㊷-②第三部 第三章 南光坊天海 二節 春惜しむ 三、四
三 日輪の温もり
三月十六日の朝が来た。
「とうとう、時の経つのも忘れて徹夜で話をしてしまいましたな」
六十五歳とはいえ、まだまだ宗次は衰えを感じさせない。
志乃の顔には少し疲労が見える。
無理もない。
心労に加えて、昨日は堺から空を飛んで来たのだから。
「父上は良く寝ておいでの様ですね」
「起こさぬ方が良いだろう。
次に目覚めたらまた薬をお願い致す。母上」
「わかりました。
朝餉に致しましょう。
お父様のお味噌で美味しい味噌汁を作りましょう」
「琴様はお疲れでしょう。
どうか少しお休み下さいませ。
至りませぬが、わたくしにさせて頂けませぬか」
「まあ、まゆ様。
なんとお優しい事。
お言葉に甘えて少し横にならせて頂きましょう」
「姉上と宗次殿も少し身体を休められると良い。
わしとまゆは若い上に鍛えておりますゆえ」
春のやわらかな朝の陽射しが低い角度から木々に当たり、花影が脚を長く伸ばしはじめた。
露に濡れた静かな朝だ。
こぶしの花に白木蓮、蝋梅が昨日より一層色めきたって咲いている。
桃の花は三分から四分咲きほどになっている。
やがて朝餉の支度が出来た。
まゆの心尽くしには重湯が準備されていた。
佐平はそれを待っていたかの様に目覚めた。
「佐助、起こしてくれ。
今日は調子が良さそうじゃ」
佐助がまた気の力で佐平をゆっくりと起こした。
「ああ、これこれ。楽じゃ。
障子を開けてくれ」
障子がスーと開く。
深山の新鮮な空気と共に朝陽が部屋の奥まで差し込んで来る。
「おお、ありがたい」
太陽の光が佐平の胸の辺りまで伸びている。
仮眠を取った志乃が深呼吸をする。
「まあ、桃の花の甘い香り」
宗次も、
「さあ、花を見ながら朝餉にしましょうぞ」
「お花見ですね」
「お粥はいかがですか。
まゆ様が作って下さったのですよ」
「頂こう」
「四日振りかしら」
佐平の答えに琴が喜んでいる。
まゆの頬にまた紅が差した。
まだ十六歳の乙女なのだ。
佐平は志乃に三口ほど重湯を食べさせてもらった。
「琿の白湯を頼む」
「はい」
志乃が湯飲みで岩清水の湯冷ましを飲ましてやった。
佐平はよく飲んだ。
三口程に分けて全部飲み干してしまった。
「ああ、旨い」
後から思い出してみるとそれが末期の水であった。
「父上、もう少しで太郎が着く。
太郎の奴、吉野の山奥から夜も寝ずにひた走りに走って来たようだ。
もう渋沢村まで来ている」
「ホーホケキョ。ケッキョキョ。キョッ。ケキョ」
「まあ、鶯よ。可愛い鳴き方。初音かしら」
志乃は元気を取り戻したようだ。
「そうかもしれぬ。修行がこれかららしい」
佐助の軽口も気にしていない。
「リ、リ・キリ、リリリ、・・・」
「目白もいるわ。それも沢山。
見て、桃の木で楽しそうに枝から枝へ。
何をしているのでしょうね」
「そういえばヒヨドリも大勢来ている」
宗次が驚いている。
「ピィッ、ピィッ、ピィッ、クワィ、クワィ、ピィッ、キョウ…」
「小綬鶏じゃ。今年は早いのう」
佐平が言い終わるか終わらない時に白い姿が縁側に現れた。
「おお。太郎か、昫の息子か。
おいで、上がっておいで」
さすが太郎。
散々走ったのであろうに息を切らしていない。
「クーッ。クー。クー」
鼻を佐平の頬に摺り寄せている。
「昫と同じ日輪の温もりがする。太郎、佐助を頼むぞ」
「クー。クー。クーッ」
それが佐平の別離の言葉であった。
佐平は起きた儘の姿勢で目を閉じた。
「逝かれた様でございます。佐助様」
「うん」
佐助はゆっくりと佐平を仰向けに寝かせた。
志乃が嗚咽の中でいう、
「父上は太郎が来るのを待って逝かれたのですね。佐助」
「昫の息子を一目見たかったのだ」
「それもそうでしょうが、太郎に佐助の事を頼んでおきたかったのですよ。
まゆ様にもお頼みになったでしょう」
「・・・」
「父上は最後の生きる力を振り絞って太郎を待っていたのですよ。
ずっと言葉には出されなかったけれど…。
信長様の忘形見の佐助の事を思って生きて来られたのです。
ねえ、宗次様」
「はい。佐平様も志乃様も琴様も。
佐助様をお育てになるのに表には出されなんだが、必死でございました」
「オッ、オッ、オッ、オー」
