㊵-①第三部 第二章 雪の百万石 四節 死闘 一、二
一 成仏
お永の方はその夜、江戸にいる母のまつと従姉妹の於江へ長い文をしたためた。
ようやく床に付いたのは子の刻を過ぎていた。
一刻も経っただろうか。
物音に目を覚ました。
目を開けて布団から起き上がり灯明をつけようとした。
暗闇の中に般若の面のような鬼の顔が怪しい青白い光を出して、ぼうっと浮かんでいる。
普通の女性であれば悲鳴をあげるか失神するところだ。
幼い頃から気の強さでは右に出る者がいなかった娘である。
寝込みを襲われたにもかかわらず、少しも動じていない。
しばらく鬼の顔を見つめた。
「陽炎小平太殿ですね」
「ふっふっふっふ。ぐっぐっぐっぐっぐ」
般若の面がおぞましい声で笑う。
「佐助から聞いております。
あなたの大切な奥様も、ふた親も、お子も、ご兄弟も、お祖父様もお祖母様も…。
わが父のためにお命を落とされたとの事。
そして私をお恨みとのこと。
私がお詫びをして済むとは思いませぬが本当に申し訳ございませぬ。
この通りでございます」
お永は平伏した。
心から詫びているのだ。
やがて鬼の顔が暗闇の中からすうーっと消えた。
今度は部屋の隅で黒い影が萎んだり膨らんだりしている。
「ぜえー。…。ぐうっ。…。ぜえー。…。ぐうっ。…」
息の音が響く。
「あなた様が私をお恨みになる気持ち・・・。
私は男の子には恵まれておりませぬがよく解ります。
私を討ってあなた様の気持ちが少しでも楽になるのであれば私をお討ちなされませ。
抗ったところで所詮女の身、あなた様に勝つ事は出来ませぬ」
八歳で利長に嫁いだお永の方は翌年本能寺で父を亡くした。
その後、お満、お松と二人の女子を産んだ。
六年前の年の暮れ、原因不明の高熱が二十日程続く大病をして生死の境を彷徨った経験がある。
実は天鬼に毒を盛られたもので、それ以来子供を産めない身体になってしまった。
お永は世継ぎの男子が欲しかった。
天水から二年前に聞き出し、三日三晩泣き明かした。
その事実は利長には告げていない。
お永の心に秘められたままだ。
まだ傷心から立ち直れていない。
だが元来は気丈な一族である。
いまさら過去に戻れる訳でも無い。
自分の背負った業と諦め、必死で前を向いて一日一日を生きて行こうとしている。
「ぜえ…。ぜえ…。ぜえ…」
気味の悪い音と共に、大きくなり小さくなりしていた影の動きが止まった。
真っ暗なお永の方の部屋に長い沈黙が訪れた。
やがて、その黒い影は蛇の形に姿を変えた。
「シュル、シュル。」という音を立て障子を少し開け外へ出て行った。
お永の方は蛇の姿を見ると急に睡魔に襲われそのまま寝入り込んでしまった。
翌朝の事だ・・・。
お永は目を覚ましたのは暁が美しい頃だった。
夜がまだ少しだけ残っていた。
隙間の開いている障子を開けて雪の庭を眺めた。
真っ黒い蛇が雪の上で凍死している。
佐助とまゆ、それに太郎が取り囲んでいる。
佐助とまゆは手を合わせている。
まゆの青い瞳と黒い瞳から流れ出る涙が真っ白い頬を伝わり、一滴、二滴と黒蛇の額に落ちる。
凍っていた筈の黒蛇はゆっくりと身体を動かし、小さな目でまゆを見上げる。
佐助を見、太郎を見、そして庭を見ているお永の方を見上げる。
縮こまっていた黒蛇の姿がだんだん細長く伸びてゆく。
やがて煙となり雪の上から浮き上がる。
日の出前の淡い朝の光を浴びながら南の空へ消えていった。
お永も泣いている。
「可哀そうな事をしましたね・・・、佐助」
「哀れでならぬ。
父と兄の蛮行のせいで幸せに暮らしていた者が魔界の餌食になった。
伊賀へ帰り成仏してくれるのを祈るしかない」
南の空の彼方を見ている。
「未熟なわしとまゆでは力が足りませぬゆえ、姉上のお力をお借りしてしまった」
