の事はさておき、魔物はいつも我らの中に潜んでおるぞ!」
野太い声が、
「そうだ。『心の中の魔物を抑えられるかどうかが肝腎じゃ』と清海様が言っておった。
わし達の心の中は善と悪が半々だとな」
鎌之助はまだ太郎の背中を撫でている。
「そうとも。清海は馬鹿に見せて賢かったな。
ひょっとすると本当に悟っておったのかも知れぬ。
惜しい男を失った。
なあ、猿飛様」
「清海は命をかけて殿から魔物を追い出した。
心臓は疲労で止まったのではなく、魔物との戦さで止まったのだ。
そして魔物が殿の肉体から完全に退散するまで抑えつけていた」
「やっぱり、三好兄弟は只者ではありませんでしたな?」
「そのおかげで、殿の心の深層までわしは入る事が出来た。
そして秀頼君が殿のお子である事を確認した。
才蔵は糒蔵で失神している淀殿の心に入り、なお確かめた」
鎌之助は穏やかで気品に満ちた顔になっている。
静かに語り始めた。
「わしにもだいぶ飲み込めてきましたぞ。
何故あの日、猿飛様が我らに術をかけられたのか」
「ほほう?」
「あの地獄絵の中でござる。
我ら人間は生命が狙われれば防衛本能が働き相手を殺す。
守るべき生命が我が子であれ、友であれ、自分であれ。
人間は生きる為に、自分の生命を守るのが本能でござる。
生まれて来た時からそのように出来ておる」
「ふむ」
「我が子を守るためとは言え、行き過ぎると血が血を呼び虐殺にもなる。
佐助様の育ての父である佐平様はそれを嫌がり、この地に隠遁された。
実の父である信長様は天下布武を貫く事にこだわり、道半ばにして魔界の虜になった。
それを諌めんとしたのが光秀殿と家康殿だった。
ところが、協力するはずの太閤が魔道に堕ちてしまわれた」
鎌之助は身体全体から銀の光を発している。
発動している太郎を撫でている間に太郎の気が移ったらしい。
「鎌之助。よくそこまで」
と野太い声に褒められて、
「いやあ・・・」
頭をかいているのがあどけない。
愁眉を開いた佐助が、
「ははあ。そうであったか。
わかったぞ!」
「と、おっしゃいますと?」
問う鎌之助は銀の光にまだ満ちている。
「白雲斎様は殿を見込んで、魔界に棲む魑魅魍魎達の御霊代にされたのかもしれぬ。
戦乱の世を終わらせるために。
殿にしか出来なかった事だと思う。
その殿の元にわし達を集めて、全てを託したのだ」
…珝が降りて来て桃の木に留まった。
「おお、そうか済んだんだな。
琿ももういいぞ。
ありがとう」
琿の戦闘色が消え、鎌之助の銀の光も消えている。
才蔵も大男からまゆに戻っている。
信繁は大きな息を吐いた。
「わしのせいでたくさんの尊い命を犠牲にしてしもうた」
「済んだ事は悔いても元には戻らぬ。
殿だけのせいではない。
わしはまたしくじった。
もっと何か手があったはずだが、大きな犠牲者を出してしもうた」
鎌之助は相変わらず気品に満ちた顔だ。
「清海が言っておりましたぞ。
悔い改めた者には過去の罪は問わぬ。
『赦す心』こそが平和の鍵じゃと」
「そうだったな」
と言う信繁に鎌之助が、
「平和の鍵はまず己れの心に使うべきでは…?」
まゆも信繁をいたわって、
「このたびは一番のお辛い役を殿が背負われたのでは?」
「確かに。そうでございますな。
十一人の皆が同じくらい辛い役を背負うたのではございますまいか。
死んだ者も生きておる者も。
皆心が繋がっておりますから」
「鎌之助、おぬし格が上がったな」
「そう言われてみると、目から鱗が取れたような気がせんでもない」
世話好きの琿が竹筒に岩清水を汲んできた。
皆に飲ませたいのだ。
佐助は竹筒を受け取ると、
「ありがとう。琿。
殿、汲みたての清水じゃ。
精がつくぞ」
信繁は「ゴクリ!」と音を立てて琿の岩清水を飲んだ。
「旨い!
新しい命を貰うたような気がする。
生き返る心地じゃ!」
「綾殿は浅野殿のもとで囚われの身だが、月が変わるまでにはこちらに来られる。
両六郎が動いておるので大丈夫でござる。
大助殿も無事。
秀頼君と淀殿も島津殿のもとでござる。
こちらは甚八と十蔵がついておる」
「そうか。かたじけない。
わしは腹掻き切って死んで詫びたいところじゃが、それでは許されまい」
「お互い、このたびの責任はとらねばならぬ。
我が父信長は本能寺から逃れた後に修験道を極めた。
命果てるまで光秀殿と家康殿を導いたと聞いておる」
「まだ生きておるという事は、すなわち生かされておるという事か?」
「そうでござる。
神仏がお赦し下された、と考えるべきかもしれませぬな」
信繁は琿の岩清水をもう一口飲んで、
「赦されし者が責任をとるとは、人を活かし育む事かな?」
「『赦す心』、その次は『育む心』でござるか?」
まゆの目が輝いている。
堺の松原で佐助に出逢った時のように…。
「まさしく、それこそが『戦さ無き世の鍵』でございましょう」
「そうだ、まゆ。
魔物とはどんな人の心にも宿る物。
遺されし八人の使命とは…。
魔の芽を摘み取り、人を赦し、人を活かし育み、平和な世を築き上げる事だ。
それぞれの場所で…」
十五年の時を経たが、あの時の小春日和の海の奏でる穏やかな潮騒が聞こえるようだ。
「それぞれの場所で、とな。
猿飛はこれからどうするつもりじゃ?」
と信繁が問う。
「甲賀の惣領を小太郎に譲る」
「ええっ!」
鎌之助が仰天している。
「わしはこの手で人を殺めた身ゆえに甲賀の惣領の資格がない」
「そ、そうでしたな…」
「小太郎にはこの十五年かけて甲賀の奥義を伝えてある。
命を救う仕事を天職とする小太郎こそが甲賀の惣領に適任だ。
まさに『育む心』だ。
天海殿、篠原一孝殿、ヨモギ殿の指導役には穏やかな心の持ち主が良い」
格の上がった鎌之助が、
「ところで才蔵様はこれからどうなされる?」
「私もまだまだ極めねばならぬ事がございます。
一旦は伊賀の惣領は鎌之助様に預かって頂くつもりです」
「わ、わしに?
わしは人を、な、何十人も殺しておりますぞ!」
「伊賀の惣領にはそのような縛りはございませぬ」
「わしは伊賀衆ではありませぬぞ!」
「十五年かけて一緒に修行をし、奥義を共に学んだではございませぬか。
どうか十年だけ伊賀の惣領を預かってくださいませ。
今一歩踏み込まねばならぬ事がございますゆえに」
「今さっき太郎を撫でたのが修行の証しだ。
よく考えて見ろ。
並みの者が発動した太郎の背中に触れる事ができる訳がないだろう!」
「しかし・・・」
「往生際が悪いぞ。
おぬし、わしの家来だったはずだな」
「そ、そうだが…」
「これは命令だ!」
「はあ!?」
薩摩藩主、島津忠恒は真田信繁を「日本一の兵」と褒め讃えた。
…「殿は日本一の兵であり、おぬしは日本一の律儀者だ」
酉の刻:午後6時、戌の刻:午後8時、亥の刻:午後10時




