㊺-④第三部 第四章 無有(ムウ)の国へ 一節 大坂冬の陣 四
四 圧勝
戦いの主役は火兵戦になっている。
この十年で鉄砲と大砲の技術が進歩して種類も多様化している。
特に南面の激戦区では激しい銃撃戦が展開された。
この頃の鉄砲の射程距離は優れた物では五十間くらいに進歩していた。
十五年で倍近くも伸びた事になる。
武器が変われば戦う方法も変わる。
西軍の陣内までは簡単には届かない。
徳川方は大砲も加えて射撃をする。
何しろ徳川方には一年前から買い込んだ新式の武器弾薬が充分に有る。
豊臣方とても最新鋭のものをたんまり買い足してあった。
潤沢な財力を武器に火力の応酬となった。
西軍の大狭間筒は二人がかりで撃つ火縄銃だ。
弾も大きく凄まじい破壊力がある。
種子島用に徳川方が開発した鉄盾をも貫くほどだ。
大坂城の土塀には新たに三角形の大狭間が開けらた。
これに対して徳川方はジグザグの仕寄道(塹壕)を何本も掘った。
ジグザグの仕寄道は飛び来る弾丸や焙烙玉(手榴弾)の爆風に対して死角を作る。
日暮れになると竹束と鉄盾で防御しつつ、南面の空堀まで忍び寄っては派手に攻撃をした。
…三百年後の第一次世界大戦でヨーロッパ大陸では塹壕戦が繰り広げられた。
その塹壕戦が世界に先駆けてすでにこの戦さで展開されている。
女中衆を一万人も抱えている豊臣方には大砲攻撃がじわじわと堪えていく。
真田丸は真田衆五百、浪人四千五百で固めている。
信繁の強力な統率力と軍監伊木七郎衛門の補佐が効いている。
東軍の攻撃など痛くも痒くもない。
勇将と呼ばれる後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝長などはそれぞれ活躍をした。
秀頼の部下にも勇将がいた。
木村長門守重成や薄田隼人正兼相である。
木村重成は秀頼とは乳兄弟だ。
母の右京太夫が秀頼の乳母であり、幼い頃より秀頼に仕えた。
長じては親衛隊長として大坂城内の信頼も厚かった。
美貌の青年武将でもある。
城内の女たちの人気も独占していた。
薄田隼人正兼相は別名を岩見重太郎と言う。
武者修行中に凶暴な大猿を退治した事で「岩見重太郎の狒々退治」として有名であり、人気もあった。
秀頼の側近として五千石の扶持を受けている。
十一月二十六日(12月26日)早朝。
大坂城の東面より徳川方が本格的な攻撃を開始した。
南面は真田丸があるので白兵戦では簡単に落とせない。
主戦略を大砲による東面からの火力攻撃に切り替える作戦案が浮上したのである。
大坂城の東側は平野川が流れ、その四、五町内側を猫間川が流れている。
猫間川は惣構の外堀の役目をしている。
二つの川の間には水田と湿地帯があるので攻め難いが、猫間川の岸まで寄れば本丸までの距離は近い。
特に東北の水手埋門の辺りはかなり近い。
この地点を奪い取り大砲で撃てば、何とか二の丸に弾丸が届く可能性がある。
恐喝するには効果が大だ。
東面に陣取っている上杉景勝と佐竹義宣の両将に攻撃が命じられた。
大坂方は柵の前に出て防戦したが、上杉景勝は軍神上杉謙信の後継者だ。
佐竹義宣も東北の名家で歴戦の雄である。
激闘となった。
徳川勢は豊富な銃弾を浴びせる。
今福口を守備していた豊臣方の矢野正倫、飯田家貞の両将が倒された。
次々と部下も戦死を遂げ、今福口は佐竹隊にほぼ制圧されてしまった。
鴫野口は上杉勢五千が猛攻を繰り広げた。
秀吉に黄母衣衆として仕えていた井上頼次隊二千が激戦をして応じたが討ち死した。