琿もいつの間にか来ている。
泣いているのが佐助にはよく解る。
皆がしばらく佐平の亡き骸を囲んで泣いた。
「比叡山焼き討ちの、あの地獄絵図の中にいたのは丁度三十年前になります。
あの時、良之様は心の奥底で深い決意をなされました。
そして今朝の朝餉…。
三十年前とは全く違う別世界でございました」
「ホーホケキョ、ケキョケキョ」
「山の野鳥も別れを惜しみに来ました。
佐平様が愛で育んだ木々までも別れを惜しみました。
戦さに出れば織田の勇将と言われたお方でしたが、心根のお優しい方でした」
戦乱の世に翻弄され散り散りばらばらに二十八年間暮らした家族である。
ようやく一つになれたのはほんの束の間だった。
だが二十八年が長ければ長い程、また、昨夜と今朝の集いが束の間であればある程、この家族には暖かい思い出として心の深いところに大切にしまい込まれた。
佐脇良之、享年六十一歳。
奇しくも兄である前田利家と同じ年でこの世を去った。
…良之が愛でてやまなかった桃の木々の慈しみの中で。
四 重き荷を降ろす時
颯と鎌之助が佐平の庵に着いたのはその日の午後になってからであった。
着くや否や、鎌之助は佐平の部屋に上り込んで佐平の亡骸に手を合わす。
「間にあわなんだ。
颯が急ぐので寝ずに跳ばして来たのだが…。
辰の刻過ぎではないか?
佐平様が逝かれたのは」
「そうだ」
「やはりそうであったか。
あの時、颯が嘶いてわしは振り落とされてしもうた。
早う佐平様に合わせてやってくれ」
颯は庭で下を向いて静かに待っている。
「よしよし、颯。構わぬ。上がっておいで」
と、鎌之助が言い終わらぬうちに、颯は縁側から身を低くし前足を佐平の部屋の中まで入れた。
前足を折りたたんで佐平の顔に頬を摺り寄せた。
大きな目から大粒の涙がこぼれている。
それを見た鎌之助も我慢できず髭面をくしゃくしゃにし肩を震わせている。
…翌日六人は丁寧に佐平の弔いを済ませた。
「お母様は私とご一緒に堺へ参られませぬか?
やがて宗薫も駿府か江戸に住まいをするそうです。
江戸にはまつ様もおいでですし」
志乃が琴の身の上を案じている。
「志乃と一緒に暮らせるとわたくしもどんなに嬉しい事でしょう。
でも、二十四年前に志乃の代わりをして頂いた篠姫は金沢で篠原一孝殿に嫁いでおります。
養子として佐脇家の後を継いで頂いている久好殿の事も忘れてはなりませぬ。
篠姫や久好殿に取っては世間から見れば私が母。
お二人の立場も考えなければなりませぬ」
湿り気を含んだ春の風が琴と志乃の間を抜けていく。
「わたくしはこの庵でもう少しゆっくりいたします。
良之様の思い出に浸らせて頂いてそれから金沢に参ります。
そして篠姫と久好殿にご恩返しを少しでもさせて頂こうと思っております」
自らの人生も耐え忍び抜き、乳母としても於江と共に苦労を乗り越えて来た人である。
「判りました。母上。
母上は気の済むだけこの庵に留まられるが良い。
母上一人では心もとないゆえ鎌之助と颯を残しておく。
金沢にお立ちになりたい時が来れば鎌之助と颯が金沢までお送り致す。
わしとまゆは先に金沢に行って段取りをして置く。
それで良いか?」
「そんなにしていただいて良いのですか?」
「鎌之助もまゆもそうしたいと思っておる。
それに金沢にはいろいろと縁のある方がおいでゆえ、少しは母上の役に立てるだろう」
「鎌之助様、まゆ様ありがとう。
ではご好意に甘えさせて頂きます」
「宗次殿は姉上を堺まで送って下さるか」
「畏まった」
「それではよろしくお頼み申す。才蔵行くぞ」
佐平の桃源郷に濃い霧が立ち込めた。
霧は直ぐに晴れたが佐助と才蔵の姿は消えている。
太郎と珝もいない。
琿が白木蓮の木の枝に立ち、北の空を見上げて名残惜しそうに手を挙げている。
「ウッウッウッウ。クックックック」
ーーー今度はいつ帰って来るのだ…。
…半年後の九月十五日。
亥の刻を過ぎて日が変わろうとする頃。
宗次は紫の煙となった。
満月の明るい夜だった。
大潮の引き潮に乗る小舟のように潔かった。
板倉孫十郎、蔦谷宗次として佐脇良之、前田利家、利長に仕え、甲賀忍びの上忍の頭として三千人を束ねた。
沼田天水、享年六十五歳。
…大峰山で重い荷をようやく降ろした。
辰の刻:午前8時




