㉞第三部 第一章 霧隠才蔵 二節 平蜘蛛の茶釜
陽はとっぷりと暮れたが月明かりがある。
山林を思わせるような庭だ。
ひっそりとした草庵が組まれていた。
草庵は「裏の待庵」と呼ばれている。
朝暮殿の庭は奥行きがある。
小枝を払いながら歩いて行く。
芳しい香のかおりが漂ってきた。
茶室の中には香が焚かれているらしい。
にじり口の上の刀掛けに大小を置いた。
先客の刀がすでに置かれている。
にじり口は縦横 二尺しかない。
頭を低くして中に入る。
茶室は二畳しかなかった。
先客は亭主の横に片膝を立ててすわっている。
佐助のために床の前の正客の座を開けて待っている。
この時代は片膝を立てて座すのが武士の習いだ。
急場に対処するためである。
天窓と横壁の小窓が月の光で薄ぼんやりと明るい。
炉の中の炭火がちらりと赤い。
灯りはそれだけだった。
亭主が「ご隠居」らしい。
かなりの高齢と見た。
大柄な人物だ。
「ようお越しくだされた。
さあさ、ここにお座り下され。
どうぞお寛ぎなされ。
才蔵様もそう畏まらずに佐助様の隣へ。
佐助様、こちらが霧隠才蔵様にございます」
砕けた物腰柔らかい物言いだ。
「沢木佐助にござる」
「霧隠才蔵でござる」
驚いた。
間が抜けている。
才蔵は姿形は幸とよく似ているが利発さを感じない。
身体は幸より一回り大きい。
「わしは千利休でございます。
明日まで待っておれず夜分のお招きになりました。
佐助様にはどうしてもお詫びをせねばなりませぬ故に」
座に沈黙がはしる。
「シュン。シュン」
湯の滾る音が響く。
釜を見ると、周りを蜘蛛が這い回る様に白い湯気が流れている。
口が広く平らな茶釜である。
(平蜘蛛の茶釜ではないか)
「周りは宗次殿が結界を張ってござる。
ここで話す事は一切外には漏れませぬ。
ご安心下され」
才蔵は横でぼんやりと利休の点前を見ている。
「お気付きの通り平蜘蛛の茶釜でございます。
今宵はこれにさせて頂きました」
平蜘蛛の茶釜は天下の名品である。
もとは足利義満の所蔵であった。
その後、戦国の梟雄とも大悪人とも呼ばれた松永弾正が手に入れた。
信長は「一万貫でも良」としてなんとしてもこれを欲した。
だが、松永弾正は渡さなかった。
やがて信長が多聞城の松永を攻めた折、
「平蜘蛛を渡せば命を助ける」とまで信長は言った。
織田軍の総攻撃が始まると、弾正は天守閣に五人の家来を呼んだ。
平蜘蛛の茶釜で悠々と別離の茶席を催したのだ。
茶会が終わると、平蜘蛛の茶釜を膝に乗せた。
そして、火薬を盛れるだけ盛って豪快に爆死を遂げた。
その後、城に火を付けさせたという。
(無いはずのものが、今、ここで湯を滾らせている)
「そうでございます。
無いはずのものが今ここに有ります。
この待庵も然り、平蜘蛛然り。
佐助様然り、才蔵様然り、この利休も然りでございます」
「シュン。シュン、シュン」
静かなゆったりとした時の中で釜の音が何かを語りかけている。
(人生の辛い思い出を持つ者の声か?)
