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碧と白の珠玉   作者: 真緑 稔
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㉚第二部 第四章 残り散る 二節 咆哮

「徳川軍、小諸城出たり!」

「勝ったぞ!」

「皆の衆のおかげじゃ!エイ、エイ、オー!」



 …九月十一日。

 上田城で大きな鬨の声と供に歓声が上がった。

「奇跡じゃ。奇跡じゃ。奇跡が起こったぞ!」

「よう頑張ったのう!」

 満面の笑みで沸き返っている。


 秀忠軍の傷は思ったより深かった。

 九月十一日早朝にようやく小諸を出陣した。

 秀忠が宇都宮を出た八月二十四日からは十七日、小諸に着いてからでも十日が経っている。

 信之と仙谷秀久を上田城の抑えとして残し、追分宿から中山道を急いだ。


 …「(あつもの)()りて(なます)を吹く」のは小心者の常である。


 秀忠軍は昌幸の奇襲を警戒するあまり真田領内の中山道は避けた。

 大きく南へ迂回して雨境(あまざかい)峠から大門峠(だいもんとうげ)を経て下諏訪宿へ出た。

 雨境峠は標高5200尺、大門峠は4800尺もある。

 この道は役行者(えんのぎょうじゃ)越えと呼ばれる剣呑な難路だ。

 弱っている兵達には過酷な行軍となった。


 馬籠(まごめ)宿の五つ手前の木曽福島宿に辿り着いたのが九月十六日である。

 後に判る事だが十五日に関ヶ原の決戦は終わっている。


 …軍令違反についてはそれぞれに処罰がされた。

 最も厳しかったのは牧野康成の部下である(にえ)掃部氏信かもんうじのぶ)に対してである。

 上田城内への突入を直接指揮した責任が問われ切腹を命じられた。


 康成は責任は自分にあるとして処罰を拒否、部下達を連れ出奔した。

 しかし、四年後には家光が誕生したのを理由に恩赦を受けて大胡二万石に戻される。

 不思議にも、その後もたびたび加増される。

 贄掃部(にえかもん)もなぜか紀州家の徳川頼宣に再仕官している。


 …康成に指示を出していたのは土井利勝であった。

 秀忠が煮え切らないので、実力行使で上田城を攻略し戦功をあげるのが主戦派の狙いだった。

 康成は口を割らなかった。

 利勝を代表とする主戦派を守り抜いたのだ。


 康成に対する異例の処遇の裏には土井利勝がいる。

 のちに土井利勝は出世し、徳川幕府の権勢を手中にした。

 また酒井家次の温情もある。

 康成は徳川四天王の酒井忠次の娘婿で、家次とは義理の兄弟でもあった。


 …その根幹には、信長や秀吉の厳しさとは異なる家康の懐の深さがある。

 家康は家臣を大事にし過去の罪は赦した。



 …上田城内ではこの日ばかりはお祭り騒ぎだ。


「これで秀忠軍は西軍との戦さには間に合うまいよ♪」

「という事は真田二千五百が四万を上田で倒したも同じじゃのう♫」

「という事は?」

「西軍が勝つ♫」

「という事は?」

「大殿が甲斐と信濃の大大名になるという事か?」

「という事じゃ♪」

「あっ、めでたや、めでたや・♪・♪」

 あちこちで唄い踊っている…。



 …その中で小泉曲輪の一隅だけは静かである。


 五十名足らずの負傷者が残っている。

 軽傷の者は小諸に引き取らせたが、徳川軍の重症者を上田城で未だに診ている。

 青柳清庵と小太郎、佐助、小助の治療技術がずば抜けているのだ。


 四人が交替で休憩をとりながら看病している。

 八人衆も終日手伝っている。


 八人衆は佐助を心配している。


 国分寺の方は九日に引き払った。

 信繁や昌幸も日に三度は見舞いに来る。



 …事件は日暮れ前に起こった。


 小太郎はいつもと同じく寡黙に丁寧に治療に専念していた。

 突然、手当てされていた徳川方の患者が小太郎の顔に斬りかかった。

 寝たままの姿勢から隠し持っていた脇差しを抜いたのだ。


 一番近くにいた甚八が小太郎を守るために跳んだ。

 だが小太郎は難なく手刀で脇差しを叩き落し、患者を組み伏せた。


「さすが猿飛の兄じゃ」

 小太郎はかすり傷だったが、額からは血が一筋流れている。


「大丈夫か、小太郎!」

 甚八が間者を縛り上げながら小太郎を見ると、珍しく顔に不敵な笑みを浮かべている。


 その時、同時に四方から数本づつ十字手裏剣が続けざまに投げられた。

