㊲-②第三部 第二章 雪の百万石 一節 真田十勇士 二
二 於江の方
「苦労は買うてでもせよか。
おぬしを見ておるとつくづくそう思わされる」
「大殿にだけは言われたくありませぬな」
江戸城二の丸の茶室で家康が本多正信に茶を振る舞っている。
「これが平蜘蛛の茶釜でございますか」
白い湯気が釜から這うように出ると炉の隅に消えていく。
「利休殿の形見じゃ。堺の宗薫殿が届けてくれた」
「この茶釜の如く生き延びよ、とのことでございますな」
「地を這う如く、頭を低くしてな」
「利休様に受けたご恩は測りしれませぬ」
「今宵は侘び茶にておぬしと偲びたいと思うたのじゃ」
「ご恩に報いるため、茶の道を庇護されては」
「その事よ。天海和尚もそのご意向じゃ」
「それは何よりでござる」
「それはそうと、また赦したな」
「真田親子でござるか」
「ようしてくれた。寛容が肝要じゃ」
「出奔した某をお赦しになったのは大殿でございますぞ」
「百年の計の礎は寛容と見ておる」
「確かに。窮鼠猫を噛む、となるは取り返しのつかぬ悪手。
その前には赦すようにはしております」
「それよ。だが、ちと追い込み過ぎではなかったか」
「徳川への求心力は強くなりますぞ」
「それはありがたいが、あまりに悪役を演ずるとおぬしが堪える。
おぬしが耐えられても子が恨まれる。
正純はおぬしに輪を掛けた悪役を演じておるそうな」
「それはそれでございます。
話を真田の事に戻しましょう。
食えぬ親爺殿よりも左衛門佐の方が食えぬようで」
「天下の逸材と言っておったな」
「あの人徳は天下を治める為には持って来いの器かと」
「天海和尚も同じご意見だが」
「ところが、解らぬことが多すぎまして慎重に進めております。
左衛門佐には何やら秘密があるようで…」
「甲賀の若い惣領はどうじゃ?」
「それもございます…」
「一筋縄ではいかぬようじゃの」
「此度も押せるところまで押してみましたが」
「何か出たか?」
「ますます謎めくばかりで」
「また手を打つのか」
「搦め手から打ってござる」
「金沢か?」
「何もかもお見通しでございますな」
正信は茶碗を押戴く。
シュッという音を立てて茶を吸いきった。
…真田父子の上田城落ちは粛粛と実行された。
慶長五年(1600年)十二月十三日。
真田昌幸と海野六郎扮する偽信繁、及び十六名の家臣は上田城を発した。
誰もが昌幸父子に従って九度山に付いて行きたい所を十六名に限られた。
信繁はその人選にも苦心した。
結局、池田長門、高梨内規、原出羽、堀田作兵衛、侍医青柳清庵以下十六名が選ばれた。
中には人選に漏れた窪田正助などの様に悲観のあまり切腹をしてしまった者も出た。
真田家臣団の信頼関係は強い。
信繁の負担にならぬ様自主的に浪人となり、密かに京や大坂に潜伏した者も多かった。
その外の者は兄信之の下に召し抱えられた。
…昌幸、幸村父子の西軍への貢献は大きい。
最初の決定は当然の事ながら死罪である。
死罪を強硬に主張したのは本多正信だ。
上田城攻防で幸村の器の大きさと能力を嫌と言う程実感している。
信繁は三十三歳でまだ若い。
隠居の昌幸は五十六歳とはいえ充分脂ぎっている。
「生存させておいてはいつの日かまた煮え湯を飲まされるかも知れぬ。
左衛門佐が豊臣家の家老にでもなれば天下をひっくり返す度量がござる」
これが正信とその息子正純の表向きの主張である。
裏では異なる一手を模索していた。
謀略によって徳川幕府に貢献した正信父子らしい。
表の決定を覆したのは女の力であった。
信之の妻小松殿である。
小松殿は実父の本多忠勝を通して言わしめた。
三河武士の英雄である忠勝は愛娘の小松殿には生涯甘かった。
忠勝の一喝には誰も逆らえない。
「徳川が今あるのは旧敵であった武田の家臣団を引き入れた賜物である。
真田も同じ事。
真田を誅するは国の宝を捨てるに等しい。
それとも、正信、おぬしの私怨か?」
ここまでは正信の想定内で、実は忠勝の一喝を待っていた。
さらに、驚いた事に秀忠の妻である於江の方から家康への直訴へがあった。
夫たる秀忠の首が定かではないにもかかわらずの事だった。
「鶴の一声」である。
最終的に幸村父子の罪一等を減じ高野山配流とし、様子を見る事となる。
思わぬ余波があった。
秀忠の首が繋がった。
「鶴の一声」で何故か家康の怒りが収まったのだ。
…於江の方。
織田信長の妹のお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹の末っ子である。
佐助には従姉にあたる。
長女が茶々(淀君)、次女がお初(常高院)である。
信長の妹、お市の方は浅井長政に嫁いで幸せな暮らしをしていた。
元亀元年(1570年)浅井と織田の同盟が決裂する。
浅井の小谷城は天正元年(1573年)八月に織田徳川連合軍に攻められ落城。
お市とまだ乳飲み子であった於江はじめ三姉妹は落城の中を際秀吉に救出され、信長のもとに帰る。
お市の方は信長の重臣柴田勝家と再婚。
越前北の庄(現福井県)で三姉妹も穏やかな日々を送った。
ところが本能寺の変が起こる。
その後の勢力争いで於江の義父柴田勝家は秀吉に破れ、お市の方は自害した。
この時、於江は十一歳だった。
三姉妹はまたしても火炎の中を救出され、仇である秀吉の庇護を受ける。
秀吉の命令により、於江は十二歳で佐治余九郎一成と結婚した。
佐治余九郎の母はお市の妹、お犬の方である。
与九郎は織田信雄(信長の次男)の家臣で尾張大野五万石領主であった。
ところが秀吉と諍いを起こし、秀吉の命令で於江は離別させられる。
その後、秀吉の養子、豊臣秀勝と再婚。
二代目関白となり、最期は切腹に追い込まれた豊臣秀次は実兄である。
天正二十年(1592年)朝鮮の役で秀勝は戦死。
秀勝の死から三年後の文禄四年(1595年)
またしても秀吉の命令で徳川家康の三男、秀忠に嫁いだ。
この時、秀忠十七歳、於江二十三歳。
もう二度と夫との離別をせぬ、と心に誓った於江は徳川家の人間になり切るために必死の努力をした。
秀忠は恐妻家と言われているが於江を愛した。
千姫を初め次々と子宝に恵まれた。
いずれも女子ばかりで秀忠は周りから側室を勧められた。
だが秀忠はそうしなかった。
この時代にしては珍しい事である。
やがて、待望の長男三代将軍家光、次男忠長を産んだと言われている。
寛永三年(1626年)、五十四歳で江戸城にて死去。
芝増上寺に葬られた。
晩年は剃髪して崇源院と称した。
…お市の方とその三姉妹ほど戦国の世に弄ばれた女性はいない。
過酷な運命だった…。
わが身の不幸を嘆き、世を恨み悲嘆にくれた人生を送っても不思議ではなかった。
於江は良く耐え強く生き抜いた。
…後世の歴史には、嫉妬深く、家光と忠長を巡り春日の局との確執があったと伝えられている。
それにはそのように残さねばならない理由があった…。
…徳川三百年の太平の世の礎を作るのに最も大きく貢献したのはこの人である。