「昨夜の事はすべて見ていたのですか?」
「とんでもござらぬ。
一度は追い詰めたが逃げられてしまった」
「佐助様と私の力では天鬼の閉じた心を開ける事がどうしても出来ませんでした。
開かずの扉を開けて下さったのはお永様の慈しみの心のように存じます」
「・・・」
「鬼に成り果てていた天鬼には、どうやら、人として生きる力がいくばくも残っていなかった。
人の寿命にまでは私の力は及ばぬ。
何もしてやれなかった」
「でも、伊賀の総領様の涙の温もりに癒され朝陽の中を成仏なさったかもしれません」
「まゆの力には驚かされる」
「お永様のお陰でございます」
「いいえ、それはこちらが申し上げなければならない言葉です」
…まゆは膝をついて南の空に向かい手を組んで祈りをささげた。
二 神獣朱雀の術
爆音が轟き、膝の下の大地が揺れた。
天守閣に近い本丸の利長の寝所の方で火の手が上がった。
天水はじめ甲賀衆は本丸に集結しようとしている。
南の空に祈りを捧げていたまゆは振り向いて轟音の源を確かめようとした。
その時、東西南北方向から鉄槌が四本、まゆを目掛けて音もなく飛んで来た。
鉄槌は虚空から降ってきた。
長さは一間以上もある。
銛だ。
まゆは銛を避けようとしたが足が雪の大地に凍りついたように動かない。
金縛りのような術にかかってしまっている。
覚えたての遠当ての術も返された。
大きな力だ。
まゆの力をはるかにしのいでいる。
佐助とお永にも同じように四本の銛が撃ち込まれていた。
佐助は自分に掛けられた金縛りを解くと、寸前のところまで迫っていた銛を気の力で木っ端微塵に砕いた。
銀色の光がお永に向かっている。
太郎が粉雪を撒き散らして彗星のような塊となり宙を跳んでいる。
どうやら太郎は魂が発動すると銀色になるようだ。
昫が亡くなった後、太郎は一段と力を増している。
お永に向けられている四本の銛を跳ね飛ばした。
銛は太郎の体が触れる前に吹き飛ばされた。
太郎の気の力は佐助に引けを取らないほどに強力だ。
珝も体当たりに出た。
まゆに向かっている四本の銛を珝は一度に鷲掴みにはできない。
北からの一本は叩き落したが左の翼を折ってしまった。
珝の弱点がまゆの弱点だった。
闇の力はまゆに集中した。
黒魔術だとは気づいているが、術をかけている者の居場所がつかめない。
まゆの力では金縛りがはずせない。
手は動くが足は地面に吸付けられている。
佐助は天守閣の上空に浮かぶ邪悪な気を捉えた。
黒衣に身を包み、十字架をかけたリボス神父が玄天に高く浮かんでいる。
まゆも気づいた。
リボス神父の姿を見て動揺した。
なんとか術をはずしにかかった時にはすでに遅かった。
銛は一間足らずのところまで迫っている。
佐助は時渡りの術で時間の流れを止めた。
まゆを吹き飛ばそうと烈風を起こした。
気を入れた剛風で銛からまゆを引き離す自信があった。
次に玄天へ飛び上がる。
邪気の凝り固まったものに向かって、迷う事無く勢州村正を抜いた。
「ぎゃあー!」
リボス神父の悲鳴が虚空を劈いた。
三方からの銛がまゆに突き刺ささろうとした刹那…。
佐助の起こした剛風の中から、燃える赤い鳥が飛び出した。
朱雀の術だ。
朱雀は剛風を蹴って、剛風より一歩早くまゆの前を通り過ぎた。
吹き飛ばされたまゆは右手と左手で二本の銛をしっかりとつかんでいる。
…すべてのことは瞬きをする間に起きた。
…小助が倒れている。
右肩から左脇腹に一本の太い銛が貫通していた。
真っ赤な血が吹き出し、白い雪をみるみる染めていく。
佐助とまゆが小助のもとに走って血飛沫に染まりながら傷口を抑える。
どうにもならなかった。
「サル・・・ ・! ト、ト・・・!」
小助は何かを伝えようとした。




