⑤第一部 第二章 仙人 一節 白雲斎
一 白髪三千丈
唐松の芽吹きはやわらかい
鳥居峠から四阿山にかけて広大な樹海がある
次々と霧が湧き雲になり天に昇る
初夏の朝陽は若緑に溶け込んでいくようだ
神々が住み給う山なのだ
「ウーッ!」
「下だ!」
いつもとは違う気配がする。
四阿山の中腹にいた佐助と昫は鳥居峠を目指す。
唐松の落ち葉が積もる湿った土が六つの足で蹴り上げられる。
一目散に駆け降りた。
「ウグウウッ」
(止まれ!)と昫が言っている。
近いのだ。目標が。
鳥居峠の直ぐ下から東に半里程のところだ。
紫の煙が細い筋になりゆったりと昇っている。
岩燕が二羽、大きな弧を描いて舞った。
小さな苫屋がある。
「おかしい。きのうまではこんな物はなかった…!」
佐助と昫は息を殺して、前方に気を凝らしながら這い忍んでいく。
「昫の寝ぐらはわしが造っておいたのだがな。
気にいってもらえると良いのだがのう」
しわがれた声が空の方から聞こえる。
「四阿山ならば村人達からは見つけられにくい。
さりとて中腹となると冬は雪で動きが取れまい」
今度は真後ろからだ。
振り向くと、白髪三千丈というにふさわしい一人の老人が笑みを浮かべて立っている。
立っていたのではなく、地面すれすれに浮かんでいた。
「クーッ」
その声に安堵感を覚えた。
「ほほう。佐助の友は人の心が読めるようじゃの」
昫はもう警戒心を解いている。
「じい様はおいら達を知っておるのか?」
「知っておるとも。
今日の日の来るのをおぬしが生まれた時から待っておったのじゃ。
それも十一年もの間…」
白髪白鬚の老人には気品と凛とした威厳がある。
言葉は優しいが眼光が鋭い。
深山の空気は澄んでいるが、ここには異なる清らかさがある。
それに昫が立派に扱われるのがまだ童心の佐助には嬉しい。
「このあたりはわしが結界を張ってある。
四阿山よりは村里には近いが、村の衆に気付かれる事はない。
ゆえに安心するがよい。
渋沢川がすぐ下を流れておるし、東に一里余りも行けば湖もある。
昫の寝ぐらには良いと思わぬかな」
何もかも知られている。
どうやら普通のじい様ではない。
「ケッカイとは何だ?」
「難しい事は追い追いで良い。
それより友がもう一人、先程から心配げにしておるぞ。
呼んでやったらどうかの」
「ヒュー!」
佐助は指笛を鳴らした。
一面の熊笹の中にざわめきが走る。
笹原の中から大猿が跳び出て来た。
背丈は佐助にはとても及ばないが鋼のような筋肉は矢も跳ね除けそうだ。
佐助は自慢げだ。
「大猿の琿、この山の主だ」
「さすが佐助の友だけの事はある。
このような傑物にはわしとて始めてお目にかかるわい」
「琿は強いぞ!」
「琿とな。ほほう? 名も良いの」
真新しい唐松の切り株が十本程ある。
鬱蒼とした唐松林の中に十間角程の広場ができている。
伐られた唐松は苫屋に使ったのだろうか。
「わしも時々昫の寝ぐらで泊まらせてもらうつもりじゃがな」
…なるほど。
ここは住むには良い場所だ。
北面は岩の壁で北風が避けれる。
林の中なのであばら家でも、嵐で吹き飛ばされそうもない。
南側の広場のおかげで陽も当たる。
岩間からは清水が湧いている。
佐平の庵と違い、川まで降りて水汲みをしなくても済む。
「ホー、ホーホケキョ。ケキョ、ケキョ、ケキョー」
鳴き声が響き渡る中を老人が、
「鶯が祝ってくれておるぞ」
「じい様は仙人様か?」
「そうじゃのう。仙人に近い暮らしはしておるが仙人ではない」
「普通の人間ではない…?」
「わしには寿命があるのでな。
そして『この世を変える』という大きな役目がある。
そのために昨日の夜遅くにここへ来たのじゃよ」
「どこからどうやって。どうしておいらや昫や琿のことまで知っておる?」
「わしはそこから来た」
天を指差している。
「空じゃと?」
「飛行術という。
ある限られた種族の者が鍛錬に鍛錬をしたのちに極める事ができる技じゃ」
「ヒコウジュツ?」
「われらは空を飛び、水を渡り、水に潜む事ができる」