大野治長隊一万二千が奪還にかかると後詰めの堀尾忠晴、榊原康勝隊も応援に出て乱戦となった。
この模様を秀頼は大坂城の天守閣から見ていた。
傍にいた後藤又兵衛は黙して天守閣を降り、只一騎、今福口を目指して走った。
更にもう一騎、又兵衛の後を追う様に馬を走らす若武者がいた。
木村重成である。
又兵衛は腕に鉄砲傷を受けたが、ものともせず猛然と反撃をする。
重成も強い。
又兵衛に引けを取らなかった。
この二人に続いて三千の兵が城方から繰り出し第一柵までを回復した。
これが「鴫野、今福の戦い」である。
大坂冬の陣の激戦の一つと言われ、「西軍強し」の印象を東軍へ刻み付けた。
しかし、戦局は数と物量に勝る東軍がじりじりと実力をあらわした。
西軍が築いていた出城は真田丸を除いてすべて東軍に制圧された。
城外の砦は真田丸以外は本城より遠くに孤立して構築されていた。
「戦略の根幹は兵站にある。
防衛線が延びて補給が出来ず返って良くない」
信繁はこう反対したが大野治長が聞かなかった。
穢多ヶ崎、博労ヶ淵、野田、福島、阿波座、土佐座の砦が次々と陥ちた。
東軍は包囲網を大坂城の惣構まで狭めて来た。
「残るは真田丸。
またしても左衛門佐か⁉︎」
十四前の出来事が秀忠の脳裏に鮮烈に蘇る。
真田丸だけは微塵の動揺も見せていない。
真田丸と東軍の間にある篠山も真田隊が制圧している。
十二月三日(1615年1月2日)。
朝から冷雨であった。
いよいよ南面の東軍が前進してきた。
天海の禁を破って秀忠が南面攻撃の指示を出してしまった。
東軍は西の伊達隊から東の前田隊まで大百足と土蜘蛛に「挨拶」をされた面々だ。
大坂城の南面の惣構の空堀近くまで前進した。
この南面の空堀は深さ三丈、幅十一間、長さが東西に半里もある。
底には更に鉄菱が蒔かれている。
真田丸はこの空堀から十間ほど南へ間隔を取って出城を築いている。
東軍が行った大坂城南面への攻撃は真田丸と篠山からの激しい銃撃を受けた。
死者こそ出さなかったが三百人を越す負傷者を出してしまった。
真田丸の銃撃隊は九度山付近の猟師達も入っている。
さらに牢人の中から選抜して筧十蔵が訓練し組織している。
この銃撃隊の鉄砲は射程距離が六十間ある。
通常のものより十間長い。
十蔵が堺で工夫した技術で赤沢が作ったものだ。
十蔵ほどの天性を持っていなくとも的確な射撃も出来る。
冷雨で手が悴む中、手に油を塗り手を擦り擦り時を待つ。
種子島が火を噴くと、弾は全て脚に命中した。
あまりの正確さに東軍は恐れをなした。
翌十二月四日。
雨があがった。
真田丸の鉄砲隊が脚を狙っていたのを見た柳生宗矩は秀忠の南面攻撃を止めなかった。
前日散々な目にあった東軍の前田隊一万二千は決死の思いだ。
未明に篠山占領作戦を行った。
ところが、篠山に昨日までいた兵は真田丸に引き上げていた。
一兵も居ない。
本多政重の作戦は信繁に読まれていた。
前田隊を仕切っているのは筆頭家老の本多政重だ。
本多正信の次男である。
前田家に良く仕えて何度も前田家の危機を救った。
効を認めらて今では九万石を領している。
しかし、政重は攻めを焦った。
本多正信の一族は実戦には向いていない。
篠原一孝の制止を聞かず、思いのほか楽々と篠山を攻略した勢いで一気に真田丸まで押し寄せてしまった。
秀忠は南面の総攻撃の采配をいまだ振っていない。
西軍の南城元忠は東軍の藤堂高虎と内通していた。
呼応して外と内とから攻める作戦だった。
