㉛第二部 第四章 散り残る 三節 喪失
あのお祭り騒ぎが嘘のようだ。
上田城内は喪に服していた。
佐助が上田城に戻ったのは昫の事件から十三日後の九月二十四日だった。
…二つの訃報が届いていた。
一つは大谷吉継の討ち死である。
九月十五日に関ヶ原で決戦が行われた。
秀忠軍四万は間に合わなかったにもかかわらず西軍は破れた。
大谷吉継は天晴れな闘いをしたが奮戦及ばず潔い死を遂げた。
石田三成は囚われの身となっている。
城内を暗くしていたのはもう一つの訃報であった。
幸が亡くなったというのだ。
佐助は愕然とした。
佐助の帰城を聞いた小助が千曲館の佐助の部屋に息を切らしてやって来た。
小助は佐助を見るなり驚いた。
「何という事だ!」
「何を驚く?」
「気付いてないのか」
「何だ?」
「おぬし頭が真っ白だぞ」
「白髪という事か」
「そうだ!」
…小助は昫を失った悲しみがそうさせたと思った。
…佐助は昫の魂が自分の中に残ったのだと思った。
「痩せたのう。大丈夫か?」
「心配をかけてすまぬ」
「若殿は勿論じゃが、大殿がえらい心配をされておる。
『おそらく猿飛は飯も食っておるまい。いっさいの責任はわしにある。猿飛が帰るまでわしは食事を断つ』と申されてずっと水だけじゃ」
「それはいかん。
すぐにお詫びに上がろう」
「良い、良い。
猿飛の帰城の事は吾等八人衆で手分けをして知らしめている。
清海と伊佐も大殿の事を聞くと、『大殿が断食されておるのにわしらが飯を食う訳にはいかぬ。わしらがあの場に居りさえすれば昫は死なずに済んだ。責任はわしらにある』と言うてな。
もっとも、あの二人には誰も同情しておらんが」
「迷惑をかけた」
「心を痛めておったのは大殿や若殿、三好兄弟だけではないでの。
おぬしの帰城は闇の中の大きな灯じゃ」
「幸様の事は辛いな。
大殿や若殿、特に小助、おぬしは随分と堪えておろう」
「確かに。特に大殿はな。
末娘ゆえ、目の中に入れても痛くない程可愛いがっておられたのでな」
「大殿は愛情が豊かなお方だからさぞかしお辛いだろう」
「猿飛とてそうであろうが。
大殿と猿飛は似たところがある」
「そうかもしれぬ…」
「ところで太郎は来ておらぬか?
結界を張って貰いたい。
猿飛だけにしかできぬ相談がある」
「来ておるとも。
太郎はわしを案じて片時も離れぬ。
今は床下に潜んでいるぞ」
「実はな。月様もご一緒に亡くなったのだ。
つまり、乳母の阿月殿もという事じゃ」
「母と娘が同時に亡くなったと言う事か?」
「大殿には病死という事で連絡が来た。
吾等は西軍ゆえ、おおっぴらに弔問にも行けぬ。
そこでわしが内々に伊賀のよしみで江戸まで行った。
帰って来たのが昨日の事じゃ」
「ふむ。事の次第は?」
「毒殺らしい。
外傷もないので食べ物の中という事になる。
だがな、月様は秘伝を受け継いだ伊賀忍法の達人じゃ。
その上、嫁ぎ先は服部半蔵政重ゆえわしも油断しておった」
「わしも考えが甘かった」
「兄の正就は家康の姪を嫁にもらい、亡くなった半蔵正成の八千石の家督を継いだ。
今や徳川の隠密頭になっておる。
但し、服部半蔵正就は父親と違い評判が良くない。
権勢に奢って高慢だとか強欲だとか。
忍びの技はそこそこ出来るらしいが」
「服部半蔵は二人いるのか?」
「いる。兄の正就と弟の正重とな。
弟の方がまともなので幸様の輿入れにはわしも賛成したのだが…」
「父と祖父は達人だったが、子達は凡人か?」
「猿飛も口が悪いな」
「小助には言われたくないが、八人衆は伊佐以外は皆同じ穴の狢だ」
「確かに」
「服部家の内情は別としても、忍びの本家での毒殺は容易ではない。
かなりの手練れの仕業だ」
「以前に話をしたように月様が存命の事は秘中の秘じゃ。
幸様の輿入れで漏れたのではないかとわしは見た」
