㊷-①第三部 第三章 南光坊天海 二節 春惜しむ 一、二
一 鳥居峠の春
ーーー佐平様が御危篤でございます。
朝稽古をしている佐助に宗次から心話が入ったのは三月半ばの十五日 (1601年4月17日)
のことだ。
ーーーすぐ鳥居峠に帰る。姉上はまだ知らぬのだな。
この月の初めから臥せっている佐平を案じ、宗次は七日前から鳥居峠に行っている。
羽音と風圧で引き起された桜の舞の中に才蔵の姿が浮かんでいる。
吉野の深山幽谷を借りて修行をしていたのだ。
満開の桜の中を才蔵が降りて来るや、
「佐助様、私も…」
「おっ、そうか。それはありがたい」
「すぐ堺へ行って、姉上を珝に乗せて鳥居峠へ一緒に来てくれぬか。
わしは先に父上の所に参る」
「わしも行ってもよいか?」
今度は鎌之助だ。
この男、悪人をよく改心させるだけあって心根が芯から優しい。
「それも助かる。颯が父に会いたがっている」
…「佐助か?」
鳥居峠の佐平の庵に音もなく姿を現した佐助が琴と宗次の間に座った。
それまで昏々と眠っていた佐平が目を開けた。
「父上」
「すまぬ・・・。起こしてくれぬか」
父に言われるままに佐助は佐平を起こした。
「よう来たな。佐助。
また逞しゅうなった。
障子を開けてくれぬか。
庭を見たい」
障子が音もなく開く。
「修行をしたのう。
わしには過ぎた子じゃ。
随分と苦労をしたな」
佐平は白髪の佐助の顔と鍛え抜かれた姿を静かに見つめた。
暖かで包み込むような眼差しだった。
佐平が丹精込めた十数本の桃の木が咲き初めている。
「桃の木は桜と違うて寿命が短い。
それゆえに花が艶やかじゃ。
甘い実も付ける。
佐助がここに来た時の木はもう二本しか残っていない。
今咲いているのは二代目じゃ。
もう良い。
済まぬ、寝かしてくれぬか」
佐助が寝かすと、起きている時よりも弱った声で佐平が話を続けた。
「わしが桃の木を植えたのは信長様に似ているゆえかも知れぬな…。
信長様の生き様は美しかった。
兄上もわしも命を捧げた。
だが、あの残虐さには、わしはよう付いていかなんだがな。
佐助は心が美しい。
この桃の花の様にな」
桃の花びらがひとひら、もう、ひとひらと春の陽の温もりを乗せて布団の上に舞い降りた。
「わしはこの庵で桃の木が育っていくのを愛でるのが楽しみじゃった。
佐助が育っていくのを見るのはもっと楽しい事じゃった。
もう逢えぬものと思っておったが…」
佐平は目を静かに閉じて眠りに入った。
琴は廊下へ出て、込み上げて来る嗚咽に堪えている。
二十八年の間、佐平と生き別れて暮らし、
ようやく三ヶ月前にこの庵に来て夫婦二人で生活を始めたばかりなのだ。
「母上、佐助にござります」
「聞いていた通り立派に成長されましたね。
この三ヵ月の間、あなたと志乃の話ばかり二人でしておりました」
「姉上も直に参られる」
「堺からそんなに早く来れるのですか。
志乃は忍びの術は使えませぬでしょう」
「はい、そうですが。
友が空を飛んで姉上を連れて来ます」
「そうですか。
そういえば、佐助には良いお友達が沢山いるそうですね。
宗次様から伺っています」
宗次は脈を診ている。
「まだまだしっかりしておいでです」
「今度、父上が目覚めたらこの薬を飲ませたい」
「ほほう、小太郎様の秘薬ですな」
「小太郎の薬は良く効く。
母上、お願いいたす」
「これが小太郎様の真宝丸ですか?
