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碧と白の珠玉   作者: 真緑 稔
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㊽-②第三部 第四章 無有の国へ 四節 焼野の雉子(きぎす) 二

 二 禁断の恋


 文禄元年十月一日。(1592年11月4日)

 夏の陣から遡る事二十三年。

 秋の夜もとっぷりとくれた山里曲輪での話である。



 ぬばたまの闇夜の中にぼんやりとした光がある。

  遠くに見える草庵の窓から漏れている。

 虫の声にいざなわれるように足が向いていく。

 せせらぎの音が心地よい。


 茶々はふと空を見上げた。

 そういえば何ヶ月も空を見上げる事など忘れていた。

 新月なので月はないが空は晴れている。



 …大坂城本丸の入口は南の桜御門だ。

 門を入ると右側に表御殿がある。

 政務はここで執られている。


 そこからやや隔てた北奥にくろがね御門がある。

 本丸の中央にあたる。

 それより奥の北半分は奥御殿で秀吉の私邸である。


 天守閣はその東北の隅に聳えている。

 鉄御門より奥は出入りが厳しく規制されている。

 酉の上刻から翌朝の辰の刻までは女性の出入りさえも禁止されている。

 山里曲輪と芦田曲輪はさらにその奥の城の北端にある広大な庭園だ。



 …茶々はほのかな灯りを確かめてみようとしている。


 山里曲輪の暗闇の中を一町も歩いただろうか。

 木々の間をなんとか水堀際の東奥にある草庵に辿りついた。


「どなたかおいででしょうか」

「・・・」

 戸口を叩いてみる。

「丁度良い。お入りなされ」

 (やはり人がいる。それにしても厚かましい…)