「空を飛び、水を渡り、水に潜む・・・」
「おぬしなら出来るぞ。五年の鍛錬をすればまず初手は会得できよう。
だが、修行の道は厳しく長い。生半可に非ず。
終わりもない」
佐助はぶったまげた。
…おいらにもできるだと⁉︎
「おぬしたちを見ておったのは千里眼という。
気を集中することによって、人や物の動きを心に映すことができる」
「この庵も、木を切り倒したのも、夜遅くにじい様がひとりでやったんだべか?」
「いやいや、わしの齢は百をとうに過ぎておる。
甲賀の下忍衆に、ちと手伝うてもろうた。
佐助に甲賀忍法の奥義を授けようと思うてな。
無論、おぬしにその気があればであるが」
「コウガニンポウ? オウギ?」
「そうじゃ。
わしの名は甲賀三郎兼家、世間では戸沢白雲斎と呼ばれておる」
「そんなたいせつそうな事をなぜおいらに」
「わしの役目ゆえに」
「・・・?」
「授けるにあたりもっとも大事な事を言っておく」
「・・・?」
「人を決して殺めてはならぬ。
己が命もである。
わしの役目とは『この世から戦さを無くす事』じゃ」
佐助は昫と琿の顔を見た。
「難しい事はわからねえが、昫も琿も『良い』と言うておる。
おいら、やってみたい!!」
「そうか」
「畑仕事もあるで。おっ父が『良い』と言うてくれればな」
「佐平殿はなかなかの御仁じゃな。
真っ白に育っておるわい。
それに事を決めるに当たって、他人の意見を聞くだけの心の広さが佐助にはある」
…言葉だけを残して白雲斎の姿は消えていた。
二 満天の星空
「堺の商人である蔦谷宗次殿に佐助も会ったことがあるはずじゃ」
佐平の声は普段より一段と優しい。
「ああ、米を持ってくる人…」
「その宗次殿から聞いた事がある。
戸沢白雲斎というお方を実際に見た者はほとんどおらぬらしい。
実在の人であったとはのう。
それに本名までおぬしに名乗られたとは」
「ええのか?」
「良いも悪いもない。おぬしの心は既に決まっておるのじゃろう」
「ではあした行く」
「そうするがよい。だがな、厳しい道ぞ。
茨の道と心得よ」
「イバラノミチ・・・」
「『この世を変える』『この世から戦さを無くす』と申されたというではないか」
「言うた」
「忍びの衆なら、百五十年も続いたこの戦乱の世を終わらせることが出来るやもしれぬと思うてな」
佐平は天を仰ぎ沈思黙考した。
「佐助ならやるかもしれぬ。
いや、おぬしこそがやらねばならぬのかもしれぬ」
佐助は父の言っている事が理解できないし、こんなに簡単に許されるとは思いもよらない。
まさかのまさかだ。
「この国には甲賀の他にも、伊賀、根来、雑賀、信州にも戸隠、飯綱、すぐそこには真田もある。
さらに越後の軒猿、甲斐の三つ者、相模には風魔、その他諸々の流派がある。
今をときめく太閤とて忍びの衆の実態はわかるまい」
「・・・?」
「伊賀も根来も雑賀も酷い焼き打ちにおうておる。
武士であれ、町人であれ、百姓であれ、 生き抜く事が難しい世じゃ。
忍びは更に難しいぞ」
…その夜。
志乃は込み上げてくるものに堪えられず庵の外に出た。
髪の毛に何かが触れているような気がして思わず上を見た。
満天の星空が広がっている。
天の川が白く光り、夏の星々がやさしく微笑んでいた。
志乃が十歳の六月の朝。
目覚めると生まれたばかりの佐助が眠っていた。
若い百姓夫婦が連れて来たのだ。
それから十一年。
志乃は佐助の姉となり母となった。
ただ無我夢中で世話をしているうちに時が過ぎた。
涙が頬を伝う。
嬉しいのか哀しいのかよくわからない。
ただ涙がどんどん出てくるのでしゃがんで泣いた。
そんな志乃の背中を星の光がやさしく包んでいる。
志乃の直感が役目を終えたと告げているのだろうか。
佐助の門出を喜んでいるのだろうか。
ただ心配しているだけかもしれない。
布団の中に入っても、涙が枕を濡らした。
佐平も佐助もその事を背中で感じながら、親子三人が川の字になって朝を迎えた。
…志乃が起きた時には佐助はもういなかった。
一里(4km)、半里(2km)
十間(18m)