しかし、大坂城内からは合図の狼煙が一向に上がらない。
狼煙が上がらないので総攻撃を掛けたいが掛けられない。
秀忠は苛々していた。
実は南条元忠は捕まって既に殺されていた。
だがその時、偶然にも大坂城八丁目の櫓から火の手があがった。
これは西軍の石川数矩が弾薬箱を誤って爆発させてしまったものだ。
秀忠が待っていた狼煙では無かった。
「あれは南条殿からの合図では?」
側近の土井利勝も焦っている。
「いや、南条殿の持ち場はもっと東の奥じゃ。
真田丸の真後ろ当たりと聞いておる」
前田軍の本多政重は勢い余り前進する。
大坂城内からは違う場所から違う合図があがる。
秀忠は采を振らない。
だが血気に逸る松平忠直隊も勘違いをして前進してしまった。
他の諸将も前田隊や松平忠直隊に先を越されまいと雪崩的に攻め込んでしまった。
東軍はまんまと信繁の策略に落ちた。
真田丸には十尺の高さの土塀が防御線として半月形にぐるりと九町ほどめぐらしてある。
前面の土塀の裏には上下二段の柵が組まれている。
柵には巾七尺の桟敷が組んである。
土塀には三尺おきに狭間と大狭間が開けられ、びっしり鉄砲が配備されている。
前列に五百丁が二段、後列に五百丁が二段。
併せて二千丁の鉄砲と大狭間筒の火縄が火を灯して静まり返っている。
信繁は射撃を押し留めている。
「まだ、まだ、十分に引き付けてからだ。まだ、待て!」
前田隊が充分にに空掘の中に入るのを見届ける。
空堀の巾は十間ある。
一旦、空堀の底まで降りると、その先には二丈の堀の上に切立つ断崖が八丈、その上に十尺の土塀がある。
合計十一丈の急峻を登らなくてはならない。
東軍の兵達は空堀に降りる時に死を覚悟し、空堀の底から真田丸を見上げた時に絶望を覚える。
「よし、甚八」
甚八が九字の刀印を切り、印を結んだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!
唵 阿忍智 魔支利曳 阿哩帝 水湧結舎発咤。水湧結舎発咤。エーイ!」
堀の内に水が湧き出し、真田丸の空掘は水で満杯になった。
前田隊は全く予見していなかった。
鎧で身は重い。
ようやく這い上がったものの火縄を濡らしてしまい、戦さにならない。
この二ヶ月の間、真田丸の中で兵達はじっと待っていた訳ではない。
猫間川から真田丸の空掘りへ水を引き入れるための隧道が掘られていた。
土遁の名手海野六郎と水遁の名手根津甚八の指揮によるものだ。
甚八の気合と共にその堰が切られたのだ。
「撃て!」
幸村の采が振られた。
一千丁の鉄砲が一斉に火を噴く。
前列が一発撃つとすぐに後列が入れ替わり的確に狙いが定められる。
この頃の普通の鉄砲は弾込めや筒の掃除に時間がかかる。
五発も撃てば筒の関金や薬筒の焦げ付いた部分を掃除し冷やさねばならない。
十蔵はその点も改良している。
二組で充分余裕をもって連続射撃をしている。
真田丸の土塀近くまで登って来た兵には更に一千四百の弓隊が待っていた。
鉄砲隊の隙を埋めるように弓隊も上下二段に分かれて射かける。
攻める者には雨霰のように弾と矢が飛んで来る。
前田軍は愁傷狼狽。
真田丸の石垣に触る事も出来ないまま撤退命令が出された。
混乱がひどく撤退が完了したのは日暮れを過ぎた。
十蔵の射撃はこの日も徹底して脚を狙った。
信繁の采が振られると同時に丸馬出しの両端が開く。
真田丸の裏側から伊木七郎と大助が二隊に分かれた。
それぞれ手勢二百五十の騎馬隊を連れて奇襲をかける。
