⑧第一部 第二章 仙人 四節 霊剣村正
昫の庵に四回目の初夏が来た。
黄昏どきになると森の空気が紫色に澄みきる。
四阿山からは涼気が降りてくる。
岩清水で喉の渇きを癒し土まみれの身体を拭く。
遠くで時鳥が鳴いている。
夕餉の準備のために火を起こしていると、昫が魚をくわえて走って来た。
「大きな鱒だなぁ。
ご馳走だぞ。ありがとう、昫」
「クーッ」
佐助にほめられて尻尾を振る。
得意げだ。
「大物を他にも五尾ほど獲ったみたいだ。
琿、一緒に行って取って来てくれ」
昫は立派な大狼に成長した。
琿の身体は鋼を何枚も重ねた鎧のように鍛えられている。
佐助の修行の相手をしたせいだ。
頭もさらに賢くなっている。
鳥居峠一帯を仕切る見事な山の主だ。
佐助も六尺を越す大男になった。
「わしも馳走にあずかれぬかの」
いつのまにか白雲斎が切り株に座っている。
「今日からが真の修行の始まりじゃ。
これからはわしが教える」
三冊の分厚い本が置かれている。
「これは修験道、陰陽道、真言密教、いずれの礎ともなる書である」
「書物でございますか?」
「書も読まねばの。
まずはどれでも良い。
おぬしの気が向く一冊を選び、全て空で申せるようになるのじゃ」
(難しい漢字ばかりだ。
こんな事なら真面目に習っておけばよかった)
志乃が熱心に読み書きを教えてくれたのに、逃げてばかりだったことが悔やまれる。
「ワッハッハ。過ぎたる事は悔いるに足らず。
今は読めずとて何百回もながめておれば、なんとのう意味は解るようになる」
「はい」
「それが難解な書を読む極意なり。
上忍までの修行と同じじゃ。
生半可に知っておるより、何も知らぬ方が返って良い」
「はい」
「わしが来たおりに読み方くらいは教えてしんぜよう」
だが、書物には閉口した。
読み方が解る字はほんの少ししかない。
頼りの白雲斎の姿はすでにない。
「ようし。何の!」
頑張ってはみるが、苦手な上に全く興味も無ければ面白くもない。
うつらうつらと睡魔に襲われる。
「シュン! 」
手裏剣だ。
間一髪で避けた。
白雲斎がどこにいるのやら、いないのやら、気配もつかめない。
心を研ぎ澄まして集中せざるを得ない。
ひと月もすると、飛んで来た手裏剣を焚き木で受け止めれるようになった。
それもうるさい虻を祓う感じでだ。
突然、勘三郎が横に出現した。
佐助は何となく勘三郎の事を考えていたところだった。
勘三郎は相変わらず間の抜けた言い方で、
「だいぶ気が練れて来て、少しはわしの気配を読めるようになったのう」
「この字は何と読むのか皆目分からんのだ」
「ふむふむ・・・?」
「おぬし字が読めるのか?」
「山育ちの世間知らずには困ったものじゃ」
「ひょっとして?」
「わしは知る人ぞ知る、八咫烏の勘三郎じゃぞ!」
「わかった、わかった。
勘三郎殿!ひとつご教示お願いできまいか?」
「おっと。成長したのう。
わしに限らず森羅万象、禽獣虫魚に至るまで、皆師匠と心得るが良い。
カッ、カッ、カアーツ!」
「では、この字の意味は?」
「ふむふむ」
琿は唐松の枝から庵の中を覗いていた。
ーーー勘三郎の奴、突然消えたり、現れたりするおかしな烏だと思っていたが…。
字が読めるとは驚いたぜ。
烏が猿よりも賢いって事か?
面白くねえけど事実だから仕方がねえや。
しかし、あの佐助がカラスに頭を下げて教えてもらうまでになったとは。
たいしたもんよ。
感動もんだぜ。
勘三郎はあの爺様の世話役だって言っていたが…?
ひょっとすると守り神かもしれねえ?
力のある人間は特別な動物が守り神をしているって聞いたことがある。
似た者同士か、気が合う者同士らしい。
言い方も似ているし。
ということは?
じい様は若い頃はドジでいたずら者だったということカア?
おもしれえ!!
キッキッキ!