「絶えたはずの百地家に未だ尚深い恨みを持つ者の仕業だと?」
「江戸の服部屋敷は関ヶ原での東西決戦で手薄だった。
われ等の方は昫を殺され落ち込んでいる時を狙われた」
「ふむ」
「犯行は九月十六日じゃ」
「九月十六日…」
「昫の事は戦勝で気の緩みがあったと反省しておる。
だが、わし一人ならいざ知らず、われ等八人衆の技量はかなりなものじゃ」
「・・・」
「五人もの死間という執念。
小太郎や猿飛が知らぬ毒薬まで使える力を持っておる者。
権勢に興味のない織田の末裔の命を付け狙う者」
「月様も幸様も闇烏天鬼の手に落ちたのではないかと…?」
「わしの勝手な思い込みかもしれんが」
「その恨みの元は我が父信長の虐殺にありか」
「そういう事になる」
「ふむ。少し時間をくれ」
佐助は目を閉じて瞑想をしているように小助には映った。
四半刻程、沈黙のまま時が過ぎた。
佐助が目を開いた。
「小助の推察通りじゃ」
「猿飛、おぬし見えたのか」
「ああ、見極めた。
小助の心の中に入らせてもらい、おぬしの見た江戸の服部屋敷も見た。
幸様と月様の亡き骸も拝んで来た。
月様が犯人の正体を見ておられた」
「なんと・・・」
「月様は呂宋の雪様に伝えると言われておった。
手を下した者は闇烏天鬼の他に四人、くノ一が二人混ざっていた。
闇烏天鬼はイスパニアから来た者の力を借りておる」
「今なんと言った。
雪様は呂宋でご存命か?」
「そのようだ」
「そうか、ご存命だったのか…!」
「下手人は皆既に服部屋敷から脱出しておる。
今度は生間じゃ。
小助が行った時にはもう逃げていた」
「おぬし、そこまで出来るようになったのか」
「その様だな。
昫が新たな力をくれたらしい。
『空蟬の術』を使いおぬしの心の中に入った。
『空の軸』の扉を開けて月様から話を伺って来た」
…小助が帰った後、佐助は千曲屋形の佐助の部屋でポツンと一人座していた。
どうしようもない寂寥感に襲われた。
幸も守れなかった。
あんなに明かるかった幸が何も言わなかった…。
どういう事だ…?
ただにこにこと佐助の顔を懐かしそうに見ていた。
思い出すと心が締め付けられるように痛む。
烏帽子山で過ごした一日を思い出すと心が張り裂けそうになる。
ーーーわたくしは猿飛さまのお嫁になりとうございます。
あの言葉は命の救いを佐助に求めた幸の魂の叫びでもあったのだ。
伊賀の惣領の血を引く娘は本能で感じていた。
幸を娶っていれば救えたかもしれない。
縋られていたのだ…。
あの時、佐助の本心はそうしたいと思ったが敢えて逃げてしまった。
戦さを止められず、嵐を呼び虐殺をした。
心ならずとは言え、多くの人の命を殺めてしまった。
悶々として自分の殻に閉じこもっているうちに隙を突かれた。
大切な昫を己れの身代わりにしてしまった。
打ちひしがれて太郎山で吠えている間に今度は幸の命を奪われた。
…始まりは心の奢りだ。
振り返って見ると、望月六郎からも二度も警告を受けていた。
一つの隙が歯車を狂わせた。
もう少し慎重に一歩を踏み出して入れば…。
父や秀忠の失態を他人事として見ていた自分はいったい何様だったのだろう。
…甘かった。
この世はなんと怖ろしいところだ。
自分を責めるなと言い聞かせても責めずには入られない。
心が後ろ向きになるとこの世では闇の力が容赦無く襲って来る。
虚無感に心の中が覆い尽くされていく。
喪失感の中をさまよいながら暗闇の中で伏した。
心の傷口が再び開いてただ痛みに耐えかねている。
泣こうにも、もう涙も枯れた。
…ふと気づくと、心の底から昫の声が聞こえて来た。
ーーードンナ事ガアッテモ 生キテクダサイ。
ーーー訳ガ分カラナクテモ 生キテクダサイ。
ーーー佐助様ナラ キット超エラレマス。
ーーー私ハ佐助様トズットイッショ。
…太郎は部屋の床下でじっと佐助を見守っている。
四半刻30分