大助は初陣だ。
騎馬隊は真田衆が主となり構成されている。
大助隊の先頭を走るのは当然の事ながら三好兄弟だ。
上田合戦で予行練習を済ましているので破壊力は凄まじい上に効率的だった。
長宗我部盛親を主力とする老練な西軍も見事な働きをしていた。
徳川本隊は南正面の惣構えの空掘りでも半里に亘り激しい攻防を繰り広げた。
やっと辿り着いた空堀の中では鉄菱に脚を取られ苦戦した。
そこへ東からの伊木と大助の騎馬隊の奇襲攻撃に数度も襲われた。
真田丸からの横矢である。
側面も衝かれる形となった徳川勢はこちらでも総崩れになった。
取り残された負傷者は敵味方なく真田丸に担ぎ込まれた。
小太郎と風太郎を中心とした救護班が手当てを施した。
真田方の負傷者は六名にすぎない。
徳川方の死傷者は翌日未明に篠山へ運ばれ、前田隊が引き取った。
この日の攻防は徳川方の惨敗だった。
全軍合わせて数百人の死者と二千人を越す負傷者を出した。
冬の陣の犠牲者の八割である。
…家康は古狸と言われるだけあって老獪に振舞っている。
その夜、老将の伊達政宗、藤堂高虎、上杉景勝を本陣に呼び馳走をして労った。
戦さで負ける事には慣れているとでも言うかのごとくだ。
家康にはまだまだ余裕がある。
この時、政宗は四十八歳、高虎と景勝は五十九歳だった。
「ここだけの話じゃがな。
秀頼君には四国あたりの一大名になってもらうのが落し所と考えておる。
豊臣方が『窮鼠猫を噛む』になり、収拾がつかなくなるのがもっともの下策じゃ」
直ぐに答えたのは政宗だった。
「どうやら左衛門佐は安房守よりもできますぞ。
真田丸は鬼門じゃ。
防御も完璧でござる。
どこかの阿呆が禁を破って攻めたとか。
噂になっておりますぞ。
片や左衛門佐は脚を狙って命を取ろうとせず追い払うだけじゃ。
上田合戦の時も川で溺れた東軍の兵を助けたと聞いておるが。
戦さを好まず、早い和平を望むという合図であろう。
ならば大御所のお考えにも脈があるというもの」
「食わせ者」という点では昌幸の向こうを張れる高虎は、
「安房守の倅ですぞ。
気を許すと上田合戦の二の舞もあり得る。
あの折は相当数の雑兵達が上田方に寝返っておる」
景勝は信繁の兄のような気持ちだ。
「伊達殿、藤堂殿のお考えに一理あると思えますな。
わしは左衛門佐を若い頃から存じております。
いたずらに争い事を好む男ではない。
いっそ豊臣方の家老にしてしまえば、無駄な血を流さずに早く事が済むかもしれぬ。
伊豆守を動かし、こちらに引き込んでみては…」
家康の後ろに座っていた天海が言葉を足す。
「いずれもごもっとも。
調略はもう十年以上しておるが、伊豆守同様に頑固でしてな」
高虎が、
「動かざること岩の如し、でござるか?」
「いかにも」
景勝は、
「左衛門佐が西軍から東軍へ寝返るのは無理としても、和議には理解を示すはずでござる」
「いかにも」
政宗は、
「今日のような惨敗では…。
戦況を変えねば秀頼君が和議に応じまい」
…「だが、ご安心されるが良い。
秘策を用意してござる。
まずはその結果を見て、次なる一手を考えましょうぞ」
射程距離:五十間(90m)
四、五町:500m
惣構南面の空堀:深さ三丈(9m)、幅十一間(20m)、長さが東西に半里(2km)
10間:18m
十蔵の鉄砲の射程距離:六十間(109m)
真田丸:十尺(3m)の高さの土塀、九町(1km)、巾七尺(2m)の桟敷、
三尺(90㎝)おきの狭間と大狭間、合計十一丈(33m)