なんとありがたいことでしょう」
「そういえば庭に琿が来ている。
上がらしてもよろしいか」
「ええどうぞ。
四季折々の物を縁側へ届けてくれたそうですよ。
あなたと志乃が去ってから、毎日。
どんな雨の日も風の日も雪の日も欠かさず、木の実やら魚やら山菜など…。
わたくしが来てからも一日足りとて欠いた事がありません。
吹雪の続いた時はほんとうに助かりました」
「わしが修行していた頃に山で一緒に食べていた物と同じ物を選んで届けてくれたのだろう」
「父上は毎日楽しみだったそうですよ。
佐助はこんなものを食べておったのかと…。
やんちゃな子供時代も思い出して懐かしんでいたそうです」
「琿、入って来いよ。ついでに障子も閉めてくれ」
「クッ。クッ」
低い声を出して琿が部屋へ入って来た。
佐助と忍びの修行をしていただけに音も立て無い。
「琿。おぬしずいぶん年を取ったな。
だが相変わらず立派な鳥居峠の主のようだ。
父上の事をずっと見守っていてくれたのだなあ」
「オッ。オッ。オッ」
「そう。知っているのだな。
昫は死んだ。
毒の手裏剣を受けてな。
太郎がここに向かっているぞ。
明日には着くだろう。
お前が一目見ればすぐに昫の子だと判るさ」
「ククククク」
「ああいいよ。頼む」
琿は厨に入り勝手口から何かを持って山へ行った。
「岩清水を取って来てくれるそうです。
竹筒を貸してくれといったのです。
今度父上が目を覚ましたら、その岩清水を沸かしておいて小太郎の薬を飲んでもらう」
「佐助は動物と話が出来るのですね」
「小鳥や桃の木も話かけて来る。
桃の木たちは皆父上に礼を言っている。
先ほど障子を開けて父上がご覧になった時、精一杯美しい色に輝いていた。
自分たちの生命の気を少しでも父上に渡そうとしている」
「そうだったのですね。
わたくしにはそこまでは解りませんでしたが、あまりに美しいのでうっとりしました」
「ところで母上。
信繁様の事、お力添え下さりかたじけない。
於江様にお頼みして下されたそうで」
「佐助がお世話になったお方ですもの。
於江様にしてみれば血の繋がったあなたは従兄弟に当たります」
宗次が佐平の寝顔を見ながら言う。
「ご覧下さいませ。
寝ておいでですが佐平様は嬉しいのですな。
良いお顔をなさって気持ち良さそうでございます」
「さあ、わたくしは夕餉の支度を致しましょう」
「そうですな。
佐助様に取っては琴様の手料理は初めてですからな」
「佐助はずっと父上の傍にいてあげて下さい」
春霞の中を夕日が西の山々に沈もうとしている。
にぎやかな椋鳥の群れが雲の様にいろいろと形を変えながらねぐらへ帰った後・・・。
佐平の桃源郷には春の宵の静けさが訪れていた。
その静けさを壊さぬ様に一羽の大鷲が静かに、静かに、舞い降りてきた。
その背中から二匹の二十日鼠が飛び降りて縁側にぴょんと上がった。
鼠の周りが霧で包まれた。
霧の中から美しい姫が現れた。
「才蔵殿か?」
宗次が声をかけた。
姫姿は無言で気合をかける。
今度は志乃が現れた。
「姉上。さあ、早くこちらへ。
まゆも一緒に」
「父上、姉上が参りました」
佐平の目が開いた。
「知っておるよ。
大鷲に乗った二十日鼠が二匹、真っ赤な夕陽の中を飛んで来るのを夢の中で見ておった」
「まあ、父上。お元気そうで安心しました」
「志乃、四年ぶりじゃ。
そちらの姫は霧隠才蔵殿か。
この度は遠い所をかたじけない」
「滅相もございませぬ」
「母上。父上に大助の白湯でこの薬を飲ませてあげて下さらぬか」
琴は湯冷ましに小太郎の薬を溶かし佐平に飲ませてやった。
佐平の血色がみるみる良くなっていく。
「小太郎様の薬とは・・・。
気のせいか力が湧いてきた様な気がする」
「初めてご家族が御揃いになられましたなあ。
佐平様を囲まれて夕餉を取られては?」
「それが良ろしゅうございます。
そう致しましょう。
生まれて初めて家族が今揃ったのですもの。
宗次様もまゆ様もご一緒に。
琿もね」
「オッ。オッ。オッ」
「そうか。じゃ琿もう一回頼む」
…「琿が岩清水を取って来てくれるそうだ」
二 幸せとは
「佐助。もう一度起こしてくれぬか」
今度は気の力で佐平を起した。
「父上、この方が楽でござろう」
「これは楽じゃ。寝ておるよりも楽な位じゃ」
涙もろい志乃は泣いている。