 全部の手裏剣が信繁を狙っている。


 投げたのはまたしても患者の中の者だ。

 両六郎と甚八、十蔵は四人の患者に向かって跳ぶ。


 佐助と昫と太郎は信繁に向かって跳ぶ。

 四人の患者は逃げもせず、十字手裏剣を投げ続けた。


 信繁は刀を抜いて手裏剣を払おうとする。

 しかし、前後左右から一度に来る手裏剣はひとりでは払えない。


 だが信繁は守られた。


 一番速いのは佐助だ。 

 放たれた手裏剣より速く飛んだ。

「時渡りの術」を使って信繁のいた場所にいる。


 信繁は刀を抜いたまま手裏剣の来ない安全圏まで跳ね飛ばされていた。

 佐助達が手裏剣を払うには信繁が抜いている刀が邪魔だったのだ。

 続いて昫と太郎が他の負傷者に当たりそうな手裏剣を前脚で払っていた。


 一瞬の出来事だ。


 昫と太郎は十字手裏剣を払ったというのに前脚に傷ひとつない。

 五人の間者は取り押えた時にはいずれも毒を飲んで事切れていた。

 佐助は十字手裏剣に毒がないか確認している…。


「やれやれ」

 十蔵がそう言った時、いつのまにか信繁の横に小太郎が立っていた。

 先程奪い取った脇差しを抜き身のまま手に持っている。


 小太郎はいきなり信繁に斬りかかった。

 信繁は刀を手に持っていたので撥ね退けようとするが手が金縛りにかかっている。

 脚は動くので初手は何とか交わした。


 小太郎の剣は凄い早技だった。

 誰もが呆気にとられる。


 佐助が再び「時渡りの術」で跳ぶ。

 が、昫も跳んで佐助の身体を撥ね退け、小太郎と信繁の間に割って入っている。


「昫!大丈夫か」

 昫の横腹に脇差しが刺さっている。

 信繁は昫の刀を抜いて血止めにかかろうとするがまだ手が効かない。


 小太郎は呆然と立ち尽くしている。

 佐助がいきなり小太郎の鳩尾(みぞおち)に当て身を入れる。


「ぐえー!」

 おぞましい声をあげて小太郎は倒れた。

 口や鼻、耳から黒い霧か煙のようなものが立ち昇る。

 煙は天井まで上がると集まって黒い雲になり西の空へ逃げようとしている。


 佐助は床を蹴る。

 黒い雲の前に飛び上がり、名刀「村正」を抜いた。

 青白い刀身が鋭い光を放つ。

 真正面から一刀両断にする。


「ぎゃあー!」

 どす黒い悲鳴があたりに響いた。

 今度は四枚の烏の羽根になりひらひらと宙を舞っている。


 すかさず十蔵が口から炎を吹きかける。

吐炎(とえん)の術」だ。

「ウウウッッウ!」

 四枚の羽根は燃え尽きた。


「しつこい呪いであったな。

 これで小太郎に掛けられていた呪縛も解けたであろう」

 とりあえず小助は安堵している。


 十字手裏剣を拾いながら、

「闇烏天鬼め手の込んだ仕掛けをしおって。

 あやつも相当堪えたはずじゃ。

 額の刀傷で発動するように小太郎に仕込んでおったようじゃ。

 にしても若殿を何故…?」


「うむ!」

「しまった!」

 二人は慌てて昫のところへ急ぐ。


 信繁の顔がまっ青だ。

「いかん毒じゃ!!」

 信繁が昫から抜いたばかりの刀身にはべったりと塗られた毒の跡がある。


「血止めより傷を洗わねば。直ぐに解毒じゃ!!」

 小助が怒鳴る。

「十蔵! 清庵先生を呼んでこい。

 甚八! 小太郎に気合いを入れてくれ。

 小太郎の医術が要る」


 水桶と綿布が佐助に吸い寄せられるように宙を飛んで来る。

 小助が傷を洗い、佐助が毒を吸い出しては吐き出している。

 佐助の顔はもう血だらけだ。


 意識の戻った小太郎が佐助に代わる。

「毒はなんだ?」

鳥兜(とりかぶと)斑猫(はんみょう)、それに砒霜(ひそう)馬銭子(まちんし)(まむし)の毒。

 それにもう一種類あります。

 私の知らぬものです。

 とにかく解毒をせねば。

 先生、もう一種類は何でしょうか?」


「わしにもわからぬ。

 南蛮のものじゃろう。

 考えておる暇はない。

 急ぎ判っておるものの解毒剤を作ろうぞ!」


 (鳥兜は紫色の花を咲かせる植物だ。

 根に猛毒があり、解毒剤は無く、吐き出すしか治療法はない。

 斑猫は虫であるが猛毒を持った種類があり、その毒薬は暗殺に使われていた。

 砒霜は砒素である。山の鉱床から採取されていた。

 馬銭子は印度原産の植物で微量で死に至る。

 忍び達は主に犬殺しに使っていた)