いけね。
笑えてきたぜ。
唐松の若緑が濃い緑になり、黄色に染まり、茶色となり、やがて葉を落とした。
そしてその枝の上に白い花を咲かせた日。
佐助はようやく一冊を暗唱できるようになった。
今度は矢が襲って来た。
佐助は少しもあわてず右手でつかむ。
矢文が付いている。
「成就也。
意味は解らずとも良し。
時来たれば自ずと解る」
白雲斎は現れなかった。
代わりに昫が鱒を六尾、琿はきのこや木の実を持って来た。
初夏のあの日と同じように、団栗が爆ぜるのを面白がりながら鱒を食べた。
佐助目掛けてまた矢が飛んできた。
今度は鱒をくわえたまま矢を鷲掴みにする。
また文が付いてる。
「友祝いて来たる。善き哉。愉快也」
矢文からひと月と経たないある朝。
白雲斎の気配を感じた。
読んでいた書を置いて庵の外に出た。
降る雪と同じようにふんわりと白雲斎が空から降りて来る。
「わしの気配を捉えるようになったの。
たいした上達じゃ」
白雲斎は一振りの太刀を持っている。
「この太刀は『千子村正』也。
おぬしの修行を励ますために前田利家公から贈られたものじゃ」
「前田利家公から…」
「その事は夜に聞かせよう。
只今より早速この太刀で奥義を指南する」
佐助は雪の上に片膝をついて太刀を押し戴いた。
「わしがおぬしに伝授するものは亀井八右衛門が授けた武術とは異なるものじゃ。
この太刀は『邪心を斬る剣』である。
また『魔を断つ霊剣』でもある」
「はい」
「特異な力のあるものには必ず弱点がある。
一度人の血を吸えば妖刀と化す。
この名刀はこれまで人を斬ってはおらぬ。
この先も人を斬ってはならぬ」
白雲斎が右手を上げる。
軒下に積んである焚き木の中から細枝が宙に浮かび出た。
木の枝は吸い寄せられるように手に握られる。
「抜き身で打ち込んでこい!」
白雲斎の気合いが樹海に響く。
・・・ズズズッ、ドサッ。
大きな音を立てて雪が唐松の大枝から滑り落ちる。
佐助は『千子村正』を腰に差す。
白刃を抜いて正眼に構える。
(隙がない!)
片や真剣。
片や細い木の枝一本。
にもかかわらず打ち込むところがない。
(これがお師匠様の結界というものか?)
身動きが取れない。
両者の肩には雪が音も無く積もっていく。
「ふむ、できるな。
気の壁が判るようになったようじゃの」
佐助は静かに息を吐いて、下腹の臍下丹田に気を鎮める。
白雲斎が結界を解いたのだろうか、一瞬「入る線」が見えた!
喉元に素早い「突き」を入れる。
だが白雲斎が持つ木の枝は佐助の首の後ろに突きつけられていた。
目の前にいた白雲斎が後ろにいる。
「八右衛門から聞いたとうり筋は抜群じゃ。
だが並みの武術ではわしの中には入れぬぞ!」
(・・・)
「時を止めて間を詰める呼吸をものにせよ!」
(・・・)
「何もかも一切を忘れよ。
今、剣を持っていることも。
おぬしが佐助であることもさえも!!」
(・・・)
「『放下』の呼吸也!!」
(ふむ・・)
「時の壁を超えよ!!
今見えている世界とは異なる世界に入ることができる。
サッもう一 度!」
こうして白雲斎の指南が始まった。
その夜。
佐助の炊いた芋粥に箸をつけながら、
「有り難いのう。
身体が冷えたあとの熱いものはたまらん。
うまいのう。
鼻水が出てくるわ」
白雲斎はふーふーと吹いては芋粥を啜っている。
「今日から暫くこの庵で寝起きをさせてもらう。
おぬしに伝授せねばならぬことが少しばかりあるゆえ」
「かたじけのうござる」
「ここに三十冊の書物がある。
先の三冊に加えよ。
ただしもう暗記せずとも良い。
今の佐助ならばどのような書物とて理解できよう。
時間を作り読んでおくが良い」
佐助は三十冊にざっと目を通してみた。
白雲斎が説明をしてくれる。
「孔子、孟子、老子。
それに孫子・呉子の兵法書。
古事記、日本書紀、万葉集をはじめこの国の書も巾広く集めておいた。
真言密教や陰陽道の今日からの修行にすぐに役立つ書物もある」
「忍法の書はいかがでござるか?」
「ほほう。忍法の書とな。
実はこれまではどの忍びの衆も書物には残してはおらなんだが…。
われら甲賀では、中忍までの極意と上忍の一部の術は書物に記した方が良い、という意見が多くなっている。
しかし奥義は書にはせぬ事にした」
「悪用される隙を与えぬためでござるか?」
「いかにも。
つまらぬ欲がもとで、もう百五十年も世が乱れてしもうた。
魔に魅入られた者達が起こした騒動が始まりである」
「今日御指南いただいた感覚は修験道の行者様にご指導を仰いだ時の気配を思い出すようでした」
「そのとうり。
魔を断つための秘伝でありる。
『空を飛び、 水を渡り、水に潜む』、その境地 への入口でもある」
「この太刀の事でございますが…?」
「おお、その事じゃ。心して聞くが良い」
「はい」
「実はな…」
少し間をおいてから、たたずまいを改めて白雲斎が語り始める。
「佐平殿は前田利家公の弟君である。
ゆえあって今はこの山中におられる。
そして宗次殿はかつては佐平殿に仕えておったのじゃ」
「ふむ…」
「この『村正』は宗次殿が利家公から預かって来たものじゃ。
利家公は佐助の叔父君という事になる」
「・・・」
「おぬしと前田家にはさらなる深い縁がある」
「さらなる深い縁…?」
「昫と佐助のようにな。
おぬしはいろいろなお方に護られて生まれてきた。
それゆえ背負いしものも大きい」
白雲斎が薪を継ぎ足す。
囲炉裏の火が赤々と燃える。
空になった椀によく沸いた笹湯を注ぐ。
湯気を嗅ぎながらうまそうな音をたてて啜る。
庵の中に静寂が訪れた。
外は深々と雪が降っている。
囲炉裏の中でサクッと音を立てて燃え残った薪が崩れた。
その音が静寂をより深める。
…佐助を気づかいながら昫があごを筵に置いて白雲斎の話を聞いている。
六尺(182cm)