それを見て宗次がいう。
「無理もありませぬ。
家族四人、このように夕餉を召し上がれる日を志乃様がどれほど夢に見てこられた事か」
一番そう思っていたのは佐平かもしれぬ。
琴かもしれぬ。
いや、宗次であったかもしれない。
「さあ、父上。琿が取って来てくれた岩清水の湯冷ましです」
今度は志乃が佐平に湯のみで飲ませている。
佐平は一口飲んだ後、
「力が湧いて来て自分で飲める様になった。
皆が夕餉の間、わしもこの湯飲みで夕餉を取らせてもらおう」
佐助は生まれて初めて母親というものの手料理を口にした。
…佐平がぽつりと言った。
「幸せとはこういう事か」
誰も言葉を出せない。
ただ一生懸命、琴の料理の味を噛み締めている。
佐助の嗅覚に土間の匂いが飛び込んできた。
懐かしい古い家の匂いがする。
囲炉裏の灰の匂い。
佐平の野良着の匂い。
昫の子供の頃の匂いも残っている…。
琴の着物からは上質の香の匂いがする。
それぞれが違う時を渡って来たのだ…。
その琴が気を使っている。
「才蔵様の本当のお名前はなんといわれます」
「まゆと申します」
「まゆ様ですか。よい名です事。
伊賀の惣領を担われておいでと宗次様より伺っております。
あまりご無理をなさりませんように」
「ありがとうございます。
今は佐助様に忍法の奥義を授かっております」
佐平がまた、ぽつりと言った。
「まゆ殿、佐助をよろしくお願い申す」
「はい」
「かたじけない」
まゆの頬がほんのり薄紅色になった。
「佐助」
「はい」
「人を殺してしもうたか。心ならずも」
「はい」
「虚しさがおぬしの心の奥底で無明の闇を這いずり回っておる」
「・・・」
「大切なものを失い、心にぽっかりと大きな穴が空いた。
底なしの虚無の海に沈んでおる」
「・・・」
「辛いのう」
「・・・」
「この半年、あまりにも多くの事がありすぎた」
「・・・」
「上田での戦さでは思いも寄らず多くの無辜の命を奪った。
昫を失い・・・。
幸殿も護れなかった。
穴山殿を失い・・・、罠にはまって自らの手で人を殺めた。
愛剣も折ってしまうたと聞いた」
「はい」
「白雲斎殿から受けておる戒めも破ってしもうたと思っておろう」
「はい」
「辛いのう」
「・・・」
「時という薬は薄めはしてくれる。
だがその薬は完治はさせてはくれぬ…。
覆水盆に返らず。
この世では一度犯した事は元には戻らぬ」
「・・・」
「だがそれで良い。
それが生きるという事らしい…。
それで良いのだ」
「・・・はい」
「横にしてくれるかの」
佐平はまた横になると目を閉じて眠りに入った。
「ホッーホー。ホッーホー。ホッーホー」
梟が遠くで鳴きはじめた。
皆でその声をしばらく聞いた…。
「梟は暗闇の中でも見える目を持ち、その声は邪気を祓うそうでござる。
梟も来て見守ってくれているようです。
佐平様はきっと良き夢をご覧でしょう」
宗次の言葉を口火に母の琴も口を開いた。
「甲賀の惣領様といっても子は子。
子が幾つになっても、どんなに立派になっても親というものは心配なのです。
お父様も胸のつかえが降りたようです」
それから眠っている佐平を囲んで五人が四方山話に花を咲かせた。
まるで今迄の失った時間を取り戻そうとするかのように…。
三方が原の戦いで佐平が戦死したと聞いた時のこと。
志乃が生まれた時のこと。
琴が志乃を連れて於江の乳母に行った日のこと。
そして、佐平が生きている事がわかり五歳の志乃がこの庵へ来た時のこと。
生まれたばかりの佐助がヨモギ夫婦に連れられて来た時のこと。
昫を佐助が助けた時のこと。
「そういえば佐助が昫を助けてから九年になります。
昫との出逢いがいろいろな事の始まりだった様な気がします。
あの頃の佐助は子供だったのに。
それも手に負えない・・・」
「そうかもしれぬ。
姉上もあの頃から比べると随分たくましくなられた。
今では今井殿の商いをきり回されているそうだ」
「まあっ。・・・。
でもよく振り返ってみると、わたくし供の一家はいつも宗次様のお世話で助けて頂いて来た様に思います。
ねえ、母上」
「本当にそうです。
宗次様無くして今日のこの時は考えられません。
宗次様はお幾つになられました」
「六十五でございます。
佐平様より四つ上ですから」
…五人の話は佐平を囲んで朝まで続いた。