 脇差しは右の前脚を傷つけ、さらに内臓深く刺し込まれていた。

 猛毒が六種も調合された念の入れ方だ。


 毒が無ければ、昫であれば傷は自力で治癒したかもしれない。

 毒を飲み込んだ訳ではないので吐き出すこともできない。


 致命傷だった。


 …小太郎が持っていた脇差しに毒が塗られている事に昫は気付いた。

 信繁は当て馬で、助けに行く佐助が狙いだと見抜いた。

 佐助を救う為に瞬時に自分を盾にする判断をしたのだ。



 …清海と伊佐が駆け込んで来る。

 二人は百姓衆と酒を飲んでお祭り騒ぎをしていた。

 不覚を取った。


 だが清海の頭の中には「過去を悔いる」という言葉が無い。

「ここはまずい、多くの患者がいる。

 まだ悪者が潜んでいるかもしれん。

 部屋を変えるぞ。

 伊佐、小太郎の寝起きしている部屋に布団を敷け」

 そう言うと大狼の昫を軽々とだき抱えて行く。


 小太郎は動物にも好かれた。

 清海の愛馬の桜木は気難し屋だ。

 清海の他には伊佐と佐助と幸にしか懐かなかった。

 だが桜木は小太郎が大好きだった。

 昫も時々小太郎の部屋に出入りしていた。


 小太郎の部屋では佐助と小太郎が付きっ切りで看病をした。

 昫は微かに息をしているが尻尾も動かさない。

 太郎は部屋が狭いので外で控えている。

 佐助は傷に解毒剤を塗り込んだ後は手で傷口を押さえて昫に気を入れている。


 時々昫に解毒剤と水を交互に口移しで飲ませた。

 昫はそれだけは飲んだ。


 (昫は不死身だ。

 四阿山(あずまやさん)の神さまがお使わしになったのだ。

 昫が死ぬはずがない…!!)


 佐助は三日三晩、昫に寄り添い必死で看病した。

 思えばこうして昫と寝るのは四年振りだった。


 …走馬灯のように様々な事が思い出される。


 …川から拾い上げた時の昫の身体の冷たさ。

 遅かったと思った、あの瞬間。

 助かったと思った時の喜び…。


 畑仕事や水汲みについて来ては一日中じゃれ合っていた、まだ子供だった頃の昫。

 夢中で時を忘れて魚を獲った事。

 鳥居峠での楽しかった日々…。


 …四日目の朝、昫は何も言わず息を引き取った。


 佐助は信じられない。

「クーッ。クーッ。クーーッ」

 太郎が部屋に上がって来て、温もりを失って行く昫の体に懸命に鼻を擦り寄せる。


 ある時は佐助の遊び相手であり、修行の相手であり、母親の代わりでもあった。

 (わしの守り神として天から授けられた昫がなぜ死ぬのだ。

 昫は生き還る。

 死ぬ訳がない

 いや、生きている…!!)


 昫の体の温もりを消すまいと抱きついたまま、佐助はいつまでも離れない。



 夕方近くになって、たまりかねた信繁が佐助に声をかけた。

「すまぬ、猿飛。わしのじゃ…」

 (いや、自分のせいだ)

 と言おうとするが声が出ない。



 …その夜、皆が寝静まった頃。


 佐助は昫の亡き骸を空中移動で太郎山に運んだ。

 太郎と一緒に昫と朝まで過ごした。


 空が白みかけた頃、昫を荼毘に付した。

 昫は骨ひとつ灰ひとつ残さなかった。


 …そのかわり、碧玉がひとつ朝の光に輝いていた。


「クーッ。クー」

 子供の時の昫の声だ。


 (佐助サマ、アリガトウゴザイマシタ。

 タノシウゴザイマシタ。

 アトハ太郎ガオマモリイタシマス。

 ワタシハイツデモ佐助様トイッショデス。

 アリガトウ、アリガトウゴザイマシタ)


 …最後の白い煙が空に消えた時、その声も消えた。


 佐助は打ちのめされた。


 心の中が空っぽになった。


 太郎山に篭り、昫の匂いの残っているところを探して駆け巡った。


 岩で脚を擦りむこうが、雨に打たれようが、無我夢中で昫の面影を探した。

 太郎山を当てもなく彷徨った。

 昼も夜も無い。

 ただ哀しい。


 子供の頃の獣のように暮らしていた佐助に戻っていた。

 何もかも嫌になった。

 天に向かって吠えた。

 大岩にも向かって吠えた。

 喉から血を吐いた。

 大声で泣いた。


 それしかできなかった。


 そんな佐助のそばには何時も太郎がいた。

 太郎は片時も佐助から離れなかった。


 黙って佐助の傷を舐め、涙を舐めた。


 昫を失って荒れ狂う佐助とは対照的だ。

 母親を失ったにもかかわらず冷静に佐助を見守った。

 太郎は昫から幾晩もかけて言い聞かされていた。


 昫は自分の死期を悟っていた。


 …それから何日も過ぎた。


 佐助は闇烏天鬼の心を思いやった。

 一度に愛する家族の命を奪われた者の心の痛みを思い知らされた。


 嵐で濁流に呑まれて命を落とした人達、

 雷に打たれて死んだ人達、

 鉄炮の流れ弾に当たって亡くなった人達の無念さ。

 そしてその家族達の悲しみの声が聞こえた…。


 …すべて自分の軽率さが引き起こした事だ。



 …昫からは虚空蔵山の麓の森で警告されていたのだ。

 (気ヲ付ケテ下サイ。アノ(カラス)、叩イタ時、嫌ナ感ジガシタ)


雨境峠は標高5200尺(1580m)

大門峠は標高4800尺(1441m)

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