「まずは甘いものをどうぞ。
体の疲れも心の疲れも癒してくれます。
これは朝暮殿の金平糖でございます」
店の前では見たが口にするのは初めだ。
砂糖を溶かして煮詰め、炒った芥子の種を入れる。
加熱して掻き廻すと、芥子の種を中心にいぼいぼの突起の出た粒の砂糖菓子が出来る。
(甘い・・・)
肩に乗っていた重いものがふっと取れた。
構えていたつもりはないがやはり構えていたのだろう。
「茶を点てさせて頂ます」
利休の動きは少しも枯れていない。
むしろ生命力を感じる。
(硬さが無く澱みが無く、流れゆく鳥居峠の湧き水の様だ)
「お褒めに預かり有難うございます」
どうやら利休は人の心が読めるらしい。
才蔵の心も読んでいるのだろうか。
佐助には才蔵の方はなんの動きも感じとれない。
「さ、どうぞ。
一服お召し上がり下さいませ。
才蔵様も今点てますゆえ」
「それでは頂戴する」
煮え滾っていた湯であるがひとつも熱く感じない。
茶の香りがプーンとしてまろやかで爽やかな苦さだ。
(うまい)
佐助は一息で飲み干した。
何ゆえか解らぬが熱いものを感じ目尻に涙が浮かんで来た。
「恐れ入ります。
本来はとてもお赦し頂けぬものを…」
才蔵も佐助と同じ様に一息で飲み干している。
才蔵の頬が薄紅を帯びた。
よく見ると才蔵は肌の色がかなり白い。
瞳は左は黒いが右が青みがかっている。
(異相だ。それに…)
「あなた様のお父上の命を本能寺で奪いました。
その張本人こそはわたくしでございます」
佐助の心には何の動揺も起きない。
才蔵の心が揺れている。
「これより一部始終を申し上げます。
お父上の信長様はおそらく歴史上最高の武将であられたと思います。
今井宗久殿も、わたくしも、その信長様の天才に目を付け信長様の為に全力を傾けました」
佐助とは裏腹に才蔵の心が高揚していく。
「茶道にもお力をお入れ下さりました。
特にこのわたくしはお目をお掛け頂きました。
正倉院のお宝の『蘭奢待』まで賜りました。
今宵焚かせて頂いている香はそのものにございます」
蘭奢待の薫りのせいだろうか、佐助の心の波はますます鎮まっていく。
才蔵の心には大波が打ち寄せている。
「伊賀の焼き討ちで三万人。
長島と越前の一向門徒衆だけでも四万人。
そして延暦寺焼き討ち。
金剛峯寺の高野聖も斬り、甲斐の恵林寺では天皇の師であられる快川紹喜様までも焼き殺されました」
月が高く昇ったのか、天窓からほのかな光が射し込んだ。
蜘蛛が這い回る様に流れ出していた茶釜の白い湯気が集まり、一筋の糸になった。
蜘蛛の糸が上に向かって立ち昇リ始める。
輝きを放っては天井に吸い込まれるように消えていく。
「ほーう。なんと」
利休は瞼を閉じて合掌する。
「お二人のお陰で今宵は供養ができるかもしれません」
(・・・・・・)
「光秀様、家康様、秀吉様、そして、わたくしとで、古き良き天皇の世に戻す。
天下は足利将軍家にお返しする密約をいたしました。
先代の服部半蔵殿と宗次殿のお力をお借りしました。
そのためにお父上のお命を奪いました」
(・・・・・・)
「光秀様もご存命です」
(山崎の合戦(京都府)で太閤に負けはしたが、御存命であるのか?)
「天下人になられてからの秀吉様は一時は太陽の申し子の如く輝きました。
しかし、結局は信長様に劣らぬ残虐さを現し、弟君の秀長様が亡くなられてからはますます抑えが効かなくなりました」
(・・・・・・)
「最期にわたくしも命に代えてお諌めした次第でございます。
しかし、その事も、お父上を殺めた事も吾が心の驕りでございました」
この日の為に利休が焚いた蘭麝待の千年の時を超えた香りが庵の内を満たした。
「今にして思えば、人意にて人の命を殺める事は天はお許しになりませぬ。
己が命もでございます」
利休は柄杓で一杯、二杯、三杯と水差しから水を汲み茶釜に注いだ。
湯の滾る音が消える。
平蜘蛛の茶釜の沈黙とともに静寂が長く続いた。
「シュン。シュン」
平蜘蛛の釜が再び語り始めた時、利休が口を開いた。
「もう一服如何でございますか」
「お願い申し上げます」
佐助と才蔵が声が重なった。
「有難うございます。それでは」
利休が点前を始める。
「七十九まで生きていて良うございました」
「シュン、シュン、シュン」
「今宵の様な機会も有るやと、裏の利休として息を潜めて枯れ果てて生きながらえて参りました。
こうして、わたくしの点てる茶をお二人にお召し上がりいたただけて幸せでございます」
(利休様の心は青年であられる)
「佐助様と才蔵様にはお互いに思うところもおありと存じます。
しかし、どうか私怨を離れて、世の為人の為にお二方の人並み優れたお力をお合わし下されば、と願っております」
利休の言葉の響きには生命力の漲った年輪の厚みがある。
師の白雲斎の面影がだぶって見える。
「この百年は尊い命がたくさん失われました。
その中には私の過ちもございます。
どうか次の百年はお二方の力で平和な世をお創りくださいさいませ。
わたくしも命の続く限り生き抜いて微力ながら働かせて頂きます」
初冬の堺の夜は深々と更けていく。
奥庭の池には満月が映し出されている。
天頂に昇った月は澄み切った大気の中で冴え渡っている。
月光を受けた奥庭はまるで白銀の別世界の様だ。
銀色に輝く狼と黄金色に光る大鷲の姿がある。
両者が出している気には警戒色は全くない。
(この若者達は過酷な運命の中に生を受けながら心は全く穢れておらぬ。
今宵はわしの心も洗われた様に清々しい。
ああ、生きていて本当に良かった)
…「人の世の幸せは人と人との良き出逢いに始まる、と申します。
茶の道もそのためにございます。
どうか、良き出逢いを大切にしてくださいませ」
二尺(60cm)