 細戸ささど)を開けてにじり口から中を覗いて見た。

 一人の武士が燈明も点けず点前てまえをしている。

 ほのかな灯りは炉の炭の火だったようだ。

「ささ、どうぞ奥へ」



 …この草庵は待庵たいあん)という。

 天下分け目の天王山の合戦の後…。

 秀吉は戦争が終わったあとも天王山に城を築いて本拠地として半年間ほど住んだ。

 千利休を招いて城下の山崎に草庵を作った。


 利休はわずか二畳の茶室を作った。

 待庵は大坂城築城に際して解体され山里曲輪に移された。

 秀吉は最上級の貴人の接待に使っていた。



 …鶴松を亡くして一年余りなる。

 ずっとふさぎ込んではいたが、もともとは肝が据わった女性だ。

 そうでなければ新月の夜に奥御殿を抜けだして山里曲輪を一人でうろついたりはしない。


 その夜は強い喪失感と恐怖心に襲われた。

 部屋に閉じこもっていることにも耐えれなくなった。

 身の置き所がなかったのだ。



 …二畳の茶室に上がり込むと、亭主の前に座った。


「どこのどなたかは存じませぬが男子禁制でございますぞ」

「この山里に棲む狸にござる。

 人ではござらぬ。

 闇夜ゆえ、まさか人に出逢うとは狸の身とて思いませなんだ」


「まあ」

「どこのどなたかは存じませぬが女人も禁制でござるぞ」


「淀城の狐ゆえ人ではございませぬ」

 狸の亭主は黙々と点前を続ける。


「燈明も点けずに?」

「狸ゆえ夜目が利きましてな。さ、菓子をどうぞ」


 懐紙に包まれていたのは子餅こもちだった。

 つぶらな藪椿が一輪だけ生けてある。


「今日は亥の月の第一の亥の日。

 亥の日であり朔日ついたちという稀にみる縁起の良い日。

 草むらで朝から様子を伺っておりましたところ、炉開きをする気配が一向にござらぬ。

 そこで明日にならぬ内にと思った訳でござる」


 不審な気持ちが残ってはいるが、添えてあった黒文字で三分の一ほど餅を口に入れてみた。

 意外な美味しさだ。


「まあ、あずきの香りに栗もあって程よい甘さ。

 侘び寂びのお分かりになる狸殿のようですね」

「かたじけない。

 そなたも狐ゆえ、どうやら夜目が利きくようだな」


 亭主はもう茶々だと気付いている。

 だが態度を改めようとはしない。

 同じ年頃の異性からこんな扱いを受けるのは姫さま育ちの茶々には新鮮だった。


「亥の月は陰の気の極まる「極陰」の月ゆえ、陰の気が極まると同時に陽の気を孕んでおるとか。

 わかり易く言うと、『嫌な事や悪い事はすべて済んで良き芽が出ようとしている月』なのじゃ。

 亥の日とは五行では「水」の日に当たる。

 火を使う炉開きを水の日に行うとその冬は火事にならぬとか」

「故事に詳しい狸殿ですね」

「陰陽五行にござる。

 狸は物識りでな」


 だんだん気分がほぐれてきて、柴田勝家の元で暮らした小谷城の長閑な日々を思い出した。

 こんなに縛られない気持ちになったのは久しぶりだ。


「では亥の子餅にはどんなご利益りやくが?」

「多産である猪(亥)にあやかり子孫繁栄じゃ。

 子宝に恵まれる。

 大豆、小豆、胡麻、栗、柿それに新米の七種類の粉で猪の形にして餅を作り、食べて祝うのじゃ」


「子宝・・・祝う・・・!?」

「そう。祝うと良い事が訪れる」


 亭主は茶碗から茶筅を糸を引くように離している。

 並の動きではない。

 微かに泡だった茶を差し出した。


「いただきまする」

「ご利益りやくがきっとある」


 どうやら亭主は茶々の心の内を察して遠巻きに温めようとしている。

 亭主が誰であるか察しがついた。


「まあすがすがしいお味。

 お正月のようですね」

「いかにも茶の正月でござる。

 八十八夜に摘みとった新茶を詰めた茶壺の「口切り」を今日致した。

 石臼で挽いたばかりでござる」


「まあ、それでこの香りが…」

「今宵はこっそり独りで楽しむつもりであったのだが」


「いたずら狸殿ですね」

「兄はまともな狸でござるが・・・。

 拙者は親狸に似たのかもしれぬ。

『表裏比興の者』等と狸にとってはありがたい褒め言葉をもらうような古狸殿で手を焼いておる」


「その親殿はここに呼ばぬのですか?」

「兄と共に肥前の名護屋(なごや)に参っておる。

 わしも三の字に急に呼ばれて名護屋から内緒で帰って来たが、用事も済んだので明朝早くに立つ。

 今夜は束の間の夢といったところでござるかな」


「いたずら狸殿のご一服のお邪魔をしてしまいましたでしょうか?」

「一服とな。

 ほほう、これも一興でござるぞ。

 もう一服いかがかな」


「いただきましょう」

「そうこなくては。

 狐殿のお名のとうりになりましたな」

 茶々は思わず微笑んでしまった。


 気持ちが軽くなって、夜更けだというのにもう一服飲んだ。

 一服目はやや薄めに、二服目はやや濃く少なめに立ててある。


「まあ、細やかなこと…」

「三の字に口うるさく仕込まれました」


 吹き出しそうになるのを堪えて三口目で吸いきった。


「いたずら狸殿は仔だぬきの頃から人質でご苦労が多かったとか?」

「今も猿の人質でござる」


 茶々はついに笑いを漏らした。


「わたくしも人質のようなもの」

「人質狸に人質狐でござるか。

 それも同じ猿の」


 信繁は三成から茶々の生い立ちを詳しく聞いていた。

 茶々のこれまでの数奇で苦難に満ちた日々に思いを巡らせた。


 突然、山里曲輪をつむじ風が襲った。

 待庵が激しく揺れて軋んだ。


「ちと悪口が過ぎましたかな」

 狸の亭主は動ずる様子もない。

 連子窓れんじまどを透って、外からすすのようなものが煙のように炉の中に入っていった。


「ボン!!」


 炉から火柱が上がった。

 煤と見えたものは火薬だったかも知れない。

 天井から火の粉が落ちてくる。

 灰も舞い上がっている。


 狸の亭主は素早く水差しの水を炉の炭にかけ、茶々の傍らに来ると羽織を脱いだ。

 羽織が茶々を頭から優しく覆っている。


「早速ご利益がありましたな。

 事無きを得ましたぞ」


 茶々は無我夢中で亭主の胸にしがみついた。

 信繁の鼓動が聞こえる。

 鼓動は早鐘を打っていた。


 信繁二十六歳、茶々二十四歳の晩秋の事である。



 …一年後の文禄二年八月三日。(1593年8月29日)

 ニの丸の殿舎で秀頼が誕生した。

 厳しい残暑が続く中、熊蝉が一生懸命鳴いていた。


酉の上刻:午後5時、辰の刻:午前8時、

一町:109m

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